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2013年04月14日 イイね!

トヨタ オーリス試乗

へれ私はトヨタ車があまり好きではありませんが、ゴルフと同じCセグメントのクルマとして気にはなっていて、デビューからだいぶ経っていますが乗ってみたいと思っていました。


試乗車:トヨタ オーリス 180G S Package (FF、7速CVT)   価格221万円(税込)

試乗車オプション モデリスタ エアロキット 116,550円
            モデリスタ18インチホイール&タイヤセット 262,500円

試乗車価格 258.095万円(税込)



●外観デザイン
ちょっと顔がガンダムチックですが、トヨタ車にしてはわざとらしいラインが少なくて自分は結構好きです。特に下の写真の今回試乗したモデリスタのエアロと18インチホイール&タイヤを装着したモデルはかっこよかったです。
Cd値は0.28です。フロントガラスがけっこう寝ていてピラーが迫っていましたが、アテンザほど気にはなりませんでした。

全長4275mm×全幅1760mm×全高1460mm、ホイールベース2600mm
車重1280kg、前軸重800kg、後軸重480kg(車検証記載値)






●エンジン
1.8リッター直列4気筒DOHCで、105kW(143ps)/6200rpm、173Nm(17.6kgm)/4000rpm。パワー的には不足はありませんが、なにか感動がないというか、刺激が足りないというか、走っていて物足りない感じがします。スペック的には劣っていますが、ゴルフの1.2リッター直噴ターボのほうが味があります。ミッションがCVTというのもあるのかもしれません。トヨタ流にちょっと踏んだだけで「ブワッ」って唐突に加速するクセは多少残っていますが、今までのクルマに比べればより自然になりました。
1.8リッターはアイドリングストップがありません。試乗車の燃費は平均8.2km/ℓと表示されていましたが、これだったら私のGTIと変わらないか、高速だったらGTIのほうが燃費がいいかもしれません。1.8リッターの自然吸気で2リッターターボとほとんど燃費が変わらないなんてどうなんでしょうか?

●ミッション
7速シーケンシャルシフトマチック(CVT)で、パドル付です。Dレンジで加速するとやはりダイレクト感がないCVT特有の走りですが、パドルシフトを駆使してマニュアルモードで走れば変速もすばやいですし、そこそこ楽しめます。それでもVWのDSGのほどのダイレクト感ではないです。

●ハンドリング
電動パワーステアリングです。チルト&テレスコピック調整機能付です。最小回転半径は5.2m。
トヨタ車にしては微小舵角での反応もあり、切った分だけ素直に曲がってくれます。タイヤの接地感はまったくないわけではないですが、ゴルフほどは感じません。剛性感もゴルフに比べるとありませんが、よく言えば軽快感があるとも言えます。
自分にはステアリングの形がイマイチしっくりきませんでした。

●足回り
フロントがストラット、リアがダブルウィッシュボーンです。 リアは1.5リッターだとトションビームです。
タイヤはFALKEN ZIEX ZE912、サイズは225/40R18 92Wと私のGTIとまったく同じです。
荒地を走ったときのいなしかたは結構よく、乗り心地がいいです。姿勢もフラットでいいです。
アテンザやゴルフのような重厚なフラット感ではなく、フランス車的なやさしいフラット感です。

●ブレーキ
フロントはベンチレーテッドディスク、リアがディスクです。1.5リッターでもリアがディスクというのは良心的です。
効き方に違和感がありました。少し奥まで踏まないと効きださないのと、効いてからペダルを放したときに減速感が緩和されず、パッド引きずり感があります。単なる個体差であれば良いのですが。

●静粛性
ゴルフよりは劣ります。「ゴー」というタイヤの音が結構聞えてきます。

●シート
フロントシートはクッションの長さが適切で、背もたれも大きく包み込んでくれるようにホールドもするので結構いいです。腰のあたりの当たりもいいし、ウレタンの厚みもあります。
リアはポジションがちょっと高めですが、クッションの長さが適切で、ウレタンの厚みがありいいです。
ゴルフはポジションが低くてクッションの長さも短いので、膝の曲がりが適切でなく、長時間乗っていると疲れそうですが、オーリスのほうが椅子に座るように自然な姿勢がとれて疲れにくそうです。

●内装(インパネ)
インパネの造形は絶壁感といい、左右非対称といい、個人的には好きになれませんでした。乗ってるうちに見慣れてはきましたが、センターが直立すぎて、ナビやエアコンの操作をするときに体が背もたれから離れてしまうので、少し傾斜をつけてドライバー側に近づけてもいいんじゃないかと思いました。
ナビの位置も今どきのクルマにしては低めです。

メーターの文字盤暗めでちょっと見にくかったです。目が悪くなってきた私は、もう少し文字も大きいほうがいいと思いました。


●ラゲッジルーム
360リッターで、このクラスとしては標準的なサイズです。
6:4分割可倒ですが、私の好きなアームレストスルーはありません。

●安全装備
いまどきサイドエアバッグとカーテンシールドエアバッグがオプションというのもずいぶん遅れている気がします。
また、最近流行の安全装備がオプションでもありません。
AFS(アクティブ・フロントライティング・システム)が標準で、ライトのハイ/ロー自動切換えがオプションであるくらいです。
ゴルフⅦの限定車が安全装備てんこ盛りで279万円からということを考えると、ここはもうちょっとがんばらないといけないんじゃないかと思います。

●気になる装備
パノラマルーフ
10.5万円のメーカーオプションで取り付けられます。
フランス車には多いですが、国産車にはオプション設定すらない場合があるのでうれしいですね。



ゴルフほどきちんと作りこまれているという感じはしませんが、いままでのトヨタ車のようにただ他車の技術を流用した金太郎飴的なつくりではなく、いろいろなところが少しずつ煮詰めがされているような感じを受けました。
ゴルフにはない軽快感で、どちらかというとプジョーに近い乗り味です。足回りはいいので、もうちょっとエンジンの回りかたやパワー感に味があるといいと思いました。

価格差もあるとは思いますが、試乗を終えたあと自分のGTIで走り出したら、ステアリングの正確な反応や、剛性感に「やっぱりゴルフはいい!」と失礼ながら思ってしまいました。安全装備の貧弱さも気になるところです。今時点では買いのクルマではない気がします。マイナーチェンジでトヨタが最新の安全装備をどのくらい揃えてくるのか様子見といったところでしょうか。
それにしてもCセグメントは激戦区ですね。国産車では「アイサイト」を搭載したスバルインプレッサスポーツ、輸入車ではすでにデビューしたメルセデス・ベンツAクラスやボルボV40、これからデビューするゴルフⅦにアウディA3と完成度の高かったり、高そうなモデルばかり!オーリスも悪くはないですが、「悪くはない」というレベルではこのクラスで生き残っていくのは厳しいのではないでしょうか。
Posted at 2013/04/14 13:55:45 | コメント(2) | トラックバック(0) | 試乗記 | クルマ
2013年04月07日 イイね!

