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2026年09月08日 イイね!

アメリカ スバルのはなし

アメリカ スバルのはなし















大正生まれの我が家の父上は、昔から ”格がある” と言う言葉が好きで、自動車でも ”格” が気になるらしく、会社のクラウン・デラックスはお気に入りでした。その点、”駄目なクルマ” と言えば必ず引き合いに出されたのが、何故かいすゞとスバルで、この2社だけは下男のくるま、様な扱い方で、日野やダイハツも如何な印象だったか聞いておきたかったです。

そのスバルですね、皮肉な事に1970年代前半、横浜に住んでいた母が急遽自動車が必要になって、親戚から譲ってもらったのがその、スバル。それに軽自動車。R-2の最後期型のデラックス。余程父上は乗りたがらないだろうと察するや、駅からの送迎などに行くと嬉々としてドアを開けて乗っていた様子でした。ある日朝起きてみると玄関の鈴が鳴ります。扉を開けてみると消防団の人が船に乗って来ていて、洪水ですと言います。ありひゃー、早速水没する前にスバルを丘の上まで持って行き、幸い水は早いうちに引き家は無事。翌日、母上は何処かにお出かけだそうで、着飾ってスバルで出発も、暫くして帰って来ました。その姿を見ると、ドレスの前、腰の辺りにズンと、赤い帯が入っています。どうやらスバルは車内に水漏れしてたらしく、床の赤い絨毯から色が滲み出て黒い安全ベルトに染み込んでいたらしく、その赤に染まった安全ベルトを締めたら、おべべに色が移った模様。母上はおかんむりで着替えて、安全ベルトは絞めず出て行きました。。。。

我が家のスバルは後期型、空冷のスーパーデラックス。燻銀色でした。


問題がこの赤色の絨毯。安全ベルトは自動巻取以前の代物で、使い終わったら床に置いていく物でした。これは前期型。


まあ我が家の恥ずかしい話はともかく、USAのスバルのはなしです。

ホンダと同様、富士重も最初に北米に持って来たのは二輪車、ラビット・スクーターでした。それが1957年。サンフランシスコにあるデストリビュータ、ラビット・モーターセールス・オブ・サンフランシスコと、増加する販売台数に応え、輸出部長の菊池氏を応援に出し、これも加州のサンデイエーゴにアメリカン・ラビット・コーポレーションが一応、富士重の子会社として設立され、小型の90ccスリフトキング、中型の150cc、S402とその豪華版402ツーリング、そしてスクータのキャデラックとして有名になった200ccで本格的なトークコンヴァータ式自動変速機のS601スーパーフローを販売していました。


アメリカン・ラビット・コーポレーションの住所、現在は酒屋になってます。創業時のアメホン(アメリカン・ホンダ)の建物と似ていますね。南加州特有の。


ラビットと言えば頭に浮かぶのが亡くなった小澤征爾さん。富士重にスポンサーになってもらって、ラビット・スクーターで欧州を回った体験が本になり、ぼくの音楽武者修行と言う本が出版されました。その後、有名になっても彼はスバル車にお乗りになっていましたねえ。


有名な高峰秀子さんがまたがる、パウエル・スクータそっくりの初期型ラビット。中島の爆撃機、銀河の尾輪を使ったと言う都市伝説っぽい話を今でも聞きますね。


因みにこれがその爆撃機、銀河。


ここに出てくるのがフィラデルフィア出身の実業家、マルコム・ブリックリン氏です。彼は北米自動車業界に於いては余りにも有名なお方で、起業、倒産を繰り返し業界の異端児として現在でもお元気な方です。

マルコム・ブリックリン氏(Malcolm Bricklin)。ご健在で今年87歳。


そのブリックリン氏、青年の頃から事業を立ち上げるのがお好きで、お父様が経営してらした金物屋をフランチャイズ形式で資金を募り、大規模なチェイン店網にする計画を始めたのですが、計画途中で資金繰りが上手くいかず倒産。

そのような事でめげないのが彼の特徴で、借金抱えたまま、次は何をしようかとある日、目に入った新聞記事に紹介されていたのが、動画が出るジュークボックス。これを全米中の食堂やパーラーへリースに出したらボロ儲けするぞと、製造元のイノチェンテイ、はい。イタリヤはミラーノまで出向き交渉を始めます。

