石垣原の戦いにおいて細川忠興の家臣らが布陣した実相寺山
2014年07月21日
実相寺山は石垣原の戦いにおいて木付城(杵築城)を死守した細川忠興の家臣らが、黒田軍とともに実相寺山南側中腹に布陣したところです。東側には実相寺(禅宗寺院)がありましたが、戦火で焼失しました。
現在、山頂には日本山妙法寺の平和祈願の仏舎利塔や、石垣原の戦いの説明板があります。
慶長5(1600)年旧暦9月13日、別府の扇状地を舞台に黒田官兵衛の軍勢と旧領回復を目指す大友義統の軍勢との間で、激しい戦いがありました。
合戦に参加した細川家の重臣松井康之の記録によると、戦いは黒田軍の先鋒と松井勢が実相寺山周辺に布陣した昼頃から始まり、黒田軍は大友軍の陣のある立石際まで攻め込みますが、大友軍に反撃され、久野次左衛門など黒田軍の有力武将が討死しました。
福岡藩の貝原益軒が編纂した「黒田家譜」では、大友軍の反撃を受けた黒田軍の先鋒は総崩れとなり、実相寺山と加来殿山の間の「犬(いん)の馬場」まで撤退し、大友軍の武将吉弘統幸は逃げる黒田軍を追いかけて、実相寺山の麓まで迫ったと伝えています。
この戦況を加来殿山で見ていた黒田軍三陣の大将井上九郎衛門は、緒戦からの戦闘で疲れの見える大友軍に攻めかかり、この攻撃により形成は逆転し、吉弘統幸ら大友軍の有力武将は討死して、戦いの勝敗が決しました。
「黒田家譜」では、黒田官兵衛が実相寺山に来た様子を次のように伝えています。
「其日の晩景(9月13日の夕方すぎ)如水実相寺山に着て、山上に陣を取給ふ」、「実相寺山を本陣に定め、其麓(そのふもと)前後左右に軍兵をつらね、廣く陣を取給ふ」とあり、黒田官兵衛が実相寺山に着陣し、これを中心に黒田軍が広く布陣した様子を伺い知ることができます。
(現地説明板などより)
平成26(2014)年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の第49回「如水最後の勝負」の「官兵衛紀行」で紹介されました。
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H26.7.17
住所: 大分県別府市実相寺