
「え、そんな路線あったの?」路線図にない地下路線「武蔵野南線」50年の歴史
枝久保達也: 鉄道ジャーナリスト
運輸・物流News&Analysis
2026年3月9日 4:00
稲城市の武蔵野南線地上区間(筆者撮影)
武蔵野南線は3月1日に開業50周年を迎えた。武蔵野線は知っているが、武蔵野南線なんて聞いたことがない、という人もいるだろう。同線は武蔵野線の一部として府中本町~鶴見間を結んでいるが、定期旅客列車は走行しない貨物専用線である。この「知られざる路線」の半世紀の歴史とは。(鉄道ジャーナリスト 枝久保達也)
■約200キロに及んだ「東京外環状線」計画
武蔵野線は、計画・整備段階では4つの線区に分割して進められた。府中本町~南浦和間は武蔵野西線、南浦和~新松戸間は武蔵野東線、新松戸~西船橋は小金線、これらと武蔵野南線、京葉線をあわせて約200キロメートルに及ぶ「東京外環状線」を構成する計画だった。
なおここで言う「京葉線」は、新木場から現在のりんかい線を経由して東京貨物ターミナルに乗り入れる貨物専用線である。鉄道貨物の縮小を受けて、都心線(東京~新木場間)を追加した上で、旅客線として開業したのが現在の京葉線だ。
東京外環状線の構想は戦前から存在したが、高度成長が始まり、輸送需要が急増すると一気に具体化した。1957年に国鉄の「工事線」に指定され、本格調査に着手。1964年に鉄道建設公団が発足すると、武蔵野線は公団の担当とされた。
1950年から10年間で、貨物輸送量(トンキロ)は73%、旅客輸送量(人キロ)は80%増加した。しかしながら、当時の鉄道網は貧弱のひと言だった。主要路線の複々線区間はわずかで、貨物専用線も山手線(田端~品川間)、東北線(田端~大宮間)、東海道線(品川~鶴見間)程度。旅客も貨物も増発の余地はなかった。
特にネックだったのは、都心を通過する貨物列車の存在だ。主要各路線のジャンクションは山手貨物線しかなかったので、東京が目的地でない貨物列車も都心に乗り入れていた。これを迂回させれば、その分の旅客列車が増発可能であり、貨物専用線の貨客併用化も期待できる。
1960年から1965年の5年間は、貨物は5%増だったが、旅客は40%増加し、旅客輸送の逼迫(ひっぱく)がより顕著になった。この頃、国鉄は主要路線の複々線化「通勤五方面作戦」に着手するが、これと表裏一体だったのが武蔵野線だった。
もうひとつの背景は、政府が進める首都圏整備計画だ。これは過度の都心集中を排除するため、首都圏外縁に衛星都市を造成する構想であり、その育成・発展に都市相互間を連絡する鉄道新線が必要とされた。
武蔵野線の開業時輸送計画は、貨物列車が最短4分間隔、旅客列車は朝ラッシュ15分間隔、夕ラッシュ20分間隔、その他時間帯40分間隔だった。これが武蔵野線に対する貨物と旅客の期待の比率だったのだろう。
■貨物専用線の建設に地元住民は激しく反発
さて、そんな武蔵野線で唯一、貨物専用線として建設されたのが武蔵野南線だ。鉄道公団は当時、貨物の推定輸送量が片道1日7万トン、41両編成の貨物列車が片道156本に及び、旅客輸送の余力がないため、と説明している。
鉄道空白地帯を結ぶ府中本町~南浦和~西船橋間とは異なり、武蔵野南線は南武線とほぼ並行し、大半が通過する川崎市は既に住宅化が進んだ地域だ。地上の用地買収は困難なので全区間の7割がトンネル、地下20~40メートルの深さを走っている。
しかし、地元に利益をもたらさない貨物専用線に対する視線は厳しかった。川崎市には、品鶴貨物線(現・横須賀線品川~鶴見間)、東海道新幹線、駅がなく通過するばかりの路線が多かったことから、地元受益の少ない鉄道整備に対する拒否感が特に大きかった。
鉄道公団は1967年にルートの選定作業を終え、同年10月に工事実施計画の認可を得ると市当局と地元住民に説明を行ったが、地盤沈下、振動・騒音公害を懸念する激しい反対に直面した。
この交渉は鉄道公団にとって前例のないものとなった。住民側は問答無用の反対論を唱えたり、補償金のつり上げに走ったりはせず、徹底して科学的・技術的な裏付けとコミュニケーションを要求した。
1971年に最も反対運動が強かった生田地区の反対協議会と締結した覚書は、トンネル工法(メッセル工法)の指定、周辺の地盤沈下モニタリングの実施、毎月の定例報告会の実施、地質調査や契約内容(設計書・仕様書など)の開示などを盛り込んだ異例の内容となった。
