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ディーゼルオート店のブログ一覧

2026年06月08日 イイね!

「マツダモータース店」

「マツダモータース店」マークの歴史
1975年~
(上)企業シンボル
1974年に「企業シンボル」「マツダ書体」「マツダブルー」の三つの基本要素からなるコーポレートアイデンティティ(以下、CI)システムを完成させる。マツダのCIは日本における先駆けになっただけでなく、企業アイデンティティにまで踏み込んだ姿勢と企業活動全体を貫く総合的な展開が各方面で高く評価された。そのCIにおける最高のシンボルとして1975年に「企業シンボル」として制定。
1991年~
(中)プロダクトマーク
プロダクトマークとして導入。マツダの由来となったAhura Mazdaのシンボル「翼」「太陽」「光輪」をイメージ。人間に優しい潤いのあるクルマづくりを願うマツダの心を表現した。
1997年~
(下)「ブランドシンボル」
国内外で複数のブランドを展開する販売施策を見直し。再び「マツダ」ブランドのもとでブランドの統一を図る。マツダの象徴的存在として、1997年に「ブランドシンボル」として制定。その際、従来の企業シンボルをコーポレートマークとして位置づけを見直した。
ブランドシンボルとして1997 年に制定。「自らをたゆまず改革し続けることによって、 力強く、留まることなく発展を遂げていく」というマツダの決意を、未来に向けて羽ばたくMAZDAの<M>の形に込めた。
マツダ より

アンフィニ店時代
1989年、マツダはこれまでのマツダ店・マツダオート店・マツダモータース店・オートラマ店(現フォード店)に新たにユーノスとオートザムを加え、5チャンネル体制を完成させた。これによりマツダモータース店は廃止された。
最終更新 2026年3月27日 (金) 11:07 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

過去に存在したディーラー
マツダモータース店
経営母体は主に町の整備工場で、他チャンネルへの統合等は行われなかった。
5チャンネル時代にはアンフィニの看板を掲げていた店舗もあった。
マツダ販売会社グループには属しておらず、実質淘汰され、独立系に移行した。
引き続きマツダ車専売で営業している店舗や、他社併売ながらマツダ車を中心として扱っている店舗では、看板のデザインが昭和期のもの、5チャンネル時代のもの、現行のマツダ販売会社グループ同様のものなど様々である。
最終更新 2026年5月31日 (日) 08:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
以上 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

≪くだめぎ?≫
 1975年~「MAZDA」を使用しているが、
当時「マツダモータース店」があり、いわゆる「協力販売店」
 1989年~5チャンネル体制を完成して、マツダモータース店は廃止された。
今でも"通称"として残っているのでは・・?
Posted at 2026/06/08 14:21:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2026年06月07日 イイね!

時代に翻弄されたマツダ"5チャンネル"

時代に翻弄されたマツダ"5チャンネル"時代に翻弄されたマツダ5チャンネル
痛恨の失敗とバブルの真相とは
2021年7月26日
  かつて「モノを作れば売れる」時代があった。1986年頃に始まるバブル経済を背景に、国内の各自動車メーカーは販売台数を伸ばすため、ディーラーの多チャンネル化を推し進めた。しかし、やがてバブルが崩壊し、特にマツダはその影響を強く受け、経営危機に陥ることになる。今回は、時代に翻弄された当時のマツダの状況と、その背景となった経済のマクロ的な流れをご紹介したい。
文/鈴木喜生 写真/マツダ
[写真・画像] 空前の大ヒット車「ユーノスロードスター」の販売店。他に、
ユーノスコスモ、ユーノス500など、ユーノスの名を冠したクルマが販売された
■トヨタ、日産、マツダが5チャンネル体制へ
 1980年代、空前の好景気に沸く日本では、各自動車メーカーは販売網の多チャンネル化を進めていった。トヨタは「トヨタ店」「トヨペット店」「カローラ店」「オート店」「ビスタ店」という5チャンネルの販売体制をとり、日産をはじめとした他社も同様の販売戦略に舵を切ったのだ。モデルごとに販売店を分けることで販売網を強化し、販売台数を伸ばそうとしたのだ。
 この流れのなかでマツダは1989年、それまでの販売チャンネルに新たな2チャンネルを加え、以下のような5チャンネル体制を構築した。
①「マツダ店」
ファミリアなどの小型車から高級車までを幅広く扱うメインチャンネル
②「アンフィニ店」
RX-7やMS-9などのスポーツカーを主としたチャンネル
③「ユーノス店」
ロードスター、ユーノスコスモを扱う人気チャンネル
④「オートザム店」
軽自動車、小型車など主としたチャンネル。正規代理店としてフィアットのランチアなども扱う
⑤「オートラマ店」
正規代理店としてフォード車を専用に販売するチャンネル。フェスティバ、テルスターなどを扱う