マツダアテンザワゴン ディーゼル試乗

いままで先代も先先代も乗ったことがなかったので、いつかは乗ってみたいと思っていました。
かなりの長文になってしまって申し訳ありません。
以前レガシィツーリングワゴンに乗っていたこともあり、ステーションワゴンも好きなんですよね。

試乗車 マツダアテンザワゴン XD (FF) 6AT   290万円(税込)

試乗車オプション ディスチャージパッケージ    7.35万円
            セーフティ・パッケージ1    15.225万円
            セーフティ・パッケージ2     5.25万円
            19インチタイヤ&ホイール    5.25万円
            ナビゲーション          19.7万円

試乗車価格  342.775万円

なんだか価格設定が微妙ですね。
上級グレードの「XD Lpackage」と同じ安全装備と19インチタイヤ&アルミ、ディスチャージヘッドライトを付けた状態で323.075万円で、価格差が16.925万円。その装備差はパワーシートとインパネの加飾パネルとアームレストがスライド式の大型になることくらい。パワーシートが特に必要なければ、その分で試乗車のようにナビを付けたほうがいいかもしれません。

●デザイン
個人的には文句なしにかっこいいと思います。特にリアは造形も美しくマフラーも2本出し。レガシィツーリングワゴンに比べたら、デザインだけでもこちらを選ぶ価値があると思います。デザイン上唯一気になったのは、シャークフィン型アンテナが結構大きかったことです。デザインでわざと大きくしたのかわかりませんが、もう少し小型でスマートなほうがいいと思いました。
空気抵抗係数はCd=0.28と立派です。
空力を良くするためにフロントガラスをかなり寝かせていて、フロントシートに座っていると圧迫感があります。
 

全長4800mm×全幅1840mm×全高1480mm、ホイールベース2750mm
車重1530kg、前軸重950kg、後軸重580kg(車検証記載値)


●エンジン
エンジンはCX-5と同じ直列4気筒DOHC直噴ターボ、コモンレールディーゼルです。
スペックは129kW(175ps)/4500rpm、420Nm(42.8kgm)/2000rpmとCX-5と同じ。
音や振動はCX-5よりも押さえ込まれていますが、多少感じます。
こちらのは「i-EROOP」と呼ばれる蓄電装置(キャパシター)が搭載されており、この蓄電装置のおかげで、アイドリングストップ時間が長くなるそうです。「i-EROOP」のおかげで実燃費はCX-5よりも1km/L程度向上するそうです。
パワーはこちらのほうがおとなしいように感じましたが、おそらく足回りがどっしりしていて安定感があったのと、車重がほとんど変わらないにもかかわらずデフの最終減速比がCX-5:4.090に対して、アテンザ:3.804となっていることもあるかもしれません。

●ミッション
SKYACTIV-DRIVE 6ATです。
Dレンジでの走行は変速ショックもなくスムーズで、特に違和感はありませんでした。
マニュアルシフトは試し忘れました。ステアリングシフトスイッチがありましたが、こちらも試し忘れました。

●ハンドリング
電動パワーステアリングです。残念ながらハンドリングは私が期待したものではありませんでした。センター付近に左右2cm分くらい遊びがありレスポンスしません。また切り込んで戻すときに戻りが悪く、電動パワステっぽい感触が残っています。まだCX-5のほうがいいように感じます。
最小回転半径は5.5m。

●足回り
フロントがストラット、リアがマルチリンクです。
タイヤはブリジストンTURANZA T001、サイズは前後とも225/45R19 92Wです。
CX-5よりは確実に固いです。そのぶんドッシリとしていて落ち着きがあり、フラットな乗り心地です。ゴルフに慣れた私にはこちらのほうが好みに合っていました。19インチのためかゴツゴツする場面もありますが、CX-5ほどではありません。

●ブレーキ
フロントがベンチレーテッドディスク、リアがディスクです。
CX-5もいいですが、こちらのほうがより踏に込み量に比例して減速度が増すので、コントロールがしやすく好感が持てました。
パーキングブレーキは300万円を超えるクルマ、ましてやマツダの最上級車ならば電動にしてほしかったです。

●静粛性
ディーゼルエンジンの音以外は、特に気になる音はなく静かです。

●シート
フロントシートはクッションの長さも丁度良く、背もたれは大型で形状も適切なので、長時間運転でも疲れなさそうです。日本車の中ではかなり優れていると思います。サイドのサポートもCX-5よりしっかりしていて体がずれないので、とても気に入りました。
リアシートはクッションの座面が長く、背もたれも大型で形状もよいので、フロント同様長時間乗っても疲れない感じです。CX-5と違い天井が低いですが、その割りに頭上の圧迫感がなく、逆に前後方向にゆとりがあるのでこちらも快適です。背もたれはCX-5同様リクライニング機能はなし。分割は6:4で、アームレストスルー機能はなしです。

●内装(インパネ)
CX-5もよかったですが、こちらはやはりマツダのフラッグシップだけあり、写真ではわかりずらいですがさらに高級に仕上がっています。ナビ用ボタンが大型で使いやすそうでよかったです。でもなぜ日本のメーカーはドイツメーカーがやるようなコントロールリモコンをセンターコンソールつけることをしないのでしょうか。コストがかかるからでしょうか。ボタンはもちろん小さいよりは大きいほうが良いのですが、操作するにはどうしても上体がシートから離れてしまうので、個人的にはセンターコンソールかステアリングにスイッチがあるのがいいと思います。

