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2013年07月02日

Empire of the Sun 6 「太陽の帝国」 大和出撃 

Empire of the Sun 6 「太陽の帝国」 大和出撃  帝國海軍技術士官であった、氏を偲んで生前に、お聞きした話を
故人の手記より抜粋し数回に分けて書いている。

戦争・第二部「海軍中将 平賀 譲」の続き、故人の回顧録より

戦争・第三部  「大和出撃」
昭和二十年四月七日 既に米軍は沖縄に上陸し、佐世保は朝から度々、警戒警報が発せられる日の昼過、会議室に呼ばれた。

会議室には既に造船部長、船穀主任、設計主任が列席しており、造船部長から「緊急工事だ、「大和」が損傷を受けて入渠する。 

第7船渠に至急盤木の手配をせよ。」と当時、船穀工場の技術大尉の小官に突然闇から棒の命令があった。

戦艦大和が前夜、軽巡、駆逐艦を従え描地を出発。 

豊後水道より東シナ海に出て沖縄へ向かう途中、待ち構えていた多数の米軍機の攻撃を受け左舷浸水、残った右舷機関で15節にて航行中、修理の為に佐世保に向かっている、と連絡が入った。

沖縄上陸の米軍を攻撃すべく、連合艦隊司令部は「天一号・菊水一号作戦」を発動。

伊藤 整一 中将率いる第二艦隊の戦艦「大和」 軽巡「矢矧」 駆逐艦「涼月」「冬月」「雪風」「磯風」「浜風」「朝霜」「初霜」「霞」が、海上特別攻撃隊を編成、この精鋭が大挙して南下していた。

戦艦 「大和」


軽巡洋艦「矢矧」


駆逐艦 「朝霜」

特に「大和」は「沖縄に突入、陸に乗り揚げ砲台となり攻撃すべし。」との命令を受けていたと風聞もあったが、まさか軍司令部が、そこまで血迷っていたとは思いたくない。

ともかく沖縄の作戦に従事すべく、南下中に損傷を受けた「大和」を第七船渠に迎え入れて、早急に修理し戦線へ戻さなければならない。

その為に船渠にキ-ル盤木を設置し、艦を受け入れる用意をするのが与えられた任務だ。

盤木の配置は艦の重量を均分に支え、船体に無理な荷重が掛らぬ様にしなければならない。

それ故に、大和用の「盤木配置図」(軍極秘)が作られている。

此の図面が設計主任より提示され、それを中心に技師、技手等と詳細の打ち合わせに入る。

昭和16年 呉海軍工廠で最終艤装中の戦艦「大和」


「第七 船渠」
この船渠は「大和」「武蔵」の超巨大戦艦の建造と同時期に、これら新造艦を入渠させる為の設備として計画され、大和型戦艦を超える長さ 332m 幅 47mの艦艇まで収容が可能で既に昭和16年1月に完成していた。

そして幸いな事に、此の佐世保のドックは「大和」の姉妹艦である「武蔵」を収容した事がある。

昭和16年7月 当時、長崎の三菱造船所で建造中の戦艦「武蔵」が推進機取付け工事の為に、このドックに約一ケ月間入渠した。

推進機の工事は三菱側に拠って機密裡に行われ、佐世保工廠側はタッチする事は無かったが入出渠作業は佐世保の仕事であり、その経験が今回は役立った。

図面での配置の検討、盤木の用意、作業員の割当、諸々の準備、これは大変な仕事だった。

明日の朝、艦の到着までに何としても仕上げなければならない徹夜の作業だ。

然し、燈火管制下の微かな灯りの下では、作業が進まない。第一に危険だ。

「照明を点けて作業をさせたく、灯火管制の解除をお願いしたい」と造船部長に申し出る。

勿論造船部長だけでは決定出来ない。工廠長へ、或いは鎮守府長官まで具申が行ったのかも知れないが、やがて「了承 」となり、明るい灯火の下で夜を徹して盤木の整備が進む。