 しかし、モデルの増加によって開発費が膨らみ、販売チャンネルの乱立はエリア内での販売競争を激化させ、その余波は同社内ブランド間における顧客の獲得合戦にさえ発展。その結果、悪しき価格競争さえ発生することになった。
 そして1990年代初頭、バブルが崩壊し、それがトリガーとなって、マツダは経営危機に陥る。その結果1996年、マツダはフォードに対して株式の第三者割当増資(特定の第三者に新株を引き受ける権利を与えて増資すること)を実施し、その傘下に入ることになったのだ。
■なぜ各社は他チャンネル化に走ったのか?
 ではなぜこの時代、各社は多チャンネル化に走ったのだろう? その遠因となるのは、1985年に先進五ヵ国間で締結された「プラザ合意」だ。レーガン時代のアメリカは、景気が停滞しているのに物価が上昇する「スタグフレーション」に陥っていて、不景気にあえぎ、大量の失業者を抱えていた。それを助長したのが、安くて質の高い日本製のクルマや家電だ。この頃、日米は「日米貿易摩擦」の最中にあった。
 これを是正するためにレーガン大統領は、各国代表を「プラザ会議」に招聘した。ポンド、マルク、フラン、円などの主要通貨を意図的に高くして、極端に高くなったドルを下落させようとしたのだ。主たるターゲットは経済大国ニッポンの「円」。当時1ドル240円で推移していた円は、プラザ合意が締結された翌日には20円の円高になり、そのまま急速な円高が進むことになる。これによってアメリカの貿易赤字に歯止めがかかり、米国内の景気は回復したが、逆に日本経済には不穏な空気が漂いはじめた。
■多チャンネルを促進した「内需拡大」
 強烈な円高によって国内自動車メーカーは大打撃を受ける。割高になった日本車は米国マーケットで売れず、政府によって海外での現地生産が推奨されたが間に合わない。
 こうした状況下では当然ながら、企業の設備投資は滞る。自動車メーカーをはじめとする国内の基幹産業が設備投資せず、銀行にとってはお金を貸す相手が激減した。その結果、行き場を失った円は、不動産や株の投資資金として大量に融資され、それらの相場が急騰したのだ。こうして1986年、「バブル景気」が発生したのである。
 プラザ合意から2年後の1987年、ドル円が120円まで下落。つまり、たった2年間でドルは円に対して半分の価値になったのだ。となれば、もはや国内メーカーに選択の余地はない。それまで海外マーケットを主戦場としていた各メーカーは、国内に溢れる円を目当てに「内需拡大」に舵を切えたのだ。「飛ぶようにモノが売れる」国内マーケットで利益を上げるべく、各自動車メーカーは国内販売サービスを拡充し、一気に販売チャンネルを増やしていった。
■バブルの終焉と販売網チャンネルの集約
 マツダは1989年に販売網の5チャンネル化へ移行した。しかし、その直後の1990年3月、国内における過剰投資を抑制すべく、当時の大蔵省が「不動産融資総量規制」を通達する。つまり、不動産投資を目的とした融資を一定量に制限したのだ。これによって不動産売買の自由度が抑制され、買い手が激減し、その価値が急速に下落していった。その結果、一時の賑わいを見せた国内市場はかつてなく冷え込み、1993年にバブル崩壊が始まったのだ。
 バブルの崩壊はあらゆる国内産業にダメージを与えたが、それは金融業界において顕著だった。住専(住宅ローン専門の貸付業者)が大量の「不良債権」を抱えて行き詰まり、その出資母体である銀行がダメージを受け、これを救済するため1996年には公的資金が投入された。大規模な「銀行再編」が始まったのもこの頃だ。また同年、橋本内閣が「金融ビッグバン」を提唱し、銀行の貸し出し金利の自由化などが開始されたが、崩壊した日本経済を立て直す即効性はなかった。
 この状況下において、銀行のバランスシートは極端に悪化し、企業に対する「貸し渋り」が始まる。つまり、経営が悪化した企業に対する追加融資がスムーズに行われなくなったのだ。そしてその煽りをマツダも受けることになる。結果、企業規模に比してモデル数、販売チャンネル数を増やしすぎた感のあるマツダは、銀行からの限られた融資だけでは立ち行かないと判断。1996年にフォードとの資本提携を決断したのだ。
その後、デフレを迎えた国内市場に適合すべく、トヨタ以外の各自動車メーカーは販売チャンネルを集約し、新たな販売戦略への転換を図った。そして銀行と同様、自動車業界においても提携、合併、買収が進み、その業界地図は大きく様変わりしていった。
 時代に翻弄されたのは決してマツダだけではない。日本国内のあらゆる産業がこのバブル崩壊の影響を受け、構造が変化し、転換期を迎えたのだ。そして我々は「失われた30年」を経た今も、その渦中に漂っているのだ。
ベストカーweb より

