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JetBoyのブログ一覧

2025年06月30日 イイね!

ウージの唄

糸満市真栄里。


Posted at 2025/06/30 09:35:00 | コメント(0) | トラックバック(0)
2025年06月29日 イイね!

お仕事

お仕事6月ですでにこの暑さ。作業中の発汗が滝の如く。
Posted at 2025/06/29 07:07:32 | コメント(0) | トラックバック(0)
2025年06月23日 イイね!

借り物

借り物沖縄に帰ってます。

借りて来たのはまた三菱車。

変速機が良くない上、矢張り燃費が優れない。

同車種使うのは2回目。印象変わらず。

あと冷房が今ひとつ。効き甘し。
Posted at 2025/06/23 20:14:24 | コメント(0) | トラックバック(0)
2025年05月29日 イイね!

合衆国のVW文化、その4

合衆国のVW文化、その4











1950年代後半から驚くべき率で普及し始めたVW、1960年代に入ると繁殖はいっそう加速し、1968年には年間500,000台販売を突破。1970年には販売台数が570,000台を記録し全米販売シェアが6.8%を越え、実に我が国の輸入車の58%がVW車となる独走状態になります。その頃、日本からの輸入車と言えばまだ微々たるもので、西海岸では普通に見かけるようになったとは言え、全米規模で見ると誰も本気で競争相手とは考えなかった時代でした。

当時の主力車種はコローナ。今、実車を見ると、軽自動車如く小さく見えます。まあこれでよく北米大陸で砂漠から極寒地域まで、耐久試験したもんですな。当時の苦労を察します。


初期型のカローラの販売台数は芳しくなかったらしく、コローナはまだチラホラ、たまに売りに出るのを見かけますが、このカローラは見かける事、殆どありません。


その頃、VW輸入車は100%西独国からの輸入で、勿論、北米向け仕様として独自の装備を備えていましたが、100パーセント、装備されていなかったのはエアコン(クーラー)でした。

米国内は、1960年代後半になるとエアコンの装着率は半数以上まで上がっていて、価格上、構造上、特に高価格車にはエアコンの装着率が高く、GMとクライスラーは傘下にそれぞれフリジドエア社、ハリソン・ラジエータ社、エアーテンプ社と空調専門の会社を持っていたので、技術的には既に最先端を走っていました。(あっ、あとナッシュ・パッカード・スチュードベイカーがケルヴィネータと言う冷蔵庫・家電の会社を持っていました)。

GMはフリジドエアとハリソン・ラジエータを傘下に持ってましたが、両者、構造は異なり同じGM車種でも結構異なる構造のHVACを使っていた時代がありました。


フリジドエアはGM傘下の時代、消費者向けの商品に力を入れ、一般家庭にもGMマークの付いた冷蔵庫をよく見たものです。子供の頃雑誌に載っていた広告が、”私は今まで2人のダンナ、2台のクルマ、3台の洗濯機を替えました。でも冷蔵庫はただ1台、フリジドエア”、と書いてあったのを覚えてますが、子供心に、この2台のクルマとは多分シェヴォレイ・ヴェイガだったんだな〜と思ってました(VWビートルの競合車ヴェイガは総アルミナム製エンジンの著しい耐久性の低さで故障に悩まされた車でした)


クライスラーのエアテンプは主に超級市場の冷蔵商品棚、建物の中央空調など、業務用が多かったです。


因みにフリジドエアは住宅用小型クーラー、エアテンプは大型住宅用クーラーと、会社自体は数回売却されていますが、これらのブランドは現在でも在命しています。

北米の南部、東海岸ではフロリダ州など海岸線沿いの暑い地域。メキシコ灣に接するテキサス州は耐え難い高湿度、西に行けば灼熱地獄の砂漠が広大に広がるキャリフォーニア州など。当然エアコンの装備は用意されて当然だったんですが、廉価車、それに空冷エンジン車となると技術的に難しかったらしく、ビートル車などは、筒状の缶に水を入れて、蒸発で冷やした冷気を車内に供給するという原始的なスワンプ・クーラーと言うのが流行ってた時期がありました。

