
常磐線の運行本数が「取手で半減」する複雑な事情
地磁気観測所と鉄道電化の長い「攻防」の歴史
草町 義和 : 鉄道プレスネット 記者
2025/05/23 4:30
(上)常磐線の取手-藤代間を走る特急列車。脇に見える「紅白ひし形」の標識は「デッドセクション」を示すもので、地磁気観測所と鉄道電化の複雑な事情を体現している(筆者撮影)
(下)地磁気観測所とその周辺の鉄道路線(黒=直流電化、赤=交流電化、紫=非電化)。現在は地磁気観測所から半径35km程度(薄赤円)が事実上の直流電化規制圏になっている(国土地理院地図を筆者加工)
土浦市は茨城県南部に位置する人口約14万人の都市。古くから城下町として栄え、周辺には霞ヶ浦や筑波山、筑波研究学園都市がある。常磐線が市内を南北に縦断しており、東京都心への通勤交通も整っているように思える。しかし、東京都心と土浦を直接結ぶ列車は少ない。
2025年5月時点の時刻表(平日下り、特急除く)によると、上野―土浦間の66.0kmを直通する列車は1日60本。土浦と同じ60km台の主要都市駅の場合、上野駅からの直通本数は宇都宮線の古河駅と高崎線の熊谷駅が70本台で、これに新宿・池袋方面からの湘南新宿ラインを加えると100本を超える。
■電車の登場で移転した
「地磁気観測所」
区間別の本数では、上野―北千住間が134本。東京メトロ千代田線が乗り入れる北千住―我孫子間は250本台と大幅に増える。我孫子駅で列車の行き先が常磐線方面と成田線方面に分かれるため我孫子―取手間は138本に減るが、それでも100本台を維持。ところが、取手―土浦間は100本を割り込むどころか半減以下の61本まで落ち込んでしまう。
常磐線はなぜ、取手を境に列車が大幅に減るのか。そこには茨城県石岡市内にある「地磁気観測所」と鉄道の、長い「攻防」の歴史が詰まっている。
地磁気観測所は、地球とその周辺空間で構成されている磁気の場(地磁気)を観測する気象庁の施設。その観測成果は無線通信に障害を発生させる磁気嵐の予報などに役立てられている。
地磁気観測の歴史は古い。日本初の本格的な鉄道が開業してから11年後の1883年、現在の東京都港区赤坂に臨時観測所が設置されている。1887年ごろには、江戸城旧本丸北桔橋門にあった中央気象台(現在の気象庁)構内での観測が始まった。
しかし1903年、東京で路面電車が開業。1904年には甲武鉄道(現在の中央本線)が電車の運転を開始する。このころから地磁気観測の「人工撹乱」が報告されるようになった。
電車が使う電気は変電所から架線を経て電車に入り、モーターを回してレールに流れる。このとき電流の一部が「漏れ電流」として地面にも流れるが、これが雑音になって地磁気をかき乱し、観測を困難にするのだ。
このため、東京市電気局(現在の東京都交通局)が観測施設の近くを通る路面電車を計画したのを機に移転が決定。中央気象台は「将来電車などが通りそうもない所がよい」(地磁気観測所編『地磁気観測百年史』1983年3月)として茨城県の柿岡町(現在の石岡市柿岡)を移転先に選び、明治から大正に変わった1912年、地磁気観測所が完成した。
■茨城でも「電鉄計画」で再び問題に
ところが大正末期、周辺で私鉄の電鉄路線が計画されるようになる。昭和初期の1928年には、鉄道省(のちの運輸省、現在の国土交通省)が東京と筑波山を結ぶ筑波高速度電気鉄道の営業計画を許可。中央気象台は鉄道省に抗議するが、民間団体の関東商工会議所連合会は電鉄の整備に支障が生じるとして地磁気観測所の移転を要望し、問題化した。
中央気象台の第5代台長を務めた気象学者の藤原咲平は、のちに「茨城県では初めは土地の繁栄の意味で(地磁気観測所の柿岡への移転を)歓迎せられましたが、今では茨城県の交通の妨害をするといふやうな意味で地方の名誉職の方や県会議員といふやうな方が頻りと気象台を攻撃されて居ります」(『気象と人生』鉄塔書院、1930年)と語っている。茨城の「心変わり」に困惑していたようだ。
