• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

JetBoyのブログ一覧

2026年10月21日 イイね!

南キャリフォーニアの青い空

南キャリフォーニアの青い空













南キャリフォーニアと言えば青い空、ヤシの木が揺らぎが定番で、昔の流行歌、アルバート・ハモンドが歌う名曲、南加州に雨は降らない(It Never Rains in Southern California)、の想像とは現実とは離れていて、まあこのアルバート・ハモンド氏は英国から移住してきたので、深い霧と小雨の街ロンドンから比べたらロスアンジェリースなら雨は降らないと思ってもご心境は分からないでもないですが。



特に夏場ですね。空港が海岸に沿ってあるので、騒音規制の関係で離着陸は殆ど海に向かって行うんですが、幸いこの地の風は大抵海から吹いてくるので問題はないのですが、夏になるとその海風が濃霧を運んでくるんです。それで随分手こずりました。ぼくら大型機だと悪くなった視程を上空で回復するまで待つ悠長な事はできないので、少しでも視程が怪しかったら、手前のオンタリオにおりちゃいましたけどね、1日の勤務時間がどっと長くなるのが辛かったです。

ウチは小型のプロペラー機と100人乗り程度のジェット貨物機で週に40便、それと大型貨物機が週に5便程ロスアンジェリース國際空港、通称ラックス(LAX エル・エー・エックス)に出入りりしてたお陰で、自分も昔からLAXは馴染み深い場所でした。

コローナのキャタログ写真。バーストーの分岐点。


現在の様子、グーグル・ストリートヴュー。


この時代、日本の自動車会社は何故か南キャリフォーニア州の砂漠やらがお好きだったようで、日産やらトヨータでも良くみかけられました。




L20に過給器付けて、圧縮が確か7ぐらいだったんでしたっけ。4扉ハードトップ、素敵でしたね〜。ソーファの様な座席も。


南加州と言えば、我が国には輸入もされなかったし、なぜ宣伝がベヴァリーヒルズだったのか。知りたい所です。


序でに言わせて貰えば、此方も?? U.S. Freeways? Winning combination?? 蜃気楼を追いかけていくハイウェイライフ、摩天楼と言葉を交わすシテイツアー。自由の女神、ブルックリン橋、背後にウオール街が見えます。はい、我が国には一度も輸入されない車種でした。


ロスアンジェリースから伸びる高速道路、主にヴァンクーヴァ・キャナダに向かって北に海岸線を走るのが5号線。

東へメキシコとの国境線をなぞる様にフロリダ州のジャクソンヴィルまで行くのが10号線。

途中まであの有名なルート66と共にし、東海岸デラウェア州のウイルミングトンまで行くのが40号線。

そしてハワイ人と同じくらいラスヴェイガスがお好きなロスアンジェリースの人が毎週遊びに通う15号線などがあります。

その40号線を暫く行くと何の変哲もない砂漠のど真ん中の降り口があり、あるのは見渡す限りの砂漠と、テキサコのガソリンスタンドが一軒。この場所が自動車好きの連中にとって凄く有名になったことがあるんです。


大体誰に聞いても、それってO夫人の連絡路?と言えば通じます。事の始めはオハイオ州出身の、若い頃に夫を亡くした未亡人、O夫人が、1人で南加州の砂漠のど真ん中に引っ越してきた事から始まります。O未亡人は(O嬢ではありませぬ)未亡人になってもこの荒野で1人で生きていける強い人で、自分で小屋から次第に増築し家を建てただけでなく、小さな池や庭、はたまた娯楽施設を建築して丁度近くを走るルート66を走る旅行者などにも名がしれていたそうです。それがある日、連邦政府が高速道路を建築するので、O未亡人の街から敷地まで公道が塞がり、たどり着くには遠く迂回せざる得ないと言う計画が立ち上がり、大激怒のO未亡人は1人で反対運動を起こします。その反対運動は当時の大統領、リンデン・ジョンソン氏まで届き、根を上げた政府が、じゃあ仕方ないと言うのでO夫人の敷地まで専用の連絡路を億単位の工事費で建設したのでした。

そのO未亡人は彼女の人生だけでも本をかけるほどの波乱に満ちた面白い人生だったのですが、1986年に他界された彼女の敷地は継ぐ人も居なく放置され次第に砂漠の砂へと戻って行ったのですが、戻って行かなかったのが、その6.6キロの長さの、敷地まで続く政府が作った連絡路なんです。

彼女が在命していた頃から始まった事らしいのですが。。。敷地に通じるこの連絡路、真っ直ぐに走っているだけでなく平坦、かつ行き止まりなのでそこを走行する人は皆無で、と思ひきや。密かにその6.6キロを使っていた人たちがいたのでした。

それは自動車媒体の試験走行、噂では欧州の自動車製造会社の実地試験にも使われて、闇世に隠れて最高速度の試験を繰り返し、700馬力に改造されたトランズアムがなんと、時速328キロ!!で走ると言うか、飛んで行った記録が残っています。

それらも昔の話で、噂が広まって今では観光地みたいな雰囲気になると思いきや。現在では郡政府が管理するこの公道、昔と大して変わらない様子だそうです。

O夫人の連絡路のお話でした。

ロスアンジェリースからラスヴェイガスまで、通常混雑していなければ、自動車で飛ばして4時間半。夕方会社を終えれば夜遅くには着ける距離です。15号線を分岐点の街、バーストーで用を足し、再度高速道路に乗りヴェイガスまで半分位行った所にベイカーと言う小さな村があります。砂漠のど真ん中の一本道に煌々と光る小さな村。ギャソリンスタンドが数軒、有名な観光名所として世界で一番大きな温度計と言うのがあり、場所柄、日中はどえらい気温が記録されるので、皆一緒に写真を撮るのが定番なんです。


それと同じ位定番の食べ処が、その温度計(最高記録が摂氏56度!)のお向かいにあるマッド・グリークと言うグリーク・レストランで、勿論24時間営業。


日本では余り普及していないかもしれませんが、このグリークフードが素晴らしく美味で、中東と欧州の料理を足して2で割った様な感じで、味をつけた肉をぐるぐる串焼きで焼きながら薄く削いで、ピタブレッドに野菜とサワークリームのソースと合わせて食べるギロス、チーズをふわふわの生地で三角形に包んで焼くスパナコピタ。




