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JetBoyのブログ一覧

2026年06月03日 イイね!

ダットサンの車種・名称 

ダットサンの車種・名称 











もう6月です。ブログ投稿サボって恐縮です。ここ数ヶ月、色々ありまして、引退したら毎日が退屈で再度、余った時間で何かのプロジェクトでも始めようかと思ひきや、全く正反対で暇どころか。何もしないのに毎日があっという間に過ぎていく毎日。焦ります。

今日は日産サニーからの話題を。

私事で恐縮ですが、何十年前に亡くなったぼくの叔父は長い間日産自動車に勤めていて、欧州日産の立ち上げの1人で、PL410を日本から持ち込んで長い間、ベルジャムに住んでいました。ウチの先祖のお墓は東京・石切橋の近くにあり、お墓参りに行くたびに、自分は未だ日産自動車を買った事が無いのあの世の叔父に謝るのですが、94歳になる叔母が生きている内に、次期の自動車は日産製の自動車にしたい所であります。。。

以前に何回か書いたと思いますが、アメリカ合衆国に日産サニーが来たのはモデルイヤー1970年。初期型はお隣のキャナダでは1969年と1970年初期には買えましたが、米国日産、当時、一番小さな乗用車は510ブルーバードでした。大ヒットした510に比べ、ダットサン1200(サニー)は2扉セダーンとクープだけの車種で自動変速機も用意されず、殆ど見かけなかったと言うか、宣伝自体も余り本腰を入れてなかった様な気がします。あの頃、サブコムパクト、特に輸入車の王様と言えばヴォルクスワーゲンが絶大的なシェアを誇っていて、いくらトヨータ・日産と言う今では世界トップの自動車製造会社でも、1970年辺りは、VWに比べると微々たるもので、日本製の自動車なんぞ疑わしいと言う時代でした。





日本では隣のクルマが小さく見えるそうで、いっときカローラを抜いていたそうですね。上行思考をくすぐる優れた宣伝文句だと思います。


そのダットサン1200、USAでは1970年、1971年と1972年だけ細々と売られた次に、1973年は欠番。1974年に颯爽と登場したのがB-210です。1200の時とは打って変わって宣伝も大々的に行われ、石油危機と言う時代背景にも押され、この燃費の良く壊れない小型車は、30カローラと共に日本製自動車の普及が恐ろしい勢いで始まりました。

当時、日産車は全て名称がぶっきらぼうな数字だけで、他にメルセデス・ベンツも全ての車種名が数字だけなので、ちょっと似てましたね。数字だけの名称は感情が湧かないですが、オラのくるまは210さ〜、いや、ぼくは610だ!と、車種の階級を比べるのに直感的に判別できたものでした。当然数字が大きければ大きい程、格が上になるので(一般的にですが。。。)

最初の年が1974年。既に衝撃吸収バンパの対策を考えていて、ショックアブソーバー付きのデカいのが最初から装備されてます。但し無骨なメッキもない工業的なバンパですね。


B210は2扉クープ型に結構人気がありまして、現在でも残っているB210はセダーン型よりこのクープ型の方が多い感じです。初年度は右端尾灯の上のエンブレムがまだ無いです。


バンパ細部。上部の隙間を埋めるパネルが浮き上がっています。

翌年、1975年型。色々対策・改良がなされていて、依然としてメッキもされてないバンパですが、ゴムの保護ブロックが付いています。サンフランシスコの金門橋、サウサリト方向の写真。


1975年型の後部。エンブレムが追加されバンパ下部に黒っぽい覆いが付きました。


1976年にはやっとメッキのバンパ付きました。このバンパは1976年だけの物で、取り付け用のボルト頭が上部に沢山見える特徴があります。


1976年の後ろ姿。後方パネルが黒色になり、バンパ上部の多数のリヴェット頭が特徴的です。


1975年から始まった趙廉価車種、その名もハニー・ビー(ミツバチ)極限までの装備を省き、軽量を武器に良好な燃費と安さを武器に、一定の数が出た、ダットサン好きでは結構有名な車種です。黒タイヤ、犬の器(ドッグ・デイッシュ)の小さなハブキャップ、トランク床の簡易床張り、傾斜調整できない前座席、絨毯が無く塩化ヴァイナルの薄いライナを引いただけの床。前扉肘掛けの排除。A14型エンジンは排気ガス還元EGRと負荷2次空気供給で触媒を使わず排気ガス規制に適合。なので有鉛ギャソリンを使えるお得な使い勝手。基本的にはこの様な装備を省かれた状態で輸入され、かわゆいステッカーやストライプはデーラー作業で付けられたそうです。黄色しかなかったと誤解されていますが、実際は3色くらいの選択がありました。


同じミツバチでも、モーパー系のミツバチは特別高性能。


この頃か、B210は燃費特別車を始めて、燃費の良さを大々的に宣伝に使い始めました。このキャンペインはサニーが前輪駆動になってからも続きます。当時は環境保護庁の燃費測定のやり方が現在とは違ってたとは言え、高速計測で1ギャロンで50マイルも走るとは、宣伝文句としては今でも衝撃的です。

ニフテイー・フィフテイー。ニフテイーとは、カッコいいとかバッチリだね、と言う意味です。語呂合わせ。でも1ギャロンで50マイルも走るとは、今のハイブリッドも真っ青の数値です。因みにこのエンジン、同じA14でもシリンダヘッドが普通のとは異なっていて、吸気ポートの形状が工夫されていて混合気が渦流に燃焼室に流れ込み高性能の点火装置と5段変速機とも相まって燃費向上を得ています。


1977年と1978年がB210最後の年。ラジエータ・グリルが変更され、よく見るとメッキバンパ、取り付けボルト・リヴェットの数も減ってます。


そして1979年からは新型に移行するのですが、名称は正式のB310型になったのに、北米の名称は旧型の”B”を落として210として出発。これから日産の自動車名称の混乱が始まります。。。。

4扉と2扉セダーン、2扉クープとステーションワゴン。


ステーションワゴンは後窓が傾斜した、後輪コイルバネの乗用車仕様。


超経済車仕様も健在です。その名もMPG。Miles Per Gallon。


廉価版。


ここで面白い事は、USAでは一度もサニーと言う名称を使った事が無いのですが、キャナダでは最廉価版のモデル名をサニーと呼んだ事が数年ありました。


B210のハニー・ビーに近い装備ですね。でもいたく地味。


210になった(本当はB310の)サニー達。これはキャナダの品揃え。


310が210と呼ばれるようになった後、310の名称はちゃっかり他の車種に使い回されてました。それがF10と呼ばれた日産チェリーの初代パルサーです。


パルサー・310は1979年から1982年までの短命でしたが、サニーが前輪駆動になり、セントラとして登場したのをきっかけに廃止になりました。よって殆ど残ってませんね。でも310より奇怪なのは初代のチェリー、F10でしょう。F10は1976年から北米に投入されましたが、そのユニークな外観から、今でも世界で一番醜い外観の自動車として知られています。ぼくはそれほどまで酷いとは思わないんですが。。。USAには2扉クープと2扉ステーションワゴンだけが。キャナダではそれプラス、廉価版として2扉セダーンが選べました。F10も310も生涯、自動変速きを選べなかったのも販売普及に至らなかったと言うか、その頃始まった、会社別の平均燃費基準に合わせるためにだけ持ってきていた、と言う感じが強いでしたね。




1970年代、日産自動車はブルーバード510が大好評で、その後釜を揃えるのに苦労したみたいでした。510の次世代型は610と言う名前が付き、1973年から発売です。