イノチェンテイが作っていたCinebox。




ところがこのジュークボックス、シネ・ボックスと言います、問題は流す動画、当時は当然動画と言えばフィルムを映写機で映し出す方式と察しますが、そもそも北米用のフィルム動画を制作してくれる会社が未だ何処にもなかったんですね。これじゃハナシにならんと、帰る間際、イノチェンテイの構内を見学していると、傘下のランブレッタ社のモータースクータに出逢います。ランブレッタ社の担当は、いや、アメリカに何千台も送ったんだけどさっぱり売れなくて困っているのよと言うので、んじゃぼくがコンサルタントとして在庫を売ったらこれだけの報酬くれるかい?と冗談半分に高額をふっかけたら、イタリヤ側は、ああいいよ、と承諾したのです。ブリックリンさん、自宅に帰って昔の仲間などに当たると、このスクータ、売れるよとの事で、在庫の5,000台は瞬く間に完売になるどころか、伝手を伝ってニューヨーク市警察のパトロール用にと売り込みをかけそれが成功。その上、セントラルパークなどを警邏する宣伝が広がり、各地の警察署からも注文が入り、その後、ニューヨーク市警察がランブレッタ系のスクータを使うきっかけになったのでした。




そのランブレッタを売っていたブリックリン氏、売るだけより、旅行者にスクータを貸したらもっと儲かると、ランブレッタとヴェスパをフロリダなどで貸す事業を、これまた、フランチャイズ方式で始めます。しかし困った事に当時のスクータ、特にイタリヤ製は皆、手動変速で、いわゆるグリップ・チェンジでグリップを握りながひね回すと言う独特の操作法で、シロートの旅行者の間では結構事故を起こす人が多くブリックリン氏は悩むのですが、なら、貸す時に一緒に保険も付けて売ればもっと儲かると保険業まで傘下するのです。しかし当然ながら、この手動変速の問題を抱えている事に変わりはなく、模索していた時、ボストンにフジ・ラビットと言う、自動変速機式のスクータを450台貸していると言う人を発見、ブリックリン氏はボストンまですっ飛んで行きます。

そしてその御人と意気投合、共同事業として、ラビットを貸す契約を交わすだけでなく、ラビットの輸入元として事業を始めようとします。所が群馬の富士重にコレコレしかじか、私が新しい輸入元でもっとラビットを送ってくださいと電報を打てば、富士重の返答は、アナタ誰、何を言っているんですか?富士重はもうラビットの生産を打ち切り施設をイズラエルに輸出する(コレ、本当?)ため工場の解体を始めているんですよ?大体我が社は二輪から四輪への転換期で大忙しなんですからと言われ、ブリックリン氏、アキさみよ〜で、急いで交渉しに群馬まで飛びます。(同時期に後に大統領になるリチャード・ニクソン氏も弁護士としてスチュードベーカーを救済する為に日本の日産自動車へ行ってくるのが面白い)それが1967年の後半ごろですか。群馬に突如現れたこの男に当惑しながらも富士重の重鎮は気の毒に思ったらしく、アンタ、そのボストンのラビット貸し屋に騙されたね、お気の毒と、帰り際、工場見学をしている最、ブリックリン氏、スバル1000に遭遇します。これ、北米でも売れそうと直感し、なんとか連邦安全基準法に改善できないかと交渉するんですが、富士重はそれだけの余裕が無かったのか、断られます。次に見たのが、そう、あのスバル360軽自動車。これなら安く仕入れるので単価が高いし、あとで調査すれば、車重が1,000パウンド以下の車両は当時なら構内車として扱われ安全基準などに合わせなくても売れる事が判明。嫌がる富士重を説得して、4年契約、最初の年は年間2,000台、翌年は3,000台と1971年までの供給契約に署名をします。

ブリックリン氏は帰国するなり、純アメリカ会社、スバル・オブ・アメリカ社(SOA)を設立。その際選んだパートナーは後にミスタースバルと呼ばれたハーヴェイ・ラム氏(Harvey H. Lamm)。莫大な資金が必要でしたが、ブリックリン氏はSOA社の株式公開して多大なる資金調達を達成します。それに加えて再度、フランチャイズでのデーラーを募集。これが一応、北米スバル自動車、最初の事業です。




なんと、ヤング・シリーズも。


所がこの豆自動車、1968年からの発売初っ端から販売不振の上、1969年4月号の消費者向け雑誌、コンシューマーリポートに危険で全くお勧めできないとの記事を書かれ、事実上360とサンバーのヴァン・トラックが殆ど売れなくなります。

コレがスバル360北米での息の根を止めた、コンシューマーリポート誌、1969年4月号。


バンパの高さ、デフロスタの性能から全て叩かれ散々な目に。


非営利団体が運営するコンシューマー・リポートは今でも製造側からは遅られる、辛口の文字通り、消費者のための機構。


コンシューマーリポートに息を止められた自動車は何もスバルだけではなく、いすゞのトウルーパー、鈴木サムライなどが有名です。


ブリックリン氏はそれでも、富士重にもっと売れそうな、ほれ、あのスバル1000を売ってくれないかと再度悲願し、1969年の遅くから、スバルFF−1、後日にSubaru・Star、最終型はGシリーズとして、SOAが輸入・販売を始めます。