それにここでは各種のフルーツジュースやらミルクシェークが有名で、懐かしく思うだけでヨダレが垂れるお店です。



その砂漠の暑い村、ベイカーに、多分解体屋か屑鉄屋があり、ラスヴェイガスには行かず、ベイカーから北上してデスヴァレーに行くぼくは、その店先?に古いトヨータ・スタウトのトラックがもう何十年も放置されているのを見てきました。




我が国でスタウトは1964年から3年間しか売られなかった、当時トヨータ唯一のピックアップトラックで、全部で4,000台売れたとか売れなかったとか言う極めて稀な車種でした。誰かが引き取って再生しないかしらと、今でも思っています。話によれば、今流行りの小型ピックアップトラックとして、来年からトヨータ・スタウトとして、新型小型トラックが登場するそうです。。。




デスヴァレーは毎年夏、自分は試作車追いかけて有給休暇の消費に勤めていましたが、ぼくが最後にデスヴァレーの谷に ”降りた” のは既に10年以上前の話。1990年代は予算が沢山出ている会社は大所帯で夏になると押し寄せ、数週間試験走行をした後、自国に帰る前の数日間はヴェイガスで豪快に遊んで帰るのが通例だったのですが、近頃は連中も当地に施設を作って人材だけを出張させたり、他社の施設、時には競争相手の施設を借りて実験をしたりと、時代も変わりました。



昔など、欧州やアジアからのまだ大手じゃなかった会社は全ての施設・設備が貧弱な借り物で、砂漠の真ん中でエンコして動けなくなると車体を隠すことが出来ず、写真機の砲弾が容赦なく向けられ、連中は汗にまみれて大声て怒鳴り地団駄踏んでたものでした。メルセデスはネヴァーダ側の高地砂漠の村にある、夏休みで使われていない学校の倉庫を丸ごと夏だけ借りていました。大柄な独国人に道を塞がれ脅されたこともありましたっけ。その街の外れには温泉があって、湿度が一桁の夏の夜に浸かると気持ち良いものでしたが、その温泉から遠くない道端に、墜落したヒコーキが今でもデンと置かれています。もう随分前に閉鎖されましたが、そこはネヴァーダ州にある17つの郡の中でも認可されている10つの一つで営業していた、いわゆる女性が接待していただける施設でした。荒野を何日も走り続けるトラックの運転手や、身体障害者の方々など需要はあるそうで、まあこの辺りでは砂漠のど真ん中、地平線まで続く漆喰の闇よで煌々と灯るニオンの灯は珍しくもないのですが、問題は、このヒコーキですね。一帯何故にこんなところに??



1977年当時、こう言った商売も結構競争があるらしく、売上の減っていた時期にオーナーがある妙案を考え出します。お店の前の駐車場のど真ん中にマットレスを置いて、飛行機からパラシュートで降りるお客さんが見事そのマットレスの上に着地できたらサーヴィスを無料で提供する懸賞です。早速加州のどっかから1958年製の古い双発ビーチクラフト機をチャーターしてまずお店の前にある草を抜いただけの砂漠の滑走路に着陸させ、本職パラシュート降下の人と抱き合わせてお客さんを乗せいざ離陸、とまでは行ったのですが、離陸途中に滑走方向がずれ電信柱に激突。おかげで翼はこの通り。その後乗ってたお客さんは怪我もなかったらしいですが、誰が懸賞を当てたかは知る故もなく。結局このお店は何回か転売された後、最後の女将さんが高齢になったとかで2014年に閉店。そして今でもこのビーチクラフト機は残されたままで観光名所的なものになりました。落書きの中に自動車製造会社の試験部隊の名前もありましたね〜。




デスヴァレーから山を超えてモハーヴィ砂漠に行く途中にオーエンス・ヴァレーと言う幅広い谷間があり、底には大きな湖があります。西には米本土で一番高い山、標高4,421メートルのホイットニー山を望み、昔はオーエンズ湖は大きな湖でしたが、1913年、ロスアンジェリースを潤す水路が出来たことにより湖はどんどん小さくなっていき、この辺は非常に鉱山に恵まれていて、その溶解物が溶け込んだ湖の水は藻類やらバクテリアが生息し奇妙な色を発しており、独特な風景を醸し出します。これは湖がもうすぐ死ぬ事を意味し自然公害の一つだとされていて、この湖に再び水を戻さねばと言う運動がいつも起こるのですが、下流の農家にしてみれば灌漑用水は死活の問題で、パームスプリングス近郊のソルトン湖も同じ様な状況になっている様です。


そのオーエンズ湖のすぐ横にはマンザナーと言う戦時中の軍事施設があり、ここは第二次世界大戦中、日系人など敵性を見なされた人々を収容するキャンプでした。今では国立公園と国立博物館になっており非常に素晴らしい施設です。


隔離所なので、監視塔が至る所にありました。


ここで亡くなった魂を祀る慰霊碑。


ここは強制労働を強いられたわけでなく隔離施設であって、中には学校、野球場やら施設があり、有名な写真家、アンセル・アダムスさんがマンザナー収容所の写真を撮りにきた際、香川県出身の宮武東洋さんと仲良くなるのも有名な話です。(この時の写真は全て、ワシントンDCの国会図書館に永久保存されています)戦争が終わって家に帰ってみたら、自分たちの土地も家屋も商売も全て他人に盗られていて、皆一からやり直さなければならないのが一番辛かったそうです。

アンセル・アダムス氏の写真



後にロスアンジェリースで写真館を開く宮武東洋氏。


そのオーエンズ湖の麓には、これまた有名なクリスタル・ゲイザーの商標の蒸留水の工場があります。


不思議な事にこの一帯、FMラジオの89.9メガハーツに合わせると、なんとも言えない奇妙で、少し怖い音が聞こえる放送があるのです。この辺りから少しでも離れると聞けなくなるのですが、どうやら送信アンテナは湖の畔で以前稼働していた、PPGのガラス資材工場(ピッツバーグ・プレート・グラスPPG) の中かららしいのです。この付近の豊富な鉱物資源を使って稼働していたこの工場、1928年に工場が建てられ廃業したのが1968年。もう58年間も経っている廃工場で一帯何が?実はコレ、新しい芸術団体が、破壊されていく自然を表現したいと、今だに残る、PPG工場内の円形サイロの中に集音器を入れ、そのサイロに出入りする砂漠の風の音をFM電波で流しているのでした。これ、インターネットでも聞けます。  

https://www.metabolicstudio.org/Sonic-Division

借り物のキャデラック。ぼくはリンカン・タウンカーの方が好きでした。


モハービ砂漠を彷徨う図。何処へ行くの?


