大長村庄屋役及び御手洗町年寄役を代々勤めた高橋家(屋号柴屋)の別宅の一部・旧柴屋住宅
2024年10月14日
旧柴屋住宅は、大長村庄屋役及び御手洗町年寄役を代々勤めた高橋家(屋号柴屋)の別宅の一部です。「柴屋」は、大長村の庄屋役及び御手洗町の年寄役を代々勤めた高橋家の屋号です。
高橋兄弟の弟政助が大長の本家に、兄種次が御手洗の別宅を所有していました。この別宅は二つに分かれていて、本建物が向座敷となっており、常盤通りを挟んで向かいが母屋でした。
文化3(1806)年に伊能忠敬が大崎下島・豊島の測量を行う際には、御手洗の町年寄柴屋が宿泊所に指定され、2月30日より3月3日まで滞在しました。この時、測量の様子を描いた絵図が作成されて残されています。「伊能忠敬御手洗測量之図」(呉市指定文化財)です。その絵図の右側にこの向座敷を描かせています。文化7(1810)年に広島藩8代藩主浅野斉賢が遊覧のため来島した際には、ここで休憩をとっており御手洗の本陣として利用されていました。
兄種次は、文化6(1809)年に大崎上島で製塩業を行っていました。ところが、製塩業で失敗し、その借金の返済に目処がたたず、文化10(1813)年に不動産一切を投げ出しました。その中に向座敷も含まれていましたが、高額のため買い手がつかないことと、御用に差し支えると言う理由で大長村・御手洗町で町用所(町役場)として買い取りました。
幕末に入り、大長村出身の菊本伝助が御手洗に進出した際買い取りました。はじめは米穀問屋を営なみ、大正時代に入ると、船具・金物商に転じ、昭和50(1975)年代まで続いていました。御手洗地区では、現在でも「菊伝」の愛称で親しまれています。
屋敷の形態は、主屋の裏に庭を配し、奥に土蔵を構えています。主屋は間口4間、妻入り塗籠造り本瓦葺きで土蔵を思わせる外観です。御手洗には、ほかにもこのように土蔵と似た造りの居宅が少なくありません。間取りは通り庭に沿って「みせ」「中の間」「座敷」が一列に並ぶ形式を基本とし、部屋と土間のあいだに幅一間ほどの「あがりはな」が奥までのびます。御手洗でも数少ない大規模な町家です。
旧柴屋住宅は、平成16(2004)年3月15日呉市指定文化財になっています。
料金 無料
定休日 毎週火曜日(祝日の場合は翌日)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.9.15
住所: 広島県呉市豊町御手洗174