戦後の西独国の貧困ぶりはかなり酷かった様で、おまけにそれから中々脱出できなかったのは、日本が同じ敗戦国なのに、驚異的な経済成長を遂げたのとはかなりの差があるます。これが単に国の政略だったのか、はたまた人民の文化の違いかは、卒業論文のネタにしても面白いくらいの内容があります。
その独国の貧困時に、連中は1人でも、人力で漕がなくて済み、雨や雪にも濡れずに、通勤やらお買い物に使える、イセッタやらメッサーシュミットやらの、モータースクーターに屋根の付いた様な移動手段をやっと作っていた時代です。なのに何故か、BMWはV8エンジンを搭載した高級車の502やら、メルセデスも首相コンラッド・アデナウア氏の名称で有名だった、銀めっきてんこ盛りの趙高級車W186を世に出していたのですから、誰が買っていたのか。不思議な話です。庶民が革靴が高価で手に入らず、木靴を履いていた時代ですよ。。。
メルセデス、W186。まだ六気筒。
BMWは既にV8エンジン。
VWが戦後、ビートルのブレーキがやっと機械式から油圧式に進化した頃。実用車としたは全く反対の性格の、屋根の無いコンヴァーチブル形状車を既に製造していたのも不思議でした。。単純、質素、廉価で鳴らすビートルが、洒落たコンヴァーチブルで、遅夏に幌を下ろして、家族一家でピクニックに行く、などと言う光景は、1949年頃、果たして誰が想像したのか。
同じ頃、北米は戦後の好景気で自動車業界も躍進の時代が続き、格好は派手に。機構は革新的にの、何でもござれの古き良き時代でした。その頃、自動車のデザイナー、ヴァージル・エックスナー氏はクライスラーに雇われ、Forward Look (前進ルック)と言う、過激的な空まで届くテイルフィンの聳え立つスタイリングの自動車を推し進めます。テイルフィンが盛んになる前夜、エックスナー風のデザインの盗撮画像を見たGMの巨匠達はひっくり返る程驚き、デザインチームに全てのやり直しを命じたと言う談話があった程です。
これはエックスナー氏のデザインが最先端になる前夜の図。まだ皆、ずんぐりむっくり感が残る車種が幾らか見えます。1956年。
よく年、1957年から、本格的に前進ルックが始まります。”突如、世の中は60年代に!” この1957年のプリムスの前照灯、四燈式に見えますが、実は内側の2燈は補助燈です。四燈式前照灯が解禁になったこの年に、ある州ではまだそれが認可されておらず、製造側は苦肉の策で四燈式に見せかけたり、標準で2燈式、注文装備で四燈式と、混乱期があったのでした。因みに四燈式が違法だった州は、オレゴン、キャリフォーニア、北と南ダコータ、ミネソータ、ウィスコンシン、アーカンサー、テネシー、アラバマ、北キャロライナとメイン州。ハワイは未だ ”州” に格上げされていなかったので不明です。。。
1950年代、自動車製造各社、デザイン競争が非常に重要になってきて、各社首脳は欧州に視察に行くのでした。この頃、アメリカ合衆国は英国から独立して180年、まだ若かった頃です。主に欧州から来た移民は多分三世代目くらいでしょうか。よって彼らの母国、イタリヤでもフランスでも英国でも、先祖の国の文化には馴染み深い感があるだけでなく、憧れる心情があったのは、後々、イタリヤの移民だったフォード・クライスラーのアイアコッカ氏がイタリヤ製のブランド名やらイタリヤ系の取り巻きに凝るのも理解できます。
それが今や、世界中の移民が集まって来た我が国、今大概の米国人は自分達の先祖が何処から来たとか、知っていても興味を示さずの、世の中になりました。と言うのも、長い間、多民族が徐々に混じり合い、それがいたく普通になって来て、あい、ぼくはアイリッシュとイタリアンだけど、キューバとヴィエトナムの血も入っているとお爺ちゃんが言ってたぜ、などと言うのが一般的になったからです。なので、先祖の母国の文化、流儀に固執したり、憧れる風習は殆どなくなっちゃったんですね。まあそれが良いか悪いかとは別にして、最近の無国籍的な自動車のデザインを見ていると、なんか合点してきます。それまでは、自動車の宣伝殺し文句に、欧州を彷彿さえる名前などが盛んに使われたのですが、今じゃさっぱり、そう言った類の言葉が使われなくなりました。やれ、ユーロピアン・ハンドリングだとか、オートバーンの雄とか、昔は必ず使われた宣伝文句だったんですがね。。
アメリカ式快適性、欧州式操縦性。モンテ・カーロは両方を備えています。
フォードは20年以上、静粛性の比較にロールス・ロイスを引き合いに出すのが好きでした。実際に60年代後半のフォードのフルサイズ車には静粛性を向上させる様々な工夫がされていました。
欧州から愛を込めて。GMでもオールズモビルは特に欧州を意識して宣伝が展開されてましたね。例の、インターナショナル・シリーズもそうでした。
1970年前半から1990年代中盤まで続いたこの、”インターナショナル” シリーズのキャンペイン、後半になるともう殆ど意味を失っていたのに、わざわざこのエンブレムを貼り付けていたのは古い社員達の意地か。。。
戦後暫くは、英国が自動車の技術で最先端を走っていたとすれば、自動車のデザインはやはりイタリヤが一番よ、と言うのがその頃は流行っていて、GM、フォード、クライスラーは皆、イタリヤの架装会社やデザイン事務所にデザインを依頼したり、共同事業が盛んになったのです。まだその頃は親、またその親が欧州から移住して来た事を意識していて、心の底には先祖の文化の憧れや哀愁を感じていた人が多かったんですな。