メーターはCX-5と同様、白を基調としたもので嫌味がなく見やすいです。


●安全装備
さすがに最新の安全装備が付いています。
マツダは安全についてもいろいろな名称を付けてきましたね。
装備ごとに細かく名称を分けすぎていて、覚えられません。
スバルの「アイサイト」みたいにひとくくりの名称でないと、覚えにくくて一般の人に浸透しにくいと
思うんですけど。
せっかくコア技術に「SKYACTIV」って覚えやすい名称つけたのに、なんでこんな凝った名前に
しちゃったんですかね。単純に「SKYACTIV SAFETY」じゃタメだったんでしょうか。

マツダの安全思想のことを「MAZDA PROACTIVE SAFETY」というそうです。
安全技術の総称を「i-ACTIVSENSE」というそうです。

では「i-ACTIVSENSE」に含まれる技術を1つ1つ確認してみると、

①スマート・シティ・ブレーキ・サポート(SCBS)&AT誤発進抑制制御
SCBS4~30km/hの間でフロントガラス部分にある近赤外線センサーを使って感知して衝突の危険があると判断すると、自動でブレーキをかけるシステムです。ATご発信抑制制御は10km/h以下の徐行時及び停止時にセンサーが障害物を検知しているにもかかわらずアクセルが一定以上踏み込まれた場合に、警告と同時にエンジン出力を抑える機能です。
SCBSはボルボの「シティセーフティ」やVW up!の「シティエマージェンシーブレーキ」などと同様の
システムです。

②マツダ・レーダー・クルーズ・コントロール(MRCC)
私の好きな装備です。フロントグリルのエンブレム内にあるミリ波レーダーを使って30km/h~
100km/hの間、前車との車間距離を一定に保ちながら自動追従するクルーズコントロールです。
車間距離は5段階に設定できます。日本車のクルコンは100km/hまでしかセットできないのが
残念です。

③スマート・ブレーキ・サポート(SBS)
こちらも②と同じミリ波レーダーを使って15km/h以上で車間距離を認識し、メーター内に表示、
車間距離が基準値に達すると警告を発し、さらに距離が縮まると自動ブレーキで衝突回避または
衝突時の被害軽減を図ります。

④車線逸脱警報システム(LDWS:Lane Departure Warning System)
フロントガラスにあるカメラを使って、車線を逸脱しそうになると判断すると、音で警告を発します。
ウィンカーを出しているときは働かないそうです。

⑤リア・ビークル・モニタリングシステム(RVM)
リアバンパーに内蔵されたレーダーを使って、斜後方約50mまでの範囲で近接車両を検知し、
ドアミラーにあるインジケーターが点灯します。その検知している状態でウィンカーを操作すると、
インジケーターの点滅と同時に警告音を発します。

⑥アダプティブ・フロントライティング・システム(AFS)
ステアリングを切る角度と車速に応じて、ヘッドライトの向きを進行方向に近づけるシステム。
GTIにもついています。

⑦ハイビーム・コントロール・システム(HCS)
ハイビームで走行中、フロントガラスにあるカメラが対向車のヘッドライトや前走車のテールランプを
検知すると、自動的にロービームに切り替えるシステム。
これは便利かもしれません。

ディラーマンはミリ波レーダーは200m先まで補足でき、悪天候時でも補足できると言っていました。
スバルのアイサイトはステレオカメラで60m前までしか補足できず、悪天候時は補足しにくくなるそうです。ただし、物体を認識するのにはカメラのほうが向いているそうです。

こうやって調べてみると、スバルのアイサイトはステレオカメラだけですが、i-ACTIVSENSEはミリ波レーダー、近赤外線センサー、カメラと3種類の感知装置を使ってより多機能にしてあるので、開発陣のこだわりをいろいろな名称を使って表現したかったということもあるのかもしれないですね。けっこうベンツやボルボに迫るぐらいになってますね。

残念ながら、今回試乗したXDというグレードにはこれらの安全装備は何もついていません。
セットオプションは以下の組み合わせになっています。

セーフティ・パッケージ1 : ①、②、③、⑤
セーフティ・パッケージ2 : ④、⑦
ディスチャージ・パッケージ : ⑥

●ラゲッジルーム
容量は506リッターと十分です。背もたれは6:4の分割可倒で、荷室側からレバー操作で倒すことができます。アームレストスルーはないので、長尺ものは背もたれを倒すか、ルーフキャリアを付けて乗せるしかありません。個人的には高速走行を考えると外には出したくないですが。
カラクリトノカバーが標準装備で、バックドアを開けたとき追従してトノカバーも上に開くので、使い勝手がいいです。



クルマとしては良く出来ていて、おすすめできるクルマだと思います。
私はどうかというと、以下3点の理由によってこのクルマは選択肢に入りません。
1.ステアリングが中立付近でレスポンスしない。
2.リアアームレスト・スルー機能がない。
3.フロントピラーが寝すぎていて、圧迫感がある。
最大の理由は1で、1が良ければ2と3は妥協できるかもしれません。
2は単にスキー板を積みたいというだけなので、そういった目的がない方は必要ないでしょう。
3についてはガラスルーフなどが設定されれば、少しは圧迫感が解消されるのではないかと
思いました。

私はこのクルマに乗ったとき、プジョー508SWを思い出しました。
プジョー508SWは上の3つの条件をすべてクリアしているんですよね。
ただし、安全装備ではかなり見劣りしますが。

私としては、マツダ並の安全装備に、プジョーのようなスアリングレスポンス、開放感、アームレストスルー機能があるといいかなと思いました。
勘違いしないでくださいね。アテンザはいいクルマです。
ただ、私の要求に合っていなかっただけです。
クルマ選びって楽しいけれど、難しいですよね。
ピタッと自分の要求に合うクルマって意外と少ないです。
Posted at 2013/04/07 00:05:30 | コメント(3) | トラックバック(0) | 試乗記 | クルマ
2013年03月31日 イイね!