さて、道をラスヴェイガスに続く15線に戻り、夜も更けた頃に加州の州境を越えると、ネヴァーダ州プリンと言う街。それから十分も走ると次の街はジーンと言う村。そこから高速道路を降りまた砂漠のど真ん中をひたすら走ると小さな町が突如現れます。この街は、街と街を繋ぐ道の間に出来た訳ではなく、昔流行った ”計画都市” の先走りの様なもので、業者が砂漠の一角を安く入手し、池を作ったりヤシの木を植えて見栄えを良くし、区画し不動産として売る、まあ、殆どが悪徳商売みたいな物だったのですが、砂漠にはこのような小さな町が探せば結構あり、ここもそうなんですが、このジーンの近くの村、この一角に旧ユーゴスラヴィアで作られ、以前、全米で一世を風靡した超廉価車、ユーゴ (本名ザスタヴァ45)が沢山置かれているのが見えます。。。


そのお話は、マルコム・ブルックリン氏その後と合わせて、また後日にでも。。。

砂漠に突如現れるハングル語。韓国系の温泉施設。(今は廃業してます)。


Posted at 2026/10/22 17:41:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年10月10日 イイね!

イーヴァ・マリー・セイント逝く。

イーヴァ・マリー・セイント逝く。














女優のイーヴァ・マリー・セイントさんが今週、102歳でお亡くなりになりました。


ごく最近まで媒体で見受けられ、100歳を過ぎても優雅に振舞い、特に言葉の話し方が昔の人特有の、何と言いましょうか、どの時代に育ったか直ぐわかる言葉遣いが素晴らしかったです。

彼女の代表作は勿論、1959年、ヒッチコック監督のノース・バイ・ノースウエスト、North by Northwest (邦題 北北西に進路をとれ)ですね。


キャリー・グラントとの共演で、26歳の未婚、工業デザイナーのイヴ・ケンドルを演じました。


この作品が撮影された時点で彼女は既に35歳を過ぎていましたが、まあ、美女の年齢と美貌にイチャモン付けるのヤボですね。


ノース・バイ・ノースウエスト、キャリー・グラントが泥酔状態で運転させられる自動車は、メルセデス・ベンツ220S。所謂ポントン型のコンヴァーチブルです。キャリー・グラントはこの自動車を大層気に入ったそうで、撮影後、実車を買い取った程だったとか。これがその車両。何故かコロンボのプジョー403に似てますね。




ヒッチコックはこの作品でメルセデスの協賛で220Sを出演させたとか。1959年と言えば、米国メルセデスはマックス・ホフマン総代理店時代から離れて、パッカード・スチュードベイカーの傘下に入っていた時期。でもヒッチとホフマンがマンハッタンの暗いレストランで何かの契約を、イタリア料理を食べながら相談しているのを想像するだけで、小説が書けそうな気がします。


有名な複葉機に追いかけられる場面。勿論撮影は屋内撮影所でしたが。。。




想定はイリノイ州シカーゴ南のトウモロコシ畑。でも実際の撮影はキャリフォーニア州ベイカースフィールド北の農地でした。ここ一帯は戦前から日系の移民が農場を沢山経営していた土地です。


これがその現場。今も昔も殆ど風景は変わっていません。


泥酔運転のキャリー・グラント、急ブレーキを掛けて、追っかけてきた警察車両に追突されます。この220Sはブレーキに踏力倍増装置が付いているので、急ブレーキ、直ぐ停止できたんでしょうね。


これがその220の高性能ブレーキ。右上の円形の筒が真空踏力倍増装置です。


倍増装置はAte社製(あの元、船の船長だったアルフレッド・テーヴィス氏の自動車部品会社のテーヴィスTevesです)T50型と申しまして、この頃のメルセデス、BMW、フェラーリやらの欧州車に使われていました。


220S、右端にT50が装備されているのが見えます。


190SLにも。


BMWのV8エンジンの豪華車、502。戦後苦しい時にこんな自動車に没頭して、BMWは60年代に倒産寸前まで追い詰められます。


502にはT50が横向けに付いていますね。


この踏力倍増装置は、ブレーキペダルの裏側に小さな油圧シリンダがあり、ブレーキペダルを踏むとそのシリンダで発生した油圧がパイプで繋がっている倍増装置の空気弁を油圧で開き、負荷ヴァキュームを貯めているタンク内の隔離壁が動き結果としてブレーキ・マスターシリンダのピストンを押すと言う仕掛け。特徴は、倍増装置本体をブレーキペダルと合体で装備しなくても良い事、そしてエンジンルームの広さを確保できる場所に備えれば、タンクの寸法にも制限がなくなるので倍増力を高く取れる事でした。


そのT50倍増装置、実はコレ、米国ベンデイックス社の商品、ハイドロヴァックのライセンス生産品なのです。欧州版のT50は寸法が本国版より若干小さく、使われるネジ類がメトリックになっています。
 

そのベンデイックス社が後日、簡易版の倍増装置を開発して、こちらは馴染みのある商品名、マスターヴァックです。これはブレーキペダルの直ぐ背後に丸い負荷保持タンクがあるので直ぐわかります。廉価で構造が単純なのですが、倍増率が限られているのと、ブレーキペダルの反対側にあると言う場所の制約があります。マスターシリンダの後方にある金色のパーランクー太鼓状の物が見えれば、マスターヴァック倍増装置とわかります。これは1979年型キャデラック。


同じキャデラックでもあれま、これ、太鼓状のマスターヴァックとは違うじゃないの?それにマスターシリンダ横の筒状の物はなに?? 1977年型エルドラード。


これはベンデイックスが1973年に開発した、ハイドロブーストと言う制動力倍増装置でして、文字通り、加圧された油圧を使ってブレーキペダルを踏む力を手伝います。(踏力倍増に使う油圧と、ブレーキを作動させる油圧は別物)これはエンジンが負荷を発生しにくい特性があったり(絞り弁の無い直噴エンジンやら)あと効率が良いそうで、油圧源はパワーステアリングの油圧から取ってきてます。万が一エンストした時に備えて、常に油圧を圧力かけて溜めるアキュミュレータが付いており、それがこの筒状の物なのです。因みにこのハイドロブースト、GM,フォード、その他各社で現在でも使われています。


