
ふとしたことで乗ったXL250S。曲がれずに転んだ瞬間、頭の中に強烈な電流が走った。暴走族御用達、ヤバンな乗物だと思っていたバイクに魅せられたのは、高校に入ってすぐのことだ。
当時の高校生の間では、走り屋を目指すのなら猫背乗車のF-3レプリカ、2サイクル250ccか、4サイクル400ccという風潮があった。車検がなく、燃費もいい4サイクル250ccの単気筒やツインもあったが、高度経済成長を背景に育ったヤングは馬力至上主義である。25psのシングル「CB250」なんか理解できないお年頃だ。
しかし峠が恐い私。YAMAHAのシングル「 SRX-4」や、先輩が勧める漢Kawasakiの空冷四発「 GPz」にしょうかと思ったが、400ccは「車検」がある。当時15万が相場。高い。そんな矢先、電話帳ほどの厚さだった「月刊オートバイ」で見たスクープ記事はYAMAHAから発売される超高性能4サイクル250cc「FZ250 Phazer」。神が私に与えたもうたスーパーマシンだと勝手に信じ込んだ。
70~80年代、ヤマハはトヨタのツインカムエンジンに注力していたため、自社の4サイクルエンジンの開発が滞っていたというウワサがある。やむなく作った2サイクル「RZシリーズ」や、空冷のXJ用四発の腰上を水冷化した「FZ400」はヒットしたものの、激化する中型市場では、V型と四発を持つHONDA、市販車初のアルミフレームを実現したSUZUKIに立ち後れた感もあり、4サイクルマルチエンジンの刷新を迫られていた。そこでYAMAHAは「GENESIS(創世記)」というコンセプトを立ち上げ、FZ250とFZ750がリリースされたのだ。
FZ250は水冷4サイクル4気筒DOHC 4バルブ。2サイクルと同等、規制値いっぱいの45psを発生させるため、なんと18,000rpmまで回るエンジンは、シリンダーを前方に45度も傾斜させ、4連CVキャブをダウンドラフトで装着していた。
外観はフェアリングからタンクカバーまでつながった樹脂製のフラッシュサーフェイスタイプで、一般的なカウル付きとは一線を画すデザイン。50対50の荷重配分、前後16inchの小径極太タイヤの組み合わせは低重心で乗りやすく、WGP世界チャンプのケニー・ロバーツも足として使っていたそうだ。(多分、ウソ)
しかし…当時「ハンドリングのYAMAHA」などと言われていたが、私はFZ250の操縦性が良いものだったかは覚えていない。何しろ、ライディングなんてわからないし、3ない運動のせいでバイクに乗っている友人も少なく、せいぜい半分族車のGSXやCBR、一世代前のRZぐらいしか乗ったことがないからだ。
ただ、18,000rpmまで回るエンジンのフィーリングは今でも覚えている。独特の金属音が混じった、低く呻るようなエキゾースト・ノート。低回転は思った以上にトルクがあり、中回転で痩せるので10,000~15,000rpmまではターボごとく吹き上がる。メーター読みだが180km/hに到達するほどのパワーと空力性に優れていた。
毎月3万7千円のローン返済、家に入れるカネ、その他の小遣いを抜くと、私のバイト代はほとんど無くなってしまった。なので、頻繁に峠にも行けなかったが、それでも無茶な冒険旅行を何度かした。正月の夕方、軽装のまま下道で浜松まで行ってみたら、帰りは半凍結の箱根を走るハメになったり、初めて行った新宿駅に止めるまでタクシーに阻まれて4周もグルグル回ったり。
まだまだある。
夜中の三浦半島をあてもなくさまよっていたら、知らないうちに横須賀連合と一緒に走ってたり。友人と箱根や丹沢に出かけたりもした。バイト先のお客だった師匠のスポンサードで、見知らぬ土地を連泊したり。そして、イヤだといいつつも、女の子も乗せた。ライディングテクニックを知らない私は、その性能の全てを堪能することはできなかったが、それでも十代最後の青春の傍らには、必ずFZがいた。
事故もあった。
路肩のすり抜けに失敗して、トレーラーに挟まれたのだ。
背負っていたバッグや、上着の袖に車輪の跡が残っていたような際どい事故だったが、幸いにも片足の靱帯を伸ばしただけで済んだ。処置が終わったベッドの上で、雄鷹山にジャンボが墜落したという速報を見た。私の事故とほぼ同時刻だったので、自分が生きていることをありがたく感じたのを覚えている。
車体上部とカウリング全てをトレーラーにゴッソリ削ぎ取られたFZは廃車にしてもおかしくない状態だったが、幸いにもフレームやエンジンにダメージはなかったので、直すことにした。バイク屋に頼む工賃がないので、自分でやる。ハンドル、クランクケースなど、とりあえず走らせるためのパーツを取り付けると、エンジンがかかった。外装を一切付けていない状態。フレームにシートだけ乗っけた状態で走り回り、「やった!直った!走った!」とヘルメットの中で叫んだ。
その後、数ヶ月かけて外装パーツを揃え、せっかくだからワークスのデイトナカラーをアレンジして自家塗装した。事故の傷は残るものの、自分だけのオリジナル。コイツを死ぬまで乗る。一緒に死ねる、そう思った。
3年後。エンジン内部のシフター・スプリングが割れる。たった200円の部品だが、クランクを割らなければならない。バイク屋に聞くと、工賃は中古が一台買えるほどに高いので、FZ250は家の前で錆びていってしまった。
ある日、オヤジの友人であるオジサンが軽トラでやってきた。「話は聞いてるよ、さぁ、持っていこう。」と言われ、ついたところはゴミ置き場。
今でも覚えている。
FZはオジサンに、えいやっ、と荷台から巴投げされた。
私は「アッ!」という小さな悲鳴をあげた。
とても長く感じる時間の中で、全ての思い出が頭の中で流れていった。崩れ落ちた衝撃で無様に割れるカウリング。何度もデザインし直し、丁寧にマスキングして、屋根の上で塗ったものだ。自分で言うのも何だが、その辺の自家塗装のレベルじゃないと思っていた。
それが、粉々に砕け、ここに止まる。永遠に!
それを見た時に、私は知った。
悲しいけれど、これは「鉄の塊」にすぎないもの、でもあるのだと。
命あって、命なきもの。
それがバイクだ。
たかがバイク、所詮バイク、されどバイク。
だからこそ、楽しくなければいけない。
バイクで死んじゃいけない。
嫌な思いは、するもんじゃない。
嫌な思いも、させちゃいけない。
死ぬなよ相棒。
お前は人間だから。
機械が人間に意志を伝えるなんて、ナンセンスだ。馬鹿げている!
しかし、私には最後の最後にFZの言葉が聞こえた。
その言葉のおかげで、私は生き続け、楽しみ続けてこられたのだと思う。
このバイクを最初に選んだことを、私は幸運に思う。
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ニリンのヒトリゴト | 日記
Posted at
2006/04/30 16:06:14