
香水と石鹸、そして「独特」の匂いが入り交じり、薄暗い部屋の中に充満している。俺はワイシャツの上から自分の腹をさすった。最近出てきている。歳のせいもあるが、運動不足が祟っているらしい。
「もう行く?」
ベッドに寝そべったまま、リエコが声をかけてきた。いつのまにか起きていたらしい。
「まあな」
俺は素っ気なく答えた。乱れた、派手な色のショートカット。まだ少し濡れている肌と少し厚い唇。若い女にはこの色気は出せない。それをまともに見たら、またベッドに潜り込みたくなる。ちなみにリエコは、この女の本名ではない。本名は知っているが、俺にとってリエコはリエコだ。俺はコートを羽織り、言った。
「遅くなったが、ツケの分も入ってる。机の上だ」
リエコが俺の台詞に、ちらりと机を見る。机上には金が入った封筒がある。
「あら、ありがと。無理しなくていいのに」
「ただでさえ格安にしてもらってるから、気が咎める」
「ただでも良いって、いつも言ってるでしょ?探偵さん」
リエコはそう言って微笑んだ。俺は背中とピースサインで挨拶し、部屋を出た。
すっかり夜は冷え込む季節だ。気分は冷凍庫の中だ。ネオンを過ぎ、俺は駐車場に停めたスカイラインに乗り込み、エンジンをかけエアコンをつける。しかしエアコンは直ぐには暖まらない。こいつもそろそろ年代物だ。途中で買ってきた、熱い缶コーヒーをすする。目を瞑る。このまま眠れそうな気がする。明日もどうせ開店休業だろう。「事務所」に戻ってもどうせ一人だ。
数年前、俺は警察を辞めた。いや、辞めさせられたというのが正しいのだろう。俺をやたらと妬む奴がいたが、奴の罠にはまってしまい、見事に汚職警官のレッテルを貼られてしまった。あることないことをでっちあげられた。今回ばかりはお手上げだった。俺は警察を去った。自棄になり、顔見知りの「女たち」に入り浸った。過去に挙げた女たちだ。リエコもその一人だ。支えになってくれた女は、そんな俺に愛想を尽かした。女は今は17分署にいない。17分署にいるのは、ゆうたろうだけだ。34は巡査部長になり異動、権兵衛も異動したらしい。そして俺は今、探偵をやっている。それくらいしか、元警官、それも刑事なんてものは潰しがきかない。1日2万円と必要経費。銃が必要になれば、割り増しを貰う。どこかで見たような、冴えない探偵だ。
翌朝、電話の音で目を覚ました。ベッドに行くのが面倒で、応接用のソファーで眠っていたのだ。時計を見る。日が顔を出したばかりだ。うんざりした。俺は電話にでない。留守番電話に切り替わる。すると、懐かしい声が聞こえてきた。ゆうたろうだった。奴の声を聞いたのは久しぶりだ。何か事件らしいが、俺に何の用なのだろう。俺はゆうたろうの携帯電話にかけた。奴はすぐに出た。
「殺しだ。リエコがやられたぞ」
奴の声に、俺は言葉を失った。
スカイラインを飛ばし、現場に着いた。規制が張られている。野次馬整理の警官を見たが、知らない顔だった。俺はその警官に近づくと、探偵バッジを見せ名前を名乗り、ゆうたろうに呼ばれたと告げた。警官はおもしろくなさそうな顔をして、俺を中に入れた。赤灯がいくつも重なり、カメラのストロボがあちらこちらで光る。久々の光景だ。しかしどの人間も知らない顔ばかりだ。移り変わりが激しい様だ。ゆうたろうの後ろ姿が見えた。俺から声をかけた。
「久しぶりだな」
ゆうたろうが俺の方に振り向いた。
「すまんな、呼び出して」
苦虫を噛み潰した様な顔で言った。昇進し警部補になり、やることが増えたのだろう。
「いや、いいさ。どうせ呼び出されてたろう」
俺はそう答えながら、ゆうたろうの足元、うつ伏せになっているリエコを見た。リエコは血の海に寝ていた。首がおかしな方向に曲がっている。昨夜の服装のままだった。死体を見るのは久々だったが、それがこうも惨く、しかも、まさか数時間前まで一緒だった人間とは思わなかった。
「新聞の配達が見つけた。腹部や喉をメッタ刺し、更に首まで折られた様だ」