マツダCX-5 ディーゼル試乗

デビューから1年たってしまいましたが、ディーゼルに試乗してまいりました。
決算は終わりかと思っていたら、まだやってましたね。


試乗車 マツダCX-5 XD L package 4WD 6AT  319万円(税込)      


●デザイン
久々に近くで見ましたが、大きく感じました。見慣れたせいか、以前ほどフロントがブサイクな感じはしなかったです。Cd値は0.33。


全長4540mm×全幅1840mm×全高1705mm、ホイールベース2700mm
車重1620kg 前軸重980kg、後軸重640kg(車検証記載値)

●エンジン
2.2リッター直列4気筒DOHC直噴ターボ、コモンレールディーゼルです。
スペックは129kW(175ps)/4500rpm、420Nm(42.8kgm)/2000rpm。
だいぶ評判がいいようですが、アイドリング時の振動は結構大きかったです。今日は寒かったので、エンジンが冷えていたせいもあるかと思いますが、音もやはりディーゼルの音がはっきり聞えます。
回転はスムーズでレッドゾーンが5000rpmからとなっていますが、フン詰まり感はまったくありません。こういったところは従来のディーゼルにはない感覚でしょうか。他のメリットとしては、回転を上げて速度が乗ったときのほうが静かに感じられたこと、あとアクセルの踏み加減に対して、トルクがきちんとついてくるので、とても走りやすかったです。この感触はVWの直噴ターボの味付けに近い感覚があります。全開時だけでなく、スロットル開度合わせた燃料噴射のチューニングをきちんとやっているのでしょう。国産メーカーではめずらしいですね。
実燃費は街中で10~12km/hと、自分が期待していたほど良くはないですね。高速に乗ると15km/hくらいいくそうです。

●ミッション
SKYACTIV-DRIVE 6ATです。
Dレンジでの走行は特に違和感なし。マニュアルシフトではアップシフトはゆっくり、ダウンシフトはすばやかったです。さすがにVWのDSGのようなレスポンスではありません。

●ハンドリング
電動パワーステアリングです。最小回転半径は5.5m。ディーゼルはやはりエンジンが重いのでしょうか、フロントヘビーに感じられました。またFFのガソリンに乗ったときよりも、微小舵角でのフィーリングが伝わりにくく感じられました。ハンドリングや軽快さを優先するのであれば、ガソリン、FFモデルの17インチ仕様のほうがいいように感じられました。

●足回り
フロントがストラット、リアがマルチリンクです。
タイヤはTOYOプロクセスR36、サイズは225/50R19 99V。
今回の試乗車は19インチタイヤでしたが、ちょっとゴツゴツした感じがしました。19インチはもちろんかっこいいですが、乗り心地を考えると17インチのほうがおすすめです。

●ブレーキ
車高が高いにもかかわらず、つんのめる感じもなく、効きもいいです。

●シート
フロントシートは見晴らしがよく、革シートでしたがすべりにくく座り心地もよく、長時間乗っても疲れなそうです。また今日は寒かったですが、シートヒーターがついており快適に試乗ができました。
リアシートはクッションの座面が短めですが、背もたれは大きく天井も高いので快適です。背もたれのリクライニング機能はなし。開放感はフロントシートのほうがあるように感じました。

●内装(インパネ)
久々に乗りましたが、質感が高く、開放感があるので、とても気に入りました。2トンカラーでピラーと天井が白系の内装なので、それが開放感にも効いていると思います。


●ラゲッジルーム
容量は500リッター。地面から高さがあるので出し入れはしにくそうですが、縦方向に深さがあるので、結構入りそうです。4:2:4の分割可倒なので、スキー板などの長尺ものも室内に積み込めます。背もたれは荷室側からレバーで倒せます。
テンパータイヤはなく、床下にパンク修理キットが入っていました。

●安全装備
スマート・シティ・ブレーキ・サポート+AT誤発進抑制制御
簡単にいうとセンサーで障害物を検知すると自動でブレーキをかける機能と、障害物を検知しているときにアクセルが一定以上踏み込まれた場合にエンジン出力を抑える機能です。
さすがに機能ではスバルのアイサイトが一枚上手に感じます。
安全装備とは別ですが、前車追従クルーズコントロール機能がないのが残念です。


BMW320dほどではないですが、やはりディーゼル特有の音・振動は気になります。自分の好みでいったら、まだガソリン車のほうがいいかと思いました。でもCX-5にはハイパワーなガソリン車がないのが残念です。
今回試乗したXD L packageは4WD、革シート、19インチタイヤ&ホイールということもあり319万円と結構高価です。しかしナビは付かないので、そういったオプションを付けると結構いい値段になってしまいます。もし私が買うとしたら、ディーゼルは好きではありませんがパワーを考えると258万円のディーゼルXD(FF)ですかね。ガソリン車は価格が安いわりに安っぽい感じがなくて魅力的ですが、もうちょっとパワーがほしい気もします。
Posted at 2013/03/31 13:17:05 | コメント(1) | トラックバック(0) | 試乗記 | クルマ
2013年03月23日 イイね!

ベントレーの歴史 (W.O.ベントレーの手がけた時代) 

ごぶさたしてます。
試乗記を期待している方、申し訳ありません。
3月は決算期なので、商売の邪魔をしないよう、お店にはあまり行かないようにしています。

私もいろいろなクルマに試乗するようになり、1000万円近いクルマにもたまに乗る機会が出て
きましたが、ほんとうに高級なクルマのつくりとはどんなものなのか、知りたくなってきたのです。
また、現代の製造方法がどのような段階を経てできたのかも知りたくて、歴史を紐解いてみた
次第です。

さて、今回はメルセデス・ベンツに続き、ベントレーの歴史です。
しかも、創業者ウォルター・オーウェン・ベントレー(W.O.ベントレー)が直接手がけたクルマたち。
1921年から1931年のわずか10年ほどのことです。
たった10年の間ですが、ルマン24時間5回優勝(1924年、1927~1930年)という
輝かしい足跡を残しています。
学びたいことの趣旨からずれている気もしますが、この当時のベントレーは値段は高かった
けれども、決して高級車ではなくスポーツカーだったようです。
現代のドライバーズカーでありながら高級車でもあるベントレーの姿は、ロールス・ロイス社に買収
された後の1930年代のことです。


この本から学ばせて頂きました。



「FYING B No.001} ネコパブリッシング刊  ¥2625.-(税込)

