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まとめ記事

頑張れ 日産 でも歴史は繰り返されるのか!?

徳小寺 無恒さん
2021/01/31
2,194

日産は、これまで 3度 死線をさまよって来た。
戦後の大労働運動、オイルショック、そしてゴーン・クーデター。
その歴史を振り返り、ゴーンによってブランドも企業としての「歴史」という財産も失ってしまった今の「日産」に復活はあるのだろうか。
官庁より官庁とまで言われた企業体質は本当に無くなるのだろうか。
そんな今の「日産」を憂い、未来を見据える為に、今一度、日産の過去をまとめてみた。
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権力とお金が集まり過ぎると歪みが生じるのは世の常。 それにしても、えらい荒療治としか言いようのない解任劇だ。 余りにも早すぎる日産のコメントの発表を見ても、事前に用意されていた様子が見て取れる。 首謀者はだれか。 早ければ今夜の会見で全容が見えるかも。そして、これだけの企業で、これだけの権力を持った人間を突き落とすには、かなり大きなバックが無ければ成し得なかったろう。 心配なのは、ゴーン無き後の日産の進路だ。往々にしてこれまでとは違った反対の方向に振り子が大きく振れる事が多い。そうなると、それもまた日産にとって不幸だ。 現状の路線を基調に、国内のメーカーとしての戦略を描く絶妙なバランス感覚と、ゴーンと対峙するだけのリーダーシップが要求されるだろう。 間違っても、後釜をめぐっての権力闘争だけは避けねば、未来の日産は無いだろう。 今回のクーデターは、日産の新しい飛躍となるか、滅亡の序曲になるか。 しかし、当の日産の連中の危機感や危機回避への意欲が、全く感じられないのは如何なもんだろうか。 現状を招いたのは元々、日産そのものだという事を肝を銘じ ...出典:徳小寺 無恒さん
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日産のクーデターから数日が過ぎたが、あれだけ神格化されていたゴーンも、今やマスコミでは「金の亡者」 として面白おかしく取り上げられている。 まさに「手のひら返し」とはこの事で、「スキャンダラス」な事ばかり漁って、これまでのゴーンに対するあんた達の評価は何だったのかとも言いたくなるモノだ。 確かに、現状の情報がすべて正しければ、ゴーンはとんでもない経営者という烙印を押さざる得ない状況だ。しかし、考えてみて欲しい、 「貴方が90億もらって、二兆円近くの負債を抱えた日産を建て直す事が出来たか」 と聞くと、恐らく誰もが「出来ない」と答えるだろう。そういうと、単純に工場閉鎖や人員削減をやっただけという声も聞こえるが、そこまでしなければ「倒産」しか道の無かった日産を、それすらも出来ずに右往左往してどうする事も出来なかった日産を救ったのは誰あろうゴーン、彼なのだ。 その時に、江戸時代から明治中期まで辛酸を嘗めた不平等条約の様な株式の比率も、ルノーからの 8000億の金を得るには仕方が無かったというのが歴史の事実では無いだろうか。 無論、僕はだからと言ってゴーンを擁護しな ...出典:徳小寺 無恒さん
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日産が喘いでいる。 長らく続いたゴーン体制の反作用で、フタを開ければ、北米でもまともに商売をしていなかった事が白日の下に晒されたのだ。特に北米での大幅なディスカウントによる利益の圧迫というフレーズは、ゴーンが来る直前の日産そのものの姿であったりする。 結局は、コミットというプレッシャーに、約束は守ったが結果は散々と言う、ブランドを売ってしまった結果が北米での収益の圧迫と言う「反作用」となってしまったのだ。 顧みて国内も散々たるモノで、数が売れる北米や海外ばかりに力を入れた結果、まともに勝負できるクルマが e-POWER を搭載した ノート と セレナ と、粗利の少ない軽自動車しかないというモノで、あのかつてはクラウンとも互角とはいかなかったが、国産高級車の一角として存在感を持っていた「フーガ」も今ではひと月に数台しか売れない商品力の欠片も無い状態にしてしまった。 Lクラスのミニヴァンに至っては、このクラスを作り上げた「エルグランド」もすでに過去の産物となってしまい、トヨタに言わせればアル・ヴェルのライヴァルではないとまで成り下がってしまった。 最近のトヨタ ...出典:徳小寺 無恒さん