510の最終型、1972年。


翌年の1973年に移行したのが610。前期型はバンパもまだ小さく、フェンダーミラーの取り付け位置を塞ぐ飾りが付いていました。ぼくらの時代ではブルーバードUですね。




1975年、サイドマーカーがフェンダー先端に埋め込まれたり、B210と同じく、バンパが無塗装のごっつい奴に変わったりと進化しています。


他国で販売された610、または160Bとも随分違いました。


610の後は当然、710になると思われがちですが、1974年に登場した710は、数字上では610の上を行きますが、実際は一回り小さい、日本でヴァイオレットと呼ばれた車で、北米では4扉・2扉セダーン、2扉ハードトップとステーションワゴンの品揃え。1974年だけはハードトップの前部バンパが本国版よろしく、初代セリカみたいにU字型になってました。








710の前部。610とそっくりです。


そして1978年の710のモデルチェンジ後は810にならず、なんとあの510と昔のブルーバードの名称に戻るのですから、混乱します。




この第二世代の510、車種は多く2扉4扉のセダーン、3扉のハッチバック、ステーションワゴンと後に5扉のハッチバックも用意されたのに販売台数は芳しくなく、今では殆どの人に記憶が残ってないくらいの車種でした。


んで、北米日産で一番の大型車だったダットサン610は1976年まで続き、その後継車が810になります。810は610と違い6気筒で遥かに豪華で数年後にトヨータから出されたクレシーダの競争相手みたいな感じでした。最初は4扉セダーンとステーションワゴンのみ。いずれも2,400ccで、有名な日産のスポーツカー、Zカーと同じ心臓、同じ後輪独立懸架(ステーションワゴンは後輪固定軸と板バネ)を持った高級乗用車と言うのが謳い文句です。


1979年に角目4燈に改良された際、ハードトップも加わります。今となっては特にこのハードトップは殆ど生存していないでしょう。。。


ツートーン塗装。車体色に塗られたホイールキャップに注目。これがブルーバードとは。信じ難いですなああ。




んでこの810は1977年から1981年までしぶとくキャタログには残るのですが、次に来たのが当然910、と思いきや。910型ブルーバードは引き続き810と呼ばれる事に。こちらもステーションワゴンの後輪は固定軸。


時を同じくして、ダットサンの名称の廃止が始まったので、その頃の日産車はBY NISSAN と言うへんちくりんな表記になりました。


その910、じゃなかった、810の豪華版のサブネームが後に繋がる ”マキシマ”。810と呼ばれたのは最初の2年間程度で、それからはマキシマと呼ばれる様になったのです。


ダットサンから日産に名称が移行したこの頃から、車名は3桁の数字を辞め、セントラやらスタンザやら普通の名前になったので、これ移行混乱は無くなりました。

しかし他社では混乱が未だ続いたりしていて。。例えば倒産の危機から奇跡的に回復したクライスラー社。会社を救ったKカーの車台を伸ばしたり、屋根を切ったりあれこれした種類が出回る1980年代で、クライスラーはEクラスと言う名称を2年だけ使ったことがありました。これ、明らかにメルセデスと同じですよね。法的に問題にならなかったのが不思議です。


ダッジ400。まあ、メルセデスには400クラスと言う車種は無かったですが。。


600はちょっとマズいんじゃないかと。まあメルセデスの600は1981年でしたから。


やはり600と言えばこちらの方が頭に浮かびます。皮肉な事に、後でクライスラーはそのメルセデス社と合併するのですから、歴史は面白いものです。


変な話で、トヨータも1980年に最初の前輪駆動車、ターセルを持ってきた際、名前はカローラ・ターセルでサブネーム的な扱いでした。これは1983年まで続きます。1984年にモデルチェンジをした際、始めてカローラから独立した車種になります。


その事、百恵ちゃん、知ってたかしら。


同じ時期に、トヨータはKP60のスターレットを1981年、1982年と1983年に輸入した過去がありました。これも1984年からモデルチェンジしたターセルの導入でスターレットも消えたと思うのですが、不思議な話で、整備書やカラーチャートは1984年型のスターレットと記されてのがあるので、売れ残りがあったのか、何かの理由で売らなかったけど一応形式上には残さなかった理由があったのか、探って見たいところです。1,300ccの手動5段変速機。自動変速機は注文装備でもありませんでした。日産のF10・310、さらに数年だけ入っていた初代のフォード・フィエスタ、全て自動変速機が用意されていませんでした。その点、ホンダ・シヴィックは完全自動変速ではありませんでしたが、ホンダマチックと言う、クラッチペダルの無い変速機を選べられたのが特別でした。

当然CAFE法律、販売総平均燃費値を満たす為故に輸入されたんですね。売られる自動車の写真より、燃費の数字の方が大きく記された広告。


事実的の最終年、1983年型は傾斜した車体前部、バンパまで開くテールゲート、それに燃料噴射になった1,300ccの4KEエンジンと、結構真剣な改良がなされてました。この吸気管もメッキで魅力的です。


このKP61スターレットはぼくの好きな自動車の一つです。第一名前がジョートー。スターレット、小さい星とはね。操縦性がごく素直で扱いやすく、かといってがんじゅうな走りで、小気味よい変速機、トヨータの常で廉価車にはクッションの厚い素晴らしい座席が奢られたりと。ただしこの1983年角目の後期型は、標準変速機が4段変速に”格下げ”されたり(加州排気ガス規制が理由だそうです、注文装備で5段変速も選べた)後席の窓がはめ殺しになったり、防眩ミラーが付いていなかったりと、細かい所で”チープ”になってました。塗装は矢張り、広告にも多用されたイメージカラーの赤色がいいですね。人の話では、北米でのスターレットは3年間で25,000台程度が売られたとか。現在トヨータ・キャムリーが1ヶ月の販売台数です。


名前と言えば、以前三菱自動車がミニカのサブネームで、アミと命名したのにはぶったまげました。シトロエン・アミと同じ名前にしただけでなく、シトロエン・アミとのロゴまで同じにしてたからです。三菱がどこから発案したかは明白でしたから。。



何故かハンバーガー(ハンバーグ?)のあだ名の菅原洋一さん、あっちへ旅立っちゃいましたね。セドリーっく、セドリーっく、セドリーっく。このセドリックの2扉ハードトップ、子供ながら当時感心したのは、扉内側、後方にも扉を開けるレヴァーが付いていて後席からの乗り降りをし易くした点ですね。日本の自動車で初めてだったんじゃ無いかと。はっさみよ〜。





冒頭の顔は米国日産の大ボスだった、片山豊氏を演ずる、デール・イシモト氏(没2004年)これは1996年から始まった米国日産の200億ドルを掛けた宣伝キャンペーンで、イシモト氏が演ずる、子犬を抱える片山氏があちこちに現れて、”人生は旅じゃ、道中は樂しまなくちゃ” をスローガンに展開するキャンペーンで、まだ米国日産が元気だった頃。有名な宣伝でした。因みに日系2世のイシモト氏、彼の奥さんだった女優のタカ・ミイコ(高美衣子、没2023年)さんは三船敏郎や黒澤明の通訳だったそうです。
Posted at 2026/06/04 17:37:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年05月04日 イイね!

