
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ ― キルケの魔女 ―』を観て
原作小説を読んでいた自分にとって、本作は単なる映像化ではなかった。
物語は「地球のおへそ」付近までの流れを踏襲しながらも、登場人物を増やし、関係性を拡張し、物語そのものを“太く”再構築していた。
特に印象的だったのは、主人公の内面だった。
彼は理想を掲げる仲間と同じながらも、どこか“担ぎ上げられている”存在であり
自らの意思で立っているようでいて、周囲の期待や構造に押し上げられている。
その無理は、彼を支える人々との間に歪みを生み出す。
一方で、鈍感さを持つ軍人や、感情を率直に表現する若いヒロインが対照的に配置される。
ヒロインの直感は現実にマッチし、大人たちはその現象を前に戸惑い崇拝する。
そこにはどこか宗教的な象徴性すら漂っていた。
それはまるで「ニュータイプ」という概念の再提示のように感じた。
この世界では大事な事なのだ。
私的なニュータイプ論では、
それは“この三次元世界における、見えない歪みやノイズを感知し言葉にできる存在”だと思っている。
一種のレーダーだろうか?
そういった人はいると考えている。
人の感情、空気の変化、社会のひずみ。
それを読み取り、正確に伝達できる者。
そして実現出来てる者こそニュータイプだと認めようと思う。
現代社会においても、情報の正確さとは単なる事実の羅列ではない。
感情を含めた「伝わり方」まで含めてこそ、本当の意味での正確さが生まれる。
作中では、マスコミ、情報格差、世論操作また新しい場所を見て見ようといった令和的な社会問題も色濃く描かれていた。
情報が歪められる構造の中で、誰が何を“感じ取れる”のか。
そして音。
戦闘の爆発音は異様にリアルだった。
私は戦争を体験していない。
しかしその音を「戦争の音だ」と認識できてしまう。
この感覚は不気味だ。
私たちは体験していないはずの戦争を、
報道を通して知り、音として記憶している。
主人公の心は歪み、揺らぎ、孤独を抱えている。
だがその裏側で、海と空は驚くほど青い。
この残酷なほどの美しさ。
心の闇と、世界の青。
そのコントラストこそが、この作品の静かな強度だった。
過去の総帥と同じ行動をしても、
彼はもはや道化として笑うことはできない。
あまりにも父、母に似て真面目だからだ。
そこに、人間の格差がある。
嘲笑される者と、嘲笑されない者。
歪みを感じ取れる者と、感じ取れない者。
この映画は、
そのすべての揺らぎを描こうとした作品だったのではないか。
Posted at 2026/02/12 22:31:15 | |
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