対応の先頭に立った生田鉄道建設所所長は後に次のように語っている。現代にも通じる重要な観点なので、やや長いが引用したい。
今まで彼等が目にふれた土木工事の実態から考えて、果たして現場では、建設業者が、たとえばダンプの運転手にいたるまでが、住民の環境保全に対するやり場のないこの気持を理解して、実行に移すであろうかについては根底から不信感があった。そこで土木工事を理解し、監視しようとするムード、彼等の表現を借りれば、「住民参加の土木工事」を考えるまでにいたった。
工事中における発言力を留保するためにも「覚書」が必要であった。「きっと現場はラフな神経で施工するに違いない」この不信感をまず取り除かなくてはならないと、何よりも実績をもって答えようと努力している。
もう一つの不信感は、国は地域住民のこと、自然保護のことをすっかり忘れ、ただ、ただ経済ペースで、時期を変え、担当する部門を変えて公共土木工事として彼等にせまってくるという「公共事業」そのものに対する不信感である。このことについては「政策」に当たる人達の考えなくてはならない事項のように思う。
「ベッドタウンに鉄道トンネルを掘る」『土と基礎』1974年2月号(土質工学会)
■なぜ実現しなかったのか武蔵野南線「旅客化」構想
武蔵野南線の開業で、東海道線と東北・高崎線の相互間列車が山手貨物線経由から武蔵野線経由に変更された。山手貨物線(池袋~田端間)の運行本数は上下計204本から93本に、武蔵野線(新座~西浦和間)の貨物列車は上下23本から152本となり、武蔵野線は名実ともにバイパス路線となった。
南武線の貨物列車の多くは武蔵野南線に移行し、南武線の通勤輸送力増強が図られた。また、品鶴線は横須賀線に転用されることになり、1980年に旅客化した。武蔵野南線が貨物に専念したことで、周辺線区の輸送改善が進んだこともまた事実である。
ところが武蔵野南線の開業時点で、国鉄の貨物輸送量はピークを超えて減少に転じていた。並行して国鉄の経営は加速度的に悪化し、1980年に国鉄再建法が制定されると、巨額の赤字を生む貨物部門の整理、縮小が進められた。1985年の貨物輸送量は1970年のおよそ3分の1まで減少した。
こうした状況を背景に、1985年の運輸政策審議会答申「東京圏における高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について(答申第7号)」は「貨物線の旅客線化」を打ち出し、武蔵野南線を活用した府中本町~新川崎~川崎間及び、武蔵野南線から分岐して新百合ヶ丘に至る接続線の整備を提言した。
答申を受けて川崎市は、新百合ヶ丘から地上駅である梶ヶ谷貨物ターミナルまで新線を建設して武蔵野南線に乗り入れ、梶ヶ谷から新鶴見信号場まで武蔵野南線を進み、新鶴見信号場付近から川崎方面の新線に乗り入れる方針を決定した。
しかし、国鉄分割民営化を経て武蔵野南線の旅客化は暗礁に乗り上げる。貨物全廃もささやかれた国鉄末期とは異なり、民営化後のJR貨物は貨物列車の大幹線を手放すつもりはなく、旅客列車を運行する余地はないと拒否したのである。
同線は大部分が地下20~40メートルにあり、地上駅は梶ヶ谷貨物ターミナルのみ。それ以外の区間に駅を新設すれば巨額の費用が必要だった。また、貨物線が終日運行している中での工事となり、工期の長期化とそれに伴う事業費の増大が予想されることから、コスト面でもメリットはなかった。
武蔵野南線は今も貨物専用線として運行されているが、一般人でも乗車機会はある。筆者は高校時代、大宮~藤沢間の貸切列車に乗車した。当時は鉄道に興味がなかったが、盛り上がる友人がいた記憶がある。
貸切列車はハードルが高いが、吉川美南~鎌倉間を結ぶ臨時特急「鎌倉」なら手軽に乗車できる。今春は3月20、21、28日、4月4、11、18、25日、5月2~5日、6月5~8、12~14、19~21、26~28日に設定があるので、興味があればJR東日本のウェブサイトを確認していただきたい。
ダイヤモンドオンライン
≪くだめぎ?≫
"地下路線・貨物専用線"で正解!だと思う。貨物列車は長大編成で「旅客緩行線」で運行するのに負担を掛ける。特に通勤電車が多い所は深刻だ。貨物専用線に特急列車を流さざろう得ないし、バイパス線として威力を発揮する。貨物列車全盛期ではないから、特に特急列車が発揮できるだろう。