うりずんのかじ

うりずんのかじ










あっという間に5月に入り、あの豪雨また豪雨が続いた4月が終わると、ハワイは突如、真夏に突入して、強い日差し、日中の短い影、台風並みの乾いた涼しい東風が吹き出しました。

日本の黄金週間も同時に始まりましたが、日本からのお客さんの到着数、今年も大台には乗らなかったと言うか、去年より寂しい数値でした。日航さんの増便で毎日14便の到着があったんですが、最高で1日当たり、3,800人で、コーヴィット以前、2019年だったらこの頃は最低6,000人くらいは来ていたんですが、それに比べると微々たるものでした。

6月からまた、法事やらで日本へ行くのですが、今月からの燃料サーチャージがまた尋常では無く、5月1日以降発券分は、聯合航空で(実際はコードシェア便の全日空)以前は往復で48,000円(それに運賃と税金などが加わる)だったのが、今月から何と73,600円!幸い我が家は値上げ前に発券してもらったので何とかなりましたが。この燃料サーチャージは2ヶ月おきに更新されるので、7月・8月分が如何なるか、興味深い所であります。

4月はブログをサボったので、取り急ぎ、今回は以前から貯めていた画像でお許し下さりたく候。

以前からのネタ。キャナダでの自動車事情の違い(合衆国に比べて)ダットサン、1979年、このフルモデル紹介、何処が違うか。。

これはUSA。


こちらがキャナダ。


そうです、一番豪華な車種、ダットサン810が無いのです。と言うのも、キャナダは1977年と1978年にちゃんと810のセダーンとステーションワゴンは売られていたのですが、何故か1979年は欠番になっている様子でした。因みに1979年のUSA版810は前照灯が四燈角目に変更されていたり、2扉ハードトップが加えられていたり変更がありましたが、1979年と1980年にキャナダにはいずれの810も来なかったらしいです。810の販売数はUSAでもごく僅かで、1981年から新型ブルーバード910の6気筒版が、”810” として登場して、その910の上級グレードがマキシマの名称が付けられてました。丁度この頃が日産自動車の過渡期でダットサンの名称を捨てる時期で、1982年からダットサン810からダットサン・マキシマに変更になり、”810” の名称が消滅しました。まあ、810と言っても中身は910でしたから、本命になった訳ですが、その後、ダットサンのブランドを消滅させたのは非常に大きな落ち度だったと今でも思ってます。

最初の810。ダットサンのフラッグシップモデルとして、トヨータのクレシーダが仮想競争相手だったでしょう。ダットサンの言い分は、240Zの心臓と足を持った豪華セダーンでした。エンジンは2,400cc燃料噴射の6気筒、後輪の独立懸架と、有名なスポーツカー、いわゆる ”Zカー” を持ち出していました。ステーションワゴンは同じ6気筒エンジンでしたが、後輪は板ばね固定軸です。


なんか前半分が似てますね。。1981年型オウストラリアのクライスラー・ヴァリアント。


1979年と1980年、角目に2扉ハードトップの追加。


確か6気筒のステーションワゴン、日本には無かった筈です。


910なのに810と呼ばれたのは登場年の1981年だけ。翌年から810の名前が落とされ、ただのマキシマになります。この910、じゃなくてマキシマは結構売れた記憶があり、特に後に加わったジーゼル版、それもステーションワゴンは今でも時たま売りに出てるのを見かけます。


話はぶっ飛んで、昔の写真。確かベルジャムのオステンドで時間潰していた時の写真。この鈴木は東欧生産でしたっけ?それともインド?いや、日本製?


ワゴンRは鈴木とオペル、両ブランドで売ってました。これは確かハンガリー製。


独國はフランクフォートに戻って、大阪発動機ですね。新旧共に。


独國では手頃なサイズの日産マイクラが凄く普及していました。




マズダも独國では昔から輸入車としてはシェア強かったですね。多分トヨータ以上に。


仕事で借りたゴルフ。時代が判る。。


話はまたぶっ飛んで、ゼロゼロセヴン、ジェームス・ボンドの ”2度死ぬスパイ” 1967年。大里化学の大里社長さん、颯爽とヘリコプタで出勤。


ぼくは回転翼には詳しく無いのですが、働いていた会社がヘリコプター部から始まったので、少しは知識あります。この大里さんの乗ってくるヘリコプターは米国製のブラントレー・ヘリコプターB2と言う機種で、アイスクリーム・コーンみたいな形状が特徴の軽便回転翼機でした。


撮影された1967年は日本でバンバン大型機が墜落して大騒動になった年です。撮影要員一行も、もうちょっと富士山上空で空中分解したBOAC機に搭乗する予定だったとかで物騒な話でしたが、撮影企画前に、撮影場所を探すために全日空からヘリコプターを借り切り、全国つづ浦々飛び回ったのを始め、この作品には回転翼機が沢山出てくるのが興味深い所。


チャーター機。西日本空輸社の大型のシコースキーS61型。確か30人近く乗れます。ウチの会社にもありました。


今の航空法から比べると遥かに法規が緩かった時代なんでしょうね。それに撮影時に数回、結構大きな事故も起きていました。

大里さんのブラントレー機は1966年の7月に英国から持ってきて、撮影後、9月にはまた英国に送り返したそうで、大里化学は東京・赤坂のホテル・ニューオータニの設定なんですが、ヘリコプターが着陸する場面、背後を見ると、関西電力って読めるんです。ココはどう見ても朝日新聞の大阪支局にあったヘリポートなんですよね。。


これが背後に見えていた関西電力の建物。


撮影に使われたブラントレー機、英国に戻って10年後の1976年、離陸時に故障由来の事故で墜落・炎上。残念でした。


また話は飛んで、地元にあるホンダS600でしょう。2012年と今年の図。S600は米国では発売されていませんでしたが、いすゞや日野と同じく、ハワイだけは販売していたとしても不思議ではありません。




たこ焼き屋さん。去年盆ダンスの会場で見かけました。問題は、右の車両に書かれたTACOS4Uの下に、SHAVED ICE と書かれています。当地ではコレ、間違いなんです。Shaved Ice、日本で言うかき氷ですね。ハワイのかき氷は語学的に正しい Shaved Ice ではなくて、Shave Ice と呼びます。これもピジョン・イングリッシュの一環で、正しい英語にすると正統派ハワイからそれるのです。大抵内地から来た人達がこう言う間違いを犯します。


ダットサン・サニー。ラジエータグリルの ”D” エンブレムがフッド開放のレヴァーになってます。


撮影場所の赤坂見附。


数年前に亡くなった樂団、クロスビー・ステイルス アンド ナッシュ (CS&N)のデイヴィッド・クロスビー氏のメルセデス・ベンツ。彼はこの手のメルセデスがお気に入りだったそうです。


同じく、デイヴィッド・クロスビー氏のメルセデス・ベンツ 6.9 トランクリッドに450SELのバッジが無いので北米仕様と分かります。自動変速機のベルト駆動補助油圧ポンプ、2個装備された酸化触媒、低圧縮比などなど。この頃にクロスビー氏は麻薬に溺れる毎日で、この6.9も麻薬を買う為に物々交換に出され、その後、正気を失った彼は麻薬の販売人の家に忍び込み、6.9の権利書を盗んで来たと言う武者伝がありました。。。


左はポンテイアック・キャナダの1967年型パリジエンヌ。多分ハイヤード・カーですね。丸い社票が見えます。右はシェヴォレイ・インパーラの1968年型。サイドマーカー・ライトと、大きめのChevroletのエンブレムで分かります。これもリヴリー車ですね。撮影は銀座界隈だったのかしら。


