もう6月です。ブログ投稿サボって恐縮です。ここ数ヶ月、色々ありまして、引退したら毎日が退屈で再度、余った時間で何かのプロジェクトでも始めようかと思ひきや、全く正反対で暇どころか。何もしないのに毎日があっという間に過ぎていく毎日。焦ります。
今日は日産サニーからの話題を。
私事で恐縮ですが、何十年前に亡くなったぼくの叔父は長い間日産自動車に勤めていて、欧州日産の立ち上げの1人で、PL410を日本から持ち込んで長い間、ベルジャムに住んでいました。ウチの先祖のお墓は東京・石切橋の近くにあり、お墓参りに行くたびに、自分は未だ日産自動車を買った事が無いのあの世の叔父に謝るのですが、94歳になる叔母が生きている内に、次期の自動車は日産製の自動車にしたい所であります。。。
以前に何回か書いたと思いますが、アメリカ合衆国に日産サニーが来たのはモデルイヤー1970年。初期型はお隣のキャナダでは1969年と1970年初期には買えましたが、米国日産、当時、一番小さな乗用車は510ブルーバードでした。大ヒットした510に比べ、ダットサン1200(サニー)は2扉セダーンとクープだけの車種で自動変速機も用意されず、殆ど見かけなかったと言うか、宣伝自体も余り本腰を入れてなかった様な気がします。あの頃、サブコムパクト、特に輸入車の王様と言えばヴォルクスワーゲンが絶大的なシェアを誇っていて、いくらトヨータ・日産と言う今では世界トップの自動車製造会社でも、1970年辺りは、VWに比べると微々たるもので、日本製の自動車なんぞ疑わしいと言う時代でした。
日本では隣のクルマが小さく見えるそうで、いっときカローラを抜いていたそうですね。上行思考をくすぐる優れた宣伝文句だと思います。
そのダットサン1200、USAでは1970年、1971年と1972年だけ細々と売られた次に、1973年は欠番。1974年に颯爽と登場したのがB-210です。1200の時とは打って変わって宣伝も大々的に行われ、石油危機と言う時代背景にも押され、この燃費の良く壊れない小型車は、30カローラと共に日本製自動車の普及が恐ろしい勢いで始まりました。
当時、日産車は全て名称がぶっきらぼうな数字だけで、他にメルセデス・ベンツも全ての車種名が数字だけなので、ちょっと似てましたね。数字だけの名称は感情が湧かないですが、オラのくるまは210さ〜、いや、ぼくは610だ!と、車種の階級を比べるのに直感的に判別できたものでした。当然数字が大きければ大きい程、格が上になるので(一般的にですが。。。)
最初の年が1974年。既に衝撃吸収バンパの対策を考えていて、ショックアブソーバー付きのデカいのが最初から装備されてます。但し無骨なメッキもない工業的なバンパですね。
B210は2扉クープ型に結構人気がありまして、現在でも残っているB210はセダーン型よりこのクープ型の方が多い感じです。初年度は右端尾灯の上のエンブレムがまだ無いです。
バンパ細部。上部の隙間を埋めるパネルが浮き上がっています。
翌年、1975年型。色々対策・改良がなされていて、依然としてメッキもされてないバンパですが、ゴムの保護ブロックが付いています。サンフランシスコの金門橋、サウサリト方向の写真。
1975年型の後部。エンブレムが追加されバンパ下部に黒っぽい覆いが付きました。
1976年にはやっとメッキのバンパ付きました。このバンパは1976年だけの物で、取り付け用のボルト頭が上部に沢山見える特徴があります。
1976年の後ろ姿。後方パネルが黒色になり、バンパ上部の多数のリヴェット頭が特徴的です。
1975年から始まった趙廉価車種、その名もハニー・ビー(ミツバチ)極限までの装備を省き、軽量を武器に良好な燃費と安さを武器に、一定の数が出た、ダットサン好きでは結構有名な車種です。黒タイヤ、犬の器(ドッグ・デイッシュ)の小さなハブキャップ、トランク床の簡易床張り、傾斜調整できない前座席、絨毯が無く塩化ヴァイナルの薄いライナを引いただけの床。前扉肘掛けの排除。A14型エンジンは排気ガス還元EGRと負荷2次空気供給で触媒を使わず排気ガス規制に適合。なので有鉛ギャソリンを使えるお得な使い勝手。基本的にはこの様な装備を省かれた状態で輸入され、かわゆいステッカーやストライプはデーラー作業で付けられたそうです。黄色しかなかったと誤解されていますが、実際は3色くらいの選択がありました。
同じミツバチでも、モーパー系のミツバチは特別高性能。
この頃か、B210は燃費特別車を始めて、燃費の良さを大々的に宣伝に使い始めました。このキャンペインはサニーが前輪駆動になってからも続きます。当時は環境保護庁の燃費測定のやり方が現在とは違ってたとは言え、高速計測で1ギャロンで50マイルも走るとは、宣伝文句としては今でも衝撃的です。