これがスワンプ・クーラー。中に藁または似た繊維状のマテリアルを筒状に詰めた物を、中に溜めてある水に浸し、それを強制的に走行風を当てて車内に導きます。車内には紐が垂れ下がっており、それを引っ張ると筒状の藁が回転し水浸を復活させます。蒸発で熱を奪うのが原理なので、高湿度、低温度の地域では殆ど役に立ちません。まあ、アリゾナ砂漠を横断する際、これをぶら下げていれば急場を凌ぐ位は出来たんでしょう。これは空気の流動がないと効果がないので、反対側の窓を少し開けておくと効率が上がります。特に1960年代中半までは、ビートルは気密性の高い事が有名で、逆に言えば風通しの悪いくるまでしたから。この古風な装置、今でも部品は手に入り、旧車展示会などでは定番のアクセサリーになっています。


そのエアコンの製造側からの未装着と言う件、これは当時の欧州車に共通する弱点でした。高価格車、ロールスロイスに始まってジャギュア、アストンマーテイン、あの頃とても人気のあったMG、BMW、ポーシャ、そしてVW。殆どの欧州車のエアコンは仕方なく北米デーラーでの後付け品の装着に頼っているのでした。そもそも当時は欧州でエアコンを自動車に載せると言う観念が欠如していたと言うか、必要なかったと言うか、全く想定されていなかったフシがあり、メルセデスの超高級車600の空調がベアー社(Bher)の設計でしたっけ、それから確か後付けでフランスの熱交換器社、シャウソンか誰かが細々とクーラーを作ってたのをうろ覚えしていますが、当然タマカズは出ず、高価、未熟な技術の悪循環でなんとも悶々とした時期だったのです。

それに目を付けた頭の良い(これをハワイ語で ”アカマイ” と呼びます)人たちが米国各地で、独自にエアコンを開発してデーラーに売り出したのが1960年代前半です。VWもこれなら便利と、本格的に後付けクーラーを採用し始め、あちこちでVW用のクーラーを開発・製造・卸売りする小さな会社が筍の如く、現れ始めました。

当時、このクーラー等の後付け会社、(通常空調装置の事は業界ではHVAC装置と呼び、 HeaterVentilationAirConditioning エイチ・ヴァックと発音します)後付けHVACで有名だったのがフロリダ州マイアミに本拠地があったクールエア社(Coolaire)、テキサス州にはダラスの、アーテイック・カー社(ArticーKar)、フォートウオースのデランエア(Delanair)、サンアントニオのDPD社などが並びます。

アーテイック・カー(Arctic Carの発音をもじった物、Arcticは北極の意味)VWバスの冷房装置。


その中でも1番大手だったのがクールエア社でした。彼らは英国車に強かったらしく、ジャギュア、MGB、アストン・マーテインは純正品として世界中で売られたアストン・マーテイン車に1983年まで標準装備として採用されていました。その他BMW、ポーシャ911と912、ロールス・ロイス・シルヴァークラウドなど、果てまたはシトロエンのDSにも専用品が開発されてデーラー装着されてました。

アストン・マーテインには長い間、”COOLAIRE” と描かれたプレートがHVAC操作パネルの横に掲げられていました。


シトロエンのクーラー、初期型はコンデンサの装着場所に困り、パイプに冷却フィンを無数に付け、それを車両横両端左右に前後に走らせ、これをキャリフォーニア・コイルとぼくらは呼んでいました。当然冷却効果は走行中に限られ確かもう一つコンデンサが床下に水平に付けられていた記憶です。後期型のDSは、前照灯の下の空洞に左右ひとつずつ小さな電動冷却ファンを付けたコンデンサを付け、バンパ下部には空気取り入れの穴を開け、フェンダ内側に排気を出す、それで一個ずつ装備し、それで無くても複雑な機構に輪をかけて複雑なパイプやらが走り、それがシトロマチックの半自動変速機の車両になるとアタマを抱える形相でした。でもDS北米後期になると工場側で最初からエンジンブロックにコンプレッサ取り付け穴を設け、クーラー装着予定の有無に関わらず、最初から全てバンパ下部に空気取り入れ穴が付いていました。

キャリフォーニア・コイル装着したシトロエンDS。



後期型、左右に設けられたコンデンサに取り入れる換気口。これにも細かい金属製の網が貼ってあります。中にあるコンデンサ冷却の電動ファン、電気消費どのくらいだったか覚えてませんが、かなりの消費量でした。(それプラスコンプレッサの電磁クラッチの電流が負担になります。)