こちらは可愛いルノーR5、キャデラックとオペルに囲まれています。


レインボー・シャワー・ツリーが咲き出すと、夏に突入です。秋口まで咲き続けます。






我が国を象徴する味付け材のトメート・ケチャップ、我が家はハインツ派であります。これは新製品、野菜の風味が加味されているそうです。


以前書いたかもしれませんが、右に小さくアルファベットのUの字がまるで囲んであります。これはコーシャー認定食品、つまりジュイッシュ宗教の人達が食してもいい食品を示しています。同じく小さなアルファベットでKを丸で囲んであるのも同じです。面白い事に緑茶やらお寿司もコーシャー認定食品だそうで、ジュイッシュ人口のとても多いニューヨーク市のコーシャー超級市場に行くと、真っ黒の服を着た、オーソドックス・ジュイッシュの人達が、緑茶とパック寿司をしこたま買い込んでいる光景を良く見ました。


その緑茶、特に抹茶が現在全米で爆発的な流行で、どこにでも抹茶コーナーが置いてあったり、商品に何でもかんでもMATCHAと書かれていれば飛ぶように売れる時代です。お茶の伊藤園さんは当地に工場を持ち、独特の商品を開発していますが、新しいのが抹茶・エネジーと、煎茶ショット。抹茶・エネジーは緑茶と抹茶を混ぜて活力が出る飲み物らしく、砂糖入りと砂糖抜きがあります。煎茶・ショットはアンタイ・オキシダント(抗酸化物質)を含んでいてカラダに良いそうです。珍しく無糖でこれはまあまあイケました。普通我が国ではお茶には砂糖を入れる物だと思っている人が殆どで、ウチの同僚を宜野湾の吉野家に連れて行った時、出されるお茶に、砂糖はどこだい?と、聞かれたのをまだ覚えてます。。。


なんと日本でもOreIdaのお芋を売り出した!但し発音がちょっと違ってて、オレアイダと言ってましたが、正確にはオライダに近いです。これ、OregonとIdaho(産地)を合わせた造語なのであります。そこに創業者の最初の工場があったからです。

Posted at 2026/05/05 17:33:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年03月24日 イイね!

リヴィエラ・セヴィル・エルドラード コンテッサ

リヴィエラ・セヴィル・エルドラード コンテッサ










昔々その昔。私事で恐縮ですが、1984年、20代前半の自分はコロラド州のラヴランドに住んでおりまして、勉學に励んでおりました。そのスケジュウルがまた過激で、若きの至と言いましょうか。まず朝6時に家を出て、フリーウェイを90キロ南下、朝8時からの自動車学校での授業と実地。お昼過ぎにそれらを終えてまた90キロ走って午後1時に帰宅。昼食をとった後、日によって夜間学校で製図の授業を受けるか、30キロ離れたグリーリーと言う街の短期大学の授業を受けて、夜9時半に帰宅。就寝。翌日、同じ事を繰り返す他に、週末にはヒコーキの操縦訓練まで受けていたんですから、今から考えるとよく生き延びたもんだわ、と思う次第です。兎に角毎週の移動距離が半端ではなく、1日に210キロ、1ヶ月で5,000キロは軽く運転していた計算ですね。



自動車整備學校では実習に使う車両がいつも足りなくて、自分の車両、家族の車両、親戚の車両と、タダで修理してあげるから、と言う口実を巧みに使って、”エジキ” になる獲物を探していました。

これはフロントエンド・アライメントをいじっている所ですね、昔式のハンター製光学型の機械。コロラド州は標高が高く雪が降るのですが、凍結防止剤を道路に撒けないんです。薬剤が溶けて川に入り、下流の州を汚染するからです。そのせいかもしれませんが、道路には平坦路でもキャンバーが強めに付けられていて、右に寄ろうと車が偏向するので、緻密な調整をする際は、運転手と同じ重さの錘を置いて若干道路中央に寄せる様に調整するのがコツでした。。。


1984年の多分秋でしたか。その日は同じ班の子のマズダREPU(ロータリーエンジンを積んだピックアップトラック) が不動で、ぼくのフェアモントの冷却系統を整備する事になり、サーモスタットを交換する事になりました。この古いフォードのほぼ産業エンジン(実際この3300cc6気筒エンジンは汎用エンジンとして有名でした)は整備製も良く、REPUの彼がサーモスタットハウジングのボルトを締め付ける際、力を入れすぎたのか、ハウジング自体に盛大な亀裂が入っちゃいました。そんな部品、どこの部品屋でもすぐ手に入るだろうと思いきや、何故か明日まで入荷しないと。冷たい彼は、難儀ね〜、じゃまた明日と帰宅しちゃい、これじゃ家まで帰れません。確かこれが金曜日だった覚えが。仕方なく当時まだ運営していた、デンヴァー・ステイプルトン空港までバスで行ってエイヴィスで自動車を一晩借りて帰宅する事にしました。磨き上げられた空港の到着ロビーに、汚れたままの整備服で現れたぼくに与えられた車種は、余程その日、配車が足りなかったのか、駐車場で受け取ったのは何と、おろしたてのビュイック・リヴィエーラです!おお、不幸中の幸いと、ふかふかの座席に乗っかり、一晩だけの逢引きを楽しんだのでした。。。



1984年のリヴィエーラと言えば、前輪駆動の2扉豪華車、当時のGMのEボデーと言われる車種でした。同じ車台を使うのはキャデラック・エルドラード、オールズモビル・トロナードの三兄弟。それに加えて1980年から全輪駆動になったキャデラック・セヴィルのKボデーがEボデーとほぼ共用されていました。

1979年から1985年まで続いたこのEボデー車。余り知られてない事ですが、最初の数年間、ダウンサイズされたと言ってもまだ結構大柄な車体のくせに、乗車定員はたったの4人乗りでした。前に2人、後に2人。前席がデユアル・コンフォート・シートと言われても2人分の座席ベルトしか用意されず、後席はさらに中央部に大きな肘掛けなどが備わっていて、いかにも2人しか座らぬ様に、と言いたげ。それでも顧客から文句が出たのか、他の理由があったのか。1982年辺りから突如、後席中央に巻取機構の無い腰ベルトが装備され5人乗りに。その翌年辺りから、今度は座席は同じで単に、同じような巻取機構の無い腰ベルトが前席中央にも装備される様になり、これで法的には6人乗りになりました。4人乗りから6人乗りに、余程何かの事情があったんでしょうね。Eボデーの権威のラスヴェイガスのコーリー氏にその点聞いてみましたが、彼も理由は知りませんでした。

個人的にはこの様な珍重される珍しいバールド・ウッド調より一般的なテイーク調の木目が好きなんですが、このリヴィエーラは後期型ですね。デルコの2000系ラジオ、巻取機構の無い中央座席の安全ベルトがだらしなく横たわっているのが見えます。この中央ベルトはほぼ間違えなく小さく巻かれて座席の下に押し込まれているのが実情です。


後期型1984年式リヴィエーラの後席。中央座席の安全ベルトがだらしなく横たわっています。Cピラーの室内灯・読書灯は注文装備です。この読書灯はぼくのフェテイッシュで、高級車にはこれが必須の装備なんです。横の窓はハメ殺し ハードトップにならないのが残念無念。


キャデラックでも普通のエルドラードには室内灯だけで読書灯は付かず、深夜に後席で整備書を読みたいのなら、ビアリッツ仕様でないと読書灯は装備されません。


普通のエルドラード室内灯、読書灯が付かないのです。


そのとびきり高級のビアリッツ仕様。何と言っても前方屋根の半分が磨かれたステインレス調で渋い光で輝くのが、身悶えする程素敵なのです。余談ですが、Bピラーに装備されるオペラ・ランプは光源が電球でもなく、例のエレクトロ・ルミネセント板でも無く、トランク内にある電球からファイバー・オプテイックの樹脂製のラインで灯らせています。


