太平洋戦争の末期の九州の大学病院で、米軍捕虜の人体実験がありまして、このようなことはやっちゃいけない、というのは誰でもわかる話なんですが、特に戦時中の異常状態だからこういう事件が起きた、ということではなく、今でもネット漁れば、新聞めくれば、このような事件は洋の東西を問わず、日々目に飛び込んでくるわけで。
そういう意味では、異常状況下の人間とは、ということではなく、普遍的に、いつの時代も人間なんでソレやっちゃうの?っつーお話でありまして、たいていやっちゃいかん自覚ってのはさすがにあるわけなんですけどね。
ただ、やっちゃいかんことをやってしまったことに対して、明確に「罪」を意識したのは研究生の勝呂と戸田のただふたりであって、しかしながらこのふたりの「罪」というもののとらえかたが大きく異なっている。
勝呂の意識した「罪」というのは、漠然としてるんですよ。なんだかモヤモヤして、途方もない。ただただ運命という巨大で目にしかと見えないものに呑みこまれ、押し流されて、歪められ、翻弄されて、押し潰される。人間社会、または自分の存在に対する根源的な恐怖感なんですが、それは別に
-勝呂SIDE-としてわけておくとして。
「罪」とはなにか、というと、法律学的には、他人の利益を損なう行為、殺すとか、傷つけるとか、財産を奪うとか、そういうのお互いにやってると、人間という共同体でおちおち生活できませんので、「オレはやらないからおまえもやるな」という契約であります。で、破ったらそれ相応に罰せられると、人間同士の取り決めなわけですよ。
…まぁ杓子定規にはそういう話で、実際は利害以上に、人が「うげー」って生理的に嫌悪する行為は処罰感情として余計に、余分に罰せられてる気がしますけどね。動物愛護法とか。
戸田という男は勝呂より賢くてクールなんですよ。だから、今回の事件についても法律的に最後、とらえてしまう。薄々、誤ってるのには気づいてるんですけどね。
人間を罰するのは人間でしかない。オレと同じく罪を犯す人間ごときにオレを裁けるわけもなく、「それじゃ何も変わらんぜ」と言う。
もっと強大で超越した裁く力を、彼も勝呂同様期待したんですけどね、彼の結論は「そんなものなどない」だったんですよ。
…西欧と日本とか、キリスト教とか仏教とか神道とかはあまり関係ないと思うんですよ。洋の東西を問わず、こういう事件は人間の社会では日々、起きてるんですから。
「誰かに見られている」という感覚、
大岡昇平/野火では、それは確かにキリスト教の神ではありましたけど。仏教とか神道とか日本人にそれらの観念が無いか、って言われると、自分の半端な知識で考えてもやはりそれはありますよ。
キリスト教圏と比した日本人、という解釈が往々になされているのは、この小説が出版されたのが1958年、東京オリンピックが開催されたのが1964年、戦後永らく敗戦のショックから誇りと自尊心を失った日本人の間で、西欧と比較しての浅薄な日本人論が流行して、遠藤周作がそういうものの辺縁に取りこまれたことと無関係ではないと思うんですよ。
遠藤周作の小説は海外でも広く読まれ、「沈黙」の海外での映画化が現在進んでるように、そんな日本人の内輪でしか通用しない小さなスケールで語られる小説ではないのです。
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2013/05/28 01:49:46