1969年遅くから、1970年式として登場したスバルFF-1、暫くするとスバル・スターと名称を変更。




1971年、後期型はGシリーズ。






しかしあれだけ調達した資金も浪費やらで泡に消え、1968年と1969年に想定10,000台ほど輸入された360は半分くらいの在庫を抱えてブリックリン氏、悩みます。

でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。

売れ残った360、ブリックリン氏は、後にメイヤーズ・マンクスと言うVWベースのデユーン・バギーで一躍有名になった、ブルース・メイヤース氏に託し、車体を取り払うか、切り払ってゴーカートを制作。

マンクス氏と有名なデユーンバギー。


ブリックリン氏はその他にも売れ残りの360を改装する業者と契約したらしく、殆どは入金されなかった模様でした。

そのゴーカートをショッピングセンタの駐車場などでサーキットを作り走らせる計画を立てFast Track社と名付け、スバル360をベースにしたゴーカートを作ります。そしてゴーカートだけでは足りず、それ用のレイジャー施設、ホテルやらも併立したプロジェクトに発展させ、当然フランチャイズ方式で売り出します。

そのFast Track用に改装されたスバル360改。コレはスバル360ヨットYachtと呼ばれた型。








後ろに小さく、”SUBARU 360” と記されています。


結局このFast Track計画も頓挫して、フランチャイズ料を払ったデーラーから訴訟が起き、ブリックリン氏、にっちもさっちも行かなくなります。

でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。

丁度第一次石油危機の前夜、毎月販売台数を塗り替える小型車、VW、ダットサン、トヨータなどを見て、可能性ありと見たある投資者が現れます。それがニューヨーク州ビンガムトンの富豪、バートン ”バッド” コフマン氏 (Burton ”Bud" Koffman) でした。そして1971年、コフマン氏がSOAの株を36%取得し、ブリックリン氏が去ることを条件にSOAは生き残ります。そして残されたハーヴェイ・ラム氏が腕を奮い、北米スバル事業を大成功させる事になります。

事実上1970年と1971年しか売られなかったと見られるFF−1・Gは手元の資料で合計、総計販売台数が16,922台。レオーネ系が登場する1972年からは一年で販売数が一挙に23,114台に跳ね上がり、以後、右肩上がりが続きます。

1972年、陸上げのスバル車とヴォルヴォ。


初期型のステーションワゴンはレオーネも1000・FF–1も、後部が、バンパ下部からバカっと上下に開くんですよね。数年の内、普通のバンパ上からの一枚はねあげ式になっちゃいましたけど。燃料タンクの位置が変わる前は、荷床が恐ろしく低かったのが特徴でした。




スバル・オブ・アメリカを去る条件として様々な恩恵を受け取る事になるブリックリン氏。その資金を元に、彼はキャナダで安全スポーツカーと謳われた自動車、その名も ”ブリックリン SV1” の開発・製造・販売をキャナダ政府の援助と共に始めます。1974年から1976年まで、合計3,000程製造された、このデローリアンに似た自動車も様々な問題を抱え、キャナダ政府の援助が途絶え、莫大な負債を抱えて潰れます。





でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。笑。

次は、1982年にアメリカが州国で輸入販売を終了したフィアット、その124スパイダーとX1/9をブリックリン氏の立ち上げた新会社、International Automobile Importers(通称IAI) で輸入販売とする物でした。124スパイダはその製造者の名前から、”ピニンファリーナ・スパイダー”、もう一つは "バートーンX1/9" と命名。 ブリックリン氏は独自に両者、色々な改良を注ぎ込み、124は製造終了の1985年まで、X1/9は1987年まで売り続けます。








このフィアット車の代理販売終了時点で、ブリックリン氏は48歳。

でも彼の事です。このぐらいの話では足りません。

次に手を出したのが、趙廉価車で一躍有名になった、今は消滅したユーゴスラヴィア国はザスタヴァ社製のユーゴYugo。



米国ユーゴはまた共産党の崩落、殺人事件などが絡んで興味深い話になるのでまた、次回でと。。。。

後書:

ぼくが16歳の時、運転免許証を取りに実地試験に持ち込んだのもスバル車、コノ借りてきた2扉廉価版は、操舵が非常に重かったのを今でも覚えています。


1980年代後半、両親がウイスコンシン州に移る際自動車が欲しいと言うので買ってきたのが、当時、スバル・ロイヤールと言われたレオーネ。旦那仕様で自動変速常時四輪駆動に過給機付き。此奴を運転して大陸横断、キャナダで長い間使っていました。この頃になるとスバルされども、”格” は余り気にならなかったようでした。


