
続いてエリア総括形式でいくが、こんどは宇品界隈を被爆にこだわらず触れてみる。
前回に続いて仮稿状態になり考証が行き届かないが、ご容赦願いたい。
大陸への足掛かりとなった広島であるが、今でもその出征の痕跡が各所に残る。
まず以前も載せお題目写真に挙げたが、広電皆実町6丁目電停から南へ小路に入ると交番の裏に
「平和塔」
がある。なぜか頂には平和の象徴の鳩ではなく少々いびつだが鷲が象られている。
それは元々これが日清戦争の折に建てられた「凱旋塔」であることの名残だ。
不思議なことに青銅の鷲像は戦時供出を免れ、1947年に碑銘を塗り込め平和塔とすることで取り壊しも免れてる。
戦時の功績を残したい働きもあったのかも知れない。
この広場の周りには石柱に道標の彫り込まれたモノも見受けられるので立ち寄ってみたい場所ではある。
そして、ここは調査不足で申し訳ないのだが電車通りだったか御幸通りだったかは宇品の通りが幾つか変遷しているので確認しづらいが、此処を行軍して宇品の港から兵は出征していった。
戦争末期にはその殆どが市井で暮らす、30~40代さえ歳を重ねた市民も居た。
終戦までの日本は徴兵制で20歳で軍隊入営の意図を問わず壮健な男児みなが一度は軍隊にその身を委ねる。
都市部で家業などを持つ男児なら数年で退役という事になるのだが、当時は7割以上が貧しい農民であり、特に昭和初期の飢饉で疲弊した農家では進んでと言うよりは半ば選択岐なく軍に「就職」せざるを得ない男児が殆どでもあった。
一方で退役しても、徴兵は国家総動員において国民を如何にどこの前戦に立たせられるかを裁くのに有用なデータであった。
そして必要な派兵計画が立たれると『赤紙』一枚で市民は日本兵として大陸や南洋に駆り出された。
なお一銭五厘で呼びつけられ・とよく言われるが、これは当時の郵便葉書の値段になぞらえた皮肉から来るモノで事情は少し違う。コレには入営命令とそこに至る国鉄などの乗車券が一枚の紙になっていたのでいわば1銭5厘の葉書ではない。また色も赤と言うよりは桜色であったらしい。
「お役所仕事」ではあったが軍の所轄事務所から市民に赤紙が届くまで3日と掛からなかったようだ。如何に取るモノ取り敢えずで引っ張り込まれたか。
その宇品の岸壁は今も当時のまま宇品海岸3丁目12番交差点南に残っている。

一万トンバースが出来た今では慎ましやかな岸壁ではあるが、当時は多くの陸軍艦船が行き交い一種の活況を呈していたという。
なお、兵役を無事終えて帰国する折りには大正期からは経緯編でも触れた似島の検疫所に立ち寄るのも常であった。コレは今似島学園に変わってるようだ。
兵士が行軍で歩く一方で物資は国鉄で運ばれた。

日清戦争・と言うより山陽鉄道が広島まで開業して程なく、その線路は一度折り返して現在の新広島市民球場(マツダスタジアム)西南角をかすめてこの宇品港まで線路が延びていた。
1966年までは旅客も運んでいた国鉄宇品線だ。現在もある広電宇品線とはもちろん違う。
此処には560余mと日本最長のプラットフォームがあった。その殆どが軍需の荷揚げであったようだ。

現在は広島高速3号線宇品ICになって2004年にほぼ取り壊され、痕跡はわずかに倉庫の壁面モニュメントが残るのみだ。
被爆とは直接縁が無いが、一つ西の3丁目12番交差点南におそらく神社仏閣以外では広島最古の建物であろう宇品警察署跡がある。

雰囲気的には完全に浮いてるが1909年に建てられたモノで、被害が軽微だったことで救護などの連絡拠点にはなった。
現在は老朽化でこれまた立ち入り自体が厳しくなっている。
また宇品でもマツダ西工場内には現存確認が取れないが臨時陸軍病院分院になった鉄筋建物が90年代まで、その南の桟橋脇には鉄筋3階建ての凱旋館が70年代まで残っていた。
出征兵士を迎える宇品町も一つのちょっとした街にまで発展してその名残を残していたが、2000年代に入って広島高速3号線がその街並みを貫いたためその面影の大半を失ってしまった。
被爆を抜きにして軍都の績を広島に求めるのも妙案ではあるが、昭和のうちまでと言う感がしないでもない。
一方で宇品へは広電電車でも行かれるが、時間と体力に余裕があるなら県病院前から南は歩いてもらいたい。
(広すぎであれば同じく広電宇品3~5丁目電停界隈を(^^ゞ)
歩きが町人の行動半径だった頃の宇品の街並みサイズが面白く感じ取られる。趣味にもよるがこういう所でもしお好み焼き屋なんかあったら味うんぬん以上に旨いかも知れない。
シャッター化したとこも少なくないが時代を感じる適度な小売店や商店街が点在する。
ちょっと陸軍関係が駆け足になってしまったところは申し訳ないm(_ _)m。
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Posted at
2014/07/20 20:56:01