ウチが扱っていたルノーも、R5など最初からエアコンは選べましたが、これがまたドエライ物で、エンジンルームにあるスペアタイヤをトランクに押しやって、そこにできた空間にどでかい冷気ファンとそのプレナムを設け、横に当時初めてで出したサンデンのSD型コンプレッサーを埋めてもう場所的ににっちもさっちも行かない、シトロエンDSと大差ない複雑さに加え、それでなくてもR5は触媒の置き場所に困り、左前車輪のフェンダの中に触媒を入れたので、余計に熱管理が厳しくなり、大体こう言ったフランス車はエンジンとギヤボックスが前後逆に付いているので補器類を駆動するプーリーはキャムシャフトの片方をブロックから長く突き出してそれから発電機やらエヤポンプ、ウオーターポンプ、そしてエアコンのコンプレッサを回すので、最初からそれらの増える補器類を回す事を想定されていなかったので、このキャムシャフトのベアリングと油のシールは常に問題を抱えていました。ハイ。まあポーシャ911はその上を行く、魔のサーマルリアクタを積んでいたんですから、熱害の弊症、想像もつきません。

VWのクーラーは数々の企業がデーラーに独自のエアコンキットを売っていましたが、その中で最もの大手だったのが、テキサス州フォートウオースの会社、商標デランエア社 (Delanair) と、同じテキサス州サンアントニオにあったDPD社でした。

デランエアは元々、オーヴァーシーズ・モーターズと言う、英国車の輸入元会社で、米国中西部のデーラーへ英国車、ジャギュア、アストン・マーテイン、MG, オーステイン、モリス、オーステイン・ヒーレイ、ライレー、それにロールスロイスなどを卸すと同時にデーラー販売、競争自動車の開発から、独自のエアコンを設計し販売するなどの、かなりの大所帯で、現在でも自動車販売業をしている会社です。

オーヴァーシーズ・モーターズは英国製の競争自動車普及でも結構有名でした。




デランエアーの始まりは、テキサスで英国車を扱っていた故の繋がりで関係あったのか、1960年代初頭に英国のデラニー・ギャレー(Delaney−Gallay) と言う自動車部品会社が、テキサス州のオーヴァーシーズ・モーターズのエアコン事業部を買収したのが始まりでした。英国企業デラニー・ギャレー社、元はカーマニアのテレンス・デレーニと言う人が、戦前、自動車部品から航空機部品の開発販売を始めた会社で、しまいには自分で競争自動車の開発まで始めます。そのデレーニ氏が、スイスランドのギャレイ・レジエータと言う、航空機の発動機用熱交換器を作る会社のライセンス製造を始め、その後会社を統一。テレンス・デレーニの息子、トムが自動車用HVACの部門をデランエアーとして、英国エッセクス州で商売を始めます。

英国ではデラニー・ギャレー社、ジャギュアのHVAC装置の納入もしていました。テキサス州で得た空調技術が盛られたと思います。




テキサス州で輸入車のクーラー製造会社を買い取ったデランエア社、主な納入先が空冷VW・ポーシャのデーラーでした。彼らはVW本社から純正認定部品の承認を受け、大量生産に乗り出すのですが、彼らのシステム、コンデンサは車体の床下にツル下げてあり、効率が悪いだけでなく、路面からのダメージを受けやすく難癖が付き、その頃には英国の本家も採算に合わないと米国から撤退の意向を示し、数社に譲渡を打診した挙句、結局米国VW本社へ売却したのが1968年の暮れです。米国VWは別会社、ヴォルクスワーゲン製品会社(Volkswagen Products Corp、通称VPC)を立ち上げ、テキサスの拠点でVW及びポーシャのエアコンの製造を継続します。

デランエア時代、ポーシャ911のエアコン。コンデンサが車体前部と後部エンジンの上に載っているのが分かります。効率は良くなかったでしょう。デランエアはポーシャ356にもエアコン・キットを作っていましたから、電圧6Vでコンデンサの冷却ファン、エヴァポレータの室内ファンとコンプレッサの電磁クラッチを賄っていたんですから、電線の太さと電流、かなり負担になっていたんでしょう。


Volkswagen Products Corp になってからの製品類。


ポーシャ911、廉価版の914とその後釜の924も1970年代はVPC社製の設計・製造でした。


さらにVPC社はVW傘下のアウデイのエアコンもテキサスで設計・製造を始めます。後日、製品名 ”CCCCOOL” となり、このアウデイ100LSもエヴァポレータの覆いにそのロゴが確認できます。