遠隔に制動力倍増装置を作ったのは他にロッキード、そうあのヒコーキのロッキードもありました。ヒコーキ屋ロッキードの兄弟の1人がマルコム・ロッキード。油圧ブレーキの発明者です。ヒコーキ産業の傍ら、油圧ブレーキから自動車部品部門にも手を広げ、そのライセンス生産の契約を結んだのが、今は無き、英国自動車部品の大手だったAP社。(Automotive Products)


これも構造はAte・ベンデイックスと同じで、ブレーキペダルからきた油圧(下から入るピンク)が円形状の空気弁を開放し、大気圧(オレンジ)を太鼓の中に入れ腹膜を負荷側に押すとマスターシリンダのピストンも同時に押されると言う仕掛け。


英国製と言うので、この1971年型アストンマーテインDBS、エンジンルームの前端、左の端と右の端に一個ずつ、倍増装置のタイコが確認できます。金色の円形のがそれです。


これは登場当時、先取りした先進技術と安全性で名を上げたローヴァーP6。ロッキード/AP製のT5倍増装置、2系統ブレーキなので、倍増装置も2個並んでデーンと見えます。これは4気筒ツインキャブレタのTC型。


T5遠隔制動力倍増装置。タイコの中に隔離壁があり、ブレーキペダルを踏むと油圧が金色の丸い空気弁を開放し、大気をタイコ中に導き、細長い筒状のマスタシリンダを押す仕組み。


P6ローヴァーの設計者はシトロエンに没頭していたそうで、技術的にも車体構造、設計思考がDSに非常に似ています。以前スバルFF−1もシトロエンを非常に ”参考” にしたと読んだ事がありますが、なんとなくこの3車種、共通点がある様で面白いです。北米仕様、ここまで ”連邦化” されるといささかグロテスクになりつつありますが、北米大陸ではビュイック製の3,500ccの軽量V8エンジンとボーグワーナーBW35型自動変速機の組み合わせなら、地の果てまで真っ直ぐフリーウェイを突っ走るのには最適だと思いきや。丁度V8が北米に輸入され始めた時期を同じくして、英国では凄まじい労働組合問題と国家が絡んだ自動車製造会社の再編成の煽りを受け、粗悪な造り、錆びる車体、連続する故障と(皮肉な話で安全を先取りした筈のブレーキが頻繁に壊れるのでした)、無いに等しいアフターサーヴィスで、P6の3,500ccV8は、2年半でたったの2,000台が売れたとか売れなかったとか。悲しい事に、ローヴァーは後にSD1でも世紀の大失敗(こちらは2年間で1,300台弱)、最後のトドメはホンダ・アキュラ・レジェンドの兄弟社、スターリングでも同じ事を繰り返しました。。。


これはP6のV8、北米仕様で(左右の吸気管中央にあるエアクリーナがど真ん中で口を開けているので直ぐわかります、フッド、じゃなくて、ボンネットのど真ん中にぶち開けられた空気取り入れ口と接合するため)、エンジンルーム内はぎっしり、冷房から排気ガス浄化装置まで、てんこ盛り。ブレーキの倍増装置は右前端に。P6は最初から、いずれかはジェットエンジンを積む事も想定されていたんですって。


P6はシトロエンDSと同じくスケルトン構造で、フッドじゃなくて(再度)、ボンネット、屋根、ブートリッド(トランクリッド)はアルミナム製で、車体の外側パネルは全てボルトで比較的用意に脱着できました。(パネルを外すとことごとくサビ落ちている車体構造を目の当たりに見られるのです)。




安全設計の一環で、燃料タンクは後部座席の背もたれ直後に垂直に鎮座していたのでトランクは深くて広そうなのですが、大きなスペアタイヤがずいぶん邪魔でした。右端はバッテリ。


なのでコンチネンタル・ツーリングキットと言う注文装備を選べば、こうしてスペアタイヤをこうしてブートの上に固定する事もできました。ブートリッドはアルミナム製なので、コンチネンタル・キットは内側の補強材と、重くなったリッドを開けた時支える太いつっかえ棒も入っていました。コンチネンタルとは、英国からドーヴァー海峡を超えて欧州大陸へ行けば、コンチネンタルですから、長距離旅行に出かけるための装備ですね、理に叶った名称です。ヘンリーフォードが欧州に視察した時、スペアタイヤを背負って長距離旅行をする自動車を見て、リンカン・コンチネンタルを思いついた ーあのトランクのスペアタイヤ半径の形状ー もここが原点ですから。


昔のヴォルヴォはトランク左右に溝があり、願わくばスペアタイヤを2本積む事ができました。144は1973年まで、この様に燃料タンクがトランクの床です。


1974年から燃料タンクが後車軸の後、丁度トランクの一番奥の位置に車体下から挿入する燃料タンクに変更され、それに伴う配管やら、公害対策の装置が来たので、スペアタイヤは左側隅に一本しか置けなくなりました。


ぼくが生まれて初めて買った自分の自動車が1974年型ヴォルヴォ145。140シリーズの最終型。


壊れに壊れまくって長い付き合いではなかったですが、懐かしい一台です。


ヴォルヴォの140系は前席ベンチシート・コラムシフトもあったのです。スウェーデン国内専用だったらしい。


コラムシフトと言えば、メルセデスもW124までは注文できたそうで。


W123も。。。


SクラスのW116も。。。。


昔のルノーは伝統的にスペアタイヤをエンジンルームの中に収めるので、トランクがいつも広々としていました。でも我々整備は、何をするにもまず、スペアタイヤをエンジンルームからよっこいしょと取り出さねばならず、少なからず難儀でした。

アメリカン・モータースの販売店でR5を売り始めた頃。一挙に販売数が激増。


これはルノーR5、R1229のUSA仕様で、二次空気挿入のエアポンプと各排気ポートに繋がるパイプやら、ややこしい装備で忙しい図。。エンジンが後、変速機が前のフロント・ミッドシップで、所謂エンジンの配置が前後逆になっているのでクランクシャフトからプーリーで補器類を回せないので、キャムシャフトを前方に延長して、エンジンの前で発電機やらエヤポンプを駆動するんですが、そのキャムシャフト、前端を支えるベアリングはエンジンブロックではなく、ベルハウジングに挿入されているので、クラッチ交換時など、まず最初にそのベアリングを専用工具で抜いてやらないと、トランスミッションを下す際、いとも簡単にキャムシャフトの先端がボキっと折れ、結局エンジン全体を降ろさなければならないハメになります。。