ビアリッツの後席、濃紺ルース・クッション。申し分の無い雰囲気です。判る人には判ると言うか。。。でも本当ならぼくは布製の座席の方が好みです。このキャデラックの革は結構、キュッキュと音がするんです。


前期型には、右側扉肘掛け後端に、後席からも扉を開けられる取手が付いていました。1983年だったかしら、以降は廃止。


1980年代、前期型は例のペレット仕様の触媒。


1984年でしたか、後期型はモノリス型。


ぼくの言う ”大トロ” つまり初代のトロナード1966年、こんな素敵なコンセプトカーが作られたそうです。作ったのはハリウッドの売れっ子の改造車製作するジョージ・バリス氏(George Barris) そう言えば昔、マズダ・シャンテ軽自動車の助手席を取っ払ったリムジン・仕様がこんな感じでしたっけ。。



このEボデーとセヴィルのKボデー、最大の弱点は新設計、アルミナム製シリンダブロック、鋳鉄製シリンダヘッドのHT4100型V8エンジンでしょう。よくキャデラック最悪のエンジンはジーゼルか、可変気筒のV-8-6-4だと言われますが、HT4100もそれに負けず悪評高く、可変気筒は基本的に大ブロックですから、可変気筒機構を休止させれば何とかやり過ごせるのですが、HT4100は医者よ薬よのエンジンなので、後期型ではかなり成熟されたジーゼルの方がかえって信頼性が高い事と言う皮肉な話もあったそうです。モービルの赤いペグアサス印は日本のモービル石油が考案したそうです。


多分ぼくが一番好きなキャデラックがこの前輪駆動になったセヴィルですね。ネオクラシックと近代の見事な統合。特にフレームの無い側窓が一層素敵な外観にしています。場所と金があったら、今でも欲しい一台です。


ついでに言えば、セヴィルも1980年から前輪駆動になった後、最初は後席が3座、前席が2座の5人乗りだったんですが、1982年から前席中央に安全ベルトが追加され、6人乗りに昇格しました。これも理由が不明なんですが。中央に3人用のベルトが見えます。EボデーもKボデーも床が真っ平だったので、前席中央に人を乗せても快適だったと思います。でもセヴィルに6人乗せて走ってる所など、一度も見た事ありませんが。


1976年から1979年までの後輪駆動、セヴィルの初代は全て前席2座の5人乗りでした。


これも興味深い事に、初代のセヴィルはGMのXボデー、つまりコムパクト車台を使っていたのですが、同じXボデー同年代の他社種、ノーヴァなどは前席3座の6人乗りだったんです。3人横に並ぶのは、かなりキツかったと思いますが。。


事実上、ノーヴァやらのコムパクト車、Xボデーの後に来た前輪駆動にダウンサイズされた新型サイテーションは、ハイバックのセパレートシートに見せかけたベンチシートのくせに、全て5人乗りでした。


まあいくら前席がベンチシートだからと言って、全て横に3人乗れる訳では無いですがね。トヨータ・コローナもコラムシフトならベンチシートが選べましたけど、全て2座。

1976年式コローナ。


1978年式コローナ。


最終型の1980年式コローナ。確か1983年からキャムリの登場でコローナが無くなりました。


仲良し3羽はビュイック・スカイラーク。


クライスラーのKカー、いくら6人乗りと宣伝しても説得力は弱かったきらいが。あの頃、”6人乗り” と言う意味は、中が広いと同義語で宣伝文句によく使われていましたから。


いくらでっかくてもロールスロイス・シルヴァーシャドー系も5座でしたね。ベンチシートが無かった。ピーター・フォークとルース・ゴードン。淡い濃紺のコーニーシュ、素敵です。


ルース・ゴードンは昔の人、強かったのだ。



我が家で重宝していたホンダ・エレメントも北米仕様は後席が2座でした。



中央にカップホルダやらがあって物理的に中央に座れない。。。


JDM仕様は3人がけ。この3人がけの座席が北米で高価に売られているらしい。。。


乗車定員が変わると保険や登録上で結構大問題になります。なので何人乗りにするかは慎重に決めるはずなんですが。。。

奈落の底から這い上がれないヴォルクスワーゲン。昔の栄光はどこへやら。この新しい ”バス” が漸く発表されたと思えば、今年は既に販売停止。事実上一年ちょっとしか店頭に並ばず、在庫調整かけても駄目だったそうで、2026年式は無かった事にしてくれと。。値段が高過ぎた?何せ定価で1000万円近くだそうで。それにしても言われると行く先々で目に付くのが不思議です。何せ、北米総販売台数がたったの7,000台くらいだったそうですから。。








そのヴォルクスワーゲンId Buzz(興味深い名称)泣きっ面に蜂とはこの事で、売れもしない車両に早速文句が来て、リコールまでに発展。その内容もまあ、しょうがないでしょうが、誰かがトチった様で、3列目の座席、2座仕様で当然安全ベルトもふたつしか付いてないのですが、皮肉な事にその座面が広過ぎて3人容易に着座できるので、安全ベルトも足りないし、これが安全基準を満たしていないと、槍玉が入ったのでした。対策は座席の両端に樹脂製のガードを付けて3人着座したらとても座り心地が悪くなる様にしただけで、全く冗談の様なお話。でも当然、間に弁護士さんが仲介に入って決めた事なんでしょうね。。。

これが幅広過ぎた3列目の座席。


2座にする為の対策部品。


最高のデザインのセヴィルから最悪のデザインのセヴィルに生まれ変わった1986年。でも実際にはそれ程酷い自動車では無かったと言うのがぼくの感想です。


何故か輸出用にはあの大きなコーナーリング・ライトが外され飾りに変えられていました。とあるEUの一部の基準に合わせる為だったらしいです。


今の価値にして、軽く1000万円を超す値段ですね。もっとも今じゃ自動車の値段自体が目の玉飛び出るほど値上がりしていますが。日本でもビアリッツあったのかしら。。


今日の一台。1967年式、日野コンテッサ。LHD仕様なので、沖縄から来たか、いいや、多分ハワイ仕様なんじゃ無いかと興味ツラズラです。


今日の一缶。新製品のペプシ・コーラ、プリビオテイック。要するにオリゴ糖とキビ砂糖を使ってキャロリー控えめに健康に良いと言うのが宣伝文句。お味は大した事無し、いや、ぼくはコケコーラ党なので。本土で作られた製品なので新型の極薄のアルミナム缶です。


久しぶりに目撃のトースターマフィアくん。この様な小型でトースターみたいな四角い箱型をしている、日本製自動車の若い子達、愛好家の集まりだそうです。ライセンスプレートのE-Z Bakeとは、子供用の台所、おままごとの道具で、実際にクッキーやら菓子パンを焼いたりできるおもちゃの名称です。EーZ Bakeのトースター、何を焼くんでしょうね。笑。


冒頭の画像は1964年7月。小禄空港で、キャラウェイ(旋風)高等弁務官と一緒に、多分1961年型キャデラックに乗る大平外務大臣です。沖繩縣公文書館所蔵画像。
Posted at 2026/03/25 16:34:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2026年02月28日 イイね!