同時期にもう一つ、VWへエアコンを供給していた会社が、これもテキサス州、サンアントニオにあったDPD社です。(創業者の Don P. Dixon氏 の頭文字)DPD氏はかなり有能な技術者だったらしく、空冷VWポーシャ製品へのエアコン設計に関して数々の特許を申請し、VWデーラーにキットで卸します。



DPDのエアコンはVWの正式認定を受けていませんでしたが、デーラー装着注文装備でかなりの数が売れたそうです。DPDの利点は、コンデンサが前部懸架装置の前にほぼ縦置きされていたので路面からのダメージがVPC式に比べて少ないことでした。


コンプレッサはアルミナム、ヨーク社製直立2気筒ピストン式。当時小型のコンプレッサと言えばこのヨーク式しかなかったんですよね。(同じ形状のテコムサと言うそっくりさんのもありましたが、ありゃ鋳鉄製で滅法重い、まあ、ヨークも重かったですけど)




最もデーラーでエアコンを注文する際、デランエアでもDPDでもお客さんは全く選ぶ選択は販売店でどちらを扱っているかで決まる事でしょうし、お客さんは冷気が出ればそれでOKと、関心なかったと思います。でもエアコンの設計とはそう簡単に行くものではなく、車内の空間広さ、コンプレッサとエヴァポレータの風量と性能、エンジンへの負担、振動負荷計算、電線の容量・長さの設計、室内風の流れ及び容量、それに耐久試験と、まあ昔のことですから、壊れたら補強して、ってやり方で徐々に改良されていったんでしょうけど。その点、DPD社は一歩先を行っていたみたいでした。

当然VWのバスになると室内空間は激増しますし、エヴァポレータも前後2個付けたりと、大型化されてるんですな。これらの図面、DPDが提出した特許の申請書類です。








DPD社は、水冷に進化したVW製品、1974年から売り出されたダッシャー(パサート)、アウデイ・フォックス(80)のエアコン装置にも特許を持っていました。


これが典型的な後期型ビートルのエアコン装着例。ヨーク社製のコンプレッサ(通称振動マシーン)クランクシャフトにプーリーを増設してコンプレッサを駆動します。これはLジェトロニックの燃料噴射仕様、排気ガス還元装置の太いパイプと負荷で作動する作動弁が見えるので49州仕様ですね。Lジェトロニックは各装置の取り回しが複雑で初めて見た人はギョッとしますが、流石燃料噴射、Lジェトロニックの垂れ流し式でも燃費は遥かに向上し、排気ガスの浄化も気化器とは比較にならない程綺麗で、寝起きも格段に良くなります。このLジェトロニックを見て、少しでも不調で即、こんなものクソ喰らえ、ウェバーの気化器に即、交換しや!と言う経験のないユーザーが1番怖いです。これはLジェトロニックを理解してないからで、特にこのような初期型は比較的単純で、構造自体を理解していたら、気化器より遥かに簡単なのにと、残念に思ったことがよくありました。まあこれはVWビートルの電子燃料噴射装置に限ったことではありませんがね。複雑な物を見ると、全て ”63年型シェヴォレイ” に簡素化してしまうのは我が国のユーザーの一つの悪い癖かもしれません。


後期型のビートルには前部バンパー裏のエイプロンにスリットの入ったルーヴァーが設けられます。これはエアコン装着の際、コンデンサをこの裏に装着し易いようにとの事でした。左右を結ぶ富士山状のクロスメンバは衝突時の衝撃吸収パネル。これはスーパービートルなのでストラット式の巻きバネ式懸架装置。ビートルは相変わらず左前輪の車軸から速度計のケーブルが出ているのが面白いです。




ちなみに米国外ではこのビートルを1302と呼ばれる事があるそうです。VWは最初は1301と呼びたかったそうですが、1302は既にフランスのシムカが使っていたので、仕方なく1302に落ち着いたんですって。


1970年代のVW・ポーシャ・アウデイは殆どこのVPCかDPDの後付けのエアコンが続き、ようやく1980年代になると、VW工場からエアコン装備のモデルが始まります。ゴルフ・ラビットは1975年から始まりますが、初期の後付け型エアコンはヨーク製の2気筒コンプレッサがシリンダヘッド前の高い位置にデンと載っかっていて操作は全てケーブル式でしたが、工場装着の純正式になると負荷のヴァキューム作動でフラップを動かして配風を動かしたり、操作もプッシュボタン式になったりとやっと本格化します。結局VPCは本家に統合され、DPDも確か1980年代中盤辺りが最後の営業になったみたいで、今日に続くわけでありました。