「フォード」
1979年11月にマツダの発行済み株式の25%を取得して以来、長らく筆頭株主であった。この時期にはマツダ車をベースとした車両をアジア・太平洋地域向で販売したり、日本国内ではマツダ車をオートラマ店(現・フォード店)でフォードブランドとして販売していた。バブル崩壊以後、マツダの経営状況が悪化したため、メインバンクの住友銀行(当時)の呼びかけに応じる形で1996年5月に出資比率を33.4%に引き上げ、経営権を握るに至った。これ以降、社長を始め多数の役員を派遣し、同じくフォードグループであるボルボも含めたプラットフォームやパワートレーンの共同開発・共有化が進められた。
しかし、2007年の世界金融危機により業績が悪化したフォードは、2008年11月に保有していたマツダ株式の大半を資金調達のために売却し、さらに2010年には追加売却が行われた。2015年にフォードは所有するマツダ株式の全てを売却し、マツダはフォードグループから独立した。
2019年1月には、フォードが保有する「長安フォードマツダエンジン有限公司」の全株式をマツダが取得し、社名を「長安マツダエンジン有限公司」に変更した[289]。
資本提携が解消された現在においても、タイでの生産合弁事業は継続されている[379]。
[289]『【MAZDA】中国におけるエンジン生産合弁会社の社名を「長安マツダエンジン有限公司」に変更|ニュースリリース』(プレスリリース)マツダ株式会社、2019年1月30日。2019年2月22日閲覧。
[379]“【MAZDA】アジア・太平洋での活動 地域別の活動”. マツダ株式会社. 2019年12月24日閲覧。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
最終更新 2026年5月31日 (日) 08:59 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

≪くだめぎ?≫
 2000年当時、まさか"フォード Ford"社が日本から完全撤退するとは、
誰も思っていなかっただろう。
 2007年の世界金融危機以降、「フォード店」にフォード車及びフォードブランドのマツダOEM車の販売の再開を行っても良かった、と今でも思う。2003年に商品ラインナップの全てを輸入フォード車へ切り替えていた。2003年~2007年の「フォード店」の業績は良かったのかな?マツダ販社ディーラー網全店舗で輸入フォード車併売を行った方が良かったのでは・・。
Posted at 2026/06/07 18:44:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | ディーラー・販売店 | クルマ
2026年06月07日 イイね!