結局、地磁気観測所から半径30km程度の範囲では鉄道の電化を規制するという国の方針が1928年末までに事実上固まったようだ。周辺で計画された電鉄は非電化の蒸気鉄道として開業したものや、観測への影響が小さい低電圧で開業したものもあるが、筑波高速度電気鉄道は計画自体が消滅した(この経緯は2019年11月22日付記事『上野発着狙っていた「幻のつくばエクスプレス」』を参照)。地磁気観測所は現在、電車による観測への影響が35km程度まで及ぶとしている。
一方で国鉄の常磐線は1936年に松戸まで電化。戦後の1949年には電化区間が取手駅まで延伸された。ここまでは電化規制の圏外だったが、国鉄はさらに電化の拡大を計画。地磁気観測所からの距離は土浦駅が約18km、石岡駅が約9kmで規制圏に入る。地磁気観測所と鉄道電化の問題が再燃した。
■「交流電化」で問題回避
運輸省は1951年に小委員会を設置して技術的な検討を開始。1952年春から1953年春にかけ、東武鉄道と我孫子付近の既電化区間で電車による磁場撹乱の実測を行っている。1953年には運輸省や国鉄、中央気象台などによる協議会が設置され、調査と協議が本格化。常磐線の既電化区間で試験を実施し、1956年2月に「国鉄が採用している直流方式の電化は不可能」「交流方式の電化なら可能」と結論付けた。
当時の日本の電化路線は直流方式だけだったが、国鉄が1953年ごろから交流方式の電化を研究していた。交流は送電ロスが少ないなどの利点に加え、地磁気観測への影響も小さい。こうして1961年に取手以北が交流電化。取手駅から次の藤代駅までのあいだに直流と交流の境界になる無電区間(デッドセクション)を設け、ここで電車の回路を切り替えるようにした。
ちなみにこのころ、国土地理院の地磁気観測施設である鹿野山測地観測所(千葉県君津市)でも、近くを通る房総西線(現在の内房線)の電化計画が問題になった。こちらは直流方式で電化しつつ、変電所の間隔を通常より短くして架線・レールを電気的に分離。これにより漏れ電流を減らした。測地観測所も一部の観測業務を岩手県水沢市(現在の奥州市)に移転して対応している。
交流電化により常磐線の電化問題は一件落着……のはずだったが、1981年ごろにまたしても問題化する。茨城県などが地磁気観測所の移転による常磐線の直流化を要望したのだ。
■「直流化」で列車増発へ移転要望
常磐線では東京都心から取手まで直流電車が大量投入され、高頻度運行されている。一方、直流電化規制圏の土浦方面に直通する列車は直流と交流の両方に対応した電車を使用しているが、交直両用電車は構造が複雑でコストが高い。そのため大量には導入できず、運行本数も抑えられてしまう。そこで茨城県などは、地磁気観測所が移転すれば直流電車が乗り入れ可能になり、列車が増えると考えた。
これに対して気象庁は難色を示す。この時点で柿岡での観測開始から70年近くが過ぎており、同一地点での観測結果の連続性も重要になっていた。ここへきて移転すれば、せっかく蓄積してきた観測データが無駄になりかねない。
ところが気象庁は1982年8月に「地磁気観測所と地域開発が共存しうる道、あるいはその制約条件などについて検討を加える用意がある」と表明する。9月には茨城県や運輸省、気象庁、地磁気観測所、国鉄などで構成される地磁気観測所問題研究会が発足。技術的検討が本格化した。
これに先立つ1982年2月ごろ、関東鉄道が常総線の取手―水海道間を直流電化する計画を気象庁に打診している。この区間は東京の通勤圏で1977年から複線化が進んでいたが、水海道駅付近が直流電化規制圏のため電化できずにいた。