ぼくの1980年型VWジェッタも工場で装着の純正エアコンが付いていて、その頃には既に小型のサンデンSD式コンプレッサをエンジン下部に備え現代的なものが付いていました。但し新車で50馬力の車で、最低でも5馬力の負荷を失うエアコンを回すと、長い上り坂はしんどかったです。

そうです、1970年代後半にサンデンのコンプレッサが出現した時は、非常に画期的なものだったのです。それまでコンプレッサと言えば、ヨーク社製を除けば、あのどデカい、一戸建て住宅を悠々に冷やせるGMフリジドエアのA6型コンプレッサか、同じく大型のクライスラー・エアテンプのV型ピストン、RV2型コンプレッサしかありませんでしたから。サンデンが出てからやっと、GMも星形ピストンの薄いコンプレッサやら、日本勢はロータリコンプレッサなど続々と新世代のコンプレッサが登場し、業界が変わって行きます。

ロールスロイスから何にでも搭載された、名作、GMフリジドエア社のA6型、斜板型六気筒コンプレッサ。


米車はもとより、欧州車でも定番でしたね。これはジャギュアの12気筒。両バンク真ん中に鎮座しています。


一戸建て住宅並みの容量のV型2気筒ピストンのクライスラー・エアテンプ社のRV2型コンプレッサ。


最後に後付けの空冷VW用エアコンをもう一つ、これは Heatransfer Corporation (ヒートランスファー・コーポレーション)と言う会社の製品でした。この会社、最初はDPD社製のエアコン・キットの卸し、装着、サーヴィスをしていたのですが、自前のエアコン・キットを開発し市場に出します。この点でデランエアとDPD社両方の欠点を十分見極めていて、ヒートランスファー社製のは一体ユニット型で全て車体後部にコムパクトに搭載され、地面から離れたコンデンサで耐久性もあり、何千キットかは売れたのですが、悲しいなかれ、VW純正指定部品として認められず、次第に市場から追い出され、結局米VWを相手に訴訟まで起こしたのですが(結局勝訴した)1970年代中盤には幕を閉じます。興味深いのは、最後の企てで海外に進出し、1番売れた市場は日本だったそうで、記録に残るだけで1971年に400セット、1972年には1,200ユニット、1973年は600ユニットが地元輸入業社(多分ヤナセの事だと思います)に納入されましたが、その後日本ではVPCがRHD用に開発した物に変わったそうです。残念な事にこの画期的だったヒートランスファー社のモジュール・エアコン、画像が一枚も出てきませんでした。

長々と詰まらない話題、お付き合いありがとうございました。

今日の口直し、イオラニ宮殿前で目撃したビートル。細部の形状からして1974年型と推定します。車輪以外いじられていないのが素敵です。
Posted at 2025/05/30 15:26:35 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2025年05月11日 イイね!

合衆国のVW文化、その3

合衆国のVW文化、その3








爆発的な売れ行きでデトロイトを恐怖の底に落とした敗戦国から来た小型自動車。ただ単に小型・廉価・経済的だけではなく、販売店の数とその質があったから実現したので、多分デーラー教育が高品質だったと思います。ただ単に、普通の米国車を扱う販売店で、うんじゃワッターも話題のヴィーダビュル売ってみっか、とおいそれと軽い気持ちではできなかったと察します。何故なら、ぼくが整備を習っていた頃でさえ、当時かなり進んでいた部品のメトリック化、ちょっとでも違う機構が加わると、真っ先に否定する気風。あの頃は皆、”1963シェヴィーみたいには整備できないじゃん?” と皆、新しい技術に対して文句たらたらの時代でしたから。一度でもVWの空冷エンジンをいじった人はご存知でしょうが、依存の常識に拘らず、単純かつヘンチクリンではありますが、実に意に叶った作り方で、ふむふむ、そう言うやり方もあったのか、と、一度同感したら信者になる。その家風にどっぷり浸かれるデーラー教育、あと部品の供給。この三拍子が揃っていたんでしょう。(あっ、それに例のVWの独特な広告展開も手伝います)。

