まとめ記事(コンテンツ)

2018/08/17

天台寺門宗 福蔵寺(群馬県吾妻郡高山村尻高乙)

8月15日

チャツボミゴケ公園へと行ってみた帰りに

吾妻に鎮座しています北向観世音へと行ってみました

こちらは某ホムペによりますと

・・・
 上野国吾妻郡は山岳重畳古来より修験道が隆盛であった。熊野山福蔵寺は、約950年前平安時代永保元年(1081)秋、修験者熊野坊によって草創された。現世利益、開運厄除ご祈祷の寺である。
降って南北朝時代観応年間(北朝・1350~52)、新田義貞の支族里見義候によって再興。つづいて室町時代初期、上野国平井の関東管領山の内上杉氏の執事白井長尾氏の一族尻高氏が、応永10年(1403)当時に尻高城を築城、当山福蔵寺を祈祷寺とした。
 大永元年(1521)、尻高憲秀が再興。永禄年間(1558~1569)、尻高左馬亮景家の二男鉄丸を入れて廣順法印と称し、福蔵寺中興開祖とした。天正9年(1581)武田勝頼のため尻高氏は滅亡、越後へ退去したが、寺は引続きご祈祷霊場として隆盛であった。江戸時代化政の頃(1804~1829)、当山16世法印廣順禅師修験道教学大峰修業徹する大行者なり。
 師、ある夜夢見るに、「異香を放ち正観世音菩薩示現し給い、信州別所北向観音堂を勧請せよ、我、北に向わん事は北斗の千歳にひとしく厄災消除、寿命長久諸願成就の利益を與えん為なり」と。尊い霊感に触れ、礼拝供養ここに勧請す。然るに、北向観世音の霊験御利益いよいよ顕れ、その仏徳を慕ひ、御利益に浴せんと各地より参拝の善男善女が絶えなかったという。
 修験者熊野坊によって草創された福蔵寺は激動の中世から、近世を経て明治に入ると、維新下の神仏分離令で天台宗に帰入することになった。昭和の時代を迎えると当山20世喜禅法師は仏徳を深く体現、堂宇の改築に務め、昭和9年5月に入山供養を成した。そして、世紀末を迎えた現代、厄除・家内安全・無事故交通安全・商売繁盛・諸願成就の祈願に北向観音の人気が集まっている。(知高大真・記)
・・・

うん・・コピペが長いですね・・

で・・この中の
信州別所北向観音堂を勧請
との記述の様に
長野の方の北向観音からいらっしゃっているご様子(御住職様も確かそのようなお話を・・

さて

こちらから境内へ


とぼとぼと・・


こちらのお堂でお参りをしまして
無事記帳していただきました
Posted at 2018/08/17 21:13:36

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