太閤ヶ平〔秀吉本陣跡〕(鳥取市)
鳥取城攻めの際の秀吉本陣跡・太閤ヶ平
2012年08月29日

天正9(1581)年の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦でした。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開されたものです。
信長の派遣した部将羽柴秀吉は、姫路から但馬口を経て天正9(1581)年7月12日、鳥取に到着し鳥取城背後の東北の山頂(太閤ヶ平)のこの位置に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて、2万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開しました。
太閤ヶ平(本陣山)は、西方前方に鳥取城を望み、左方に芳心寺に至る一帯の山々をひかえ、右方には、はるかに円護寺・覚寺・浜坂・賀露に至る一帯を見下し、総本陣としては最も適した場所でした。
これを迎え撃つ鳥取城は、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として守備し、その兵力は芸州毛利氏よりの加番衆4百と因幡国方衆千余でした。
毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後3ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰い候」という状況となりました。
ついに10月25日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹しました。時に35歳でした。
死の前日、10月24日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において、忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記しています。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていました。
この太閤ヶ平には、当時の鳥取城攻防の歴史を物語るかのように、土塁と空濠を廻らした曲輪の跡が厳然として残されています。高低差4m以上の土塁(土の堤防)と空堀に囲まれ、内寸58m、櫓台も設置した、大型かつ強固な防御性を備えた構造をしています。本陣及び陣城群は、一城を攻めるにはあまりに大規模であることから、毛利氏との本格的な戦闘に備えた陣城であるとともに、信長を迎え入れるための本陣であった可能性が指摘されています。
また、この一帯は鳥取自然休養林であり、摩尼寺に至る中国自然歩道も整備され、広く市民の憩いの場として親しまれています。(現地説明板などより)
昭和32(1957)年、鳥取城と並び「鳥取城跡附太閤ヶ平」として国の史跡に指定されています。
Photo SONY NEX-7
H24.7.27
住所: 鳥取県鳥取市百谷
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