願證寺
長島一向一揆の拠点・かつての願證寺
2011年06月22日

長島という輪中地帯はもともと数十の寺院・道場が存在し、本願寺門徒が大きな勢力を持っており、尾張国西南部・美濃国南部・伊勢国北部における一種の自治勢力地帯でした。文亀元年(1501年)、これらの統制のために本願寺第8世法主・蓮如(1415-1499)の六男・蓮淳(1464-1550)を住職として、杉江の地に願證寺が創建されました。以後、本願寺門徒は地元の国人領主層を取り込み、地域を完全に支配。門徒衆約十万人、石高約十万石(一説には十八万石)を擁したと言われる巨大勢力になりました。
このため、織田氏や斎藤氏をはじめ、各国領主たちはまったく立ち入ることができませんでした。門徒側も、織田信長の尾張統一や美濃攻略、上洛後に行った北伊勢への侵攻にはほとんど不介入でした。
ところが、元亀元年(1570)9月の石山本願寺の反信長蜂起(石山合戦)に伴って長島でも門徒が蜂起。更に願證寺が北勢四十八家の豪族や紀伊の雑賀衆などに檄を飛ばしこれらが長島へと集結しました。また、信長によって領地を追われ長島の地に逃げ込んでいた斎藤龍興など非門徒の武士団の連合軍も一斉に蜂起しました。下間頼旦らに率いられた数万に及ぶ一揆衆は、長島で唯一信長側についていた伊藤氏が城主を務める長島城を攻め落とし城を奪うと、続けて11月には信長包囲網によって完全に孤立していた信長の弟、織田信興を尾張小木江城に討ち同城を奪取し、伊勢桑名城の滝川一益を敗走させました(長島の一向一揆)。
浅井・朝倉との和議が成立した翌元亀2年(1571)5月、信長は長島の一揆殲滅に乗り出しました(第一次長島侵攻)。6月6日、願證寺4世・証意が狙撃され命を落しました。
天正元年(1573)8月に信長は浅井長政・朝倉義景を滅ぼした後、第二次長島侵攻を開始しました。一揆勢の籠る城が羽柴秀吉や柴田勝家らに落されました。
天正2年(1574)6月の第三次長島侵攻では、織田軍に海陸7~8万の大軍をもって戦いに臨まれ、最後に残った一揆衆の長島城、屋長島城、中江城、篠橋城、大鳥居城の5城が囲まれ皆殺しの末、陥落。こうして、門徒による長島輪中の自治領は完全に崩壊しました。9月29日には願證寺5代目に当たる顕忍(佐尭)が討たれて、直系は断絶して退転しました。
寺跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んでしまいました。現在の願證寺は、門徒のために祐泉寺を寺緑により願證寺の名称で呼ぶようになったものです。長島一向一揆の激しい戦いは、現在の願證寺境内にある長島一向一揆殉教の碑にしのばれます。
住所: 三重県桑名市長島町又木
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