なんとベントレー単独の雑誌です。なので値段は高いですが、写真が豊富できれいなので、見ていて飽きません。
木と革の内装のクルマが好きな私のような人間にはうってつけです。
おまけに歴史も教えてくれますし。


歴史を紐解くのにからみ、2010年7月にお台場で行われた「コンクール・デレガンス・東京」に行ったときの写真の中に、たまたま撮っていたベントレーがありましたので紹介させていただきます。 このイベントは今は行われていませんが、ぜひ復活してほしいものです。

このベントレーは1924年製ベントレー”3Litre SPEED MODEL”です。
当時はこのクルマの重要性をまったく認識していませんでした。
この個体は「白州次郎」が欧州に留学していたときに購入し、レースに出たり、欧州旅行に使用したそのものです。(詳細はFLYING B No.001に掲載されています)
現在は埼玉県加須市にあるワクイミュージアムが所蔵しています。
本を読んで「これ見に行きたい!」って思ったら、すでに見ていたなんて...
 


なんと麻を巻いたステアリングです。


続いて、1921年製ベントレー”3Litre by Gairn”
こちらは ベントレー社が創業してからはじめて製造した”3Litre”モデルの中で
生産時の状態をそのまま保持している、世界最古のものだそうです。
こちらもワクイミュージアム所蔵のもの。
”by Gairn”とあるのは、当時のクルマはシャーシー状態で売られて、ボディは馬車を製造していた「コーチビルダー」が製作することが多く、このクルマは「Gairn」という
スコットランド・エディンバラのコーチビルダーが手がけたもの。






また私の備忘録として、歴史を記します。
あくまでも備忘録なので、間違っていてもお許しください。
写真はあえて載せていません。

1888年9月16日 ウォルター・オーウェン・ベントレー ロンドンに生まれる

1905年(17歳)  名門校クリフトン・カレッジを卒業
          グレード・ノーザン鉄道に入社
          (イングランド中北部サウス・ヨークシャー州ドンカスター)
          人間関係に耐え切れず退社

1910年(22歳)  ナショナル・モーター・キャブ・カンパニーに入社

1912年(24歳)  兄弟の一人、ホーレス・M・ベントレーの影響で
          自動車やモーターサイクルのレースに興味を抱くようになり
          フランス製のガソリン自動車"DFP"の輸入権を持っていた
          ロンドン・ウェストエンドにあった"ラコック&フェルニー"
          という小さな会社を兄のホーレスとともに買収する。
          そこでDFPに自らチューニングを施したレーシングカーの
          開発を指揮したほか、自らワークスドライバーもかって出た
          W.OによってチューニングされたDFPは、ついには2リッター
          以下クラスでDFP本社のワークスマシンより速くなってしまう
          (ピストンに初めてアルミを用いた)

1914年(26歳)  第一次世界大戦の勃発によりイギリス海軍航空隊に技術将校と
          して従軍することになり、アルミ合金製ピストンを航空機用
          エンジンにも応用、彼が設計した空冷星型9気筒エンジンは
          約4000ユニット生産され、当時採用されていた軍用機用
          エンジンの中でも最高傑作の一つとの評価を受けた

1919年(31歳) 8月ベントレー・モーターズ社創立

          10月 ロンドンショーにて"3Litre"を発表

             水冷4気筒4バルブSOHC 2996cc、65HP
             ボア×ストローク:80×149、SU式ツインキャブレター
             点火システムは2系統マグネトー式と航空機仕込み
             最高速は80mph(約128km/h)以上だった。
             足回りは半楕円リーフのライブアクスル
             シャーシはラダーフレーム
             ローリングシャシー状態で1050ポンド

1921年(33歳) "3Litre"を発売開始

1923年(35歳) "3Litreスピードモデル"登場
          圧縮比アップと気化器の大径化で80HPにパワーアップ

1926年(38歳) "6 1/2Litre"発表

          水冷直列6気筒4バルブSOHC 6597cc 140HP
          ボア×ストローク:100×140

          "6 1/2Litre"モデル登場直後に"6 1/2Litre speed six"登場
          大径化したツインSUキャブと5.3:1まで高められた圧縮比によって
          180HPを発生した


1927年(39歳) "4 1/2Litre"登場
          水冷直列4気筒4バルブSOHC 4398cc 110HP
          6気筒モデルから2気筒分切り落とした仕様で、
          ボアストロークは6気筒と同じ


1929年(41歳) "4 1/2Litreブロワー"登場
          ヴィリヤーズ社製ルーツ式スーパーチャージャーを装着し、
          175~180HPを発生した。
          ベントレーボーイズの一人、”ティム”・バーキンの要請により
          レギュレーションを満たすために55台だけ生産された
          世界恐慌とあわせて、このモデルの生産が経営を圧迫した

          "3Litre"モデル販売終了
          スピードモデルと合わせて1622台生産された


1930年(42歳) "8Litre"登場
          "6 1/2Litre" のボアを110mmに拡大し、7983ccとし、220HPとなる
          ロールスロイス「ファントムⅡ」に歯が立たず、販売は不調

          "4Litre”登場
          経営改善のため、エンジンをSOHCからサイドバルブにするなど大幅に仕様を
          ダウンしたモデル
          ベントレーとしての魅力を失ってしまって、こちらも販売は不調 

1931年(43歳) ロールス・ロイス社に買収される          
Posted at 2013/03/23 10:38:10 | コメント(1) | トラックバック(0) | | クルマ
2013年03月09日 イイね!