スバル1000とFF–1独自の冷却方式。ラジエータ・ファンが無く、サーモスタットが開くと小さな熱交換器(事実上のヒーターコア)で冷却し、温度が上昇すると中央の大きな熱交換器で冷まし、それ以上冷却温度が上がると、小さな熱交換器に付いている冷却ファンが自動的に周り、排熱気はフェンダー内に捨てて、室内暖房が必要な際はその排熱気を室内に導く方式。なので、1000等はスタンダード仕様でも強力ヒーターが標準装備です。と記されているし、自分もそう信じていました。ですが。。




どうやら2ドアセダン・スタンダードにはシングル・ラジエータ仕様車もあり、その際だけに限ってヒーターがオプションになるそうで。シングル・ラジエータのFF−1とは、一度拝んでみたい物です。


私をスキーに連れて行って。


序でに私も連れて行って。暖房効く水冷かしら?


今日のオマケは雷鳥レックス。
Posted at 2026/09/09 13:45:46 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2026年08月26日 イイね!

14番目の月

14番目の月









今日はナカビで14番目の月やいび〜ん。荒井由美最後のアルバム。

明日が満月での、うんけー。ご先祖様のお帰りです。



10年以上前に働いていた会社、南洋マーシャル諸島での満月の図。
Posted at 2026/08/27 16:29:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2026年08月25日 イイね!

ドリー・パートンさん 逝く。

ドリー・パートンさん 逝く。















まあ、今朝起きてびっくりしたのは、ドリー・パートンさんの死去でした。去年長年連れ添った旦那さんを亡くし、まだ活動を続けていたそうですが、この知らせに我が国では大ニュウスになっています。

彼女は歌手、女優としてだけでなく、ビジネスに長けていて、様々な娯楽企画を運営したり、それに慈善事業にとても力を入れていて、彼女を思うと八代亜紀さんとイメージがいつもダブりました。1人はカントリー・ミュージック、1人は演歌。両人ともその音楽のジャンルを遥かに超えて、国境を遥かに越えて様々な文化、人々から支持を受け、ファン層の裾野の広さと言ったら可笑しいくらい幅の広さで有名でした。

パートンさんと言えば、長い間、贈り物のキャデラックを愛用していたので有名でしたが、ぼくにはこの、シェヴォレイLUVが直ぐ頭に浮かびます。当時は、若い秘書さんなんかが、廉価な小型ピックアップトラックで通勤するのは非常に一般的でした。

藤沢工場で組み立てられた車両を、ドリー・パートンが運転するなんて、いすゞの社員さん達はどう思っていたのでしょう。。。




話は変わり、昨日ワヒワで見かけた前期型シェヴォレイ・コーヴェア。ネブラスカ州1971年の車検証が窓に貼ってありました。後部に見えるのが当時流行った販売店のエンブレム。当時は真鍮なんかで作った販売店エンブレムもあり、車両が納車されると最初から貼ってあり、これらはわざわざ車体に穴を開け鋲打ちされていたので嫌がる人も結構いて、新車に傷が付いたと納車を拒否する顧客もいましたね。そのうちこれがただのステッカーになり、現在ではライセンスプレートのフレーム程度に落ち着いています。考えてみればウチのプリアスも買ったデーラーのフレームが付いてましたっけ。外さないと。。。


ネブラスカ州グランドアイランドのキンマン・シェヴォレイが販売店。このデーラーは2019年に廃業しています。


1970年代、確かニューヨーク州も似たような車検のステッカーがありました。


コーヴェアは小型車のサブコンパクトでしたが、今見ても小さく、そして異様に背が低いですね。


ご存知、リヤエンジン、アルミナム合金製の空冷水平対向6気筒エンジンを積んだコーヴェア、ヴォルクスワーゲンのビートルの対抗馬として将軍様が自信を持って、常識を破る新技術てんこ盛りで世に出した自信作でした。

その水平対向エンジン、特にリヤエンジンにしたのは当然、ビートルを意識していて、そのエンジン、クランクケースとシリンダヘッドがアルミナムで作られていたのですが、シェヴォレイはそれらを製造する為に、ニューヨーク州東北部、キャナダとの国境にごく近いマシーナと言う小さい村に建築しました。どうしてそんな秘境にエンジン部品工場を作ったかと言うと、すぐ近くにアルミナム製造大手のアルコア社 (ALCOA=Aluminum Company Of America)がフォンダリー(鋳物工場)を持っていたからです。マシーナはキャナダとの国境、セント・ローレンス川の辺りにあって、アルミナム製造には沢山の電力が必要とされ、セント・ローレンス川から水力発電でその電力を賄えたからでした。創業はなんと1902年、世界で最も古いアルミナム工場だそうです。そのアルコア工場からアルミナムをお隣のGMエンジン部品工場で作り、その部品を今度は西ニューヨーク州バッファローにあるトナワンダ・エンジン工場で組み上げ、デトロイトのウイローランのコーヴェア組み立て工場まで搬送していたのでした。

