初代大蔵省と平将門の首塚

日本では、大蔵省という名称が約1200年前から使われて来ておりました。大蔵省の由来は倉庫を管轄していたのでこの名がつきました。
明治初期ころ大隈重信の案により大蔵省が設立されました。霞ヶ関に移る前まで大手町にありました。
1923年関東大震災の直後、政府は大蔵省の敷地内にあった平将門首塚を取り壊し、そこに仮庁舎の建設を計画しました。その時起きた異変で時の大蔵大臣早速整爾(1868~1926)を始めわずか2年の間に営繕局工務部長・矢橋工学博士以下14名が亡くなり、武田政務次官・荒川事務官以下数えあげるのもわずらわしいほど非常に多くの怪我人が出ました。それもなぜか足に負傷する者が多く、将門塚を壊した祟り、あまつさえその上に庁舎を建てて将門公を足下にした祟り、という噂が流れ人々は戦慄しました。このため塚跡に建てられていた仮の大蔵省庁舎は遂に壊されるに至りました。
1940年は将門没後ちょうど千年目でしたが、激しい落雷で当時の大蔵省を初めとする官庁街は火災のために全焼し、慌てた大蔵大臣が将門鎮魂祭を催しました。
大蔵省本庁舎が霞ヶ関に移転した後、その跡地が東京都の本庁舎建設用地として都に移譲されたました。しかし、1945年5月29日の空襲であたりは焼けのが原になってしまいました。
終戦後、進駐してきたアメリカ軍によって焼け跡が整地され、将門公の首塚の礎石も片付けられ、あたりは駐車場になる予定でした。ところが、この整地の際にブルドーザーが横転し、運転していた日本人が死亡してしまったのです。
調べてみると墓のようなものがあり、聞くと将門の塚であるという、なにしろこの首塚は祟るのです。そこで米軍の隊長に事情を話し、さらにマッカーサー司令部に出頭して陳情を繰り返したところ、大昔の大酋長の墓ということで了解を得、塚は残されることになりました。
昭和34年になって米軍が撤収すると、首塚は千代田区によって史蹟に指定されました。その後、この地は日本長期信用銀行と三井生命保険相互会社の、本社ビル建設用地として払い下げられました。
昭和35年には史蹟将門塚保存会が結成され、保存事業に着手、現在に至ります。しかし、大きな祟りこそないものの、小さな祟りは幾度もあったそうで、昭和47年の段階ではまだ三井物産の労務担当者が毎月1日と15日に神田明神にお神酒を奉納しました。そのほかにも将門塚のあたりから大量の人骨が発掘されたというおどろおどろしい話もあるそうです。
住所: 千代田区大手町
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