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まとめ記事

名車 S130Z あなたの知らないS130Zの軌跡

徳小寺 無恒さん
2020/09/22
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安価で高性能なスポーツカーとして北米で人気をを博した初代S30系Z。
自主規制280PSの呼び水となってしまった超高性能Z32。
長い長い フェアレディ Z の歴史の中で、2番目に売れた Z が二代目 S130 なのだが、どうもその評価は低い。
しかし、S130Zが無ければ現代に続く Z の伝統は無かったに違いなのだ。
そんな S130Z の歴史をもう一度紐解いてみた。
きっと、あなたも S130Z が好きになるに違い無い。
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クルマのデザインというのは、本当に難しい。 万人に受けようと画策すると、当たり障りの無いモノになり、大体が「面白みの無いデザイン」と称されてしまう。 一方、思い切り既存の価値観や感覚を逸脱したデザインを試みると、「乗る人を選ぶクルマ」などと称されてしまう。 成功したモデルの後のモデルチェンジもまた難しいものだ。 フェアレディーもご多分に漏れず、デザインによって好不調が大きく分かれてしまったモデルだ。 例えば初めてZとなったS30からモデルチェンジしたS130などは、間延びしたとか、肥大したなどと、陰口を叩かれ正直、後の世に余り残らなかったモデルだが、考えてみると、安全性や居住性、環境の面からは大きくZ30より進歩していた。 僕はある意味で、S130は嫌いではない。 デザインで言えば、完全なキープコンセプトで面白みには欠けるが、そのデザインをそうでないデザインに替えるマジックを考えてみた事はあるだろうか? そのひとつが「カラーリング」だ。 S130でもシルバーとブラックを上手に配色した、マンハッタンカラーが有名だが、実はメーカー純正でひとつ間違えれば「際物」になっ ...出典:徳小寺 無恒さん
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フェアレディの歴史の中で、もっともモデルチェンジに苦心したのが、「Z」として二代目に当たる「S130Z」だ。 なにせ先代が売れに売れて、ギネスにスポーツカーとしての販売台数のレコーダーとして未だに、その名が残っているくらいの偉大な先輩の後、開発陣の苦悩は大いに理解できるモノだ。 S30Zも登場した当時は、斬新で快適なスポーツカーであった事は疑う余地もなかったのだが、さすがに10年という歳月はS30Zと言えど、販売末期に至っては「オールドカー」の範疇に入ってしまった。 なにより、安全性や公害対策と言った時代の要請に答える事がだんだんと難しくなってしまっていたのだ。 「S130Z」の開発は、実はかなり前からスタートしていたのだが、一番の悩みはスタイリング。S30Zのスタイリングが、荒削りながら完成され「Z」という個性を充分に具現化していたので、それをどう表現するか・・・開発陣は大いに悩んだ。 S30Zのスタイリングを昇華させる案、まったく違ったアプローチをする案・・・種々多様なイメージスケッチが描かれていたが、そんな中、当時特に注目されていた「空気抵抗」の低減を狙って、リ ...出典:徳小寺 無恒さん
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1978年8月。 モデルチェンジは不可能とまで言われていた「Z」が、日産の名将「高木氏」の手によりS130にスイッチされた。 コードネーム 「ZX460」 、エクステリアはキープコンセプトながら、リヤサスペンションが「ストラット」から「セミトレ」に変更された事からも見て取れるように、スポーツカーというよりグランドツゥアラーとしての性格を持って誕生した。 エンヂンは国内仕様には、販売店からの強い要請と社会的な要素(当時は2L以上の税金が異常に高かった・・)で2Lは残され、上級グレードとして2.8Lが用意された。 北米ではもちろん2.8Lオンリーで、そのトルクフルなエンヂン特性が歓迎されて、販売台数も大幅に伸び、79年には年間生産台数が10万台!!を超えた。 本来なら国内の話しから進めるべきだろうが、「Z」といえばもはや北米での活躍、躍進を語らずして先には進めないので、ココではまず北米での「S130」についてコメントしよう。。。 ほぼ日本と同時に登場したS130は、大歓声を持って迎え入れられた。 名車と言われていたS30だが、もはや時代の趨勢には適わ ...出典:徳小寺 無恒さん
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1978年・・よいよZもセカンドジェネレーション「S130」へとスイッチした! ちょうど国内ではマツダがRX-7をリリースして、ロータリー復活の狼煙をあげ、デビューから約9年というロングスパンで造られ続けてきたS30Z・・さらにL20エンヂンでは、そういった新しい世代のスポーツカーには太刀打ちできなくなってきていた最中での登場であった。 しかしながらエンヂンのヴァリエーションは、やはりL20Eの2Lが主力であり、その上級グレードとしてL28Eの2.8Lが据えられていた。 これは、当時の税制がボディサイズ、排気量(全長4700mm以上もしくは全幅1700mm以上または排気量2000cc以上)によって3ナンバーになると「¥65000」となり高額で、2.8L一本では売れない・・と判断したからであった。 そのL28Eとてグロスで145PSであり、さすがにトルクは23Kg-mと大きかったが、正直快速・・とまではいかずこれがスポーツカー?と思った事は事実であった。 しかし逆にその豊かなトルクにモノを言わせたクルージングは、まさに「安楽」という以外の何物でなく、Zをスポ ...出典:徳小寺 無恒さん
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モデルチェンジはできない・・・と言われたZだが、その難関を突破して誕生したのがセカンドジェネレーションS130Zだ。 苦戦が予想されていたが、フタを開ければ爆発的な売れ行きを示し、日本でも79年には年間「18,000台」も売れたのだ!! そんな売れ行きを示していたS130Zだが、そのオーナーやライヴァル達から異口同音言われ続けていたのが「アンダーパワー」、「走らない」という言葉だった。。。 当時の2Lのパワーソースは、長らく日産の主力機関として君臨していた「L20E」であった。 最高出力130PS、最大トルク17Kg-mという今から見れば1.6Lや1.8Lのエンヂンでも十分に達成されるささやかなものだった。 タイアでさえ、扁平率の低いモノが使えず、280Z-Tでさえ「195/70SR-14」という今の軽自動車並みのサイズのタイアが履かされていた。 ただブランドには拘っていて、当時の日産車のスポーツモデルが好んで履いていた「ミシュランXVS」がS130Zにも奢られていた。このタイアは当時としては画期的な非対称パターンを採用していて、ミシュランの独壇場だった真 ...出典:徳小寺 無恒さん
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北米とは違って、オーヴァー2Lが売れ辛い国内では、相変らず重く、レスポンシブルとは言えない「L20E」が主力になっていたが、ツィンキャムだのターボを搭載したクルマが次々にリリースされると、モワパワーの声は日増しに強くなる一方だった。 そんな声に日産は、魅力的な装備の充実や マンハッタンカラー と呼ばれる刺激的なツゥートンの導入や、SP、SR以来の、完全とまでは行かないがセミ・オープンとも言える「Tバールーフ」の追加、2Lモデルではギヤリングの見直し、エンヂン制御の見直しと矢継ぎ早に手を打ち、S130Zの人気を維持してきた。 81年の10月には、最大のマイナーチェンジが行われてエクステリアが大幅に見直された。 この時のトピックには、目立たないが「スペースセイバータイア」の採用もあった。 実は、それまでのS130Zは、「テンパータイア」や「スペースセイバータイア」の装備が認められなくて、カーゴルームには巨大な標準サイズのタイヤがカヴァーを被って載せられていた。 このために、せっかくのユティリティスペースも、台無しでこれがS130Zのウィークポイントとして上げられる事も少なく ...出典:徳小寺 無恒さん
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