大正生まれの我が家の父上は、昔から ”格がある” と言う言葉が好きで、自動車でも ”格” が気になるらしく、会社のクラウン・デラックスはお気に入りでした。その点、”駄目なクルマ” と言えば必ず引き合いに出されたのが、何故かいすゞとスバルで、この2社だけは下男のくるま、様な扱い方で、日野やダイハツも如何な印象だったか聞いておきたかったです。
そのスバルですね、皮肉な事に1970年代前半、横浜に住んでいた母が急遽自動車が必要になって、親戚から譲ってもらったのがその、スバル。それに軽自動車。R-2の最後期型のデラックス。余程父上は乗りたがらないだろうと察するや、駅からの送迎などに行くと嬉々としてドアを開けて乗っていた様子でした。ある日朝起きてみると玄関の鈴が鳴ります。扉を開けてみると消防団の人が船に乗って来ていて、洪水ですと言います。ありひゃー、早速水没する前にスバルを丘の上まで持って行き、幸い水は早いうちに引き家は無事。翌日、母上は何処かにお出かけだそうで、着飾ってスバルで出発も、暫くして帰って来ました。その姿を見ると、ドレスの前、腰の辺りにズンと、赤い帯が入っています。どうやらスバルは車内に水漏れしてたらしく、床の赤い絨毯から色が滲み出て黒い安全ベルトに染み込んでいたらしく、その赤に染まった安全ベルトを締めたら、おべべに色が移った模様。母上はおかんむりで着替えて、安全ベルトは絞めず出て行きました。。。。
我が家のスバルは後期型、空冷のスーパーデラックス。燻銀色でした。
問題がこの赤色の絨毯。安全ベルトは自動巻取以前の代物で、使い終わったら床に置いていく物でした。これは前期型。
まあ我が家の恥ずかしい話はともかく、USAのスバルのはなしです。
ホンダと同様、富士重も最初に北米に持って来たのは二輪車、ラビット・スクーターでした。それが1957年。サンフランシスコにあるデストリビュータ、ラビット・モーターセールス・オブ・サンフランシスコと、増加する販売台数に応え、輸出部長の菊池氏を応援に出し、これも加州のサンデイエーゴにアメリカン・ラビット・コーポレーションが一応、富士重の子会社として設立され、小型の90ccスリフトキング、中型の150cc、S402とその豪華版402ツーリング、そしてスクータのキャデラックとして有名になった200ccで本格的なトークコンヴァータ式自動変速機のS601スーパーフローを販売していました。
アメリカン・ラビット・コーポレーションの住所、現在は酒屋になってます。創業時のアメホン(アメリカン・ホンダ)の建物と似ていますね。南加州特有の。
ラビットと言えば頭に浮かぶのが亡くなった小澤征爾さん。富士重にスポンサーになってもらって、ラビット・スクーターで欧州を回った体験が本になり、ぼくの音楽武者修行と言う本が出版されました。その後、有名になっても彼はスバル車にお乗りになっていましたねえ。
有名な高峰秀子さんがまたがる、パウエル・スクータそっくりの初期型ラビット。中島の爆撃機、銀河の尾輪を使ったと言う都市伝説っぽい話を今でも聞きますね。
因みにこれがその爆撃機、銀河。
ここに出てくるのがフィラデルフィア出身の実業家、マルコム・ブリックリン氏です。彼は北米自動車業界に於いては余りにも有名なお方で、起業、倒産を繰り返し業界の異端児として現在でもお元気な方です。
マルコム・ブリックリン氏(Malcolm Bricklin)。ご健在で今年87歳。
そのブリックリン氏、青年の頃から事業を立ち上げるのがお好きで、お父様が経営してらした金物屋をフランチャイズ形式で資金を募り、大規模なチェイン店網にする計画を始めたのですが、計画途中で資金繰りが上手くいかず倒産。
そのような事でめげないのが彼の特徴で、借金抱えたまま、次は何をしようかとある日、目に入った新聞記事に紹介されていたのが、動画が出るジュークボックス。これを全米中の食堂やパーラーへリースに出したらボロ儲けするぞと、製造元のイノチェンテイ、はい。イタリヤはミラーノまで出向き交渉を始めます。
イノチェンテイが作っていたCinebox。
ところがこのジュークボックス、シネ・ボックスと言います、問題は流す動画、当時は当然動画と言えばフィルムを映写機で映し出す方式と察しますが、そもそも北米用のフィルム動画を制作してくれる会社が未だ何処にもなかったんですね。これじゃハナシにならんと、帰る間際、イノチェンテイの構内を見学していると、傘下のランブレッタ社のモータースクータに出逢います。ランブレッタ社の担当は、いや、アメリカに何千台も送ったんだけどさっぱり売れなくて困っているのよと言うので、んじゃぼくがコンサルタントとして在庫を売ったらこれだけの報酬くれるかい?と冗談半分に高額をふっかけたら、イタリヤ側は、ああいいよ、と承諾したのです。ブリックリンさん、自宅に帰って昔の仲間などに当たると、このスクータ、売れるよとの事で、在庫の5,000台は瞬く間に完売になるどころか、伝手を伝ってニューヨーク市警察のパトロール用にと売り込みをかけそれが成功。その上、セントラルパークなどを警邏する宣伝が広がり、各地の警察署からも注文が入り、その後、ニューヨーク市警察がランブレッタ系のスクータを使うきっかけになったのでした。