キャデラックはその頃からピニン・ファリーナとの関係があり、キャデラック・エルドラード・ブロウハムをピニン・ファリーナのテユリン工場で、文字通り手作りで生産した期間がありました。
クライスラーは、デザイン試作車などをギア社に依頼していた関係で、少量生産の特殊車、インペリアル・クラウン・リムジンをイタリアで作らせていました。このリムジンは多分、当時キャデラックより上を行く、非常に販売台数が限られた特殊車で、有名な所有者としては大富豪のフランク・ロッカフェラー氏、ケネディ大統領夫人のジャクリーンさんも、大統領没後も愛用していました。
今じゃリムジンなんぞは高校生の卒業パーティーとか、空港の送迎やら随分格が落ちましたが、むかしゃリムジンと言えばドスの効いた、特権階級が乗り回す特別な乗り物って言う印象でした。なので最近の大袈裟なアンテナ付けたり、ど肝を抜くほど延長した下品な車体の白いリムジンを見ると、デージがっかりします。
後に副大統領になるネルソン・ロッカフェラー氏のインペリアル・クラウン・リムジン。ロッカフェラ一族と言えばスタンダードオイル(エクソン・モービル)シテイーバンクなどなど。。。興味深いことに、ロッカフェラー・一族はジュイッシュ系じゃ無いんですよね。ロッカフェラー・一族の1人、結構最近亡くなられたデイヴィッド・ロッカフェラー氏はチェイス・マンハッタン銀行の重役で、癌を患っていたイランの国王、モハメッド・レザ・シャー氏が宗教革命で追放された時、極秘裏にシャー氏をテキサス州の病院で治療する事に関わり、結局それがバレてテヘランのアメリカ大使館人質事件と言う大問題になったのでした。。。。(そのシャー国王の逃亡先のパナマからカイロへ逃亡した際に使ったのがぼくの昔の勤め先でした。ああ、話題が脱線、脱線)。
ニューヨーク州知事・副大統領のネルソン・ロッカフェラー氏のインペリアル・クラウン・リムジン。イタリア・ギア社製。
ジョンFケネデイ大統領ジャクリーン夫人のインペリアル・クラウン・リムジン、第二世代型。彼女はホワイトハウスを去ってからもこのインペリアル・クラウン・リムジンを常に近いところに置いていたとか。
不思議な事に、以前、ピニン・ファリーナはキャデラックの車台を使って、1961年にキャデラック・ジャクリーン・クープと言う展示車を作っているんです。名前の如く、ジャクリーン夫人をイメージしたそうです。
ぼくは何故かこの美しいハードトップ車を思い浮かべます。。。話によるとデザインは当時、Bertoneに所属していたジウジアーロ氏だそうです。
でもこのキャデラック・ジャクリーン、矢張りピニン・ファリーナの作、内装は当時のセドリックに似てます。
話が全く違う方向に進んでいます。ごめんなさい。
その、クライスラー・デザイン部門のヴァージル・エクスナー氏はクライスラー社の計画の一環として、イタリヤを見てきなさいと言われてギア社を訪れた際、イタリア人のデザイナー、ルイジ・セグレ氏と親友の関係になります。ルイジ・セグレ氏は第二次世界大戦中、反ナチ軍に志願して米軍と一緒に戦った強者。英語も流暢で、エックスナー氏と直ぐ仲良くなったんでしょう。
エックスナー氏はデトロイトに帰ってきたあと、ギア社での少量生産を前提としたクライスラーの特別車、5つのデザイン提案車を出します。K310。C200。SS。デ・ソート・アドベンチャアーそれとデ・エレガンスです。結局何もデザイン勉強の提案だけに終わり生産には至りませんでしたが、これがきっかけで、インペリアル・クラウン・リムジンの生産契約が統括されます。
K310。
C200。
SS.
DeSoto Adventurer.
D'Elegance
時を同じくして、ビートルの生産が順調に伸びて、経営陣は例によって最先端の技術と格好を備えた、”ヘイロー・カー” (以前ネタにしました)を考え始めます。丁度その頃、ビートルのコンヴァーチブルの受託生産をしていた、オスナブルックの架装会社、カーマン社の代表、ウィルヘルム・カーマン氏が事業拡大に、ビートル以外の車種を作れんかと模索していました。それらと同じタイミングで、イタリヤのギヤ社、ルイジ・セグレ氏の上司のマリオ・ボアノ氏も、事業拡大の世界的展開を目論んで上記の様にクライスラーとの事業を進めていた時です。この3社の目的が徐々に統合し合うんですね。一説によるとウィルヘルム氏とボアノ氏は同業者故の顔見知りで、このVW車台を使った異端車種を作る先行計画を具体化し、まとまった所でウオルフスバーグのVW本社に提案したとか。
実際にデザインの筆を取ったのは大ボスのボアノ氏だ、いや、セグレ氏だと色々な意見が出ている様ですが、結局エクスナー氏がデザインした、五つのデザイン提案車の一つ、デ・エレガンテがカーマン・ギアの基になった、と言うのが現在の定説で、その頃には既にクライスラーから解雇されていたエックスナー氏は、VWから出たカーマン・ギアを見て、彼のデザインをセグレ氏がよくまとめてくれて、非常に満足だったと感慨深く語ったそうです。
それにしても独国ナチを相手に戦ったセグレ氏が、その独国製の自動車のデザインをしたとは、歴史は面白いものですね。
ここまでがカーマン・ギアの開発背景のハナシでした。次回はそのカーマン・ギアの機械的な事を少し書いてみようと思います。

Posted at 2025/10/01 12:28:11 | |
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