そのR5も米側の注文でクーラーを装備する事になり、もう悪夢。何せエヴァポレータを置く場所が無く、結局スペアタイヤをトランクに押しやり、サンデンのコンプレッサを押し込んで、発電機の容量も増大にしてと、スタータ一個交換するにも、結局エンジンおろした方が早かったりして。でもこのクーラー、非常に冷えて性能は良かったです。


何せR5の原型はコレでしたから。米環境保護庁の排気ガス規制適合、安全基準適合、それにクーラー装備など、全く想定外から始まったのですから、ご苦労様でした。


両親が乗っていたスバルもスペアタイヤは前にありました。結局パンクは一回もしなかったと記憶していますが。過給機と四輪駆動、自動変速機の旦那仕様でした。


スバルもスペアタイヤが前にあったのは1994年くらいが最後だったそうです。


昔、お仕事でしょっちゅう乗っていたミニヴァンのダッジ・キャラヴァン。座席が全て床下に収納されるので、スペヤタイヤは何処に収納されているかと思ひきや。。


運転台中央の床穴に棒を突っ込んで回転させるとウインチが回り。。。。


床下中央に太いワイヤ線で引き上げ格納されていたスペアタイヤが降りてくる仕組みでした。これも、一回も試す必要はありませんでしたが。


以前、ホンダのN600は何故、エンジンルームにスペアタイヤを置けず、わざわざ後バンパを延長して、スペアタイヤの収納タライを付けたのか、不思議に思ってたのですが。。なんと無く判明しました。


合衆国仕様のN600は前輪デイスクブレーキが標準装備だったのです。それに対応するために制動力倍増装置を設けなければならず、スペアタイヤが追い払われたと言う訳で。。。


その倍増装置、円形と六角形型と二種類あるのですが、いずれも日信工業と言う会社が作る、ユニパワーなる商標の物で、簡単に言えば、構造は例の遠隔制動力倍増装置、つまりベンデイックスのハイドロヴァックに似たような物だったんですね。
Z600もデイスクブレーキは標準装備で、Zはスペアタイヤの収納場所が車体後方に最初からあったので、倍増装置は右側にデンと付いています。




今日のそっくりさん。




今年最後の盆ダンス。また来年!
Posted at 2026/10/11 17:56:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年09月08日 イイね!

アメリカ スバルのはなし

アメリカ スバルのはなし















大正生まれの我が家の父上は、昔から ”格がある” と言う言葉が好きで、自動車でも ”格” が気になるらしく、会社のクラウン・デラックスはお気に入りでした。その点、”駄目なクルマ” と言えば必ず引き合いに出されたのが、何故かいすゞとスバルで、この2社だけは下男のくるま、様な扱い方で、日野やダイハツも如何な印象だったか聞いておきたかったです。

そのスバルですね、皮肉な事に1970年代前半、横浜に住んでいた母が急遽自動車が必要になって、親戚から譲ってもらったのがその、スバル。それに軽自動車。R-2の最後期型のデラックス。余程父上は乗りたがらないだろうと察するや、駅からの送迎などに行くと嬉々としてドアを開けて乗っていた様子でした。ある日朝起きてみると玄関の鈴が鳴ります。扉を開けてみると消防団の人が船に乗って来ていて、洪水ですと言います。ありひゃー、早速水没する前にスバルを丘の上まで持って行き、幸い水は早いうちに引き家は無事。翌日、母上は何処かにお出かけだそうで、着飾ってスバルで出発も、暫くして帰って来ました。その姿を見ると、ドレスの前、腰の辺りにズンと、赤い帯が入っています。どうやらスバルは車内に水漏れしてたらしく、床の赤い絨毯から色が滲み出て黒い安全ベルトに染み込んでいたらしく、その赤に染まった安全ベルトを締めたら、おべべに色が移った模様。母上はおかんむりで着替えて、安全ベルトは絞めず出て行きました。。。。

我が家のスバルは後期型、空冷のスーパーデラックス。燻銀色でした。


問題がこの赤色の絨毯。安全ベルトは自動巻取以前の代物で、使い終わったら床に置いていく物でした。これは前期型。


まあ我が家の恥ずかしい話はともかく、USAのスバルのはなしです。

ホンダと同様、富士重も最初に北米に持って来たのは二輪車、ラビット・スクーターでした。それが1957年。サンフランシスコにあるデストリビュータ、ラビット・モーターセールス・オブ・サンフランシスコと、増加する販売台数に応え、輸出部長の菊池氏を応援に出し、これも加州のサンデイエーゴにアメリカン・ラビット・コーポレーションが一応、富士重の子会社として設立され、小型の90ccスリフトキング、中型の150cc、S402とその豪華版402ツーリング、そしてスクータのキャデラックとして有名になった200ccで本格的なトークコンヴァータ式自動変速機のS601スーパーフローを販売していました。


アメリカン・ラビット・コーポレーションの住所、現在は酒屋になってます。創業時のアメホン(アメリカン・ホンダ)の建物と似ていますね。南加州特有の。


ラビットと言えば頭に浮かぶのが亡くなった小澤征爾さん。富士重にスポンサーになってもらって、ラビット・スクーターで欧州を回った体験が本になり、ぼくの音楽武者修行と言う本が出版されました。その後、有名になっても彼はスバル車にお乗りになっていましたねえ。


有名な高峰秀子さんがまたがる、パウエル・スクータそっくりの初期型ラビット。中島の爆撃機、銀河の尾輪を使ったと言う都市伝説っぽい話を今でも聞きますね。


因みにこれがその爆撃機、銀河。


ここに出てくるのがフィラデルフィア出身の実業家、マルコム・ブリックリン氏です。彼は北米自動車業界に於いては余りにも有名なお方で、起業、倒産を繰り返し業界の異端児として現在でもお元気な方です。

マルコム・ブリックリン氏(Malcolm Bricklin)。ご健在で今年87歳。


そのブリックリン氏、青年の頃から事業を立ち上げるのがお好きで、お父様が経営してらした金物屋をフランチャイズ形式で資金を募り、大規模なチェイン店網にする計画を始めたのですが、計画途中で資金繰りが上手くいかず倒産。

そのような事でめげないのが彼の特徴で、借金抱えたまま、次は何をしようかとある日、目に入った新聞記事に紹介されていたのが、動画が出るジュークボックス。これを全米中の食堂やパーラーへリースに出したらボロ儲けするぞと、製造元のイノチェンテイ、はい。イタリヤはミラーノまで出向き交渉を始めます。