そのランブレッタを売っていたブリックリン氏、売るだけより、旅行者にスクータを貸したらもっと儲かると、ランブレッタとヴェスパをフロリダなどで貸す事業を、これまた、フランチャイズ方式で始めます。しかし困った事に当時のスクータ、特にイタリヤ製は皆、手動変速で、いわゆるグリップ・チェンジでグリップを握りながひね回すと言う独特の操作法で、シロートの旅行者の間では結構事故を起こす人が多くブリックリン氏は悩むのですが、なら、貸す時に一緒に保険も付けて売ればもっと儲かると保険業まで傘下するのです。しかし当然ながら、この手動変速の問題を抱えている事に変わりはなく、模索していた時、ボストンにフジ・ラビットと言う、自動変速機式のスクータを450台貸していると言う人を発見、ブリックリン氏はボストンまですっ飛んで行きます。
そしてその御人と意気投合、共同事業として、ラビットを貸す契約を交わすだけでなく、ラビットの輸入元として事業を始めようとします。所が群馬の富士重にコレコレしかじか、私が新しい輸入元でもっとラビットを送ってくださいと電報を打てば、富士重の返答は、アナタ誰、何を言っているんですか?富士重はもうラビットの生産を打ち切り施設をイズラエルに輸出する(コレ、本当?)ため工場の解体を始めているんですよ?大体我が社は二輪から四輪への転換期で大忙しなんですからと言われ、ブリックリン氏、アキさみよ〜で、急いで交渉しに群馬まで飛びます。(同時期に後に大統領になるリチャード・ニクソン氏も弁護士としてスチュードベーカーを救済する為に日本の日産自動車へ行ってくるのが面白い)それが1967年の後半ごろですか。群馬に突如現れたこの男に当惑しながらも富士重の重鎮は気の毒に思ったらしく、アンタ、そのボストンのラビット貸し屋に騙されたね、お気の毒と、帰り際、工場見学をしている最、ブリックリン氏、スバル1000に遭遇します。これ、北米でも売れそうと直感し、なんとか連邦安全基準法に改善できないかと交渉するんですが、富士重はそれだけの余裕が無かったのか、断られます。次に見たのが、そう、あのスバル360軽自動車。これなら安く仕入れるので単価が高いし、あとで調査すれば、車重が1,000パウンド以下の車両は当時なら構内車として扱われ安全基準などに合わせなくても売れる事が判明。嫌がる富士重を説得して、4年契約、最初の年は年間2,000台、翌年は3,000台と1971年までの供給契約に署名をします。
ブリックリン氏は帰国するなり、純アメリカ会社、スバル・オブ・アメリカ社(SOA)を設立。その際選んだパートナーは後にミスタースバルと呼ばれたハーヴェイ・ラム氏(Harvey H. Lamm)。莫大な資金が必要でしたが、ブリックリン氏はSOA社の株式公開して多大なる資金調達を達成します。それに加えて再度、フランチャイズでのデーラーを募集。これが一応、北米スバル自動車、最初の事業です。
なんと、ヤング・シリーズも。
所がこの豆自動車、1968年からの発売初っ端から販売不振の上、1969年4月号の消費者向け雑誌、コンシューマーリポートに危険で全くお勧めできないとの記事を書かれ、事実上360とサンバーのヴァン・トラックが殆ど売れなくなります。
コレがスバル360北米での息の根を止めた、コンシューマーリポート誌、1969年4月号。
バンパの高さ、デフロスタの性能から全て叩かれ散々な目に。
非営利団体が運営するコンシューマー・リポートは今でも製造側からは遅られる、辛口の文字通り、消費者のための機構。
コンシューマーリポートに息を止められた自動車は何もスバルだけではなく、いすゞのトウルーパー、鈴木サムライなどが有名です。
ブリックリン氏はそれでも、富士重にもっと売れそうな、ほれ、あのスバル1000を売ってくれないかと再度悲願し、1969年の遅くから、スバルFF−1、後日にSubaru・Star、最終型はGシリーズとして、SOAが輸入・販売を始めます。
1969年遅くから、1970年式として登場したスバルFF-1、暫くするとスバル・スターと名称を変更。
1971年、後期型はGシリーズ。
しかしあれだけ調達した資金も浪費やらで泡に消え、1968年と1969年に想定10,000台ほど輸入された360は半分くらいの在庫を抱えてブリックリン氏、悩みます。
でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。
売れ残った360、ブリックリン氏は、後にメイヤーズ・マンクスと言うVWベースのデユーン・バギーで一躍有名になった、ブルース・メイヤース氏に託し、車体を取り払うか、切り払ってゴーカートを制作。
マンクス氏と有名なデユーンバギー。
ブリックリン氏はその他にも売れ残りの360を改装する業者と契約したらしく、殆どは入金されなかった模様でした。
