今回は、たまこ視点です。
その前に、書いてるお前は幼馴染がいんのか? ぇえ↑
と関西弁(京アニの地元)ですごまれそうなので(誰にw)、それに触れとくと、
イケメンでないことを除けば、ほぼもち蔵と同じです ← すごいでしょw
餅屋仲間ではありませんが、窓は向かい合ってましたし同級生ですね。
ですから、すっぽんぽん、も(偶然ですが)窓ごしに見たことあります。
『10年くらい飛ばして』
学生結婚(学生最後の年に嫁さん妊娠w)の後、子持ちのさえないおっさんに至ります。
(ピングドラム的には「何物にもなれなかった」わけですw 子供がいるから十分ですが)
ですから、もち蔵視点は「熱く」なれるんですが、たまこ視点は客観的には語れません。
というか、それがわかったらあんなに悶々としなかったと思うのです。
ですが、さすがに色々学びましたのでたまこ視点を想像してみます。
(ある有名な作家曰く、女性の心がわかったと言ったやつは大ウソつきとして牢屋に行かされるそうです)
前置きはこれくらいで始めます。
・たまこは鈍感なのか?
ですよねー。TV版のたまこは聖女です。実際、人形とも批判されていたようです。
主人公のくせに気持ちが読めない、感情移入できない。
疑問1:もちぞうの気持ちはわかっていたのか?
これなんですが、TV版の最後あたりまで「わかってて、かわしてる」wと思ってました。
嫌な女ですね、男からすれば。けど、どうもそうじゃないらしい。
疑問2:もちぞうが豆大を「おとうさん」と呼んでいた時にたまこはどう思っていたのか?
この時点で普通は、私を慕ってるわ、のはずですが、どうもそうじゃないらしい。
疑問3:商店街のみんなは、もちぞうとの仲をからかわなかったのか?
からかいそうなもんですが、これはTV版みてるとタブーに近いようですね。
結論:たまこは母親の死により、ストレス状態(はっきり言えば病気状態)
たぶん、小学校5年生の母の死までは、商店街のみんなもからかってたんだと思うのです。(私も友人たちを含め相当からかわれましたし)
さらに、もち蔵は(たまこが好きだからこそですが)たまこにとっていじめっ子だったんだと思います。
それらが、母の死をきっかけに急変したのでしょう。
2011年の東日本の震災の後、災時ストレスが話題になりました。何をするにも涙がでてしまい、脳が勝手に辛かった瞬間を忘れようとします。思い出すことを避けるわけです。「たまこマーケット」のTV放送の時期を考えると、日本人全体が死に対して真正面に向き合うことを「敢えて」避けた時期だったと思います。TV版ではひなこさん(たまこの母)の死は、断片的に(時系列をあえてわからないようにして)語られます。TV版でひなこさんの死のシーンを詳細に描いたとしても、「震災はこんなもんじゃなかった」という誰が言うわけでもないのですが言われそうな雰囲気があったと思います。今回、映画化されやっと母の死を普通に(時系列がわかるように)映像化できたと思うのです。
・たまこは幼馴染には残酷な普通の女の子
前の感想で書いたのですが、女性曰く、「幼馴染はキープ。他に彼氏が見つからなかったときの「おさえ」」だそうです。これは、意識というより無意識の所作でしょう。私は男なのでわからないのですが、女性にとって「自分が伴侶を見つけてゴールできるのか」は一大事です。生物的な本能です。だとすると、物心ついたときにとりあえず自分を好いてそうな男の幼馴染は、『精神安定剤』なのです。『空気』ですね。ただ、それが女性を輝かせることも事実でしょう。とりあえずこいつがいるので「伴侶としてさらなる高みを探す旅」ができるわけです。具体的には、私の幼馴染がそうでしたが、宝塚に入りたいとか。アイドルになりたい、なんてのもその類と思います。ピングドラムで幼いひまりちゃんがアイドルにあこがれてました。これは「その辺の男では満足しないぞ」という「本能」でしょう。責めることはできません。アイドルが、冷静に考えれば「不特定多数の男性に性的な魅力を切り売りする」商売であることは、決して淫乱というわけでもなく、生物としてより強い男性を探すため(良い子孫を残すため)の旅なわけです。
・山田監督はもち蔵から告白される以前のたまこの気持ちがわかっていたか
たぶん、わかっていなかった、でしょう。
今回の映画での舞台挨拶等がネットで報告されてます。
「エンドスさん」の舞台挨拶のレポートはすごく詳しいです。
山田監督の公式インタビューはこちら。
そこでわかってきたことは、もち蔵に告白される以前のたまこの気持ちがわからないと山田監督が悩んでいたことです。たまこのみ絵コンテが遅れたそうです。また、他のスタッフの発言として「今は客観的にみられない」という発言が複数のスタッフから出ています。この手の発言が出る場合は、高畑監督の「かぐや姫の物語」がそうであったように、スタッフの意見がなかなか一致しなかったという事態(最後は一致したでしょうが)と推測します。
脚本(シナリオ)はできていたそうですから、年長である脚本の吉田玲子さんは上記のように推察し、たまこが母親の死によって子供から家族のために一気におばちゃんになった健気な女の子(ストレスを抱えたまま)として位置づけられたのでしょう。
しかし、山田監督は若かった。さらに、男性に惹かれて行く様子を描くことは、ある種自身のプライバシーをさらすことでもあり、悩んだと思います。既に結婚してればそれなりに描けたでしょうが。
ですから、河原のもち蔵告白のシーンまでたまこの心情に関する描写はほとんどありません。
・それでも山田監督が描いたものはなんだったのか?