「傷ついた大和を少しでも、早く修理して戦場へ戻すのだ。」と、言う使命感が作業を捗らせる。

幸い空襲も無く工事は順調に進み、漸く空が明るくなり始め、作業が八分通り済んだ頃だ。
 

「作業に及ばず」
突然、「作業に及ばず」即ち、直ちに作業を中止せよ。との司令が現場に届いた。

今になって此の指示とは、さては「大和」は沈没したのか。

張りつめていた気が一気に緩み、疲れがどっと出た。

大和の佐世保入渠が取止めになり、漸く「大和」の為に並べた盤木をバラし、小型艦艇用に配置を替える作業が情けない思いで続けられた。


「戦傷無惨」
8日朝、「大和」と戦場へ向かっていた随伴駆逐艦が無惨な戦傷の跡を見せ入渠して来た。

「冬月」「雪風」が入港し、続いて昼過ぎに「初霜」。

駆逐艦 「冬月」


駆逐艦 「雪風」


駆逐艦 「初霜」

その姿は何れも満身創い、刀折れ、矢尽きたと言う様相で激しい闘いの跡を偲ばせている。


忘れられない光景がある。 

夕刻、薄暮の頃、最後に「涼月」が漸く辿り着いた。

まさしく辿り着いたと言うべきであろう。

「涼月」は、艦前半部が完全に破壊され沈没寸前にあったが、残った後半部のみが上甲板が燃え続けるまま人力操舵により、舵、推進器を先頭に後進の姿勢で佐世保に入ってきた。

駆逐艦 「涼月」 佐世保海軍工廠 艦橋楼より前部を失っている。

自動車で言えば、バックで後進強速9節。

暗闇の東シナ海を突っ走り、今やっと辿り着いたのだ。

火災で煙を上げながら漸く艦が岸壁に近づいた時、既に帰投していた「冬月」「雪風」「初霜」の乗組員や船渠の作業員達が驚異の眼でその姿を迎え、やがて大歓声が港中に沸いた。

「よく帰って来た。」 ここに日本海海戦以来の海軍の伝統を受け継ぐ武人がいた。

「涼月」をブイに係留をしようとすると突然、艦首が沈み始めた。 

そこで急遽、船渠の扉を開き、曳船に抱きかかえられる様にして船渠に引っ張り込んだ。

排水の始まった船渠の盤木の上に「涼月」の疲れた船体がやっと落ち着いた時、船渠を囲んだ皆の顔に安堵の色が浮かんだ。

第二艦隊の精鋭のうち生きて帰ったのは、この4艦のみ。

これが天一号作戦の終焉であった。


「疑問」
終戦後、戦艦「大和」の記録を読む度に、私を捕えて離さない疑問がある。

戦記資料では「大和」の沈没は昭和20年4月7日 14:23 対空戦闘2時間余の後とある。

だが私達は、この時刻の頃から「大和」入渠準備作業を始め、徹夜で作業をを続行した。

明くる8日の朝、「作業に及ばず 」 つまり大和沈没を知らされるまで15時間もある。

この時間の差は何であろうか。

当時の戦況は、7日の払暁「大和」は大隅海峡通過して直後より、米軍機の追尾を受ける。

以降の行動は米軍に隈無く把握され、軍司令部にも通信を密にする。

12:32 敵機 百機以上の攻撃始まり、最大戦速27節を振り絞り、左に回避を続ける。

13:00 魚雷命中、すべて左舷に5本。傾斜計指度上昇し始む 右舷防水区画に注水

(以下、私の推定)
13:30  軍司令部は「大和」に応急修理の為、佐世保に回航を指示。
       一方、佐世保工廠に 修理の手配を命ず。

14:00 佐世保工廠、造船部、第7船渠準備会議

14:23 軍令部「大和」沈没を知る。
      然し、海軍は「大和』の沈没は軍機事項で公表できない。
      佐世保工廠の準備は、頬被りのまま続行させる。

16:39 軍令部 特攻作戦の中止を発令。
      然し、此の指令が現地、関係機関に届くまでには、かなりの時間を要した。

翌8日朝、損傷駆逐艦の佐世保入港を控え、止むを得ず工事の変更を指示。
      
即ち「作業に及ばず」の発動。

15時間の空白は、軍司令部が己の面目を堅守する為に、大和沈没の発表をぎりぎりまで遅らせ、佐世保に無駄な仕事をさせた事を意に介しない。

あの15時間、無駄に費やされた技術士官や、工廠作業員の徹夜の努力、敢えて言えば愛国心の凝結は何の為だったのであろうか。

根底にあるのは「海軍全体のケジメ」だ。

大和の出撃も敗戦後「大和」が残存していては、これまた己の面目を失う。

闘い抜いて全滅した航空部隊に申し訳ない、「大和」に死んで貰え。 

そこで参謀が呉へ行き「一億総特攻の魁となって戴きたい。」言い換えれば「頼む死んでくれ海軍の姿勢を見せろ」と知性派であり部下を思い兼ねて水上特攻に反対していた第二艦隊司令長官 伊藤整一中将や大和艦長 有賀大佐を説き伏せ強行したと聞くが、議論が面倒になり「死ねばいいんだろう。」と、なった様にも聞く。