関東鉄道が示した計画は内房線と同じ特殊な方式で、変電所の設置間隔を短くして架線とレールを細かく分割。地磁気観測への影響は従来の直流電車の4分の1に低減できるとした。常総線と常磐線は地磁気観測所からの距離など条件が異なり一緒くたにできないが、気象庁の考えが変化した背景には関東鉄道が打診してきた計画があったのかもしれない。
地磁気観測所は1982年11月8~12日の深夜、特殊な方式による直流電化を想定した試験を常総線の沿線地域で実施。取手―水海道間を直流電化しても地磁気観測に影響を及ぼさないことを確認している。続いて1983年の1月から2月にかけては、地磁気観測所問題研究会の専門部会として、常磐線の既電化区間で直流電車の実測試験を実施した。
■一部機能の移転案は実現せず
こうして検討が進んだ結果、地磁気観測所の一部機能移転案が浮上する。観測所では地磁気の変化を長周期と短周期で観測しているが、このうち短周期観測は移転可能とし、これにより直流電化規制圏を半径18kmまで縮小できるとした。これなら常磐線は取手止まりの直流電車を土浦まで延長でき、常総線も特殊な方式によらず直流電化できる。
しかし、この案が実行に移されることはなく、1994年ごろに事実上断念されている。一部といっても移転費用がかかるし、さらに取手―土浦間を直流方式で電化しなおすための費用もかかる。これを誰がどう負担するか、解決できなかった。
ちなみに常磐新線(つくばエクスプレス)がこのころ着工したが、都心寄りが直流、規制圏の筑波寄りは交流で整備された。関東鉄道は1994年、常総線の電化について直流で305億円、交流では240億円かかるとの試算を提示。沿線開発や関係機関の協力がないと電化は困難との認識を示しており、これも事実上断念されている。
しかし、常磐線の直流化を求める声はいまもくすぶっている。たとえば茨城県が2024年6月にまとめた国への要望事項では、地磁気観測所の早期の県外移転が盛り込まれている。
実際のところ、地磁気観測所の移転と常磐線の直流化はどのくらいの費用がかかるのか。地磁気観測所に関しては、1995年5月27日付『朝日新聞』東京地方版(茨城)が「35億円とも50億円ともいわれる移転費用」と報じている。
■直流化にいくらかかる?
交流電化されていた滋賀・福井県の北陸本線・長浜―敦賀間と湖西線・永原―近江塩津間(合計51.7km)を直流化したプロジェクト(2006年完成)では、車両費を含む総事業費が161億3400万円。1kmあたりでは約3億1200万円だった。これを単純に常磐線の取手―土浦間26.4kmに当てはめると約82億3700万円。移転費と合計すると最大で132億円程度だ。
ただ、北陸本線・湖西線と常磐線では列車の本数と必要な車両数が違いすぎるし、現在の物価水準を考えると132億円で済むとはとても思えない。それに地磁気観測所の柿岡への移転では当時の東京市が費用を一部負担しており、北陸本線・湖西線の直流化でも総事業費の9割近くを滋賀県と福井県が負担している。茨城県はどこまで負担できるだろうか。
あるいは、最終的な目的は直流化ではなく列車の増発だから、直流電車と交直両用電車のコスト差を国が補償するといったことも考えられる。実際、茨城県も同様の考え方を国への要望事項として盛り込んでいる。今後もこの問題は折に触れて浮上するだろうが、何かいい知恵が出てくればと思う。
東洋経済ONLINE 6月28日(土)より
≪くだめぎ?≫
"列車の増発"、と言えば「客車」である。万博最盛期であるが、「1970年・大阪万博」輸送で国鉄は"12系客車"を投入した。現在のJRは客貨が別会社であり、機関車を使う客車列車を新設するのに躊躇している。現在も客車が電車・気動車より安価であるは変わらないはずだ。
「常磐線中電」が俗称されていた時は、荷物車・郵便車を連結していた客車列車が途中停車駅を絞って"電車ダイヤ"に合わせていた。EF510、場合によっては"ディーゼル機関車DF200"でも十分足があるはずだが・・。