"マツダR100"=「ファミリアロータリークーペ」

"マツダR100"=「ファミリアロータリークーペ」「ロータリーエンジン」の"MAZDA"
第3章:2代目~ファミリアからプレストへの成長、そしてロータリー・センセーション
 1960年代の後半、昭和40年代に入ると、大衆車と呼ばれた小型乗用車の個人所有が増加しはじめ、それによって国内自動車メーカー間の競争も熾烈になっていった。新しく発売される小型車のエンジンは、大半が1,000cc~1,100ccへ排気量を増大していった。初代ファミリアも、高出力化を狙ったハイカムシャフトを採用する1,000cc直列4気筒OHVで58psのアルミ製エンジンを搭載した「1000シリーズ」を67年1月に投入した。
 この1967年といえば、国内の資本の自由化が行われ、海外からの投資受け入れが可能になることから、日本企業の総合力が問われることになった。自動車メーカーも、その実力がはかられることになる。
 マツダは、同67年11月、ここにファミリアセダンシリーズを一新した。エンジンは、初代後期の1000シリーズのものを引き継いだが、デザインは『オーバルシェイプ』と呼ぶ、丸みを活かしたモダンな姿であった。また、ヘッドライトは当時流行の角型で、三角窓のないフロントサイドドアウィンドウ、曲面ガラスなど、新しい要素を採り入れていた。サスペンションは、フロントにマクファーソンストラットを採用している。
 マーケット戦略を特徴付けるのは、「オリジナル」と呼ぶ最小装備の廉価モデルを打ち出し、これに消費者が好みの装備を追加していくための多彩なアクセサリー部品を用意したことだった。それは現代の、「バリュー価格」と、「オプションパーツ」の先駆けであった。
 2代目ファミリアの発売からわずか3ヵ月後の68年2月には、小型車に対するゆとりと快適性の求めに応じた、1,169ccのOHVアルミ製68psエンジンを搭載する「ファミリア1200」が発売となる。「さらに一つ上の…」という欲求は、続く70年3月の「ファミリアプレスト」セダンの誕生へとつながっていく。それは、まさにファミリアの一つ上級車の位置づけで、これには、73psの1,300cc直列4気筒OHCエンジンを搭載していた。このエンジンは、新開発の鋳鉄製シリンダーブロックを採用していた。
 一方、68年7月には、コスモスポーツに続くロータリーエンジン搭載車となる「ファミリアロータリークーペ」が誕生した。排気量491cc×2の10A型2ローターエンジンは、100psで、最高速度は180km/hに達した。小型の車体を活かし、0~400mの加速は、16.4秒の俊足であった。
 翌69年7月には、4ドアセダンにもロータリーエンジンを搭載し、「ファミリアロータリーSS」と名のった。
 そして、70年4月には、ロータリーエンジン搭載車もファミリアプレストロータリーシリーズに集約することになった。
 ファミリアロータリークーペは、世界各地の市場へも「マツダR100」の名称で輸出をした。その70年代を迎えるという時代は、ちょうど排ガス規制が動きだそうとした。アメリカ・カリフォルニア州を中心に深刻化していた光化学スモッグの原因がクルマの排ガスにあるとして、マスキー上院議員による大気清浄化改正案、いわゆるマスキー法が、70年にアメリカ連邦議会に提出されたのであった。
 ロータリーエンジンは、レシプロエンジンに比べ炭化水素(HC)の排出量が多く、排ガス規制を達成できないのではないかとの憶測が流れ、「その将来はない」という声も出たほどだった。だが、マツダは熱反応器(サーマルリアクター)を開発し、HC処理を行い、70年のアメリカ連邦排ガス規制を通過、マツダR100は北米市場へ参入を果たしたのである。
〈ロータリークーペ〉はまた、モータースポーツの分野でも大活躍した。69年のシンガポール・グランプリでの優勝をはじめ、ベルギー、ドイツ、イギリス、南アフリカのサーキットで、独特のかん高いエキゾーストノートを響かせ、駆けたのであった。

≪くだめぎ?≫
 「ロータリーエンジン」を小型車搭載に邁進した結果、
68年7月~「ファミリアロータリークーペ」投入できた。
70年のアメリカ連邦排ガス規制を通過、
マツダR100は北米市場へ参入を果たした。
 軽乗用車は1976年「オートザム店」(1989年(平成元)10月~)直前まで無く、
2代目キャロル登場まで待つことになる。
Posted at 2026/06/07 16:32:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2026年06月07日 イイね!