イノチェンテイが作っていたCinebox。




ところがこのジュークボックス、シネ・ボックスと言います、問題は流す動画、当時は当然動画と言えばフィルムを映写機で映し出す方式と察しますが、そもそも北米用のフィルム動画を制作してくれる会社が未だ何処にもなかったんですね。これじゃハナシにならんと、帰る間際、イノチェンテイの構内を見学していると、傘下のランブレッタ社のモータースクータに出逢います。ランブレッタ社の担当は、いや、アメリカに何千台も送ったんだけどさっぱり売れなくて困っているのよと言うので、んじゃぼくがコンサルタントとして在庫を売ったらこれだけの報酬くれるかい?と冗談半分に高額をふっかけたら、イタリヤ側は、ああいいよ、と承諾したのです。ブリックリンさん、自宅に帰って昔の仲間などに当たると、このスクータ、売れるよとの事で、在庫の5,000台は瞬く間に完売になるどころか、伝手を伝ってニューヨーク市警察のパトロール用にと売り込みをかけそれが成功。その上、セントラルパークなどを警邏する宣伝が広がり、各地の警察署からも注文が入り、その後、ニューヨーク市警察がランブレッタ系のスクータを使うきっかけになったのでした。




そのランブレッタを売っていたブリックリン氏、売るだけより、旅行者にスクータを貸したらもっと儲かると、ランブレッタとヴェスパをフロリダなどで貸す事業を、これまた、フランチャイズ方式で始めます。しかし困った事に当時のスクータ、特にイタリヤ製は皆、手動変速で、いわゆるグリップ・チェンジでグリップを握りながひね回すと言う独特の操作法で、シロートの旅行者の間では結構事故を起こす人が多くブリックリン氏は悩むのですが、なら、貸す時に一緒に保険も付けて売ればもっと儲かると保険業まで傘下するのです。しかし当然ながら、この手動変速の問題を抱えている事に変わりはなく、模索していた時、ボストンにフジ・ラビットと言う、自動変速機式のスクータを450台貸していると言う人を発見、ブリックリン氏はボストンまですっ飛んで行きます。

そしてその御人と意気投合、共同事業として、ラビットを貸す契約を交わすだけでなく、ラビットの輸入元として事業を始めようとします。所が群馬の富士重にコレコレしかじか、私が新しい輸入元でもっとラビットを送ってくださいと電報を打てば、富士重の返答は、アナタ誰、何を言っているんですか?富士重はもうラビットの生産を打ち切り施設をイズラエルに輸出する(コレ、本当?)ため工場の解体を始めているんですよ?大体我が社は二輪から四輪への転換期で大忙しなんですからと言われ、ブリックリン氏、アキさみよ〜で、急いで交渉しに群馬まで飛びます。(同時期に後に大統領になるリチャード・ニクソン氏も弁護士としてスチュードベーカーを救済する為に日本の日産自動車へ行ってくるのが面白い)それが1967年の後半ごろですか。群馬に突如現れたこの男に当惑しながらも富士重の重鎮は気の毒に思ったらしく、アンタ、そのボストンのラビット貸し屋に騙されたね、お気の毒と、帰り際、工場見学をしている最、ブリックリン氏、スバル1000に遭遇します。これ、北米でも売れそうと直感し、なんとか連邦安全基準法に改善できないかと交渉するんですが、富士重はそれだけの余裕が無かったのか、断られます。次に見たのが、そう、あのスバル360軽自動車。これなら安く仕入れるので単価が高いし、あとで調査すれば、車重が1,000パウンド以下の車両は当時なら構内車として扱われ安全基準などに合わせなくても売れる事が判明。嫌がる富士重を説得して、4年契約、最初の年は年間2,000台、翌年は3,000台と1971年までの供給契約に署名をします。

ブリックリン氏は帰国するなり、純アメリカ会社、スバル・オブ・アメリカ社(SOA)を設立。その際選んだパートナーは後にミスタースバルと呼ばれたハーヴェイ・ラム氏(Harvey H. Lamm)。莫大な資金が必要でしたが、ブリックリン氏はSOA社の株式公開して多大なる資金調達を達成します。それに加えて再度、フランチャイズでのデーラーを募集。これが一応、北米スバル自動車、最初の事業です。




なんと、ヤング・シリーズも。


所がこの豆自動車、1968年からの発売初っ端から販売不振の上、1969年4月号の消費者向け雑誌、コンシューマーリポートに危険で全くお勧めできないとの記事を書かれ、事実上360とサンバーのヴァン・トラックが殆ど売れなくなります。

コレがスバル360北米での息の根を止めた、コンシューマーリポート誌、1969年4月号。


バンパの高さ、デフロスタの性能から全て叩かれ散々な目に。


非営利団体が運営するコンシューマー・リポートは今でも製造側からは遅られる、辛口の文字通り、消費者のための機構。


コンシューマーリポートに息を止められた自動車は何もスバルだけではなく、いすゞのトウルーパー、鈴木サムライなどが有名です。


ブリックリン氏はそれでも、富士重にもっと売れそうな、ほれ、あのスバル1000を売ってくれないかと再度悲願し、1969年の遅くから、スバルFF−1、後日にSubaru・Star、最終型はGシリーズとして、SOAが輸入・販売を始めます。

1969年遅くから、1970年式として登場したスバルFF-1、暫くするとスバル・スターと名称を変更。




1971年、後期型はGシリーズ。






しかしあれだけ調達した資金も浪費やらで泡に消え、1968年と1969年に想定10,000台ほど輸入された360は半分くらいの在庫を抱えてブリックリン氏、悩みます。

でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。

売れ残った360、ブリックリン氏は、後にメイヤーズ・マンクスと言うVWベースのデユーン・バギーで一躍有名になった、ブルース・メイヤース氏に託し、車体を取り払うか、切り払ってゴーカートを制作。

マンクス氏と有名なデユーンバギー。


ブリックリン氏はその他にも売れ残りの360を改装する業者と契約したらしく、殆どは入金されなかった模様でした。

そのゴーカートをショッピングセンタの駐車場などでサーキットを作り走らせる計画を立てFast Track社と名付け、スバル360をベースにしたゴーカートを作ります。そしてゴーカートだけでは足りず、それ用のレイジャー施設、ホテルやらも併立したプロジェクトに発展させ、当然フランチャイズ方式で売り出します。