「そうか…」
「鑑識さんが、おおまかな死亡推定時刻を出した。深夜の○時だ。お前何してた」
ゆうたろうが率直に聞いてくる。
「その頃なら事務所で寝てた。証人はいない。ついでに言っておくが、リエコとは数時間前まで一緒だった」
「ほお。……ま、形式的な質問だ。お前がやったとはこれっぽっちも思っちゃいない。気を悪くするな」
「ああ、よく分かってる」
ゆうたろうは他には何も聞かず、また連絡すると言い、俺を帰した。
事務所に戻り、デスクのひじ掛け椅子に座った。考えた。リエコは、俺が警察にいた頃から情報屋としても付き合いがあった。リエコが仕入れる情報は他の付き合いの女たちに比べ、常に確実であり、助けられた。軽口を叩きあってはいたが、それなりに好意を持ってくれていた。俺も実は満更でもなかった。まあその影響で、女巡査部長様に愛想を尽かされたのだが。
思考を戻した。捜査は始まったばかりだが、妙に嫌な予感がした。可能性は否定できない。そう、俺が原因で殺された可能性だ。
翌朝。また電話で起こされた。今回はしっかりベッドで布団を被っていた。ゆうたろうだった。俺は電話に唸った。
「二日続けて、こんな朝早く起こしやがって。俺に恨みでもあるのか」
『まあそう言うな。……真面目に聞け』
「なんだ」
『サカガミが出所したぞ。今朝だ』
サカガミ。俺はその単語を聞いた瞬間に完全に目が覚めた。サカガミは数年前に俺が逮捕した犯罪者だった。表向きは稼ぎまくっている清い実業家だが、裏でもかなりの悪さで稼いでいた。ある事件をきっかけに俺が手錠をかけたが、裁判ではやり手の弁護団を用意し、ところ構わず金をばら蒔いた。しかし検察が意地を見せ、短くはあるが実刑を与えた。ちなみに逮捕のきっかけになった情報を提供したのは、リエコだった。間違いない。リエコを殺したのは、サカガミだ。いや、サカガミ本人ではないだろうが、奴の差し金だろう。俺は電話を切ると、コートを引ったくった。探偵バッジで出来ることなど僅かだが、動かずにはいられない。俺のせいで、一人の女が死んだのだ。偽りの愛情の中に、僅かながら本物も感じとっていた、一人の女。そして殺したのは、極悪人だ。
警察という身分がない以上、中々話を聞き出すには苦労する。しかし、少しでも後ろめたい連中相手には「元警官」の肩書きも脅しとしてある程度使える。低音を響かせ、或いはなだめ、財布から少ない札を握らせ、情報をかき集めた。必ず、俺の手で決着をつけてやる。
数日経ったある夕方、人気のない埠頭。目立たない場所にスカイラインを停めると、助手席に小男が乗り込んできた。情報を売る人間は、絶えず周りを見る。神や月以上に見ている。今回も運良く、サカガミを見ていた情報屋がいた。この小男だ。一世を風靡したサカガミを久々に見かけ、何かあるかと後をつけ、廃屋である男と会っているのを目撃した。ご丁寧に写真まで撮ってあった。俺は大枚はたいてその写真と情報を買った。
夜。信号で止まる。青になり、スカイラインのアクセルを踏み込む。くたびれた直列6気筒が唸りタコメーターが回る。そしてまた信号で止まる。青になりアクセルを踏み込む。まるでシグナルグランプリだ。特権の緊急走行はもうできないが、信号無視をするわけにもいかない。
東京湾が見渡せる超高級ホテル。ここにサカガミは泊まっていた。最上階を借りきっているらしい。相変わらず羽振りが良い。俺はホテルのエレベーターに乗る前に、ゆうたろうに電話をかけた。自分の手で決着をつけるつもりでいた。しかし、まだどこかに警察官の心が残っていたらしい。それに保険だ。俺がやられないとも限らない。電話の向こうでゆうたろうが何か言っているが、俺は電話切った。