ウチに入庫していた個体は、オートステイックと言って、手動変速機のくせにクラッチペダルが無い、これまた風変わりな変速機仕様でした。まあ昔から欧州には自動変速機は殆ど普及しなかったせいか、あってもこの手の自動クラッチの手動変速機程度で、殆どがフィッシェル&サックス製の、サクソマットと言う方式でした。これはクラッチ操作を真空タンクに貯めたヴァキュームで入り切り操作をさせ、変速レヴァーを触ると電気信号の合図が発生してクラッチを切っていました。でもギヤが入ったまま、変速レヴァーを触らず自動車が停止すると、クラッチは繋がりっぱなしでエンストを起こすので、サクソマットのクラッチは遠心クラッチになっておりエンジン回転数が落ちるとクラッチは切れ、車両が停止してもクラッチは自動的に切れて、エンジンはアイドル回転で回り続けます。

これは初期型、駐車 ”P” の位置がありません。


ぼくのシトロエン2CVが同じようなパリス・クラッチと言うのが付いていましたが、これはクラッチペダルが付いているだけでなく、ただ単に遠心クラッチだけなので、クラッチを踏まなくていいのは市街地でギヤを変えずノロノロ走る時だけで、変速する際はクラッチペダルを踏まないといけない、中途半端なものでした。パリスの市街地を走る人の為のものだったんでしょう。

でもVWのオートステイックは同じ、フィクテル&サックス社製でも、サクソマットとは違い、まあクラッチの入り切りは同じ真空サーヴォなのですが、遠心クラッチの代わりに普通のクラッチと、トーク・コンヴァータが入った流体継手を使っている事です。トーク・コンヴァータは本格的なもので、結構大き容量のオートマチック・フルイドATFのタンクがあり、そこから通常エンジンのオイルポムプの反対側に小さなギヤポムプを増設してそこからATFをトーク・コンヴァータに供給していました。このオイル・ポムプが面白く、キャムシャフトから駆動されるギヤで、厚い鉄板を突き抜けて、前側がエンジンのオイルポムプ、後ろ側がATFとギヤの駆動軸真ん中にゴム製のOリングがあり、これが劣化すると、エンジンオイルとATFが混じり合い困ったことになります。面白いのは低速ではステータが回るトーク増幅器のお陰で、市街地ではギヤを一速に入れておけば殆どの用が足りて、2速に動かすのは高速道路だけでした。(なのでオートステイック車は通常の4段変速に変わって低速Lと2段変速になっています)。市街地では流体継手で滑らせておいて、かつ、トークコンヴァータで力の増幅が加わるので1速が無くても事足りたのでした。ホンダマチックの🌠スターレンジがここからヒントを得ていたのかもしれません。でもこのVWのオートステイック、実際は余り人気が出ず、今となってはかなり珍しい個体となりました。因みにこのオートステイックが登場したのが1968年。それ以前にもVWビートルはクラッチ無しの注文装備が1961年からあったのですが、それは普通の遠心クラッチ付き、サクソマットを使っていました。オートステイックはアイデイアの割に余り普及しなかった様子で、完全自動変速機が普及しだすと、次第に消滅した、と言いたいのですが、独國ポーシャが長い間911スポーツカーやらに使っていたのを見ると、それはそれなりの利点があったんですね。


他にこのシステムを使ったのはメルセデス・ベンツがポンツーン型にごく数年、採用されたくらいでした。


ヤナセは、”セレクター・オートマチック” と呼んでいた様です。多分特有の理由があったのでしょう。


Lは坂道発進とか、急坂登る時、降りる時エンジンブレーキを期待する時以外は使ず。初期型はPのパーキング位置がありませんでした。


その賢いビートルも世界最大の市場では連邦安全基準法に対応せざる、様々な改良が(改悪?)が行われ、まあ、この戦前に設計された自動車が、よく、1970年代後半まで持ち堪えられたワイと、その変化を見るのも、時代を反映して興味深いものでした。大きなバンパ、灯火類など、小さい物ではFMVSSに記されている、デフロスタの表記ですね、これが暗いところでも見える表示が義務付けられると(面白いのは、米国FMVSSはデフロスタが義務付けられたので、自動的にヒーターも付くようになった背後なんですが、日本の法律は窓拭きワイパーにはデフロスタが無いといけないとの事で、結果的にどの車にもヒーターが付くようになったようです。それが確か、1975年からでしたね。それまではクラウンでも商業版とかコロナのスタンダードではヒーターは付いていませんでしたから。