帝國海軍が誇るべき戦艦「大和」は、また三千名の乗組員は海軍の、しかも一部の指導層の面子の為に海の藻屑と消えたのか。

終戦60年、今また海軍上層部に対する腹立たしさが込上げて来る。

目前の戦術のみ有って、戦略無き海軍上層部は遂に海軍を潰し、日本を敗戦に追い遣った。

百年前の日本海海戦において戦果を修めた伝統は何処に失せたか。

海軍上層部の無能が太平洋戦争の敗戦の要因であると、悲憤慷慨する。

今になっても戦火の余燼の煙を漂わせながら、後向きにヨタヨタと入港してきた「涼月」の勇姿を忘れる事は出来ない。

嘗て海軍に籍を置いた老技術士官、ここに無念のキーを措く。


・・・・・以上、故人の回顧録より。  戦争・第四部 「運命の瞬間」に続く。






戦艦「比叡」 金剛型戦艦2番艦 同型艦「榛名」「金剛」「霧島」

改装時に大和型戦艦の試験艦として新技術が導入され南雲機動部隊の一艦として行動する。

第三次ソロモン海戦で喪失。 太平洋戦争で最初に沈没した日本海軍の戦艦となった。



世界最大の戦艦、高速巡洋艦隊、駆逐艦隊、空母機動部隊、水雷戦隊、航空潜水艦。

当時の最新技術が詰込まれ様々な条件や被害を想定し配置など熟慮工夫された艦艇。

無敵の大日本帝國海軍連合艦隊。

空を舞う零戦、艦攻、艦爆、陸攻、飛行艇の勇姿を見て、若い兵達は帝國の勝利を信じた。

欧米を知らず、あの時代に生れていたら自分も、そう信じて疑わなかったに違いない。

優秀な技術者が良い物を沢山作り、祖父や伯父さんが籍を置いた日本海軍が自分は好きだ。


日本の軍人は国の為に戦い死ぬ覚悟をする。

しかし年功序列の海軍内一部上層部の石頭が艦隊決戦に固執して、新技術や思想を否定し用兵と作戦計画の失敗から勝てない戦闘、戦争に多くの将兵を死なせた。

軍縮条約を破棄してまで巨大戦艦を建造させておいて、戦艦は海戦で艦隊の先頭に立つ事はなく、帝國海軍、いや世界最強の主力戦艦を後方に温存し末期まで敵と砲火を交える事も無かった。

何時も奇襲、騙し討ちが成功する訳がない、作戦参謀は常に会敵と失敗に備えて2段、3段構えでバックアップの作戦を考える必要があった。

ミッドウェー作戦は米空母を誘出撃派を謳いながら必要の無いアリューシャン陽動に兵力を分散し、充分な護衛も付けず、4空母だけに突っ込ませ、旗艦「大和」と連合艦隊主力部隊は300マイルも後方の米艦載機攻撃範囲外、基地にも敵空母にも夜襲を掛けるには遠過ぎる安全圏で観戦。

「へぼ将棋、兵より戦艦かわいがり」 これでは違う意味の「アウトレンジ戦法」だ。

自分も「長門」や陸奥」「大和」も「武蔵」も好きだ、しかし戦艦は戦う為に生れて来た。

制空権を奪われ、防空能力に劣り足が遅い戦艦は高速空母機動部隊の足で纏いになる。

長期戦略と作戦計画に失敗した上層部は言い訳した。

浮いている物は何時か必ず沈む、絶対的不沈艦など有り得ない。

制空権の重要性、護衛戦闘機が無い戦艦、航空支援を受けられない艦隊は丸腰だ。

陸攻隊が航空雷爆撃で大英帝国海軍が誇る最新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を開戦2日 僅か2時間で沈めた。


「航空主兵」

帝國海軍自らが初戦の真珠湾攻撃とマレー沖海戦で世界に証明した事だ。

大戦末期まで戦艦を温存しながら練習機や戦闘機を自殺機に改造し、次々に特攻兵器を作らせて日本の将来に必要、有望な多くの若者を人間爆弾、魚雷として敵艦に突っ込ませ体当りさせた。


