今日は亡父の7回忌の命日です。平成23年2月8日の朝に「父が危篤なので、直ちに来院して下さい」と父の入院する病院から電話が入りました。妻の車に同乗して昨晩見舞った父の容態を思い描きながら、高鳴る心臓音を悟られまいと俯き無言で病院へと向かいました。車中でいわきの妹と、埼玉県川越の弟に父の危篤を知らせました。町にある総合病院に着いて
支付寶優惠、通い慣れた夜間通用口から階段を駆け上がり病室へと急ぎました。病室には父を囲んで緊張した面持ちの看護師さんが並び、交替しながら必死になって人工呼吸を続けていました。私達は医師から呼ばれて、病室に入り父の蘇生を祈りつつ必死に語りかけましたが、父には願い届かず、反応も、返事もなく眠る様にして静かに息を引き取りました。医師は「残念ですが、ご臨終です」と話されて、男泣きしたのを思い出します。しばらくして、いわきの妹夫妻は病院に到着しましたが、父の死に目に会えず、妹は父の傍で泣き崩れていました。その後、暗くて寂しい病院廊下の片隅で職場や親類縁者に、悲しい知らせを伝えたのです。
ほうずき真赤2017
このブログでも何度か投稿しましたが、母が大病を患い発症して以来手術、入院、リハビリといつも母の傍で看護し、寄り添って来たのは父でした。母が身障手帳2級の交付を受けて、不自由な身体で自宅療養になっても、いつも母の介護を中心となって背負ってきたのは父でした。不自由な身体に苛立つ母に対しても、一言の文句も言わず、いつも皺くちゃの笑顔で介護していました。母がディサービスの通所を始めてからは、朝晩の送迎時は
支付寶、独立歩行困難な母に寄り添って、車に乗るまで見守りながら送迎をしていました。母を見送ると田畑で野良仕事に励み、夕べには帰宅する母に「寂しい思いはさせたくない」と必ず部屋に灯りを点けて待っていました。父母は地元の学校に通った同級生ですので、母が障がい者となってからも、敬老会や同級会などには嫌がる母を促して、軽トラックの助手席に同乗させて、出掛けておりました。父はこんな日常生活を亡くなった数カ月前まで、20年に亘り続けて来たのです。
私達親子の関係は、他所のお宅でも同様と察しますが、血縁濃い親子であっても、子供が成長すると人生観や価値観にも違いが出て来て、対峙する機会は度々あります。親が老いて動作や思考が緩慢になると、親子関係のバランスも微妙に替わり、短所がやたらと目障りに映ります。子が親に対して苦言を呈する機会が多くなる様ですが、親には親の意地があって、簡単には引き下がりません。私が勤め人であったこともあって、農作業は父が死んだ前年までは、いつも父が主体で指図し、子は嫌々ながらも従う手伝い人でした。私達父子もそんな微妙な関係でした。
私が父の異変に気付いたのは、秋の収穫も終わり、正月準備を始めなければならない12月下旬でした
排毒瘦身。私が仕事を終えて帰宅する頃には、日没の早いこの時期は野外は暗闇に包まれます。あの日帰宅すると、周辺には誰もいない様子なのに、車庫に駐車する軽トラックの前照灯が点いているではないですか。確かめること、軽トラックは前照灯ばかりでなく運転席側のドアも開放された状態で、室内灯が点いていました。ブツブツと言いつつ前照灯のスイッチを落として、ドアを施錠しました。隣の土蔵に眼を遣ると、そこにも灯りが点いているではありませんか。誰かいるのかと呼んでみましたが、何の気配もありません。確かめると土蔵入口の扉と、屋内米貯蔵庫扉が開放していて、無気味と思いましたが泥棒に荒らされた気配もなかったので、後で父に尋ねて見ようと施錠して立ち去りました。父に尋ねると知らないと言い張るのみで、注意するようにと話しその場はうやむやに終わりました。
1週間ほどは何事もなく平穏な日が続いたのですが、私達が正月休みで一緒に過ごすことになって、父のこれまでとは違う変容に気付かされました。顔の表情が強張り目の輝きも失せており、それも日を重ねる毎に異様になっていきました。日常行動も奇々怪々なことばかりします。夜中に暗い部屋を徘徊したり、入浴して蓋は開けたまま、照明は点けたまま、扉は開けっ放しと、我が家は真冬というのに部屋々の戸は開け開き冷風さえ吹いています。朝には、財布の銭が無いと私を疑い責めてきます。夢ならばと頬を抓りましたが痛く、困り果ててしまいました。正月休みでしたので、病院は何処も彼処も休診で通院することも叶わず、救急車を呼べる案件ではない様に思え、正月明けまで耐えるしかなかったのです。正月2日でしたが、我が家に小さな事件は発生しました。父がそんな容態でしたので、私は軽トラックの鍵をいつもの定位置から移動して隠して置いたつもりだったのですが、いつの間にやら鍵を探し出して、軽トラックを運転して正月の初売りに町まで出かけたのです。正月が来ると父は慣例として必ず初売りに行っていましたが、こんな容態になっても初売りに行くという意欲は、父の何処かに残っていたのです。幸いなことに他所様に迷惑も掛けずに無事帰宅することが出来たのはラッキーでした。父が帰宅後、私は知って、怒りが収まらず、その場で鍵を回収して思わず大声を出したことを記憶してます。後日談になりますが父が訪れた商店では、父の様子が変なので、父が買い物終え店の駐車場を無事に離れるまで見届けてくれたと話してくれました。感謝の一言です。
また、妻と子供達が正月で実家へ里帰りして来て帰宅した時には、家族で茶飲み話していると、父は突然に奇妙な話を私達に語ったのです。長女には婚礼の着物を買って遣らなければとか、家族旅行で綺麗なお花畑を見られて楽しかったなどと同意を求めたりしました。私は、娘は学校を卒業して就職出来たばかりで結婚など先と信じていたし、家族旅行など皆目無いのにと私には理解不能なことばかりでした。後日になって知らされたのですが、娘の件は父の幻想ばかりではなかったことが判明したのです。正月三が日過ぎた頃には、これまで出来ていたが出来なくなって、切なくなったんでしょうが病院へ行きたいと私に話しました。正月明けて町の病院が外来再開すると直ちに父を伴って通院しました。診療結果はアルツハイマー型認知症と告げられて、家庭で日常生活を続けることは、難しいでしょうとアドバイスを頂きました。そして、福祉施設入所を勧められました。私には一月前までの元気な父の姿が脳裏に浮かび、諦められずに心情をを吐露して、担当医に対しセカンドオピニオンを希望したい旨を話して郡山市の病院への紹介状をお願いしました。病院では嫌がらずに、快く承知してくれて、郡山の病院に連絡とって頂き3日後の通院予約をしてくれました。
Posted at 2018/02/09 15:54:25 | |
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