ファミリア(1963年~)

ファミリア(1963年~)ファミリア(1963年~)
第2章:初代~日本のモータリゼーションの黎明へ
 クルマの普及だけでなく、高速化の時代を迎える、そうした世情の中でファミリアは、1963年9月に誕生した。その車名は、イタリア語の「家族」の意味で、家族が揃ってドライブへ行くという想いをこめた命名だった。
 当初は、計画通りバンの形態で、2ドア+上下二分割のテールゲートという車体だった。FR(フロントエンジン・リアドライブ)の標準的な駆動方式で、バンとしての積載容量も確保していた。エンジンは、キャロルで「白いエンジン」と名を馳せたオールアルミ製の水冷OHV直列4気筒で、排気量は782ccである。42馬力のオールアルミエンジンが、この時代に実現できた背景には、ダイキャストやシェルモールドといった、マツダの優れた先進鋳造技術や、加工技術の素地があったからにほかならない。
 首脳陣は、デザインこそ自動車という商品のもっとも魅力的な要素であるとし、3輪、4輪のトラックには、日本の工業デザインの第一人者である小杉二郎氏を招くと同時に、乗用車のデザインはイタリアのカロッツェリアであるベルトーネに発注した。
 しかしファミリアについては、社内のデザイン能力の育成が、マツダ発展には不可欠との認識から、入社間もない若手デザイナーの案を採用したのであった。彼は、フラットデッキのデザインを巧みに融和させた個性的なスタイルを作り上げた。
 64年には、ファミリアに4ドアセダンとトラックを追加し、65年にはクーペが追加となる。流麗さと野趣をあわせもつスペシャルティカーのファミリアクーペには、新設計の排気量1,000cc SOHC直列4気筒、68psエンジンを搭載し、最高速度は145km/h、0~400mの加速が18.9秒の俊足を誇った。
 セダンには、「白いエンジン」の高性能版と、1,000ccのOHVを追加し、また、2速オートマチックを加えるなど、魅力を増していった。
 初代ファミリアは、マツダの本格的な輸出の担い手にもなり、性能実証の場として海外レースへも積極的に参戦した。
 発売の翌64年11月には、オーストラリアのニューサウスウェールズ州で開かれた耐久レースにおいて、ファミリアバンがクラス優勝を遂げている。66年には、シンガポールやマカオのツーリングカーレースに出場し、好成績を収め、68年からはじまるロータリーエンジン車によるヨーロッパの耐久レース参戦に向けた重要な布石となる経験を積み上げていったのであった。
MAZDA 100TH ANNIVERSARY より

≪くだめぎ?≫
61年(昭和36)第8回東京モーターショー、「マツダ700」という小型車を出展。
1962年(昭和37)2月~軽・初代「キャロル360」
1962年(昭和37)11月~「キャロル600」
1963年10月~ファミリア バン
1964年4月~ファミリアワゴン800
1964年10月~ファミリアセダン800(4ドアセダン)
 この初代ファミリアが、マツダの本格的な輸出車であり、開発が注力した。
Posted at 2026/06/07 15:45:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ
2026年06月07日 イイね!

『R360クーペ』

『R360クーペ』 「R360 COUPE」
1960年、コンピュータで生産管理を行う画期的な最新工場から、小さな4人乗りの軽自動車がラインオフしました。マツダ最初の乗用車となったこのクルマは、その小粋なスタイルから「マツダのクーペ」として人々に親しまれました。贅沢な4サイクルエンジンの採用や軽合金を多用した車体の軽量化など、先進技術を積極的に投入しながらも、30万円という驚きの低価格を実現。マイカー保有の夢をぐんと現実に近付けたことでも大きな話題を呼びました。三輪から四輪へ、トラックから乗用車へ。マツダの発展期を象徴する一台です。
MAZDA 100TH ANNIVERSARY より

≪くだめぎ?≫
 前年・1959年「マツダオート店」を設立、
現「アンフィニ店 (ε֮fini)」である。
"乗用車"量販するため、マツダ2系列目ディーラー網だ。
軽自動車(長さ3.00m、幅1.30m、高さ2.00m)の時代、
実質2人乗りの"クーペ"として投入、
そのための専売車種だった。
初代『キャロル』の先行車である。
Posted at 2026/06/07 15:19:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ

プロフィール

「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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