百年兵を養うは、何の為か。

特攻は戦法などではない、己の失敗失策を若者達の命で穴埋めさせるな。

兵を育てず、駒として使い殺す海軍は勝利しない。 

必要以上に優秀な若い兵を無駄死にせない事が勝利に繋がる。

生き残った戦艦「大和」も最後には上層部は面目の為に多くの乗員と共に水上特攻させた。

日本の宝 沖縄を護る。 日本海軍として当然の責務である。

だが海岸に擱座させ陸上砲台にし玉砕させるのが、帝國海軍の戦艦と水兵の使い方なのか。

勇敢に戦い殉じる若い空兵、水兵、陸戦隊は国の誇り。 

彼らの命を大切にして欲しかった。



戦艦「武蔵」 1944年10月24日 レイテ沖海戦で魚雷23本 爆弾17発命中 至近弾18発以上の(武蔵副長 加藤憲吉大佐の記録に拠る)軍艦史上最多の損害を受け、初弾被雷より約9時間後にシブヤン海に沈没。

戦艦「大和」 1945年4月7日 魚雷10本 爆弾5発以上(日米戦闘詳報一致せず。)左舷に集中雷撃を受け坊ノ岬沖に沈没。

多くの海戦に出撃して奉公したかった「大和」も「武蔵」も航空機に嬲り殺しされて無念であろう。


ミッドウェー海戦で「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」正規空母4隻・艦載機289機 重巡 「三隈」沈没  戦死者3,057名

米海軍側損失 空母「ヨークタウン」駆逐艦「ハンマン」沈没 戦死者 307名


天一号作戦・坊ノ岬沖海戦では 戦艦「大和」軽巡「矢矧」駆逐艦「磯風」「浜風」「朝霜」「霞」沈没  戦死者3,700名(うち「大和」乗艦 2,740名)

米海軍側損失 艦載機 10機 戦死者12名



山本五十六、米太平洋艦隊に大打撃を与え米国の戦意を喪失させ早期に講和に持込む。

開戦前、大艦巨砲・艦隊決戦主義は日本だけでなく、世界の海軍で主流であった。

寧ろ日本海軍は列強の海軍より航空艦隊・空母機動部隊の整備は先んじていた。

山本長官は米国駐在武官でハーバード大学留学、帰国後に海軍航空本部技術部長に就き、自からも航空機の操縦を学んだ航空主兵論者だった。

だが大日本帝國軍は陸軍・海軍の軍令部はおろか、開戦に及んでも連合艦隊内ですら意志統一がなされていなかった。

また艦隊決戦主義者の中にも制空権の重要性と航空攻撃の打撃力に気付き、航空主兵に主眼を置き始めた将官も多くいたが時既に遅し。

短期で主兵を転換する工業力など日本にはない。

建造中の大和型戦艦三番艦を空母「信濃」に変更、「雲龍」「天城」は完成したが搭載する航空機も燃料も無く、魚雷と爆弾の標的となり短過ぎる艦齢を終えた。


開戦後、もっと早い時点で戦艦も前に出し主砲を撃込める作戦と機会は幾度もあった。

戦局が悪化し始めた頃でさえ、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への戦艦に拠る夜間艦砲射撃に反対した艦隊決戦主義者がいた。



連合艦隊戦艦の戦歴

「陸奥」
1943年6月8日 一度も交戦する事なく柱島で三番砲塔火薬庫が爆発を起こし沈没。

「長門」
1944年6月19日 マリアナ沖海戦に第二航空戦隊 空母「飛鷹」「隼鷹」の護衛として参加。

1944年10月24日 捷一号作戦に参加、シブヤン海で米空母艦載機の爆撃で被弾、内地へ帰港

1945年7月18日 横須賀で米空母艦載機の爆弾3発を受け艦橋が破壊され終戦を迎える。

1946年7月29日 米海軍に接収、ビキニ環礁に回航され、実験で2発の原爆を受け沈没。


レイテ湾で米艦載機の空襲を躱す、航空戦艦「伊勢」 伊勢型戦艦一番艦 同型艦「日向」  

5・6番砲塔を撤去し射出機と飛行甲板を備え、副砲も全廃され対空兵装が強化された。

「伊勢」「日向」は、ミッドウェー海戦で喪失した航空兵力を補う為、爆発事故で五番砲塔を失っていた「日向」と姉妹艦「伊勢」を航空戦艦に改装、レイテ沖海戦に参加したが航空機は一機も搭載する事なく射出機を撤去、その後は両艦は物資輸送に投入され内地へ帰港、呉港で2度の空襲を受けて1945年7月 両艦ともに大破着底した。


