
流れとして明記しなかったが、戦後の連合軍による日本の占領が始まった。
そのいち早くの対策が原爆被害を機密として封じたことだった。
連合軍の主幹となった米軍は占領する日本に治政を始めた。
ところが米軍が力を入れたのは実はそう多くはなかった。
もう民族的なまでの敵愾心に手こずった米軍は一方で持ち前の向学心と盲目的にまで天皇を信奉したその恭順性を占領に活かそうとむしろ戦中の日本軍より緩い管制を敷く事とした。
まずは日本の戦争が市民の生活に仇こそなせ、ためにならない事を説き理由付けをし、その戦争指導環境を標的に政治的財政的産業的宗教的教育的と多岐に徹底的に排除した。
このプレスコード・報道管制なんかもその一例だった。
しかしそれは同時に、被爆者に与えた傷口を大きく開いてしまった。
まず断っておくが、報道管制自体はソレまでも続いていた。
それも市民生活を間諜するほど戦争遂行の観点から報道や言論の厳しい統制を強いていたから、迂闊なモノが市民レベルで言えない状態が長く続いた。
太平洋戦争・・・・・いや、露骨に厳しかったのはその時期だが、実際は1925(大正14)年に立法化された『治安維持法』からだ。
最高刑が死刑にまで行き着いたこの悪法は20年の長きに及んでたのだ。
戦争してた時期だけの言論統制じゃなかった。
この法律も『普通選挙法(投票権に於ける租税や身分の一切撤廃、ただし男のみ)』と抱き合わせで成立してるから如何に法律が忍び寄って独り歩きをしたかって言う見本のようなものだ。
特に今こそどこぞやの安倍ちゃんどもがのたまってる甘言強言には気を付けなきゃイケナイ。
戦争が終われば当然その必要も無い訳なんだが、そうは問屋が卸さなかった。
今度は占領だ。
実は米軍が一番恐れていたのは太平洋戦争後の新しい敵であるソ連の『共産化活動』だった。
戦時体制の抑圧からの自由施政を旗印にしていたアメリカ軍は共産党幹部などの政治犯釈放もやったわけだが、従来の日本戦時体制と共産活動は占領政策に仇成すモノだったんで頭が痛かった。
でも思想の自由化という占領名目を持つ以上は彼らをやたら理由もなくしょっ引けない。
そこで米軍は対処については明確なガイドラインを掲げて厳とした態度を取る。
その一つがメディアへのプレスコード・検閲だった。
この報道管制、9月19日には『言論及び新聞の自由に関する覚え書き』に基づいて発表されたが、その手始めに進駐した米軍の暴行を報じようとした同盟通信社を検閲発禁した。
覚え書きの発効前の9月14日に検閲のデスクをおいたその夕方にはGHQから業務停止命令が出た。
実は同盟通信社は国策会社で地方新聞の全国区記事の配信を賄ってた。報道管制の首根っこにまずはガツンと一撃を食らわせたのだ。
内容は進駐米兵の『暴行暴挙』を特集した事を注文づけた。
15日にはGHQ機関付けで声明文が発表されたがその内容が恐れ入る。
『米軍治世に反し公安を害する記事を掲載したカドで同盟通信に業務停止をさせた』
米兵の乱行記事の掲載が『公安を害する』とは恐れ入る。
『お前ら日本は負けた国なんだから連合軍に対抗や折衝できる立場じゃない(意訳)』とも言いだした。
大人げない・・・・・・タチの悪いイイ大人が『アメリカ・イズ・ジャスティス』って言い張ってるみたいじゃないか。
『コレが戦争に負けること』ってのを実感させられた。
しかし実はこの最初の一件こそインパクトは強かったが、米軍からはああしなさいこうしなさいとか言う『お触れ』は出る事はなかった。
とりあえず書いたものはよこしなさい、見てあげるからぐらいのノリでメディアに飛び込んでくる。
実際検閲は戦争中からあったし、管理部門の輻輳が激しい、アチコチから文句を言われた当時からGHQ一本のシンプルでおおらかな検閲はむしろ現場では比較的スムースに進んだらしい。
前よりはマシになったのだ。
実際には検閲で切られてもあいた分は検閲があった事がわからないように必ず記事を埋めあわてなきゃならなかったからその意味大変だったのだが、言ってしまえば『連合軍の悪口さえ言わなければいい』と言う感じになった。
日本人の本質を、よく見抜いた検閲だ。
しかし、被爆はこの『連合軍の悪口』に完膚無きまでに指定された。
言い換えれば『ワシらピカでこんなに酷い目に遭ったんじゃ』ってのが米軍にとって言い掛かりに当たるのだ。
『戦争してたから文句を言うな』って事だ。
機密になったから、迂闊な事が言えない・って事になった。
ただ米軍は原爆の事象の公表に関して事細かに口を挟んだかというと実はそうじゃなかった。
実際の所は新聞社や出版社がそう言う事態を恐れて門前払いにしたのが事実のようだ。
口を噤まされたんじゃなくって、メディアの方から怖じけつく有様となったのだ。
大本営発表に継ぐメディアの闇だ。
マァ米軍がそこを狙ったある種手ぬるい管制を敷いたと思うのだが。
『コンナ事言っちゃイケマセン』って具体的に言えば言うほどそう言う事項は漏れるから。
だからこのプレスコードで被爆の惨状を広く語ることは封じられた恰好だった。
中国新聞でさえGHQの検閲で感情論は押さえられ、栗原貞子や原民喜などの文芸人が『原爆文芸』の形で被爆の惨状を地元で語るに過ぎない。正田篠枝なぞは出版社が相手をしてくれなかったから刑務所に印刷を頼んだとも言われてる。
こんな感じで過酷な経験をした地元民の間でしか情報を交わす事が出来ないし、そりゃ思い出したくはない話だから、語られる事も沙汰止みになる。
他地方ではそんな話の代わりに差し障りの無い世間話に埋められるから被爆地の事など頭の片隅にもない。
検閲は1948年頃には外れ、52年の講和条約発効で報道管制も無くなるが、この間に戦争の傷跡はすっかり臨場感のない昔話にされてしまった。
7年もたてば街もだいぶ復興してほかの空襲地とさほどの差異も見受けられなくなり、そんな状態で被爆を語ってもよその街とどこが違うんだ程度の感慨に均されてしまった。
しかし現代さえ東日本大震災、いや阪神大震災でも心に深い傷を持って生活してる人が大勢居るのだ。
震災はその状況を当時みんなライブで見てるからまだ想像は付くのだが、原爆は当時語りを封じられ、噂話やむかし語りのような感覚を抱かれたのは想像に難くない。
1952年8月号の『アサヒグラフ』などお題目写真のような書籍でヒロシマの惨状が各地に公表され、映画も新藤兼人が講和発効を見越して制作した『原爆の子』が封切られ、反響は呼んだ。
しかしほかの日本国民にとってソレは既に『見物読み物』としてのお伽話だった。
(今項敬称略)