そのゴーカートをショッピングセンタの駐車場などでサーキットを作り走らせる計画を立てFast Track社と名付け、スバル360をベースにしたゴーカートを作ります。そしてゴーカートだけでは足りず、それ用のレイジャー施設、ホテルやらも併立したプロジェクトに発展させ、当然フランチャイズ方式で売り出します。
そのFast Track用に改装されたスバル360改。コレはスバル360ヨットYachtと呼ばれた型。
後ろに小さく、”SUBARU 360” と記されています。
結局このFast Track計画も頓挫して、フランチャイズ料を払ったデーラーから訴訟が起き、ブリックリン氏、にっちもさっちも行かなくなります。
でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。
丁度第一次石油危機の前夜、毎月販売台数を塗り替える小型車、VW、ダットサン、トヨータなどを見て、可能性ありと見たある投資者が現れます。それがニューヨーク州ビンガムトンの富豪、バートン ”バッド” コフマン氏 (Burton ”Bud" Koffman) でした。そして1971年、コフマン氏がSOAの株を36%取得し、ブリックリン氏が去ることを条件にSOAは生き残ります。そして残されたハーヴェイ・ラム氏が腕を奮い、北米スバル事業を大成功させる事になります。
事実上1970年と1971年しか売られなかったと見られるFF−1・Gは手元の資料で合計、総計販売台数が16,922台。レオーネ系が登場する1972年からは一年で販売数が一挙に23,114台に跳ね上がり、以後、右肩上がりが続きます。
1972年、陸上げのスバル車とヴォルヴォ。
初期型のステーションワゴンはレオーネも1000・FF–1も、後部が、バンパ下部からバカっと上下に開くんですよね。数年の内、普通のバンパ上からの一枚はねあげ式になっちゃいましたけど。燃料タンクの位置が変わる前は、荷床が恐ろしく低かったのが特徴でした。
スバル・オブ・アメリカを去る条件として様々な恩恵を受け取る事になるブリックリン氏。その資金を元に、彼はキャナダで安全スポーツカーと謳われた自動車、その名も ”ブリックリン SV1” の開発・製造・販売をキャナダ政府の援助と共に始めます。1974年から1976年まで、合計3,000程製造された、このデローリアンに似た自動車も様々な問題を抱え、キャナダ政府の援助が途絶え、莫大な負債を抱えて潰れます。
でも彼の事です。このぐらいの話ではへこたれません。笑。
次は、1982年にアメリカが州国で輸入販売を終了したフィアット、その124スパイダーとX1/9をブリックリン氏の立ち上げた新会社、International Automobile Importers(通称IAI) で輸入販売とする物でした。124スパイダはその製造者の名前から、”ピニンファリーナ・スパイダー”、もう一つは "バートーンX1/9" と命名。 ブリックリン氏は独自に両者、色々な改良を注ぎ込み、124は製造終了の1985年まで、X1/9は1987年まで売り続けます。
このフィアット車の代理販売終了時点で、ブリックリン氏は48歳。
でも彼の事です。このぐらいの話では足りません。
次に手を出したのが、趙廉価車で一躍有名になった、今は消滅したユーゴスラヴィア国はザスタヴァ社製のユーゴYugo。
米国ユーゴはまた共産党の崩落、殺人事件などが絡んで興味深い話になるのでまた、次回でと。。。。
後書:
ぼくが16歳の時、運転免許証を取りに実地試験に持ち込んだのもスバル車、コノ借りてきた2扉廉価版は、操舵が非常に重かったのを今でも覚えています。
1980年代後半、両親がウイスコンシン州に移る際自動車が欲しいと言うので買ってきたのが、当時、スバル・ロイヤールと言われたレオーネ。旦那仕様で自動変速常時四輪駆動に過給機付き。此奴を運転して大陸横断、キャナダで長い間使っていました。この頃になるとスバルされども、”格” は余り気にならなかったようでした。
スバル1000とFF–1独自の冷却方式。ラジエータ・ファンが無く、サーモスタットが開くと小さな熱交換器(事実上のヒーターコア)で冷却し、温度が上昇すると中央の大きな熱交換器で冷まし、それ以上冷却温度が上がると、小さな熱交換器に付いている冷却ファンが自動的に周り、排熱気はフェンダー内に捨てて、室内暖房が必要な際はその排熱気を室内に導く方式。なので、1000等はスタンダード仕様でも強力ヒーターが標準装備です。と記されているし、自分もそう信じていました。ですが。。
どうやら2ドアセダン・スタンダードにはシングル・ラジエータ仕様車もあり、その際だけに限ってヒーターがオプションになるそうで。シングル・ラジエータのFF−1とは、一度拝んでみたい物です。
私をスキーに連れて行って。
序でに私も連れて行って。暖房効く水冷かしら?
今日のオマケは雷鳥レックス。