ニフテイー・フィフテイー。ニフテイーとは、カッコいいとかバッチリだね、と言う意味です。語呂合わせ。でも1ギャロンで50マイルも走るとは、今のハイブリッドも真っ青の数値です。因みにこのエンジン、同じA14でもシリンダヘッドが普通のとは異なっていて、吸気ポートの形状が工夫されていて混合気が渦流に燃焼室に流れ込み高性能の点火装置と5段変速機とも相まって燃費向上を得ています。
1977年と1978年がB210最後の年。ラジエータ・グリルが変更され、よく見るとメッキバンパ、取り付けボルト・リヴェットの数も減ってます。
そして1979年からは新型に移行するのですが、名称は正式のB310型になったのに、北米の名称は旧型の”B”を落として210として出発。これから日産の自動車名称の混乱が始まります。。。。
4扉と2扉セダーン、2扉クープとステーションワゴン。
ステーションワゴンは後窓が傾斜した、後輪コイルバネの乗用車仕様。
超経済車仕様も健在です。その名もMPG。Miles Per Gallon。
廉価版。
ここで面白い事は、USAでは一度もサニーと言う名称を使った事が無いのですが、キャナダでは最廉価版のモデル名をサニーと呼んだ事が数年ありました。
B210のハニー・ビーに近い装備ですね。でもいたく地味。
210になった(本当はB310の)サニー達。これはキャナダの品揃え。
310が210と呼ばれるようになった後、310の名称はちゃっかり他の車種に使い回されてました。それがF10と呼ばれた日産チェリーの初代パルサーです。
パルサー・310は1979年から1982年までの短命でしたが、サニーが前輪駆動になり、セントラとして登場したのをきっかけに廃止になりました。よって殆ど残ってませんね。でも310より奇怪なのは初代のチェリー、F10でしょう。F10は1976年から北米に投入されましたが、そのユニークな外観から、今でも世界で一番醜い外観の自動車として知られています。ぼくはそれほどまで酷いとは思わないんですが。。。USAには2扉クープと2扉ステーションワゴンだけが。キャナダではそれプラス、廉価版として2扉セダーンが選べました。F10も310も生涯、自動変速きを選べなかったのも販売普及に至らなかったと言うか、その頃始まった、会社別の平均燃費基準に合わせるためにだけ持ってきていた、と言う感じが強いでしたね。
1970年代、日産自動車はブルーバード510が大好評で、その後釜を揃えるのに苦労したみたいでした。510の次世代型は610と言う名前が付き、1973年から発売です。
510の最終型、1972年。
翌年の1973年に移行したのが610。前期型はバンパもまだ小さく、フェンダーミラーの取り付け位置を塞ぐ飾りが付いていました。ぼくらの時代ではブルーバードUですね。
1975年、サイドマーカーがフェンダー先端に埋め込まれたり、B210と同じく、バンパが無塗装のごっつい奴に変わったりと進化しています。
他国で販売された610、または160Bとも随分違いました。
610の後は当然、710になると思われがちですが、1974年に登場した710は、数字上では610の上を行きますが、実際は一回り小さい、日本でヴァイオレットと呼ばれた車で、北米では4扉・2扉セダーン、2扉ハードトップとステーションワゴンの品揃え。1974年だけはハードトップの前部バンパが本国版よろしく、初代セリカみたいにU字型になってました。
710の前部。610とそっくりです。
そして1978年の710のモデルチェンジ後は810にならず、なんとあの510と昔のブルーバードの名称に戻るのですから、混乱します。
この第二世代の510、車種は多く2扉4扉のセダーン、3扉のハッチバック、ステーションワゴンと後に5扉のハッチバックも用意されたのに販売台数は芳しくなく、今では殆どの人に記憶が残ってないくらいの車種でした。
んで、北米日産で一番の大型車だったダットサン610は1976年まで続き、その後継車が810になります。810は610と違い6気筒で遥かに豪華で数年後にトヨータから出されたクレシーダの競争相手みたいな感じでした。最初は4扉セダーンとステーションワゴンのみ。いずれも2,400ccで、有名な日産のスポーツカー、Zカーと同じ心臓、同じ後輪独立懸架(ステーションワゴンは後輪固定軸と板バネ)を持った高級乗用車と言うのが謳い文句です。
1979年に角目4燈に改良された際、ハードトップも加わります。今となっては特にこのハードトップは殆ど生存していないでしょう。。。
ツートーン塗装。車体色に塗られたホイールキャップに注目。これがブルーバードとは。信じ難いですなああ。
んでこの810は1977年から1981年までしぶとくキャタログには残るのですが、次に来たのが当然910、と思いきや。910型ブルーバードは引き続き810と呼ばれる事に。こちらもステーションワゴンの後輪は固定軸。
