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まとめ記事(コンテンツ)
徳小寺 無恒さん
2006/07/04
神業 240Zを華麗に操った男
以前、流麗で美しいツゥーシーター・クウペの240Zがラリーでも活躍した事をブログしたが・・・
氷雪 240Zモンテで闘う
http://carlife.carview.co.jp/User.asp?UserDiaryID=201397
その大きな立役者が ラウノ・アルトーネン だ。
その前に日産のモンテでの戦績だが、まず最初に参加したのがブルーバード410であった。
この頃はまったく手探りの状態で、ドライヴァーも南アフリカ出身で大した結果は残す事は出来なかった。
次にトライしたのがフェアレデーSR311で、オープンでFRというまったくモンテでは不利な条件を克服して総合9位という輝かしい成績を残したが・・・

そこで起用されたのが、なんと当時無名の新人だったハンヌ・ミッコラだったのだ!
彼はウインターラリーの装備や闘い方をDATSUNに伝授し、さらに自らもDATSUNでの実績を糧に、一流トップドライヴァーの道をばく進するのであった。
そのDATSUNが次に開発したマシーンが240Zであった。
次に問題となったのがドライヴァーで、よりによってDATSUNはクーパーSで優勝経験のある超一流のラリードライヴァー ラウノ・アルトーネン に白羽の矢を立てたのでった。
初めて彼と会った時、当時のDATSUNのボスであった難波はラウノに冷たく言い放たれてしまった。
勝てるマシーンでなければ乗りたくない。それでも乗れというならそれ相当の報酬をもらいたい・・・
難波は、モンテが終わったばかりの山岳コースで、ラウノに全開テストを行う事を申し入れた。
白銀のモンテのコースに、真紅の美しいツゥーシーター・クウペが名手の手によって放たれた・・・
そこにはライヴァルは居なかった、ただ一台の美しいクウペとL型エンヂンのメカニカルサウンドがアルプスの山々に咆哮し続けていた。
240Zから降りたラウノは難波に言った。
このマシンなら優勝は無理だが、良いところまで必ずゆける・・・
そう言うと彼は、今度はDATSUNの提示した契約金より遥かに安いマネーで契約してくれたのだ。
果たせるかな、彼の言うとおり240Zはアルプスの難コースを果敢に攻め71年には、モンテ史上初めて重いプロペラシャフトの付いたFRで 総合5位 に入賞し、さらに翌72年には、なんと総合3位 にまで昇り詰めたのだ。
しかし、ラウノはDATSUNにとって大変な男でもあった事は間違いの無い事実だったようだ。
以前企画室ネコに、難波が寄せた寄稿にラウノ・アルトーネンの事が書かれていた。
彼は我々サーヴィスクルー泣かせの男でもある。マシン・セッティングは5mm刻みで注文を付けて来る。例えば、シートをもう25mmオフセットしてくれなど、まるでコンピュータで計算した様な事を言い出す。そしてそれは間違った事は無い。
またある時は、ステアリング・ホイールの皮巻きの縫い糸が指に引っ掛かるから縫い直せと・・・
(中略)
240Zはモンテでの高速ラリーに備えて、Gノーズ付きを持ち込んだが、アルトーネンはそれが気に入らず150mmカットしてくれと言い出す。それでGノーズ無しにしたのだが、まったく小うるさい男だと正直思ったものだ。
ところが彼の走りっぷりを見て、私はグウの音も出なかった。コーナーをノーズの先端で雪を削る様に、まさにギリギリのラインを取って抜けて行くのである・・・
基本的にアンダーステアの240Zを、アルトーネンはステアリングとサイドブレーキを駆使して、常にブレーキング・オーヴァーステアに持って行き、そのためにステアリングのフィーリングが大事で、さらにそうして真横になりながらコーナーを駈けるには、長いノーズがジャマだった事が後から分かった・・という事だったのだ。
アルトーネンとDATSUNとの出合い・・・
それから随分と長い二人三脚となるのだが、彼がDATSUNに与えた財産は図り知る事が出来ないモノだ。
現在も彼は欧州で、BMWなどのインストラクターとして第一線で活躍中である。。。
あっ!そうそう・・・モンテでのDATSUNの活躍の陰には、もうひとつ驚くべき事実が隠されている。。。
72年のモンテでのラウノ・アルトーネンのコドライヴァーを勤めたのは・・・ ジャン・トッド であった。。。
この名を聞いてピンっときたら・・・貴方はかなりのカーマニアを自負してよいだろう。。。
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Posted at 2006/07/05 02:33:21
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