とある評論家「フォルクスワーゲンの依頼でネガキャンした奴は絶対いる」⇒名指しもされてないのに顔真っ赤にして反論してきたヤツwwwww
(はちま起稿、2015年10月7日)
フォルクスヴァーゲン・コンツェルンの排ガス不正は、前CEOだった
マルティン・ヴィンターコルンの嫌疑不十分という線で、一応の終息を見せ始めています。
ブラウンシュヴァイク検察というかドイツの法律では、それが限界です。
それに、今や一大財閥であるVWを徹底的に追い込めば追い込むほど、ドイツという国の、更にはEU全体の、失業率や株価下落にも繋がりかねない。
だから深くは追及できないというのでしょう。
このニュースは、当のアメリカよりも、日本のほうが大騒ぎしているようですね。
そりゃそうですとも。
今まで散々、環境テクノロジーだとか高級路線だとかホワイト企業だとか銘打っておいて、その正体がこれだったのですから。
偽善であり、そのブランドイメージやスローガンを信頼してファンになった人々への、これは裏切りです。
それと日本ではディーゼルエンジンに馴染みがあるので、尚ショッキングだったというのもあるでしょう。
日本で販売されている軽油はサジアラビアをはじめとする中東産であり、この事件が発覚したアメリカに比べて安価で高品質(アメリカでは軽油の値段がレギュラーガソリンよりも高額で、なのに日本より低品質)。
その上日本では、石原慎太郎都政によってディーゼル技術が向上し、船舶・航空機・機関車・建設機械・公共機関・工業用・産業用、果ては農作業用の草刈機に至るまで、ディーゼルは幅広く普及している。
だから対岸の火事とは思えない。
勿論、中国と一緒になって日本人への
ヘイトスピーチに加担したという、国辱的な扱いをされた怨みもあります。
あれがドイツ人の本性であり、あれがVWという企業の体質なのだなと、僕含めて思い知った人は多いのではないでしょうか。
第二次世界大戦では同盟を組んだ間柄であり、アーリア人の民族性は日本人のそれにも相通ずると言われていますが、それは日本人による片恋慕でしかなかった。
そういえば、日本人への差別思想である「黄禍論」を白人社会全体に広めたのも、ドイツ人……ドイツ帝国皇帝・ヴィルヘルム二世でした。
さてさて、そんな状況にも拘わらず、日本の自動車評論家達は随分静かなのが気掛かりでした。
雑誌は、新車情報など、メーカーが発するプレスリリースを丸写ししたような、判で押したような記事ばかり。
一部の評論家がようやく重い口を開けたと思いきや、誰も聞いていないディーゼルエンジンの薀蓄だったり、排ガスの浄化がいかに難しいかといった技術論だったり、「今後の動向を注意深く見守る必要がある」という当たり障りのない表現に終始していたり。
そんな中で唯一(?)、
国沢光宏だけが気を吐いていますが……流石は先生、信念に揺らぎがありません。
いえ、ね、VWを擁護するのは一向に構わないのですよ。
その割には、理論が破綻しており、支離滅裂で、理屈が通っておらず、薄っぺらく、根本的に無知で…。
そんな擁護をされたら、VWにすれば逆に迷惑ではないかと疑うレベル。
本人にすれば絶大な信頼を寄せていることの証なのかも知れませんが、その姿勢は、ファンを通り越してもはや信者です。それも盲目的、妄信的、いや狂信的な。
そもそも国沢は、普段の「評論」からしてが、目も当てられません。
元々は二輪の人だったのに、酷すぎる評論を繰り返すせいで業界を追放されて、それで四輪の世界へやってきた人。
試乗の仕方も、停止状態からアクセルをいきなり全開にしてホイールスピンをさせながらの急加速、そのスピードのままハンドルをいきなり目一杯に切って横転しかねない急旋回、ブレーキが真っ赤に焼けて焦げ臭い匂いを放つほどの急制動。
そうやって車を“評論”した揚句、散々褒めそやした車を、マイナーチェンジやモデルチェンジで旧モデルになった瞬間に、親の仇のように罵詈雑言を浴びせる。
スペックや信頼性や販売台数など、具体的な数値として日本車が上回っても、絶対にそれを認めず、「日本車はドイツ車に永遠に追い付くことは出来ない」の一点張り。
普段の姿勢がそうだから、裏でお金を掴まされているのではないかと疑われるのです。
事実、
第34回日本カー・オブ・ザ・イヤーでは、
「FIT3は接待をしてくれなかったから、賞はやる気が失せた」
「対してゴルフⅦは豪華な招待状をくれて、担当者が直々に挨拶にやって来て、海外試乗会にも招待してくれて、受賞への並々ならぬ意気込みを感じた」
などと、車そのものの完成度ではなく、接待の有無で賞を決めたことを仄めかしていました。
いつもそんな調子だから、後出しでもっともらしい弁解をブログでしていても、誰も信じるどころか、皆指を差して失笑しているのです。
ああ、そういえば、「信者」とは「儲ける」という漢字を分解したものですねぇ……( ´,_ゝ`)
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欧州厨の自動車評論家「トヨタのブレーキやタカタのエアバッグと違い、VWは死者出してないじゃん」
(乗り物速報、2015年9月25日)
「トヨタの自動ブレーキやタカタのエアバッグと違って、死者が出たわけではないじゃないか」とか、「NOxが環境に与える負荷など大した問題ではない」とか、「三菱やふそうのリコール隠しに比べれば可愛いものだ」とか、「他のメーカーもやっているに違いないのに、なぜVWだけが攻撃されなければならないのだ」とか、そういう問題じゃないんだ。
分からないで言っているとすれば、あまりにも常識がなさすぎる。分かっていて言っているとすれば、相当に悪質。
国沢、お前には人としての心が本当にあるのか?