3月の日産マーチ・マイクラ

3月の日産マーチ・マイクラ












今日は3月最後の日なので、日産マーチのお話を。

日産自動車は、大ヒットだった経済車、日産マーチ別名マイクラを北アメリカで、但し北のキャナダだけでK10型を1986年から1991年まで。

そしてK13型が北米メキヒコで生産開始されてから、メキヒコ製造車両をキャナダで2015年から2019年まで売っていました。




メキヒコ自国ではK13を改良して去年まで日産マーチの名称で買う事ができました。




K10の時代なら兎も角、K13の2019年頃ならキャナダと合衆国での規格の差はごく小さな項目だった筈で、何故合衆国に持ってこなかったのか不思議だったんですが、まあその当時、同じメキヒコ製の廉価車、日産ヴァーサを合衆国で既に販売していたので、ハッチバックの廉価車は必要無いとされていたのかもしれません。合衆国ではセダーン型車は未だに需要がありますから。

国土面積はほぼ同じなのに合衆国の人口はキャナダの8.5倍もあります。おまけにキャナダの国土、資源が豊富とは言え殆どは人の住んでいない極寒の地域。

そのキャナダでは何故か昔から廉価車が好まれるのが傾向です。

日産は合衆国には輸入してこなかったB10サニーをキャナダでは1969年には持ってきてましたし、トヨータさんは1965年からトヨータ700、UP10と謳ってパブリカを、それもトヨグライド仕様、おまけに燃焼ヒーターも付けずに!!売り出したんですから、はっさみよ〜なのです。

B10サニーは、ヴァンクーヴァーで自分も1990年代になっても目撃した事がありました。


経済車には珍しく4扉セダーン型もあった様です。濃紺と白壁タイヤが素敵です。


ブリテイッシュ・コロンビア何処かの交通博物館に展示されていたUP10。キャナダに来たパブリカは、いずれもトヨグライド仕様ばかりで、不思議な話で燃焼ヒーター付きの個体を見た事ありません。まあよくこんなひ弱な自動車で大陸を何千キロ連続走行したり、ロッキー山脈を越えたり、極寒のユーコン区域で使われたりしたものだと。。。




ダッシュボード下に吊り下げているのはデンソーのデミコンと書かれた換気・暖房装置。どう言う仕組みか、興味津々です。電熱線で暖をとったか?




マイクラは、それまで日産キャナダの底辺を支えていた廉価車、プリンス自動車のチェリー・F10に替わる形で登場したみたいでした。F10は合衆国にも来てはいましたが、ここにもキャナダと違いがあり、合衆国は3扉ハッチバックとステーションワゴンの車体形状だったのが、キャナダには2扉セダーンが含まれていました。やはり最廉価を狙ったのか?


その後、F10は310と名前を変え数年間、持ち堪えましたが、合衆国ではステーションワゴンが落ち、その代わり5・3扉ハッチバックを追加。F10も310も生涯、自動変速機が選べなかったのは悲しい所。


F10、特にクープは合衆国史上でいつも上位に入る、最も格好の悪い車に選ばれます。ぼくに言わせれば車体後部はシトロエンのSMに似てると思うんですがね。。


そのF10の後釜に来たマイクラ。自動変速機が選べる様になりました。高級版はデジタル時計まで付いている!




1986年から法律になった後部ハイ・マウンテッド・ブレーキ・ライトもちゃんと装備。


でもぼくの一番興味のあるのは、この経済車の最廉価版の車種、マイクラE。一番簡素な ”素” の姿がステキです。


マイクラの跡を継いだのはセントラ・クラシック。そうです、これ、実はセントラ(サニー)が新しいB13型に移行しても、メキヒコで続行生産されていた旧型B12を新旧両方を平続販売して、旧型を廉価版を位置付け、”クラシック” の名称で売られていたのでした。




メキヒコ製のセントラ・サニーはVWビートルに代わる、恐ろしくポピュラーなメキヒコの国民車として、”TSURU・鶴” の名称でメキヒコで大繁殖しただけでなく、2017年まで、発展途上国での廉価車として大量輸出されメキヒコの経済を支えました。



と言うのが3月最後の日、北米日産マーチのお話でした。マッチのマーチ。


ついでにあの有名な金屏風も。。。。ちゃんと鶴が描かれいるのがジョートー。

Posted at 2026/04/01 16:46:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2026年02月26日 イイね!

無鉛に限らない?

無鉛に限らない?









どうも現行の政府の方針変更で、自動車などの排気ガス基準が緩くなる気配が出て来ました。

ぼくが自動車學校に通ってた頃は、排気の浄化の科目だけでも相当な時間をかけて教えられ、それに準ずる法律までみっちり叩き込まれたのを思い出します。

整備學校は自分の車両を実験台として修理したりしました。我が旦那仕様のフェアモント。ヴァイナル・トップ、外装メッキのトリム。おまけに2扉のセダーン型。非常に珍しい組み合わせでした。



1970年代にクリーン・エア・アクト (Clean Air Act of 1970) と言う法律の改訂案が発効し、技術が確定しないまま、排気基準だけが先行して設定され、業界が混乱した時を思い出しました。

当時、はっきりしていた事は、HOハイドロカーボン(炭化水素)、COカーボンモノキサイド(一酸化炭素)とNOxナイトロジェン・オブ・オキサイド(窒素酸化物)の基準がどんどん厳しくなっていく事。

それと同時進行で、有鉛ギャソリンの代わりに無鉛ギャソリンが導入される事でした。この二つの件は絡んでいるようで別件なのが本質でした。

厳しくなる排気ガスの対策には、基本的には多くの自動車製造会社が酸化触媒技術に走り、触媒には無鉛ギャソリンの使用が必須だったので、同時期に、有鉛ギャソリンが鉛公害の元とされて槍玉の矛先になり、政府が進めていた無鉛ギャソリンの導入にもマッチして、1974年の7月1日から、全米で全ての自動車給油施設で無鉛ギャソリンの提供が義務付けられました。

規制が格段に厳しくなる1975年からGMもフォードもほぼ全車で触媒が装備され、無鉛ギャソリンの使用が前提になり、大規模な公知が始まったので、皆は、触媒は1975年から義務付けられた、と今でも言われる事がありますが、実際は触媒は義務付けられた訳ではなく、触媒に頼らずに排気規制をクリヤする車種も結構ありました。

BMW、ポーシャ、三菱ダッジ・コルト、トヨータのランドクルーザーは、悪評高いあのサーマルリアクタを使い、ホンダは独自のCVCC、スバルは希薄燃焼と2次エア供給のSEEC−Tなどで、触媒を使わずに排気基準をなんとかクリヤしていました。

三菱・クライスラー、サーマルリアクタは確かMCA Jet が実用化されるまで使われた覚えです。


そのサーマルリアクタですね。火山噴火の如くの高温にならないと威力が発揮できず、まあ触媒もそうですが。まずチャンスがあれば点火時期を遅らせ排気温度を上げ(当然パフォーマンス・燃費が低下します)リアクタ内に未燃焼の燃料を送らなければならないので混合気も濃い目(さらに燃費悪化)。その上サーマルリアクタはある一定の条件下でしか燃やさないので、それを制御するセンサ、それが電子制御されるなんて夢にも思ってなかった時代です、全てヴァキュームとソレノイドで作動させ、EGRも制御は原始的な機械式。当然エアポムプもベルトで駆動させますから馬力の損出になりますし。でも一番の問題は熱害でした。兎に角サーマルリアクタの温度は尋常では無く、製造側がどれだけ耐久試験をしたか知りませんが、エミッション・コントロールの機構は当時から8年・128,000キロの保証が義務付けられてましたから、連中は遠くない先に三元触媒に移行するのは目に見えていたかもしれません。そのサーマルリアクタの熱害のおかげでエンジン・ルーム内のあらゆる樹脂類、配線類、オイルシール、各センサの端子、電気の絶縁、全てがあっというまにボロボロになる上、サーマルリアクタ本体も熱に耐えきれず割れたり、中の熱保護板が溶けたり割れたりして排気を塞いだり、しまいにはフッドの片側(排気側)の塗装は数年で剥げ落ち悲惨な状態になって行きました。その昔、1970年代後半のポーシャ911は買っちゃいかん、などと囁かれたのもこれが理由でした。