メルセデス・ベンツ レースの歴史

ごぶさたしてます。
今回は本の紹介です。
自分なりにメルセデス・ベンツのレースの歴史を知りたかったので、本を読んでみました。

「MERCEDES-BENZ RACING HISTORY」   三樹書房刊   1,750円(税込)
アルフレート・ノイバウア著 橋本茂春翻訳


表紙は1952年型300SLプロトタイプ(W194) (カレラ・パナメリカーナ・メヒコ出場車)

この本は1926年から1955年まで、メルセデス・ベンツのレーシングチームの監督を務めた
アルフレート・ノイバウアさんのドイツ語著書「男と女と車」の英訳本を翻訳したものです。

この本を読むと、アルフレート・ノイバウアという人がほんとにルドルフ・カラッチオラのことが好きだったんだなということが、よくわかります。また、カラッチオラが偉大なドライバーであったことも。

「ファンジオやスターリング・モスでさえ、カラッチオラやシュトックやヘルマン・ランクやローゼマイヤーほど光ってはいなかった」というノイバウアさんの言葉から、命がけで走っていた戦前のドライバーの
すごさが伝わってきます。

単なるレースの結果だけでなく、各レーシングドライバーの性格や情事まで書かれているので、まるで当時にタイムスリップしたかのような気になります。


もう一冊は
「メルセデス・ベンツ 歴史の残るレーシング活動の奇跡 1894-1955」
三樹書房刊  2,520円(税込)   宮野 滋 著


表紙はF1マシンの1955年型W196R (ドライバーはファン・マヌエル・ファンジオ)

レースの詳しい結果は、こちらの本のほうが詳しく載っています。写真もたくさんあって、いいですね。
    




ここから先は、2冊の本+自分で調べた情報を私の備忘録として残したものです。
もし記載の誤りがあっても、ご容赦ください。
写真はあえて載せていません。



1891年 3月29日  メルセデス・ベンツ監督、アルフレート・ノイバウア(ドイツ)が生まれる。

1892年11月16日  GPドライバー、タツィオ・ヌボラーリ(イタリア)が生まれる。

1898年 6月 9日  GPドライバー、ルイジ・ファジォリ(イタリア)が生まれる。

1899年 8月 3日  GPドライバー、ルイ・シロン(フランス)が生まれる。

1901年 1月30日  GPドライバー、ルドルフ・カラッチオラ(ドイツ)が生まれる。

1904年       GPドライバー、アキッレ・バルツィ(イタリア)が生まれる。

1906年 6月15日  設計者ルドルフ・ウーレンハウト(ドイツ)が生まれる。

1906年10月30日 GPドライバー、ジュゼッペ・ファリーナ(イタリア)が生まれる。

1909年10月14日 GPドライバー、ベルント・ローゼマイヤー(ドイツ)が生まれる。

1911年 6月24日 GPドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオ(アルゼンチン)が生まれる。

1913年 7月13日 GPドライバー、アルベルト・アスカリ(イタリア)が生まれる。

1929年 9月17日 GPドライバー、スターリング・モス(イギリス)が生まれる。



1914年-1918年 第一次世界大戦 ノイバウアも前線に送られる。
            軍用車の整備をする中で、フェルディナント・ポルシェ博士と知り合う。

1918年       アルフレート・ノイバウア(27歳)は第一次大戦後、フェルディナント・ポルシェ博士
            より、アウストロ・ダイムラー社のロードテスト部の仕事をあてがわれる。

1922年       FIAの前身であるAIACR(Association Internationaledes Automobile Club
            Reconnus)がグランプリ・フォーミュラーの規定を以下に定めた。
              排気量2リッター
              車重650kg以下

1922年 4月2日  タルガ・フローリオ
              アルフレート・ノイバウア(31歳)がレースデビュー
              マシンはポルシェが設計したサーシャ1100cc4気筒DOHC 50馬力


1922年末       ダイムラー社よりパウロ・ダイムラーが去り、フェルディナント・ポルシェが
            アウストロ・ダイムラー社より移籍する。

1923年 6月     ルドルフ・カラッチオラがダイムラーのレースチームに加入
            初めてノイバウアと知り合う。

1923年 9月     スピード・ヒルクライムでルドルフ・カラッチオラが優勝

1924年 4月27日  タルガ・フローリオ
              優勝 クリスチャン・ヴェルナー
              10位 クリスチアン・ラウテンシュラーガー(クラス2位)
              15位 アルフレート・ノイバウア(クラス3位)
              マシンは2リッター4気筒2バルブDOHCスーパーチャージャー
              120馬力/4500rpm

1924年 9月14日  ウィーン近郊のゼメリンク・ヒルクライム
              優勝 クリスチャン・ヴェルナー 6分55秒6
              5位 アルフレート・ノイバウア  7分34秒4
              マシンは2リッター4気筒2バルブDOHCスーパーチャージャー
              120馬力/4500rpm   

1924年10月19日 イタリアGP(モンツァ)にて2リッター直列8気筒4バルブDOHCスーパーチャー
            ジャー160馬力仕様のマシンがデビューしたが、ドライバーのエリオット・
            ズボロウスキー伯爵が立ち木に激突して死亡。出場していた他の2台も棄権。

1926年       ・AIACRにより規定が以下に変更される。
              排気量1.5リッター以下
              最低重量600kg

            ・アルフレート・ノイバウア(35歳)がメルセデス・ベンツ レーシングチームの
            マネージャーとなる。

1926年 7月 1日  ダイムラー社とベンツ社が合併し、ダイムラー・ベンツ社となる。

1926年 7月11日  第1回ドイツGP (ベルリン・アフスサーキット)
            ルドルフ・カラッチオラが優勝、賞金17,000マルク(昭和元年の邦貨で7,160円)を
            手にする。カラッチオラにとっては初めての大きな国際レースでの優勝。
            マシンは1924年にポルシェ博士が設計した2リッター直列8気筒4バルブDOHC
            スーパーチャージャー160馬力/6000rpm仕様のマシン

1926年 9月    ベルリンの高級商店街にあるダイムラー・ベンツのショー・ルームのクルフェルシュ
            テンダムに賞金の17,000マルクを投資、ベルリンの金持ちレストランの娘シャル
            ロット(愛称シャルリー)と結婚する。

1926年 9月12日 ゾリチュードで行われたレースで、初めてドライバーに信号を送ることを試した。
            (現在のピットサインの原型)
            メルセデス・ベンツは1~3位を独占する。

1927年 6月    ニュルブリクリンクが開設される。一周27.6km、172のコーナー。

1927年 6月19日 ニュルブルクリンクで初レースが開催される。
            優勝 ルドルフ・カラッチオラ
            2位 クリスチャン・ヴェルナー
            3位 アドルフ・ローゼンバーガー

