興国寺城(沼津市)
北条早雲の飛躍の原点となった興国寺城
2009年03月25日
興国寺城は戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城として知られています。
早雲は伊勢新九郎長氏(盛時)と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績に寄りこの城を与えられました。その後伊豆国を治めていた堀越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし伊豆国の領主となって韮山城に移り、戦国大名へと成長しました。
その後、興国寺城は、駿河、甲斐、伊豆の境目に位置していたために今川、武田、後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わりました。
天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城域を拡大しました。永禄年間には駿河に侵入した後北条の城となり、武田信玄の攻撃を退けました。
武田・北条氏の同盟成立以降は武田方の城となり、武田氏一門の穴山梅雪の持城となりました。天正10(1582)年に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城し、徳川方の城となり、家康の関東移封後は豊臣秀吉の武将中村一氏の家臣河毛重次が城主となりました。
関ヶ原の合戦後の慶長6(1601)年には、三河三奉行の一人で「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景が城主となりました。しかし、慶長12(1607)年、家来の足軽が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きました。これが天領の農民であったことから、康景と代官井出志摩守正次の争いになりました。家康の側近本多正純は康景に足軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄て、行方をくらましてしまいました。このため康景は改易になり、興国寺城は廃城となりました。
その後、康景は慶長18(1613)年、相模国沼田村(神奈川県南足柄市沼田)で没しました。墓は沼田の西念寺にあります。
平成7(1995)年3月17日、興国寺城跡は国の史跡に指定され、発掘調査が行われています。
平成 29(2017)年には、 公益財団法人日本城郭協会から続日本100名城に選定されました。
Photo Canon EOS 30D
H21.3.20
住所: 静岡県沼津市根古屋
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