コーヴェアが廃盤になった後、GMマシーナのエンジン部品工場は、今度はこれまた新しく出たコンパクト車、ヴェイガに搭載される2,300ccエンジンのシリンダ・ブロックの製造に入ります。このエンジン、頭でっかちのシリンダヘッドは鋳鉄で、ブロックがスリーヴ無しのアルミナム製で、これがまた大問題にハッテンし、冷却水を飲みオーヴァーヒートで大失敗の元になったのです。




GMがヴォルクスワーゲンや他の小型輸入車打倒!で殴り込みをかけたコンパクト車。まあ、コーヴェアが失敗したのは他の理由でしたが。ヴェイガの大失敗も長い間人の記憶に残りました。


その悪評を覆そうと、将軍様は様々なキャンペインを展開します。その一つがコレ。真夏の加州デスヴァレーでヴェイガを3台、60日間ぶっ通しで走り続け、60,000マイル(97000キロ)を走破し、無故障を実証すると言う企画。なんとか成功した様子で、その間、一台当たり消費した冷却水がたったの236ccだったとかで。


でも当然、ヴェイガのブランド名の回復に至らず、車体を変えたシェヴォレイ・モンザにモデルチェンジします。モンザはマスタングIIと同様、日本でも一定の数が売れてみたいでしたね。


デスヴァレーも熱いですが、今年の日本も暑いようで、先月、太宰府で37℃を体験しましたが、以後はそれ以上暑いようで、今日はうんけー、明日ななかび。お盆もフル回転。

米国では3年間に1,500台しか売れず、大失敗だった英国ローヴァーのP6、V8エンジン。はい、エンジンはビュイックのアルミナム製V8小型なので大陸事情とはマッチしていると考えたのでしょうが。


ここまでアメリカナイズされると、一寸グロテスク?当時のシトロエンも同様でしたが。ラジエータグリル右前の箱はアイスラート(Icelert) と言って、外気温が一定以下に下がると、路面凍結警告として計器盤に警告灯が灯る装置。製造していたのはフィンドレイ・アーヴァインと言う会社で、主に気象観測の計器類を作る会社(現存)。

欧州版V8のP6ローヴァーは気化器が飛び出ているので、フッドに2山のバルジがあります。それが北米仕様となると、砂漠の熱さ対策、加えてエヤコンのコンデンサからの熱も加わって太宰府状態になるのを防ぐために、四つのお願いならず、三つのお願いで、フッドに3個の空気取り入れスクープが付けられました。中央のはエアクリーナに直接外気を導き、両脇のスクープはエンジンルーム内に外気を入れ冷ますのですが、この外側のスクープ、裏側に可動式の扉があり、夏はコチラと記されていて外気導入され、冬は反対側に回すと外気穴が閉ざされエンジンの暖気を促する仕掛けでした。ちあきなおみさん、知ってたかしら?

標準型P6のビュイックV6。総アルミナム製で極めて軽量。


北米仕様は中央にあるエアクリーナにどでかい長方形の穴を開けて、フッドスクープから直接外気を取り入れます。


これが両脇、左右のスクープの下にある可動弁。手で回して開けたり閉めたりします。


今日の一枚。曹洞宗両大本山ハワイ別院正法寺での盆ダンス。ハワイの盆ダンスは10月過ぎても続きます。今年は中秋節が遅いですし。
Posted at 2026/08/26 09:46:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年08月12日 イイね!

使い回されるブランド名称

使い回されるブランド名称














今年になってのニュウスは、消滅した昔のブランドの復活の話題を二つ。

最初のは昔、インターナショナル・ハーヴェスタが販売していた四輪駆動車のスカウトを、何故か独國の人民車、ヴォルクス・ワーゲンが電気自動車の独立ブランドとして復活させると言う話題。


スカウトが最後に売られたのが46年前ですから、我が国でも大概の人は知らないブランドだと思います。されど当時は、スカウトと言えば筋金入りの広野を走ったり、農場で作業をする車両として有名で、今でも少数の熱狂的な支持者が居ますが、多分この復活版は昔のスカウトとは異なる購買層を狙っていると察します。

インターナショナル・ハーヴェスタは主に農場のトラクタやら大型トラックなどで成長した企業で、一般消費者用へ営業を広げようと、1960年代初頭に、スカウトが開発されました。丁度その頃、ジープ車の競争相手がいなかったので、その業種のシェアを勝ち取ろうと言う案だったのでしょう。