これは国沢一人の問題でもないのですよね。
岡崎五朗は、ボルボにだけは、異常なほどに評価が甘い。
川口まなぶも同様に、BMWを過剰なまでに褒めそやし、「官能的なエンジン」としか表現しない。
で、何がどう官能的なのか、何と比較してそうなのか、そもそも官能的とは何なのか、具体論となると一言も説明がない。
本当に感情だけで物を言うのだなぁ┐(´д`)┌
特定のメーカーを好きになるのは、ファンとしてごく自然な心理だと思います。
映画ファンは、監督で作品を選別したり。クラシック音楽のファンも、モーツァルトがどうのベートーヴェンがどうの。野球でも、巨人ファン、阪神ファン、ヤクルトファン…。
みんカラでも、トヨタファン、日産ファン、三菱ファン、フェラーリファン、ポルシェファン、アルフィスタ(アルファ=ロメオのファン)、等々…。
そして、斯く言う僕も、鈴菌感染者。
でも、そんな素人の「ファン」と同レベルの“感想文”しか書けないのであれば、プロフェッショナルの「評論家」として失格です。
海外ではどうかは分かりませんが、少なくとも日本の自動車評論家の質が斯くも低俗なのは、やはり第一人者たる
徳大寺有恒の影響でしょう。
自動車をファッションや生き方や経済活動をも含めた文化として定着させた功績は大きいものの、その評論スタイルは最後の最後まで破綻していたのは、論を待ちません。
その徳大寺が、まだ無名の若者だった時代に、ゴルフの評論をしたことで、一躍名が売れた。それに恩義を感じ、モデルチェンジされる度に代々のゴルフを乗り継いできた。
そういった背景があるために、徳大寺の評論は、まずはゴルフありきであり、ゴルフを全ての車の判断基準とし、ゴルフ信者であり、それ以外の車を貶めるという手法が基本だった。
第一人者がそうなのだから、後に続く者がそれに倣うのは、自然の理です。
ましてや業界で仕事をすれば、給料を払ってくれるスポンサーやクライアントのことは悪くは言えないのは、社会人であれば誰もが一度や二度は味わったこと。
だから業界の人々は、このVW排ガス不正事件に、一様に口を閉ざすしかない。批判的な記事を書こうものなら、次からは仕事が来なくなり、食うに困るから。
現に若き日の徳大寺からしてが、書きたいことを書いたせいで自動車業界と出版業界の双方から大バッシングを受け、当時の
AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)からの追放を余儀なくされた過去がある。
ファンだからこそ、敢えて「駄目じゃないか、VW!」と苦言を呈することは、誰もしない。
むしろ最近では、「お前らに関係ねぇだろ。オーナーでもないのに好き勝手言ってんじゃねぇぞ」などと言って憚らないみんカラユーザーも現れてきました。
中には、国沢のように、大喜びで尻尾を振りながら靴を舐める忠犬も。
うん、確かに、あれほどの忠誠心があれば、わざわざ買収する必要などないわなw
勿論日本車メーカーだって、過去には汚いことをしてきました。
トヨタの、WRC(世界ラリー選手権)でのリストラクター不正事件。三菱のリコール隠し。日野のトラックも同じく排ガス不正。
だから僕ら日本人としても、あまり大きな口を叩けないといえば、その通り。
だからといって、牽強付会を物ともせずに、これほどまでに日本を憎む人間が日本の御意見番として各方面から重宝されて然るべき理由には、なりません。
もっとも逆に言えば、彼らとは反対の言動を心掛ければ、僕らにすれば間違いはないということですね。