小机城(横浜市港北区)
現在は小机城址市民の森として整備されている小机城
2016年01月17日
小机城の築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた12世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方にはその支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起した時、景春に見方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋付近)に帯陣した上杉方の大田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明10(1478)年に攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、40余年間廃城となっていました。
大永4(1524)年、一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。
小机は地理的に、江戸・玉縄・榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事・経済の両面で極めて重要な役割を果すことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落し、やがて小田原北条氏が亡び、四代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として二百名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。横浜市内には、小机城の他、青木城・榎下城・馬場城・荏田城などがあったと言われていますが、調査されたものは榎下城だけで、その他については、かっての城の位置が推定される程度で、その実態は明らかではありません。
小机城の縄張りは、半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。また、城郭全体を二重の土塁を空掘でぐるりとめぐらす縄張で後北条氏特有の築城法と言えます。
類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえます。
現在は小机城址市民の森として、城の遺構が整備されています。
平成29(2017)年4月6日、「続日本100名城」(125番)に選定されています。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M3
H27.11.29
住所: 神奈川県横浜市港北区小机町
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