1928年 7月15日 第3回ドイツGP (ニュルブルクリンク)
            マシンは「ホワイト・エレファント」180馬力、1~3位を独占する。
            優勝 ルドルフ・カラッチオラ、クリスチャン・ヴェルナー
            2位 オットー・メルツ
            3位 バルプ
            4位 ルイ・シロン (ブガッティ)

1929年 8月     RACツーリスト・トロフィー
            優勝 ルドルフ・カラチオラ

1929年10月29日 世界恐慌

1930年       経済情勢悪化により、メルセデス・ベンツ レーシングチームはこの年不参加と
            なる。この年、アルファロメオのタツィオ・ヌボラーリ、アキッレ・バルツィが台頭し、
            バルツィはイタリアチャンピオンとなる。

1930年       ボルディノ杯レース(アレクサンドリア)の優勝争いで、バルツィがヌボラーリを
            はじき飛ばし、優勝する。

1930年 4月15日  ミッレ・ミリアでタツィオ・ヌボラーリが優勝
            夜間バルツィの後ろをライトを消して走行し、出し抜いた。
            このとき優勝者の平均時速が初めて100km/hを超えた。
            翌年バルツィはアルファロメオから離れる。             

1931年       メルセデス・ベンツはカラッチオラと以下の契約を行った。
            契約条件は輸送・修理・タイヤ・燃料の諸経費を会社が負担するかわりに
            新車のSSKLを安価で購入し、賞金は会社と折半にするというもの。

1931年 4月12日 ミッレ・ミリアでルドルフ・カラッチオラが優勝
            ドイツ人で唯一の勝利となる。

1931年       スペインGPでルドルフ・カラッチオラ優勝

1931年       チェコスロバキアでルドルフ・カラッチオラ優勝

1931年       ケッセルベルクでルドルフ・カラッチオラ優勝

1931年       アイフェルでルドルフ・カラッチオラ優勝

1931年 7月19日 ドイツGP(ニュルブルクリンク)
             優勝 ルドルフ・カラッチオラ
             2位 ルイ・シロン (ブガッティ)

1931年 8月 2日  アブスサーキットでのレースでルドルフ・カラッチオラ優勝      

1931年末      経済事情によりメルセデス・ベンツがレース活動を行わないこととなり、
            ルドルフ・カラッチオラは解雇される。

1932年       ルドルフ・カラッチオラがアルファロメオに移籍
            カラッチオラのみ仲間はずれにされ、ボディカラーが白となる。

1932年 4月    ミッレ・ミリア
            ルドルフ・カラッチオラはムッソリーニ杯を獲得するもリタイア。

1932年 4月    モナコGP
             優勝 タツィオ・ヌボラーリ
             2位 ルドルフ・カラッチオラ
            カラッチオラがヌボラーリに勝利を譲り、赤いボディカラーを許される。

1932年 5月    アブスサーキットでのレース
            カラッチオラ、移籍後初の赤いアルファロメオに乗っての母国レース
             優勝 マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツSSKLストリーム・ライン)
             2位  ルドルフ・カラッチオラ

1932年       ニュルブルクリンクのレースでルドルフ・カラッチオラ優勝

1932年       ドイツGP ルドルフ・カラッチオラ優勝

1932年       モンツァGP ルドルフ・カラッチオラ優勝

1932年       ヌボラーリがイタリアンチャンピオンとなるも
            バルツィとの私闘が激化。

1932年10月12日 AIACRが新しいフォーミュラーカーの規定を採択する。
              ・車両重量750kg以下
              ・幅85cm以下
              ・排気量制限なし




1933年       ルドルフ・カラッチオラはアルファロメオから、ルイ・シロンはブガッティから解雇
            される。
            ルドルフ・カラッチオラとルイ・シロンは「スクーデリアCC」というチームを結成し、
            2台のアルファロメオを購入し、レースを行うことにした。

1933年 4月     ジョバンニ・カネストリーニというジャーナリストによってヌボラーリとバルツィの
            会合が秘密裏にセッティングされ、協定が結ばれて、その後のレースで私闘は
            なくなった。

1933年 4月21日  ルドルフ・カラッチオラがモナコGPの練習走行中にマシンのブレーキが利かなく
            なり、鉄塔に激突。大腿骨の複雑骨折で入院する。
            すぐにボローニャに移され手術するも、右足が5cm短くなってしまった。

1933年 5月 7日  イタリアの植民地、リビアのトリポリに世界で一番高速で、13.2kmのサーキット
            が建設され、レースが開催された。
              優勝 アキッレ・バルツィ (ブガッティ)
              2位  タツィオ・ヌボラーリ (アルファロメオ)
              3位  ヘンリー・バーキン卿 (マセラッティ)
            このレースでバルツィが八百長を画策し発覚するも、注意のみでお咎めはなし。

1933年 5月      ドイツ・ベルリンにあったアブス・サーキットでのレース
            メルセデス・ベンツはマンフレート・フォン・ブラウヒッチュが個人所有のSSKLで
            6位に食い込むのがやっとだった。
            ここから来年に向けて、新しいフォーミュラーカー規定にあわせたマシンの開発に
            乗り出すことをメルセデス・ベンツが決意し、アウトウニオンも開発に着手する。

1933年 9月19日 モンツァGP第2予選、コース上のオイルにのってアルファロメオのカンパーリと
            ボルツァキーニがコースオフし、マシンの下敷きになり死亡する。
            観衆の要望に押され決勝レースが行われたが、チャイコフスキ伯爵がコース
            アウトして木に激突し、頭蓋骨骨折により死亡する。




1934年       アウトウニオンはポルシェ博士設計のミッドシップマシン「Pワーゲン」(通称シル
            バーフィッシュ)を製作。
            ドライバーはハンス・シュトック、ライニンゲン公、アウギュスト・モンバーガー、
            ビルヘルム・セバスチャン
            一方、メルセデス・ベンツはFRの「W25」を製作。設計はハンス・ニベル博士。
            W25はM25A型3.36リッター直列8気筒4バルブDOHCスーパーチャージャーで
            ボア78mm×ストローク88mm、354馬力/5800rpm。トランスアクスルを採用し、
            足回りは全輪独立懸架。
            ドライバーはマンフレート・フォン・ブラウヒッチュ、ルイジ・ファジォリ、それから
            ルドルフ・カラッチオラについては大腿骨骨折の後遺症がないか、練習走行後の
           状態を見て本契約を結ぶこととなった。

