Apr.24 信州桜の名所ドライブⅢ <上田城跡公園、松代城跡>
投稿日 : 2011年04月25日
1
上田城本丸南櫓と東虎口櫓門です。上田城は、甲斐武田氏の旧臣である真田昌幸により、天正11年(1583)に築城された平城です。真田昌幸(1547-1611)が二度にわたる徳川軍の攻撃を撃退した上田合戦が行われたことで有名です。江戸時代には上田藩の藩庁が置かれ、真田氏が信濃国松代へ転封された後は仙石氏が入城し、破却された上田城を現在のような姿に再建しました。
明治以降は、破却や城外への移築が行われて城内には石垣と櫓が1棟残るのみでしたが、昭和期に、移築されていた本丸の櫓2棟が元の位置に復元され、平成期には櫓門や塀などが木造復元されました。
北櫓、南櫓、西櫓は、国の史跡に指定されています。
2
東虎口櫓門の後ろ側、真田神社側の風景です。ソメイヨシノが綺麗に咲いています。
真田昌幸は慶長5年(1600)、徳川家康率いる会津上杉討伐軍から離脱し、石田三成の西軍に与しておよそ2000の兵力で上田城に籠城、徳川秀忠率いる東軍およそ3万8000を迎え撃ち、退けました(第2次上田合戦)。この時、上田城攻略を断念した秀忠軍は、関ヶ原の戦いに間に合わなかったことはあまりにも有名です。
慶長6年(1601) 真田昌幸と次男信繁(のち幸村1567? -1615)は紀伊国九度山に配流され、上田城は徳川の手で破壊されてしまいました。
徳川側についた嫡男信幸(のち信之1566-1658)が上田領を引き継ぎ、三の丸跡地に居館(陣屋)を構えましたが、元和8年(1622)真田家は松代へ移封されました。
その後仙石氏、松平氏が明治維新まで城主を勤めました。
3
元和8年(1622)、真田信之が上田藩から信濃松代藩13万石に加増移封された現在の松代城跡です。
花見のスポットとして、本丸内に約20本のソメイヨシノが植林されています。
戦国期には海津城と呼ばれ、武田信玄の家臣山本勘助によって築城されたといわれています。武田氏滅亡後は、織田氏家臣の森長可らが入府し、城名も待城、松城と改名され、正徳元年(1711)幕命により松代城と改められました。
4
天正13年(1585)、沼田領を巡る第1次上田合戦で、父昌幸と共に徳川家康と戦った信幸でしたが、その後、昌幸は豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589)には家康とも和睦が成立すると、真田家は徳川氏の与力大名となりました。
このとき、家康は信幸の才能を高く評価し、家康は駿府城に信幸を呼び寄せ、重臣の本多忠勝の娘・小松姫を養女とし、信幸に娶らせました。
慶長5年(1600)、石田三成が挙兵すると、父昌幸と弟信繁が西軍に付いたのに対し、信幸は東軍に参加することに決め、徳川秀忠軍に属して上田城攻め(第2次上田合戦)に参加しました。
5
信幸は関ヶ原の戦いの後、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5000石(沼田3万石を含む)となり、上田藩主となりましたが、引き続き沼田城を本拠としました。
信幸は昌幸と信繁の助命を嘆願し、西軍に付いた父との決別を表すために、名を信幸から信之に改めました。義父の忠勝の働きかけもあり、昌幸らは助命され、紀伊九度山へ流罪となりました。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では病気のために出陣できず、長男の信吉と次男の信政が代理として出陣しました。
この戦で、徳川家康に反旗を翻し大坂方についた弟真田幸村(信繁改め)の戦功は目覚しいものがありました。
6
本丸のソメイヨシノが満開です。
上田城跡公園より北方に約30kmほどしか離れていませんが、長野市松代城跡のソメイヨシノは今が満開の花見ごろです。
7
明暦元年(1656年)、信之は次男の信政に家督を譲って隠居しました。しかし万治元年(1658年)2月に信政も死去してしまい、この時真田家では幕府や縁戚の大名を巻き込んだ後継者争いが起りました。
最終的には信政の子2歳の幸道が第3代藩主となり、幼少のために信之が復帰して藩政を執ることになりました。
しかし信之も10月17日に死去しました。享年93でした。
墓所は長野県長野市の大鋒寺。また、真田家の菩提寺長国寺には、藩祖信之の霊屋など歴代藩主の墓所が設けられています。
8
戌亥隅櫓台です。昭和56年(1981)国の史跡に指定されました。
松代城は平成18年(2006)、日本100名城に選定されました。
タグ
関連リンク
[PR]Yahoo!ショッピング