そのFast Track用に改装されたスバル360改。コレはスバル360ヨットYachtと呼ばれた型。








後ろに小さく、”SUBARU 360” と記されています。


結局このFast Track計画も頓挫して、フランチャイズ料を払ったデーラーから訴訟が起き、ブリックリン氏、にっちもさっちも行かなくなります。

でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。

丁度第一次石油危機の前夜、毎月販売台数を塗り替える小型車、VW、ダットサン、トヨータなどを見て、可能性ありと見たある投資者が現れます。それがニューヨーク州ビンガムトンの富豪、バートン ”バッド” コフマン氏 (Burton ”Bud" Koffman) でした。そして1971年、コフマン氏がSOAの株を36%取得し、ブリックリン氏が去ることを条件にSOAは生き残ります。そして残されたハーヴェイ・ラム氏が腕を奮い、北米スバル事業を大成功させる事になります。

事実上1970年と1971年しか売られなかったと見られるFF−1・Gは手元の資料で合計、総計販売台数が16,922台。レオーネ系が登場する1972年からは一年で販売数が一挙に23,114台に跳ね上がり、以後、右肩上がりが続きます。

1972年、陸上げのスバル車とヴォルヴォ。


初期型のステーションワゴンはレオーネも1000・FF–1も、後部が、バンパ下部からバカっと上下に開くんですよね。数年の内、普通のバンパ上からの一枚はねあげ式になっちゃいましたけど。燃料タンクの位置が変わる前は、荷床が恐ろしく低かったのが特徴でした。




スバル・オブ・アメリカを去る条件として様々な恩恵を受け取る事になるブリックリン氏。その資金を元に、彼はキャナダで安全スポーツカーと謳われた自動車、その名も ”ブリックリン SV1” の開発・製造・販売をキャナダ政府の援助と共に始めます。1974年から1976年まで、合計3,000程製造された、このデローリアンに似た自動車も様々な問題を抱え、キャナダ政府の援助が途絶え、莫大な負債を抱えて潰れます。





でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。笑。

次は、1982年にアメリカが州国で輸入販売を終了したフィアット、その124スパイダーとX1/9をブリックリン氏の立ち上げた新会社、International Automobile Importers(通称IAI) で輸入販売とする物でした。124スパイダはその製造者の名前から、”ピニンファリーナ・スパイダー”、もう一つは "バートーンX1/9" と命名。 ブリックリン氏は独自に両者、色々な改良を注ぎ込み、124は製造終了の1985年まで、X1/9は1987年まで売り続けます。








このフィアット車の代理販売終了時点で、ブリックリン氏は48歳。

でも彼の事です。このぐらいの話では足りません。

次に手を出したのが、趙廉価車で一躍有名になった、今は消滅したユーゴスラヴィア国はザスタヴァ社製のユーゴYugo。



米国ユーゴはまた共産党の崩落、殺人事件などが絡んで興味深い話になるのでまた、次回でと。。。。

後書:

ぼくが16歳の時、運転免許証を取りに実地試験に持ち込んだのもスバル車、コノ借りてきた2扉廉価版は、操舵が非常に重かったのを今でも覚えています。


1980年代後半、両親がウイスコンシン州に移る際自動車が欲しいと言うので買ってきたのが、当時、スバル・ロイヤールと言われたレオーネ。旦那仕様で自動変速常時四輪駆動に過給機付き。此奴を運転して大陸横断、キャナダで長い間使っていました。この頃になるとスバルされども、”格” は余り気にならなかったようでした。


スバル1000とFF–1独自の冷却方式。ラジエータ・ファンが無く、サーモスタットが開くと小さな熱交換器(事実上のヒーターコア)で冷却し、温度が上昇すると中央の大きな熱交換器で冷まし、それ以上冷却温度が上がると、小さな熱交換器に付いている冷却ファンが自動的に周り、排熱気はフェンダー内に捨てて、室内暖房が必要な際はその排熱気を室内に導く方式。なので、1000等はスタンダード仕様でも強力ヒーターが標準装備です。と記されているし、自分もそう信じていました。ですが。。




どうやら2ドアセダン・スタンダードにはシングル・ラジエータ仕様車もあり、その際だけに限ってヒーターがオプションになるそうで。シングル・ラジエータのFF−1とは、一度拝んでみたい物です。


私をスキーに連れて行って。


序でに私も連れて行って。暖房効く水冷かしら?


今日のオマケは雷鳥レックス。
Posted at 2026/09/09 13:45:46 | コメント(3) | トラックバック(0) | 日記
2026年08月26日 イイね!

14番目の月

14番目の月









今日はナカビで14番目の月やいび〜ん。荒井由美最後のアルバム。

明日が満月での、うんけー。ご先祖様のお帰りです。



10年以上前に働いていた会社、南洋マーシャル諸島での満月の図。
Posted at 2026/08/27 16:29:25 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2026年08月25日 イイね!

ドリー・パートンさん 逝く。

ドリー・パートンさん 逝く。















まあ、今朝起きてびっくりしたのは、ドリー・パートンさんの死去でした。去年長年連れ添った旦那さんを亡くし、まだ活動を続けていたそうですが、この知らせに我が国では大ニュウスになっています。

彼女は歌手、女優としてだけでなく、ビジネスに長けていて、様々な娯楽企画を運営したり、それに慈善事業にとても力を入れていて、彼女を思うと八代亜紀さんとイメージがいつもダブりました。1人はカントリー・ミュージック、1人は演歌。両人ともその音楽のジャンルを遥かに超えて、国境を遥かに越えて様々な文化、人々から支持を受け、ファン層の裾野の広さと言ったら可笑しいくらい幅の広さで有名でした。

パートンさんと言えば、長い間、贈り物のキャデラックを愛用していたので有名でしたが、ぼくにはこの、シェヴォレイLUVが直ぐ頭に浮かびます。当時は、若い秘書さんなんかが、廉価な小型ピックアップトラックで通勤するのは非常に一般的でした。

藤沢工場で組み立てられた車両を、ドリー・パートンが運転するなんて、いすゞの社員さん達はどう思っていたのでしょう。。。




話は変わり、昨日ワヒワで見かけた前期型シェヴォレイ・コーヴェア。ネブラスカ州1971年の車検証が窓に貼ってありました。後部に見えるのが当時流行った販売店のエンブレム。当時は真鍮なんかで作った販売店エンブレムもあり、車両が納車されると最初から貼ってあり、これらはわざわざ車体に穴を開け鋲打ちされていたので嫌がる人も結構いて、新車に傷が付いたと納車を拒否する顧客もいましたね。そのうちこれがただのステッカーになり、現在ではライセンスプレートのフレーム程度に落ち着いています。考えてみればウチのプリアスも買ったデーラーのフレームが付いてましたっけ。外さないと。。。