時を同じくして、ダットサンの名称の廃止が始まったので、その頃の日産車はBY NISSAN と言うへんちくりんな表記になりました。
その910、じゃなかった、810の豪華版のサブネームが後に繋がる ”マキシマ”。810と呼ばれたのは最初の2年間程度で、それからはマキシマと呼ばれる様になったのです。
ダットサンから日産に名称が移行したこの頃から、車名は3桁の数字を辞め、セントラやらスタンザやら普通の名前になったので、これ移行混乱は無くなりました。
しかし他社では混乱が未だ続いたりしていて。。例えば倒産の危機から奇跡的に回復したクライスラー社。会社を救ったKカーの車台を伸ばしたり、屋根を切ったりあれこれした種類が出回る1980年代で、クライスラーはEクラスと言う名称を2年だけ使ったことがありました。これ、明らかにメルセデスと同じですよね。法的に問題にならなかったのが不思議です。
ダッジ400。まあ、メルセデスには400クラスと言う車種は無かったですが。。
600はちょっとマズいんじゃないかと。まあメルセデスの600は1981年でしたから。
やはり600と言えばこちらの方が頭に浮かびます。皮肉な事に、後でクライスラーはそのメルセデス社と合併するのですから、歴史は面白いものです。
変な話で、トヨータも1980年に最初の前輪駆動車、ターセルを持ってきた際、名前はカローラ・ターセルでサブネーム的な扱いでした。これは1983年まで続きます。1984年にモデルチェンジをした際、始めてカローラから独立した車種になります。
その事、百恵ちゃん、知ってたかしら。
同じ時期に、トヨータはKP60のスターレットを1981年、1982年と1983年に輸入した過去がありました。これも1984年からモデルチェンジしたターセルの導入でスターレットも消えたと思うのですが、不思議な話で、整備書やカラーチャートは1984年型のスターレットと記されてのがあるので、売れ残りがあったのか、何かの理由で売らなかったけど一応形式上には残さなかった理由があったのか、探って見たいところです。1,300ccの手動5段変速機。自動変速機は注文装備でもありませんでした。日産のF10・310、さらに数年だけ入っていた初代のフォード・フィエスタ、全て自動変速機が用意されていませんでした。その点、ホンダ・シヴィックは完全自動変速ではありませんでしたが、ホンダマチックと言う、クラッチペダルの無い変速機を選べられたのが特別でした。
当然CAFE法律、販売総平均燃費値を満たす為故に輸入されたんですね。売られる自動車の写真より、燃費の数字の方が大きく記された広告。
事実的の最終年、1983年型は傾斜した車体前部、バンパまで開くテールゲート、それに燃料噴射になった1,300ccの4KEエンジンと、結構真剣な改良がなされてました。この吸気管もメッキで魅力的です。
このKP61スターレットはぼくの好きな自動車の一つです。第一名前がジョートー。スターレット、小さい星とはね。操縦性がごく素直で扱いやすく、かといってがんじゅうな走りで、小気味よい変速機、トヨータの常で廉価車にはクッションの厚い素晴らしい座席が奢られたりと。ただしこの1983年角目の後期型は、標準変速機が4段変速に”格下げ”されたり(加州排気ガス規制が理由だそうです、注文装備で5段変速も選べた)後席の窓がはめ殺しになったり、防眩ミラーが付いていなかったりと、細かい所で”チープ”になってました。塗装は矢張り、広告にも多用されたイメージカラーの赤色がいいですね。人の話では、北米でのスターレットは3年間で25,000台程度が売られたとか。現在トヨータ・キャムリーが1ヶ月の販売台数です。
名前と言えば、以前三菱自動車がミニカのサブネームで、アミと命名したのにはぶったまげました。シトロエン・アミと同じ名前にしただけでなく、シトロエン・アミとのロゴまで同じにしてたからです。三菱がどこから発案したかは明白でしたから。。
何故かハンバーガー(ハンバーグ?)のあだ名の菅原洋一さん、あっちへ旅立っちゃいましたね。セドリーっく、セドリーっく、セドリーっく。このセドリックの2扉ハードトップ、子供ながら当時感心したのは、扉内側、後方にも扉を開けるレヴァーが付いていて後席からの乗り降りをし易くした点ですね。日本の自動車で初めてだったんじゃ無いかと。はっさみよ〜。
冒頭の顔は米国日産の大ボスだった、片山豊氏を演ずる、デール・イシモト氏(没2004年)これは1996年から始まった米国日産の200億ドルを掛けた宣伝キャンペーンで、イシモト氏が演ずる、子犬を抱える片山氏があちこちに現れて、”人生は旅じゃ、道中は樂しまなくちゃ” をスローガンに展開するキャンペーンで、まだ米国日産が元気だった頃。有名な宣伝でした。因みに日系2世のイシモト氏、彼の奥さんだった女優のタカ・ミイコ(高美衣子、没2023年)さんは三船敏郎や黒澤明の通訳だったそうです。