インターナショナル・ハーヴェスタ社と言えば、自分の頭に直ぐ浮かぶのが、大型の牽引車、ハウ・ペイムーヴァのT500型です。ジャンボジェットを牽引するのに開発されたそうで、このブレーキですね、ドラムの内側に空気で膨らむブラダーみたいな風船が付いていて、ブレーキペダルを踏むとそれに圧縮空気が送られ平なブラダー風船が膨らみ外側のドラムを押し制動すると言う物。このブレーキ、オーヴァーホールするだけで数百万円が吹っ飛びます。勿論四輪操舵。バラスト抜きで自重が30トン。懸架装置類は無く、タイヤがしなって路面の衝撃を吸収するので、空荷で速度を出すとポンポン跳ねて危険です。と、言うか、自重重すぎで公道では走れませんでしたが。。。


話がぶっ飛んですいません。このスカウト、後期型は日産製SD33型ジーゼルエンジンも選べました。最終型は過給器付きで。その広告、160,000キロ保証付き!その後を追うメルセデスがなんとも意味ありげです。


バリバリの四輪駆動を売りに始まったスカウト、1970年代に四輪駆動車を娯楽に使う事が流行になり、それに乗って一定の数は出たのですが、所詮、商業トラックやら農業トラクタを売るインターナショナル社、販売店の数も限られていて、続々と出るGMやらフォードに対抗できず、本家の台所事情も怪しくなった際、生産中止に追い込まれました。

ぼくの古巣、オレゴン州ポートランド、ウチの近所のサンデイ大通りに、最後のインターナショナル自動車の販売店、ビシオ・モーターズがありまして、1980年に新車販売を終了した後も根強く、スカウトの中古車販売などを手がけてましたが、2008年、遂に閉店。オーナーのアーニー・ビシオさんもその3年後に90歳で他界され、この場所は今は御多分に洩れず集合住宅になっていました。


ポートランドは昔から、変な自動車の繁殖が根強い場所で、ビシオ・モーターズ廃業後も、これまた我が家の近くに製造中止になったインターナショナル社、及びその傘下のファームオール・トラクターの部品を今だに取り扱う、スカウト・パーツ社が、市営バスの車庫裏に現存しています。



ホノルルでも数回、スカウトを目撃しています。




余談として、スイスランドのコーチビルダー、モンテヴァーデイ社が初めて四輪駆動車を売り出した際、このスカウトを改造した車両でした。名前はサハーラ。


ぼくの小さい頃の思い出は、近所の丘の上に住むケトルキャンプ一家のお父さんが真っ赤なスカウトIIを愛用していて、坂下からよく乗せてもらったのを覚えています。スカウトはエンジンも変速機も他社からの流用で、様々な組み合わせがありました。当時のチェッカー・タクシーも、AMCも大体同じような部品供給網に頼っていた時代です。


VW版、復活スカウトは来年の販売開始を目指しているそうで、VWとは別ブランドで売るそうです。

次の復活ブランドは、REO。そうです、あのオールズモビルの創業者、ランソム・イーライ・オールズが作った、主に商業車を製造する会社、REO (Ransom Eli Olds の頭文字)ブランドです。



何とも意味ありげなREOの先行広告。


この新星REOブランドが作る予定の自動車は、廉価なピックアップトラック、そのSUV版。発動機はギャソリン仕様で、簡素化、低価格を売り物にするそうです。

そう言えば最近、小型のピックアップトラックが絶好調の裏で、フォードの出した軽便・廉価のピックアップトラック、マヴェリック(おお、懐かしい名称!)が非常に好調だそうで、その市場に殴り込みをかけようと言う計画らしいです。

これが軽便トラックの、マヴェリック、2025年の販売台数は155,051台。好評です。廉価と言っても一番安いヤツで$27,145。こう言う類の小型ピックアップトラックは皆、過大化していて、当然価格もそれに釣られて上昇しているので、この値段は今となっては割安なのかも知れません。ウチの近所さんがトヨータ・最新型のタコーマトラックを買ったんですが、それを見て、自分はてっきり、フルサイズのツンドラだと思っていました。


これがそのREO、予想図。値段は限りなく$20,000に近いらしいです。


でもこの新型REOトラック、調べてみればまだ、絵に描いた餅の段階らしく、実車の画像は一つも無く、動力・駆動系も外注で、現在資本を集めていると言う状況らしく、今後の進展がどうなるか、興味ある所です。

その廉価のピックアップのアイデアは、トヨータがアジアで販売している、昔で言う ”アジア車” (既に死語?)ハイラックス・チャンプと、言われてます。以前、インドのマヒンドラ社も同様の廉価仕様トラックを認可まで行ったのですが、販売網契約の問題から撤退した事例がありました。


実現しなかったマヒンドラ。因みにマヒンドラの農業トラクタは我が国でも一応出回っています。


不発に終わったトラックと言えば、ぼくが15歳くらいの時に、マンハッタンで目撃した、ルーマニアのアロオ(ARO)、かなり販売開始近くまで行ったらしいですが、結局断念。その代わりお隣、キャナダでは実際に販売したそうです。このARO、結構最近も我が国へ導入計画があったんですが、それがまた興味深い話で、いずれか書こうと思っています。(その前にVWのストーリーを終わらさねば。。。)


