
寺社仏閣巡りは好きでして、行けば願掛けはします。
まぁなんとなくですけどね。
ほとんどの人はそうなんじゃないですかね。
本気で祭神がなにで、とわかってて、心から信心してる人は、いるんでしょうけど、少数なんじゃないですかね。
そんななので、たいして信仰もないのに都合よく、ずいぶん虫のいいこと願掛けしてたりして。
かといって、そこまで本気で願いよ叶え!というわけでもなく、けっこうメカニカルというかタスクな感じで、それやってますよね。
…でも、昔からそういうメンタリティで人々が寺社仏閣を訪れていたわけではなくて、もともとはわりと本気で祭神の存在を信じてたわけですよね。
じゃないと、そもそも寺社を造らない。そして永きにわたって祭神、それに自然の聖霊をごく自然に、当然存在するものとして日々の生活を送っていたわけですよね。
ただ、科学の発展とともに、しだいにその生活は失われていく。神も精霊も人々の心から消え、いや消えてはいないんですけど、変容していったわけですよ。
人間の生活を支えるのは神や精霊ではなくなった。特に戦後、急速に日本が発展を遂げるなか、科学の恩恵による輝かしい未来がある、と人々は狂騒し、実際に恩恵を受けていった。
しかしその一方で、「なにかオレたち、とんでもないことやってんじゃないか」って不安もあったわけですよ。
別の漫画の話ですけど、松本零士の「銀河鉄道999」って、人間がついに自分の体まで機械化するのがあたりまえになって、それで主人公が機械の体をもらいに旅するわけですけど、最後の最後でちゃぶ台をひっくり返して、人間の体であることを選ぶんですよね。
幸せは実はすぐそばにあったことに気づくまでの長い旅だったわけで、だからあの人の名前はメーテル。
なんでこんな変な名前してるんだ、ってずっと疑問だったんですけど、「青い鳥」のメーテルリンクですよね。
してみると、最初から科学技術礼賛の話ではなく、松本零士の中では、旅の初めにはもうこの終わりが用意されていたわけで。
ニューギニアの奥地で神と精霊を何千年と崇拝し、生活してた人たちにも、ついに異教、キリスト教が侵入してきます。それとともに、科学技術がもたらされていく。
そして彼らは、その恩恵に浴する一方で、やはり何かを失っていく…。
ひとつはそういう側面のお話ですが、もうひとつはそれに反してニューギニアの少年が、精霊に守られ、日本の少女とともに、過去の神話をなぞることによって、人々の神・女神になっていく。
すると人々は、神・女神に自らの欲望の成就を願い始める。
神話は女神の最終的な死によって完成され、そこで人々の欲望は成就されるが、少年はそれを拒み、少女とともに密林へ消えていく…。
してみると、最初の寺社仏閣の願掛けもそうですが、結局、信仰というのも人間様の欲望をかなえる、人間様の都合の産物なのかもなー、と思ったり。
ブログ一覧 |
漫画 | 趣味
Posted at
2015/07/06 23:56:35