その一つが、デフロスタ(ヒーターでは無い)の操作部の照明。ご存知、ビートルはそのレヴァーが駐車ブレーキのレヴァーの付け根に2本あり、確か右側が暖房の温度、左側が通常暖房か、デフロスタへの導風で、ここが夜間でも照明されていないとなった訳です。そこでVWoAは計器盤中央下に小さなスポットライトを設けて、変速レヴァーの根本を照らす事にしたわけです。


計器盤中央、シフトパターンの記されている灰皿の下にあるのがその、スポットライト。




デフロスタ表示と言えば、これも槍玉に上がった一つ。メルセデス、ポーシャとか、独国車は暖房、デフロスタとか、文字で表示せず、暗号みたいな上向の三角形マークだったり、下向きの三角形マークだったりするのが、引っかかりました。よって、デフロスタ最強にする際、レヴァーの位置はこうです、と言う表示が長い間続いていました。はい、当然夜間照明のある表示です。






これはメルセデス・ベンツ、自動空調になる一歩前の奴。


これがメルセデス、初代の自動空調。1977年から1981年くらいまで使われたシステムですが、コレ、実は制御装置は米国クライスラー製なんです。電気信号で温水量を制御するサーヴォと制御を一つにまとめた、Air Temp社式です。このメルセデスで言われる、モノヴァルヴと言う装置が弱く、今では改良した部品がサードパーテイーから売られており、クライスラーとかなり互換性があるはずです。


壊れるモノヴァルヴ。樹脂製のハウジングに亀裂が入ったり、中のピストンを動かす膜が破れたり、あとは電気系の腐食で壊れます。改良型は金属製で作られています。


あと、当時画期的だったのが、VWのコンピュータ診断システムでした。今で言うOBDですね。白衣を着たVWの技術者が操作する、力を入れた宣伝を実施。かなり高価なこの設備、電気プラグ一本差し込んで手順の動作をすると、印刷機から診断結果が出てくるという摩訶不思議な仕掛けで、これがどれだけ診断の為になったかは今となっては知るゆえも無いですが、発電状況、点火時期、さらにはエンジンの圧縮まで調べて入れて、えっ、どうやって電気のプラグ繋いだだけで圧縮が分かるの?と言いますと、診断機械が点火を切った失火状態にしてスタータで回し、その際の電圧低下を元に圧縮を間接的に図ると言う物。この診断装置、まだどこかの廃業したデーラーの倉庫で眠っていたら相当な価値になると思います。






ビートルの水平対向空冷エンジンは産業エンジンとしても売られ、そうですよね、水冷なので手間がかからないのと、その部品供給の豊富さを味方にして、さらには自作航空機の分野にも定評がありました。


その後、VWが水冷になっても産業エンジンは、特にジーゼルは人気がありました。




救急車などがまだ普及していない時分、VWはお医者さんには人気があったと言うのはどうやら本当で、日本への医学技術は当時の同盟国、ドイチェランドから入ってきたので親しみや語学の点で親しみがあったのと、始動して直ぐ走り出せる空冷エンジンが良かったのでしょうね。因みに空冷エンジンは燃焼に有利な定温を保つのが難しく、常識的な範囲で、始動したら直ぐぶん回して通常温度に上げるのがコツとされています。各部が適度に膨張してシール類からの油漏れやらを遅くできますし。空冷エンジンは冷却を殆ど潤滑油に頼っているので、その温度管理も重要ですね。知らない人はやたらとオイルクーラーやら付けたがりますが、全体の油の容量とバランスを考えないと過度冷却になったりで、よくありません。その点、VWの技術者はよく考えて設計してますね。まあ当たり前か。


ぼくが買いたい飛行機、ゼンエアー社のCH701と言う自作軽飛行機。失速速度が牛歩するくらい遅く、堅牢な機体。楽しいだろうなあ。VWエンジンも載せられます。


Posted at 2025/05/12 11:26:33 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記

プロフィール

「合衆国のVW文化、その4 http://cvw.jp/b/1945280/48458481/
何シテル?   05/30 15:26
I'm JetBoy. Nice to meet you. 実家は西キャナダ、住むのは米ハワイ州オアフ島、家族は香港と日本の、日系アメリカ人です。多分...
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