2004年に消滅した、オールズモビルのブランド。って事は、今年22歳の若者は、オールズモビル自体を知らない事になりますね。ぼくら60代のジジイには、オールズモビルの響きは青春そのもので、当時、老若、憧れのブランドでした。

カトラス単体で一年に500,000台以上軽く売り捌いていた明るい時代。結局GMはオールズモビルやらポンテイアック消滅させても2009年には倒産。時代がそうさせたか。経営が悪かったか。政府がそうさせたか。今となっては手遅れですが、安易に過去の栄光ブランドを復活させるのも考えさせられますね。

最初、REOブランドは、アー・イー・オーと発音していたそうですが、語呂が良いとの事で ”リオ” と呼ばれるのが慣行でした。そのトラック会社の名前が由来とされる樂団、REO Speedwagon は何故か、”アー・イー・オー・スピードワゴン” と呼ばれるのが不思議に思います。(REO Speedwagonのバンド名は、創立者の1人が大学校でバンド活動をしていた際、授業に戻って最初に見た、黒板に書いてあった案件がREO Speedwagonだったからだそうです)


そのREO Speedwagon樂団も2024年に解散、最後まで参加していた創立者、ニール・ドウテイー氏も早、今年で80歳。ランソム・オールズ氏が他界したのが1950年でしたから、彼も空の上からREO Speedwagonの歌など口ずさんでいるのかも知れませんね。

これが本家の、REO スピードワゴン。実に響の良い名称です。


REOの大型トラック。


後日、REOブランドはトラック会社のホワイト社、ダイアモンド社と一緒になり、結局ヴォルヴォの傘下に入るのですが、名称は消えます。




南半球のオウストラリヤでもREOブランドは生き続け、最近、また復活する様な話を読みました。オウストラリヤと北米は国土の地形が似ているのでか、昔からトラック、自動車、共通の車両を好む様です。


2004年、オールズモビル最後に組み立てられたのが、このオールズモビル・アレーロ。アレーロと言われてもピンとこないかも知れませんが、所謂車種整理後、あのカトラスの後見と考えて頂ければ安全です。本当ならミッドサイズ車の筈ですが、車格としてはコムパクト車になっていて、車台はGMX130と呼ばれ、姉妹車としてはシェヴォレイ・マリブーやら、ポンテイアック・グランダムです。


消滅が目に見えているブランドの自動車、当然販売台数は以前のカトラスに比べたら微々たるものでしたが、アレーロの特徴として、まずステーションワゴンがない事。その頃にはステーションワゴンは早廃れて、ミニヴァンの人気が持続していて、オールズモビルもシルエットと言うミニヴァンを持っていました。ステーションワゴンはない代わり、2扉のクープは用意されていて、(強いて言えば扉に窓枠が付いているハードトップ式ではないので、2扉セダーンと言われてもおかしくはなかったです)その上、珍しい事に4気筒車には、独国ゲットラグ社(製造はイタリヤ工場)のF23型手動変速機が用意されていて、不思議な事に、自動変速機大国の我が国で、アレーロの手動変速機の個体はしばしば見かけられました。

手動変速機以外で目立った点では、このアレーロ、実は欧州に結構本気で輸出していたんです。されどオールズモビルのブランドではなく、シェヴォレイ・アレーロとして。その頃、欧州ではシェヴォレイのブランド復活で普及に努めていたのですが、シェヴォレイと言っても殆どの車種が、買収して問題だった韓国の大宇ブランド車を捌く販売チャンネルとしてでして、まあ北米製のシェヴォレイも何車種かはありましたが、得体の知れないアジア製の兄弟車を売る販売店で、当然長続きせず、将軍様は破綻の道へまっしぐらそ進んで行ったのでした。。。。

これは独国での宣伝。頭に付いた、新しいオールズモビルの ”宇宙”  エンブレムもそのままに。矢張り欧州ではニューオーリンズでジャズを聴くとか言うのが、我が国を代表連想させる物なのでしょうね。まあ、カウボーイとインデイアンよりかはマシでしょうけど。。




エンブレムをシェヴォレイの蝶ネクタイに変えた例。


ネズランド・プレートの ”シェヴォレイ”  アレーロ。


これは本家、オールズモビルのアレーロ。この車尾灯がやけに大きすぎる感じがするのですが、視認性の良い尾灯、とちゃんとキャタログには記されているので、ちゃんと認識した装備なんですね。