ネブラスカ州グランドアイランドのキンマン・シェヴォレイが販売店。このデーラーは2019年に廃業しています。


1970年代、確かニューヨーク州も似たような車検のステッカーがありました。


コーヴェアは小型車のサブコンパクトでしたが、今見ても小さく、そして異様に背が低いですね。


ご存知、リヤエンジン、アルミナム合金製の空冷水平対向6気筒エンジンを積んだコーヴェア、ヴォルクスワーゲンのビートルの対抗馬として将軍様が自信を持って、常識を破る新技術てんこ盛りで世に出した自信作でした。

その水平対向エンジン、特にリヤエンジンにしたのは当然、ビートルを意識していて、そのエンジン、クランクケースとシリンダヘッドがアルミナムで作られていたのですが、シェヴォレイはそれらを製造する為に、ニューヨーク州東北部、キャナダとの国境にごく近いマシーナと言う小さい村に建築しました。どうしてそんな秘境にエンジン部品工場を作ったかと言うと、すぐ近くにアルミナム製造大手のアルコア社 (ALCOA=Aluminum Company Of America)がフォンダリー(鋳物工場)を持っていたからです。マシーナはキャナダとの国境、セント・ローレンス川の辺りにあって、アルミナム製造には沢山の電力が必要とされ、セント・ローレンス川から水力発電でその電力を賄えたからでした。創業はなんと1902年、世界で最も古いアルミナム工場だそうです。そのアルコア工場からアルミナムをお隣のGMエンジン部品工場で作り、その部品を今度は西ニューヨーク州バッファローにあるトナワンダ・エンジン工場で組み上げ、デトロイトのウイローランのコーヴェア組み立て工場まで搬送していたのでした。

コーヴェアが廃盤になった後、GMマシーナのエンジン部品工場は、今度はこれまた新しく出たコンパクト車、ヴェイガに搭載される2,300ccエンジンのシリンダ・ブロックの製造に入ります。このエンジン、頭でっかちのシリンダヘッドは鋳鉄で、ブロックがスリーヴ無しのアルミナム製で、これがまた大問題にハッテンし、冷却水を飲みオーヴァーヒートで大失敗の元になったのです。




GMがヴォルクスワーゲンや他の小型輸入車打倒!で殴り込みをかけたコンパクト車。まあ、コーヴェアが失敗したのは他の理由でしたが。ヴェイガの大失敗も長い間人の記憶に残りました。


その悪評を覆そうと、将軍様は様々なキャンペインを展開します。その一つがコレ。真夏の加州デスヴァレーでヴェイガを3台、60日間ぶっ通しで走り続け、60,000マイル(97000キロ)を走破し、無故障を実証すると言う企画。なんとか成功した様子で、その間、一台当たり消費した冷却水がたったの236ccだったとかで。


でも当然、ヴェイガのブランド名の回復に至らず、車体を変えたシェヴォレイ・モンザにモデルチェンジします。モンザはマスタングIIと同様、日本でも一定の数が売れてみたいでしたね。


デスヴァレーも熱いですが、今年の日本も暑いようで、先月、太宰府で37℃を体験しましたが、以後はそれ以上暑いようで、今日はうんけー、明日ななかび。お盆もフル回転。

米国では3年間に1,500台しか売れず、大失敗だった英国ローヴァーのP6、V8エンジン。はい、エンジンはビュイックのアルミナム製V8小型なので大陸事情とはマッチしていると考えたのでしょうが。


ここまでアメリカナイズされると、一寸グロテスク?当時のシトロエンも同様でしたが。ラジエータグリル右前の箱はアイスラート(Icelert) と言って、外気温が一定以下に下がると、路面凍結警告として計器盤に警告灯が灯る装置。製造していたのはフィンドレイ・アーヴァインと言う会社で、主に気象観測の計器類を作る会社(現存)。

欧州版V8のP6ローヴァーは気化器が飛び出ているので、フッドに2山のバルジがあります。それが北米仕様となると、砂漠の熱さ対策、加えてエヤコンのコンデンサからの熱も加わって太宰府状態になるのを防ぐために、四つのお願いならず、三つのお願いで、フッドに3個の空気取り入れスクープが付けられました。中央のはエアクリーナに直接外気を導き、両脇のスクープはエンジンルーム内に外気を入れ冷ますのですが、この外側のスクープ、裏側に可動式の扉があり、夏はコチラと記されていて外気導入され、冬は反対側に回すと外気穴が閉ざされエンジンの暖気を促する仕掛けでした。ちあきなおみさん、知ってたかしら?

標準型P6のビュイックV6。総アルミナム製で極めて軽量。


北米仕様は中央にあるエアクリーナにどでかい長方形の穴を開けて、フッドスクープから直接外気を取り入れます。


これが両脇、左右のスクープの下にある可動弁。手で回して開けたり閉めたりします。


今日の一枚。曹洞宗両大本山ハワイ別院正法寺での盆ダンス。ハワイの盆ダンスは10月過ぎても続きます。今年は中秋節が遅いですし。
Posted at 2026/08/26 09:46:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「南キャリフォーニアの青い空 http://cvw.jp/b/1945280/49377313/」
何シテル?   10/22 17:41
I'm JetBoy. Nice to meet you. 主に1970年代、1980年代の米国車、米国の欧州車の話題です。 若い頃に、認定整備...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2026/10 >>

日 月 火 水 木 金 土
    123
456789 10
11121314151617
181920 21222324
25262728293031

愛車一覧

トヨタ プリウスPHV トヨタ プリウスPHV
税金控除。駐車代無料。充電免費。貧乏家族の頼り者。
トヨタ プリウス トヨタ プリウス
家に置いてある自動車、でも出稼ぎ生活なので殆ど使用していません。走行距離が11年で590 ...
プジョー 505 プジョー 505
矢張り安物ルノー車を毎日修理していると、”いつかはプジョー” と言う流れに溺れて、最後の ...
ルノー その他 ルノー その他
シカーゴで姉貴の乗っていたマズダRX-5 (コスモ) が珍しく動いていたので中古車屋に乗 ...
ヘルプ| 利用規約| サイトマップ
© LY Corporation