戦艦「扶桑」扶桑型戦艦一番艦 同型艦「山城」

「扶桑」「山城」
1944年10月22日 第二艦隊第三部隊としてブルネイ泊地を出撃、レイテ沖海戦に参加。

「扶桑」は爆弾1発 魚雷4本が命中し沈没、「山城」もレーダー射撃と雷撃を受け沈没。


戦艦「金剛」 金剛型戦艦一番艦 同型艦「榛名」「比叡」「霧島」

空母機動部隊に随伴護衛出来る様に第二次改装で最大速力は30.3kt に引上げられた。

「金剛」「榛名」は開戦当初から南方攻略部隊の支援任務に就き、ガダルカナルの攻防戦で2隻は共にヘンダーソン飛行場を砲撃、マリアナ沖海戦は機動部隊の護衛として出撃。

レイテ沖海戦サマール島沖で米護衛空母「ガンビア・ベイ」を撃沈して両艦も損傷を受ける。

1944年11月21日 日本への帰投中「金剛」は台湾海峡で米海軍潜水艦「シーライオン」の雷撃を受け魚雷2本が命中、基隆北方で沈没。

「榛名」は内地に帰港したが、呉港で「伊勢」「日向」と共に2度の空襲に拠り20発以上の命中弾を受け浸水、1945年7月 大破着底。


戦艦「霧島」

「比叡」「霧島」は第八戦隊に編入され重巡「利根」等と南雲機動部隊と行動を共にした。

1942年11月13日 第三次ソロモン海戦で「比叡」は、集中砲火と航空爆、雷撃を受け自沈。

11月15日 「霧島」も米艦隊との夜戦でレーダー射撃に拠る9発の命中弾を受け自沈。



米空母を討ち漏らし第2次攻撃を掛けず港湾修理施設を破壊せず不十分な攻撃で機動部隊を引上げた真珠湾攻撃に於いても戦艦、巡洋艦による湾内の艦砲射撃を提案した将官もいた。

油が底を突き、動けなくなった丸腰の戦艦は巨大なスクラップ、叩き易い標的になる。

例え斬り込んで戦艦、巡洋艦隊が被害を受け、潔く早い時点で戦争に負けても戦線を拡大し無意味に長引かせ多くの人命を犠牲にして国を消耗、壊滅させるより遥かに良い。

少しでも好状態で講和を、ミッドウェー辺りでもう一撃食らわせたい気持ちは解かる。

末期には戦艦「長門」をはじめ艦艇数隻をウラジオに回航してソ連と航空機や燃料と交換するという、スターリンを信じる能天気な計画もあがった。

敗戦の原因は列強との国力、工業力だけの差だけではない、最前線を知らぬ大本営作戦部の甘い憶測から立てた無謀な作戦が常に米英軍の後手に回り首を自軍の絞めた。

米国を仮想敵としながら鉄や石油の殆どを米国に依存していた日本海軍。

海軍には自ら艦隊の先頭に出て指揮を執り闘い、三国同盟や特攻に反対する者も多くいた。

多くの高級幹部将官は武官として欧米に派遣された経験があり、日本と列強の国力や技術、生産力の差を充分に理解していた。

連合国相手の消耗戦に本気で勝てると思っていたバカはいないと思いたい。

しかし日米開戦を望んだのは大陸で中国と戦争をしていた陸軍ではなく、海軍の多数を占めた対米英強行派の連中と国民世論と政府内閣であった。

国の存亡興廃、国運を賭する国防と云うものは一部軍人軍閥の占有物であってはならない。

また文民統制、シビリアンコントロールも万能ブレーキではない。


負け戦を美化しては、いけない。 検証し反省しなければ、また負ける。


この戦争で国と家族の未来の為に戦い亡くなった総ての方への感謝と哀悼の念は堪えない。


我々子孫は、日本を彼らの死に恥じない国にしなければいけない。



旧態依然、現実と未来を予見出来ない戦艦至上主義者が制空権を軽んじ航空主兵や潜水艦に拠る補給路切断戦等の新しく合理的な考えを否定した為、日本海軍は対空防御、無線電話、レーダー、ソナーなどの新兵器の開発が遅れる。

「現有対空射撃兵器を以てしては、之を如何ほど増強し、如何に教育訓練に努力せしも、その到達する所の射撃実力には限界あり。もっとも現有の対空射撃兵器の性能は主砲、高角砲、機銃、共に極めて貧弱であり、現下の複雑困難にして熾烈なる対空戦闘には通じるものに非ず。」