有鉛使えまっせ、CVCCならねと誇らしく見出しに。1978年型のシヴィックの広告。ホンダやスバルが触媒を使い始めたのは1980年に入ってからです。後で述べますが、車種と売られる州によっては触媒は装備されていないのに、無鉛ギャソリンを指定する不思議な現象が1970年代後半から始まっていたので、さらに混乱します。


初期型とその後のシヴィックの透視図。何が違うかって?初期型の前輪ブレーキが未だ、ドラム式なのです。



そう言えばシヴィックの前に来ていたN600。米仕様は後のバンパの下にスペヤタイヤを載せるタライが吊り下げられてました。




N600のスペアタイヤは普通ならエンジンコンパートメントの中にあるのですが、米仕様は何故かブレーキ・倍増装置がデンと座っていてスペアタイヤが入らなくなってた様です。あの軽量車両の制動装置は弱かったんでしょうかね。当然規制に引っかかった上の苦肉策だったんでしょう。




あの頃は触媒技術が未だ未熟だった上、人々は有鉛ギャソリンより高い値段の無鉛ギャソリンに根強い反感と疑いを持っていて、ホンダは、ウチのCVCCは昔からの有鉛ギャソリンで大丈夫さ〜、と広告を出し消費者を安心させ、シェヴォレイはBIG10と言う車種を特別に用意し、普通のハーフトンの車台にわざと頑丈な懸架装置やらブレーキを付け重量を増して、規制の緩い大型トラックとし、宣伝には安い有鉛ギャソリンが使えるので経済的ですよ、と謳っていました。

この雑誌の広告、一番下にごく小さい文字で、”読者クーポン4番目に丸を付けて下さい” と記されています。昔の雑誌はページの間に小さい葉書が必ず挟んであり、それに小さい数字がびっしり並んでいて、雑誌内の広告には、この様に ”何番に丸を付けてください” と書いてあり、その挟んでいるハガキに自分の欲しい資料の番号を丸で囲み、自分の住所氏名を書いてそのハガキを切り取って切っても貼らずに郵便箱に投函すると、その自分でまるで囲んで選んだ企業からキャタログやら資料が送ってくる仕組みでした。懐かしいです。。。


当時のギャソリン・ステーション。レギュラー(有鉛)、アンれデッド(無鉛)、スーパー(無鉛ハイオク)が一般的な表示でした。

一応GMは、触媒車に有鉛ギャソリンを入れても、燃料タンク一杯分なら触媒は大丈夫と公表してはいましたが、実際はどうだったのか。


まだ規制の緩かった頃。フォードはリンカン・マークIVの460立方インチ=7,500ccエンジン車、なんと触媒は片バンクだけにしか付いておらず、その上下流で左右のバンクが結合しているので、浄化された排気ギャスと浄化されてない排気ギャスがまじって後から放出されていたのですから、笑い話のネタみたいでした。


触媒が進行方向に向かって右側のバンクにしか付いていないのが判ります。モノリス型。


1975年型 このアポステリが、もうたまりませんね。


コザのBCストリート照屋楽器のお向かいに今も ”掛けてある”  マークIV。後付けの後退灯からして正規輸入車と見ます。



どの燃料を入れるのか。もっと意識していないと大惨事になるのがヒコーキです。同じような外観の機体でも、レシプロ・エンジン(死語?)と、ジェットエンジンでプロペラを回すターボプロップと二種類のある機体って結構あり、それを知らず、燃料屋さんがターボプロップ機にジェット燃料の代わりに普通の航空ギャソリンを入れて、知らずに離陸後エンジンが壊れて墜落した例が幾つもありました。

後のヒコーキは、レシプロ・エンジンのビーチクラフト・クイーンエア。因みにこの伊藤忠商事の機体は一時期、熊本のネズミ講、天下一家で使われてた機体。あそこの親方は熊本でメルセデス・ベンツ600リムジンを乗り回していたそうです。


同じ胴体でもこちらはジェットエンジンでプロペラーを回すターボプロップ仕様。ビーチクラフト・キングエア。


我が国でも今だに有鉛ギャソリンが買えます。それは軽飛行機。100LLと言って、LLはLowLead(低鉛の事)水色に着色されていて直ぐわかります。飛行機が飛ぶ前に、必ず機体のあちこちからサンプルを取って、中に水が混じってないかを検査します。


軽飛行機は大概自分で給油します。セスナ機など高翼機はハシゴに登って翼の上まで思いホースを上げなければならないので難儀します。ぼくはボーイングの大型機でも僻地へ行くと給油するのは自分の役目でした。


以前、ルノーのジーゼルエンジンを搭載したウィニベゴのモーターホームに誤ってギャソリンを給油しちゃったと言うのを修理した事がありました。あの頃はAMCはルノーに買収されたので、ルノー製ターボジーゼルの載ったジープ・シェロキーなんかも北米で売られていました。

ウィニベゴ・レシャーロ。ルノー・トラフィックを改造しているので前輪駆動。


原型ルノー・トラフィック。


ホーランドの歌グループ、その名もジーゼル。ササリート・サマーナイト(Sausalito Summernight) と言う曲で瞬間的にも我が国で流行りました。一発屋、ワンヒット・ワンダー。ジーゼルの開放的な給油口?ササリートとはサンフランシスコは金門橋を渡った直ぐの所にある街です。


そのアルバムカヴァー(これも死語?)ロゴはプジョー504から来てます。


無鉛ギャソリンを使わなければいけない車両には、給油口の穴が0.95インチと小さくなり有鉛を使えない法律で、その上計器盤にも ”無鉛に限る”、の表示が義務付けられていました。現在は有鉛は買いたくても買えないので、この計器盤の表示義務は法律改正で無くなりましたが。

UNLEADED FUEL ONLY と記されています。これは法律で定められていました。1994年型カローラ。この法律が無くなるのは確か1997年からでしたっけ。無鉛ギャソリンの供給が止まったからです。


ややこしいのは触媒の付いてない車種でも無鉛を指定する時期が1970年代後半から1980年代中盤まで続き、これは無鉛になると潤滑油に鉛が混ざらなくなるので、オイル交換の間隔を伸ばせたり、鉛の煤が付かなくなるので点火栓が長持ちしたりと色々メリットがあったからでした。その上、同じ車種でもキャリフォーニア仕様は厳しい規制に対応する為に加州で売られる車種だけには触媒が付いたり(VWビートルがその例)1970年代後半になると、次第にウチの車は安い有鉛ギャソリンを使えまっせ、と言う宣伝が消えていきました。(確かホンダは1980年代に入ると一斉に触媒を全国仕様で採用しましたが、スバルはまだSEEC–Tを改良したりして、触媒なしで1983年ごろまで頑張っていた記憶があります。マズダのスポーツカー、RX7も初っ端から触媒は装備されていないのに指定燃料は無鉛ギャソリンでした)