受付を低音で黙らせ、エレベーターでサカガミが借りきった最上階に向かう。扉が開くと、待ってましたとボディーガードらしき人相の悪いのが二人構えていた。俺は瞬く間にそのボディーガードを眠らせる。絨毯のベッドは、俺の事務所のベッドより寝心地が良さそうだ。また二人出てきた。今度はスタンガンを持っている。俺はすかさず、腰のホルスターの特殊警棒を居合い抜きの要領でまず一人、続いてもう一人を倒した。正直もうボディーガードは勘弁して欲しかった。やはり運動不足である。それに多人数を相手に立ち回れるのはドラマや小説の中だけである。実際、もし四人同時にでてこられたら勝算は低かったろう。やや息を上がらせながら、俺はサカガミがいる部屋に近づく。俺はショルダーホルスターから38口径、S&Wのチーフスの2インチを抜く。銃の許可証は取ってあるが、44マグナムは返上した。しがない探偵には、金がかかりすぎる銃だ。ボディーガードは四人だけだった。ドアの前でチーフスを確認する。シリンダーを開ける。38スペシャル弾が5発。予備の弾は、デスクの引き出しからスナックを取る様に適当に握った分がポケットに入っている。俺はシリンダーを親指で回転させると、それが止まるか止まらないかの所で、手首を振りシリンダーを元に戻した。俺は一つ短く息を吐くと、足でドアを盛大にノックした。部屋は明るかった。サカガミはガウン姿で、窓の外を眺めていた。俺はチーフスを腰だめに、声をかけた。
「久しぶりだな、サカガミ」
奴は振り向いた。手にはシャンパングラスを持っている。相変わらず外見だけは爽やかで優男だ。だが、こいつの本性はよく知っている。
「…お久しぶりですね。再会を祝福して、乾杯でもしますか?」
「あいにく悪党とは酒は飲まん。だが、鉛弾なら奢ってやらんこともない」
「ははは。それはおっかないですね」
「単刀直入に聞こう。リエコをやったのは、お前だな」
「リエコ……?ああ、あなたのお気に入りの淫売、おっと失礼。コールガールでしたね。あなたもあんな汚い女に、好き者ですね」
サカガミは笑った。俺はチーフスを構え、言った。
「黙れ外道。逮捕されろとは言わん。死ね」
その時、視界の端で何かが動いた。やはり、最近は切った張ったがご無沙汰だったせいか感覚が鈍っている。そちらに振り向いた時には、二回、刃渡りたっぷりのナイフで腹を刺された。写真で見た、サカガミと会っていた男だ。こいつは殺し屋だ。三回目が来た時、俺は殺し屋にチーフスの弾を三発くれてやった。殺し屋が踊る様に倒れる。ナイフが腹から抜ける。俺も倒れた。また視界の端で何かが動いた。サカガミだ。逃げようとしている。
「サカガミっ」
俺は血を吐きながら掠れた声を出し、チーフスを向けた。しかし目がぼやけて照準が合わない。その時、懐かしい声が聞こえた。
「動くな!」
それは、女の声の様だった。続いて、幾人かの争う声。ゆうたろうの声も聞こえる。俺は誰かに抱かれた。
「警部補!しっかりして!」
ぼやけた視界に、一緒だけはっきり見えた。「女」だ。ゆうたろうが余計な気をきかせたらしい。
「救急車!救急車呼んで!早く呼んでぇ!!」
女が叫ぶ。俺はやたら眠い体に言うことを聞かせようとするが、上手くいかない。なんとか、女の肩辺りを掴んだ。声が出ない。まずい、寝るにはまだ早い。俺はなんとか声を出した。
「ありがとう。すまなかった」
何に対しての感謝なのか、何に対しての謝罪なのか、俺自身分からなかった。
暗い。生暖かい。ここは天国か地獄か。
どちらでもないらしい。寝息が聞こえる。俺は身を起こした。ソファーの上だ。しかし事務所ではない。そして寝息と生暖かさは、俺に寄り添う様に寝ていた女だ。よくこんな場所に寝れた物だ。テレビが点いている。机の上には、古い探偵映画のDVDのパッケージ。思い出した。懐かしさに買ってしまったDVDだが、見る機会がなく、明日は非番だからと二人で見ていたのだった。しかしどうも途中から眠ってしまったらしい。そんなつまらない映画ではなかったと思ったが。
ところで今心に決めたことがある。情報屋との付き合いは程々にしよう。
To next time