レイテ沖海戦で米軍機の雷撃を受け戦列を離れた重巡「妙高」の対空戦闘の所見である。

既に海戦は平面から3次元戦闘の時代に移り、敵は海上だけでなく水中、上空から襲い掛り多くの艦艇が潜水艦に沈められ、世界最強の不沈戦艦「武蔵」も「大和」も航空機に拠って沈められた。




防空駆逐艦「秋月」 秋月型駆逐艦一番 同型艦「涼月」他、全12艦 
10cm連装高角砲4基 25mm機銃 3連装5基 13mm機銃 単装4基 4連装魚雷発射管 1基 爆雷投射器2基 爆雷投下軌条2基 基準排水量2,700トン 最大速力 33.0kt

秋月型駆逐艦は、艦対空能力に優れた防空型駆逐艦として開発され、艦隊防空を担当した。

大口径砲と攻撃に熱心だった日本海軍は防空の重要性に気付き列強に遅れ、戦艦や巡洋艦の対空防御兵装を慌てて強化を進めるが、防空巡洋艦の建造計画は中止になり、秋月型駆逐艦(軍令部が水雷戦に拘り、4連装魚雷発射管を装備した)を建造するまでは、防空専用艦は無く、高射速の高角砲を持たない駆逐艦が、艦隊の護衛に就いても分厚い対空弾幕は張れなかった。

秋月型は1944年に13号対空電探を装備したが対空目標の照準追尾及び砲角調整は人力で行っていた為、命中率は低かった。


対する米海軍は早期から防空専用艦を建造し、優秀なレーダー網と無線交信に拠り防空管制が敷けた上、レーダー自動追尾射撃システムを持ち、マリアナ沖海戦以降は対空砲弾にVT信管を採用した事に拠り、命中率と艦隊防空能力を格段に向上させた。



現代の防空護衛艦「秋月」

護衛艦 DD-115「あきづき」 あきづき型一番艦 同型艦「てるづき」「すずつき」「ふゆつき」
FCS-3A射撃指揮システム・僚艦防空対空戦闘システム・高性能対空・対潜・対艦能力を持つ2軸ガスタービンエンジンの最大速力は、公称 30kt 以上、速力は旧海軍時代と変わらないが回頭性、俊敏性などの運動能力は格段に向上している。

また仮に40kt以上出せても現代のホーミング魚雷や対艦ミサイルは振り切れず、電子音響妨害やデコイ・マスカー・迎撃ミサイル・アスロック短魚雷、CIWSレーダー射撃で対処する。



生れ変わった防空駆逐艦「涼月」

DD-117 護衛艦「すずつき」 あきづき型護衛艦 3番艦 進水。

現在、三菱重工業長崎造船所で兵装艤装中、2014年3月 就役予定。

駆逐艦 「涼月」は上記の故人の回顧録にも記述されている帝國海軍の防空駆逐艦の3番艦。

昭和20年4月 戦艦「大和」と共に沖縄特攻作戦に参加、大破しながらも帰投し終戦を迎える

先代の艦歴と爽やかに澄み切った秋の月を意味する「すずつき」の語感は同じく防空を主任務とする「あきづき」型3番艦として相応しく、2012年10月17日 進水命名された。


日本の歴代艦艇の名は美しい。 



Fleet in being 

強固な防衛力、優れた艦隊は戦わずして存在する事で国の安全を保障するべきものである。


強く優秀な不戦艦隊は、今現在の日本にも必要だ。



新造艦「すずつき」と乗組員が、初代「涼月」のように戦場に出る事なく無傷で退役する事を祈る。




「太陽の帝国」 マリアナ諸島 テニアンの戦い
 に続く。





日本の近代史・戦史を書いたブログ

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この記事へのコメント

2024年12月11日 23:42
軍艦オタクのhokutinと言います。
大好きな記事ばかりで目が奪われます。
これからも覗かせて頂きます。
コメントへの返答
2024年12月12日 11:05
コメント有難う御座います。
最近は自分自体が戦闘能力に衰えを感じ
艦齢も経た老朽艦となり退役を考えております。

プロフィール

「朝、伸び過ぎた髭も剃らずにお出掛け。
「お誕生日おめでとうございます♡」と言って
くれたのは交通安全協会のおネエちゃんだけ。
自費で5年前と同じ免許証入れのプレゼントw
毎回、焦りまくりボタン連打の深視力検査ww
今年もなんとか運転免許更新を無事にクリア。」
何シテル?   05/25 16:15
元・気楽な海上サラリーマン  現・厳しぃ陸上自営隊  時々・トランスポーター 
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