1975年からGMやフォードで採用され始めた触媒技術。GMは自慢のペレット型、他社はモノリス型を採用します。ペレット型は文字通り、パチンコ玉状のボールが詰まっており、その間を排気が通過する際、触媒作用のお陰で排気が浄化されると言う仕組み。モノリス型は蜂の巣型のセラミック、または金属にコーテイングがされており、そこに排気を通して触媒効果を得ると言うモノでした。






触媒は高温度で初めて効果が出るので、エンジンには暖気を促する仕掛けが付加されたり、逆に減速時に混合気が濃くなり過ぎて、未燃焼のギャソリンが排気され触媒を過熱し過ぎてセラミックが溶けたりと、色々問題がありました。あの頃の自動車によく見られた排気温警告灯はそこから来てます。適切な混合気、排気温度の管理はほぼ全て、機械的に制御されていたので、細いヴァキューム菅がアチコチに走っていましたね。



これは比較的単純なルノー5のヴァキューム菅の配置図。R5は、加州仕様には酸化触媒が床下に吊り下げられ排気管に重さの負担がかかり、ゴムのブラケットがよく千切れました。49州仕様は単純なEGRとエアポムプの2次空気供給で乗り切っていました。2次空気はシリンダヘッド内に通路を作り、シリンダ一つ一つに鉄製パイプで空気を送って噴射していました。それとウェバー32気化器に色々仕組みが取り付けられ、アイドル時だけに燃料を供給するソレノイド、減速時に2次エア噴射を停止する装置、薄めの混合気ジェットやら複雑で、薄めの混合気を、GMデルコ製のブレーカーレス・イグニッションで火を飛ばします。この点火モジュールもよく壊れました。エンジンルーム左から出る排気管はフェンダ内側にある丸い穴から一旦ホイールハウス内に出て下方へ降りて、運転席側ドアのヒンジ下あたりから車体左側を沿うように後方へ伸びます。そのフロント左側フェンダの中にはレゾネータと言う太鼓状のマフラみたいな物が鎮座していて、これがまた高温の熱源になったみたいで、R5は皆、左フェンダが錆びているか、色褪せしているかが持病でした。


GMがペレット式を採用したのは、浄化作用が悪化した場合、触媒ケースの下にあるドレインプラグを開けて、中のペレットを簡単に出来ますよ、と言う話でした。実際にペレットを交換する専門工具が用意され、訓練書に解説と写真を見た事がありますが、結局実際にそれを実行している場面を目撃した試しは一度もありませんでした。





このペレット式には、制御不足で過熱し溶解する問題の他に、長い間走行すると、振動でこのパチンコ玉状のペレットが摩耗して、タマタマが徐々に小さくなり、しまいにはペレットを収納しているスクリーンから飛び出して、特に坂道などを登っている時に、火の玉如く熱せられた鉄球が排気管から鉄砲の球如くすっ飛んで来る事件が発生。慌ててGM側はマフラーカッターみたいな網を貼った装置を排気管の先端に付けたりして対応していました。


興味深いのは日本の自動車業界でペレット式を真っ先に採用したのがトヨータさんで、彼らも矢張り、排気浄化をどの装置を採用するのか多大に迷いがあった様子で、いろいろな種類のTCCを使っていましたが、結局触媒仕様に落ち着き、ペレット式を1980年代初期まで使ったあとは、全部モノリス式に変更した経歴がありました。トヨータが最初にモノリス式の触媒を採用したのが、1979年型のセリカ・スープラだったそうです。


1975年に我が国で始まった触媒車。ほぼ同時期に日本でも後を追いますが、欧州は凄く遅れていて、最初の触媒車が出たのが1985年、オペル・アスコーナでした。EUでは有鉛ギャソリンが完全廃止になるのは2000年に入ってからでした。何となく欧州は先進技術を何時も真っ先に導入していて、昔から安全装備なども充実していると思われがちですが、実際はその逆で、日本や北米に比べるとかなり遅れているのがぼくの経験から感じます。ヘッドレストは1969年。肩ベルト付きのシートベルトが1968年。衝撃吸収ステアリングが1968年。ラミネーテッド・ウインドシールドが1968年。扉の中に内蔵されている側面衝突時の補強財が1973年。2系統ブレーキ配管が1967年。欧州でこれらが義務化されたのはずっと後の事です。日本は米国の基準に追従していたので、殆どがこららに余り遅れを取らず採用されていました。


モノリス・三元触媒と燃料噴射と言う技術に辿り着くまで、初期の触媒装置の不具合から始まった怨念は長い間続き、1980年代に入っても触媒を取り外す連中が結構多かったのも悩みの種でした。触媒やら排気浄化装置を外すのは州法、連邦法を犯す、特にそれを商売でやると下手すれば牢屋行きになるのでおいそれとは出来ませんでしたが、それをかいくぐるためにある部品が飛ぶ様に売れた時代がありました。その部品とは、触媒を外した場所に繋げる中空のパイプで、これは触媒の代わりに取り付けて触媒の中身がが詰まっているかを判断する為の ”テスト・パイプ”、と言うのが謳い文句で、これを買ってテストした後は直ちに触媒を元通りに取り付けなさい、と注意書きがしてあるのですが、誰の目から見ても、触媒を取り外したまま走行する為のパイプとして売られていて、たまに新しいお客さんの持ち込んだ車両の下を覗くとその、”テスト・パイプ” が装着されっぱなし?になっているのを見かけた事がありました。州、または都市によっては排気検査が毎年ある場合は、再度、触媒を再装着していました。




ところで日本の文献でよく見かける、”マスキー法”  と言われる法律、実際は無いんです。多分日本で作られた造語です。我が国で自動車業界の人間、それも今や56年前の出来事を知っている古い人に ”マスキー法” (Muskie Law?) と言っても100パーセント通じません。1960年代初期から始まった、自動車、工場など環境汚染全般に浄化を求む、クリーン・エア・アクト (Clean Air Act) の法律をスポンサーして、特に1970年から発効した自動車に絞った規制を実現に持ってきたのが、当時メイン州の上院議員、エドモンド・マスキー氏だったので、彼の名を使ったんだと察します。ですから、マスキー法は1970年の暮れに発令した、Clean Air Act of 1970年法 の事だと思います。念の為。

クリーン・エア・アクトの生みの親。
エドモンド・シクスタス・マスキー民主党議員。
没1996年。


自動車の安全性と排気ギャスの浄化。これだけ苦労してとてつもない技術の壁を破って今日までたどり着いたのに、この二つの件は、いくら宣伝しても販売台数も増えないし、自動車会社の株価も上がらないし。実態を少しでも知っている人にとっては悔しいところでもあります。

今日、最後の一枚。1970年代初めの、ロールス・ロイス、世界のロールス・ロイス宣伝キャンペインの一コマ。日本のロールス・ロイス。銀座の歩行者天国ですね。その中に乗り入れたシルヴァーシャドー。有名な写真家、与田弘志氏の作品です。初期のシルヴァーシャドーの自動変速機は4段変速でした。これはトークコンヴァーターが付いてない、ただの流体継ぎ手を使っていたので、力の増幅が得られず、従って4段変速で低速力倍増を得てたのでした。その後はシルヴァーシャドーは3段変速、トークコンヴァータ付きのGM、ターボハイドラマチックTHM400を英国で製作して載せていて、あちら製は組み立て精度が比較的に高いと謳われていましたが、その真相はいかに。
Posted at 2026/02/27 19:01:53 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

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