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日産の社員なら当然知っている日産の歴史を振り返っているが、日産存亡の第二の危機は1970年代に起きた「オイルショック」と、北米で可決された「マスキー法」のダブルパンチであった。 この当時の状況は、日産のみならず他のメーカーも危機的状況であったが、日産の場合は、それに輪をかけて、相変わらず社内にも大きな問題を抱えていた。 1970年、アメリカのマスキー上院議員が提案した、俗に言う「マスキー法」、「大気浄化法改正法」が制定された。 それは、これまで行われてきたクルマが排出するガスの浄化法では到底クリアーできない厳しいものだった。 ・1975年以降のに生産車について 1970年初頭の基準から、一酸化炭素(CO)と炭化水素(HC)は90%以上減少させる。 ・1976年以降生産車 1970年代初頭の基準からNOxは90%以上減少させなければならない。 という厳しいものだった。9割と言う事は、大気汚染物質を出すなとも置き換えられ、ビックスリー(現代では死語ですが、どことどこのメーカーが分かりますよね)は猛反対したのだが、そこに「できま~す」と手を挙げたのが日本のホン ...出典:徳小寺 無恒さん
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1979年11月。ブルーバード910がリリースされ、それまでのうっ憤を晴らすように爆発的に売れた。 910の爆発的なヒットで日産の危機は去ったように見えたが、日産社内では相変わらず権力闘争が続いており、それが後年のルノー提携までの影を落とすことになった。 910の成功は、そんなTOPの軋轢とは関わらず、単純に良いクルマを作ろう、技術者として意匠として納得のゆくクルマ作りをしようと言う集団の熱意で成し遂げられたものだった。 910の開発中に各セクションに貼りだされた手書きのポスター。技術者の熱意は叶ったが、社内は相変わらず権力闘争が続いていた。 910の発売から遡る事1977年。石原 俊が社長に就任した。石原は「グローバル10」を掲げ、世界での日産のシェアを10%までに引き上げるという大胆な構想であった。 もちろんシェア10%という大きな目標が主題であったが、石原は社内の悪しき仕組みの打破と言う目論見もそこには隠されていた。 更に遡る事、1961年、塩路一郎が日産労組組合長になり、翌年には、日産グループ全体の日産労連会長まで昇りつめた。 塩路一郎とは ...出典:徳小寺 無恒さん
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日産は3度の危機を乗り越えて来た筈なのに、どうしてまた危険な水準まで落ちていったのだろうか。 本当かどうか知らないが、またゴーンが言い放った言葉がマスコミを賑わした。 「日産はおそらく2〜3年以内に倒産するだろう」 これに、多くの人たちや、当事者たる日産の連中は、「またゴーン節」かといぶかったが、今の日産の財務状況はあながちゴーンの恨み節では済まない状況なのは間違いのない事実だろう。 またまた、ここで当事者の日産の社員に「危機感」の欠片も無いのも、相変わらず能天気な集団と言わざる得ないだろう。 かつてゴーンはこう言った。日産の問題は、 機能間、地域間の連携の欠如 危機感の欠如 ビジョン、中期計画共有の欠如 の三点だと。 こうしてみると、これまでの奇跡的な復活も相まって日産の社風は、 「どんな事があってもウチは倒産しない」 という根拠の無い自信に満ち溢れているみたいだ。 一度目の「労働争議」は新組合の結成で乗り越え、二度目の危機は、救世主であった組合が力を持ちすぎた結果、労使との対立が激化、さらに輪をかけて1965年のプラザ合意 ...出典:徳小寺 無恒さん
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