根源的な「性」です。ギャグでもなんでもなく、「おっぱい」「おしり」です。
「おっぱいもち」は結局、リトルグレーとカンナちゃんが言う「顔が描かれたお餅」に変化してゆきます。
それは、母性である「おっぱい」「おしり」が、もち蔵が自分にくれた優しさの象徴としての「顔が描かれたお餅」に変化するわけです。
結構、エロい映画だと自分は思ってます。端的にたまこの心情を書いてしまうと、
I. 「おっぱい」「おしり」に興味を持った。ただし、男性からみての性ではなく、母性としての性。
II. 「おもちはお母さんみたい」、死のショックで死ぬ間際の様子を思い出せなくなっている母親は「おもち」に変化していた。
III. もち蔵の告白で一気にたまこは発情期に(真面目な意味で)。男女の性と、母性とは、「ある行為」で生物としては繋がるわけです。それを思い知らされた。
IV. 商店街の人たちはみんなエッチしてたんだ。だから今があるんだ。(すごい映画ですw)
V. 自分もエッチしよう。するならもち蔵しかいない!(そういう映画ですよね。ほんとに)
映画鑑賞後のみなさんは、発情しませんでした?
もち蔵とたまこのラストシーン後の性の発露wを想像しませんでした?
そういう映画なのです。性教育の映画です。いや、マジで。
たまこ視点としてはロマンティックな部分はちっともないわけです。
たしかに「顔が描かれたもち」でもち蔵が語りかけてはくれましたが、小学5年生です。
その後も、ずーーーーっと、糸電話してたはずです。
なぜたまこは発情しない、と。
母の死によって病気(思春期飛ばしておばちゃんになる)だったわけです。
・たまこはほんとに病気だった?
豆大の曲が入ったテープを何度も聞きます。
これは、思春期の女の子が「ロマンティック」な映画を何度もみるのと同じですよね。
注目したいのは、どうもたまこにとっては、その手の行為はこれが初めてだったことです。
親の恋愛に没頭します。
普通なら、少女マンガだったり、恋愛ドラマだったり、へたすればエッチなマンガだったりと、
かなり「ロマンティックなもの」に免疫がついているはずの年齢です。
しかし、どうもそうではなさそうです。
かなり変わった感想になりましたが、次の言葉を考えて今回は締めます。
「かたじけねぇ」
ロマンティックじゃないですよね。礼儀や恩義の方が本心(恋愛)よりも上にある場合の発言です。
福おじいちゃんと時代劇をみてたからでしょうが、それにしてもロマンティック不足です。
たまこの部屋が女の子の部屋としては変なのはTV版から言われていたことです。
かわいいものが少ないわけです。ウサギの飾りはウサギ山商店街につながる地域社会への帰属意識の象徴です。
たまこの髪留めは2つの白玉型です。
この2つの白玉がたまこの心を留めていたのでしょう。
母の死で崩れそうになる心を。
この髪留めを外して安心できる相手、それがもち蔵だったわけです。
糸電話はたまこがもち蔵から受けたカウンセリングだったのですよ。
もち蔵はカウンセラーがするように、自分の意見は言わず、ただただたまこの話を聞いてあげた。
それが愛だと気づくには、たまこはまだ幼なかったと思います。
映画ではたまこはもち蔵を好きだと告白しました。
小学校5年生から高校3年生まで続くもち蔵との糸電話こそが、たまこがもち蔵を好きになる理由そのものなわけです。
たまこがもち蔵を好きになった理由?ずっと続く静かな愛ですよ。
かなり大人な愛です。ひょっとすると結局山田監督がこの辺を納得しないままたまこを描いていたとしても、映画としてはちゃんとそれが伝わる作品になっていました。
監督一人で映画をつくるわけではないし、山田監督の苦悩がたまこの精神的な成長の描写にちゃんと生かされたと思うのです。
まあ、ここまでこの長い感想を読む方はいないでしょうが、いかがだったでしょうか。
次は、あんこ視点でいきましょうか。これは既に多くの方々が気づいておられて、単にそれらをまとめるだけになりそうです。今回の映画のサブタイトルは「あんこちゃん大作戦」だというお話です。