アレーロは貸自動車で何回か借りましたけど、うーん、大した印象は無く、悪く言えばパッとしない自動車。よく言えばソツなくまとまっているな、程度でした。謳い文句では強固な車体、優れた操縦製などとは謳っていましたが。


我が家の長屋駐車場に長いこと鎮座していた2扉のアレーロ。結局自走する場面を見ること無く、ある日、牽引車に持っていかれました。


おお、首都高を走る98リージェンシー。緑プレートの営業車ですね。


こちらも98リージェンシー。でも自家用登録。親分、センスが良いですね。因みにこの98とは、昔々、戦前の大型オールズモビルの車台は90シリーズと呼ばれ、それに8気筒エンジンが載っているので ”98”  の名称が付いたそうです。


数字と言えば、ビュイック・エレクトラの225は、昔のモデルの全長が225インチだったのが由来です。最後に225のモデル名が使われたのが確かダウンサイズされたCボデー1979年型で、これの全長は222インチでした。


番外編。トランクに積む二輪車たち。

ホンダの広告なのに、車両がトヨータなのが面白いですね。


みんな大好き、モトコンポ。


そしてこれが現代版、題してホンダ・モトコムパクト。電動で走り、15万円くらで販売されています。保安部品の影響で、公道で走れる州・地域、そうでない場所があるそうです。


Posted at 2026/08/13 16:59:30 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2026年07月24日 イイね!

大阪

大阪













大阪と言えば万博、それも1970年の万博を今でも覚えてます。あの時は暑かった。。

大阪でぶったまげたのは、阪急百貨店でハワイ祭りが開催されていて、様子を見に行くと、凄い人気で混雑。これからは物価高、一ドル162円の時代、海外旅行に行く時代から、海外が日本に来る世の中になるのかもしれません。旅行業界の方々は大変ですね。。。







と、大阪で2泊。友人の親御さんとお昼ご飯していたら、相方の携帯電話にメッセージが。今晩18時に乗る予定の便が欠航と。でも、じゃあ次の手順をどうすればいいかは書かれていません。まあ大阪なら最悪の場合でも新幹線で上京できるのでそう心配はしなかったんですが、昼食早めに切り上げ、ピッカピカに磨かれた阪急電車に飛び乗り、2人で伊丹空港へ急ぎます。

何とか一つ前の便の席を確保でき、結果として東京へ早めに戻れる事になり、一件落着。

大阪中心地、淀川から梅田を望む。


大阪城


千葉ニュータウン 成田勤務の友人達はココに住んでいる人が多いです。


埼玉県三郷市


この日は南風で、悪名高き、新宿上空を低く飛ぶ着陸進入を使っていて、大東京遊覧飛行を楽しめました。欲を言えば左窓側だったら順光でもっと良い写真を撮れたのですが。ここは中央線中野駅。計画宙ぶらりんになった中野サンプラザが見えます。


この着陸進入が何故叩かれているかと言いますと、まず騒音問題ですね。子供が寝付かないとか。都市中央の真上を結構低く飛びますから。運航側からは、降下する角度が通常の3度よりきつい、3.45度で技量的に難しいと最初は文句が出ていたんですが、最近は聞かなくなりました。まあぼくは当事者では無いので知るゆえもありませんが。。


経路は丁度こんな感じですね。


代々木及び渋谷界隈


有名なシブヤ・クロスイングが見えます。大都会です。


品川プリンスホテル、左上にSONYの本社が見えます。




大井町、右下が山手線、下左に走るのが東海道線。


鮫洲、免許証を取りに行く場所ですね。奥が大井競馬場。


エンジン外され保管されている機体がゴロゴロ。やっと着陸です。


翌日、横浜で珍しいモーリス・オックスフォードが。何かの撮影みたいでした。


モーリス・オックスフォードはプジョー404に瓜二つ。デザインはピニン・ファリーナでしたから。




両方比べると、モーリスは古き良き英国車の伝統と言いましょうか、革張りの室内、保守的な機構と、そう言うのを好む方には魅力的でしょう。プジョーはそれに比べかなり機構的に興味深く、まず、リヤ・デファレンシャルがウオーム・ドライヴを使っている事でしょう。プジョーは404までは同じ機構を使ってました。この方式は格段に頑丈で精度が比較的低くても何とかなるですが、504からは普通のリング・ピニオン式でハイポイド型のデファレンシャルになっちゃいました。404はエンジンも機械式燃料噴射やらジーゼルも選べましたし、ふかふか柔らかい乗り心地、広い室内、良い造り。飽きない大人の乗用車でした。


だから東京散策は面白い。。。1957年型のシェヴォレイ。恐ろしい程綺麗。


トヨタ・センチュリーのタクシー。乗ってみたいです。。。


最近滅法見かけなくなった公衆電話。銀座この界隈は日本で一番地価の高い所らしいです。
Posted at 2026/07/25 11:50:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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