1934年 2月 2日  カラッチオラの妻、シャルロット・カラッチオラがスキーで雪崩に巻き込まれ死亡。
            カラッチオラはアローサの山荘に閉じこもり、抑うつ状態となる。
            ベビー・ホフマン夫人が介護を行った。

1934年 4月 2日  カラッチオラの治療の一環として、同僚のルイ・シロンがモナコGPの直前に走行
            できるよう手はずを整え、カラッチオラは12ヶ月ぶりにマシンを走らせた。

1934年 5月24日 アブスサーキットでカラッチオラのテストが行われた。
            マシンはW25。

1934年 6月 3日  アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
               優勝マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW25)

            カラッチオラは不参加。
            W25のデビューレースで規定の750kgをオーバーしていたため、ドイツのナショナル
            カラーであった白い塗装をはがし、車検をパスした。「シルバー・アロー」の誕生。

1934年 7月 1日  フランスGP (モンレリー)
              優勝 ルイ・シロン (アルファロメオTypoB/P3)
              2位  アキッレ・バルツィ (アルファロメオTypoB/P3)
              3位  ギュイ・モル (アルファロメオTypoB/P3)
            完走はわずか4台、うち3台がアルファ、1台はブガッティだった。

1934年 7月15日  ドイツGPで公開練習中にブラウヒッチュが衝突、頭蓋骨と肋骨3本を骨折。
               優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオン)

1934年 8月 5日  スピード・ヒルクライム (クラウゼン・パス)でルドルフ・カラッチオラ優勝。
            カラッチオラにとって1933年モナコGPの事故後初の復帰レース。

1934年 8月15日  アチュルボ杯 (ペスカラ)でカラッチオラが横転、リタイア。
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)

1934年        ヒルクライム (フライブルク)
              優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)

1934年 8月25日  スイスGP (ベルムガルテン)
              優勝 ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)

1934年 9月 9日  イタリアGP (モンツァ) 116周
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンTypeA)
            カラッチオラが暑さにやられてしまったため。ファジォりがクルマを乗り継ぎ優勝。

1934年 9月23日  バルセロナGP
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
            ファジォリがチームの指示を無視し、指示通りマシンをいたわるためにペースを
            落としたカラッチオラを抜いた。

1934年        シーズン後半にW25は排気量3.91リッターに拡大される。

1934年11月     W25を開発したハンス・ニベル博士が脳卒中により亡くなる。
            後任はドライバー経験もある、マックス・ザイラー 。




1935年        W25の排気量が4.31リッターに拡大される。455馬力/5800rpm。

1935年 4月25日  モナコGP
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)

1935年 5月 5日 チュニスGP
              優勝 アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType A)

1935年 5月12日  トリポリGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType B)

1935年 5月26日  アブス・レース
              優勝 ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
              3位  アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType B)
           
1935年 6月16日  アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType B)
              5位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW25)
            ヘルマン・ランクのデビューレース

1935年 6月23日  フランスGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)

1935年 7月28日  ドイツGP
              優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アルファロメオTypo B/P3)
              2位  ハンス・シュトック (アウトウニオンPワーゲンType B)
            アウトウニオンのドライバーたちは、女性をめぐってもめ、シュトック、バルツィ、
            ピーターはスタートが切られても3台並んで止まったままだった。他のマシンが
            行ってかなり経ってからスタートし、シュトックは追い上げるも、たの2台は私闘
            を演じ、8・9位に終わった。

1935年 8月15日  スイスGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  ルイジ・ファジォリ (メルセデス・ベンツW25)
            ファジオリがチームの指示を無視しても抜かれないよう、ノイバウアはタイム差を
            カラッチオラに教えていた。憤怒したファジォリはメルセデス・ベンツのチームから
            離脱する。            

1935年 9月29日  マサリック杯レース(チェコ・ブルノ)
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType B)
             これがベルント・ローゼマイヤーの初優勝。
            
1935年末      この年初めて制定されたヨーロッパ選手権でルドルフ・カラッチオラが
            チャンピオンになる。




1936年        W25を改良し、「W25K」となる。
             排気量を4.74リッターに拡大。473馬力/5800rpm。
             ホイールベースをショート化(2460mm)し、リアサスペンションをスイングアクスル
             からトーションバースプリングを用いたドディオン式に変更。
             ショートホイール化が原因で、この年は思うような成績を残せなかった。

1936年 4月13日  モナコGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)

1936年 5月10日  トリポリGP
              4位 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)

1936年 5月17日  チュニスGP (チュニジア)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)

1936年 6月 7日  ペンヤリンGP (バルセロナ)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25K)
              5位  ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 6月16日  アイフェル・レース
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 6月21日  ハンガリーGP(ブダペスト)
              2位 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 7月26日  ドイツGP(ニュルブルクリンク) 
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 8月15日  アチュルボ杯
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 8月26日  スイスGP (ベルン)
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)
              2位  アキッレ・バルツィ (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年 9月13日  イタリアGP
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンPワーゲンType C)

1936年        フェルトベルク・レース
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)

1936年        ヒルクライム(フライブルク)
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)

1936年       マサリックGP  ブルノ1周29km
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW25)
              2位  マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW25)
              3位  ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオン)

1936年12月    グローブナーGP (ケープタウン)
              優勝 エルンスト・フォン・デリウス
            エルンスト・フォン・デリウスはローゼマイヤーの親友。       

1936年末      ベルント・ローゼマイヤーがヨーロッパチャンピオンとなる。




1937年       設計者がマックス・ザイラーからルドルフ・ウーレンハウトに変わり、原因が
            突き止められたが、まったく新しいマシンを作ったほうがよいという結論に達し、
            「125」が誕生。
            エンジンは5.66リッターに拡大されM125型となり、646馬力/5800rpm。
            ホイールベースは2460mmから2780mmに延長され、フロントサスはコイル
            スプリングを用いた不等長ウィッシュボーン、リアサスはW25のドディオン式を
            踏襲した。タイヤサイズは幅7.00インチ(175mm)-径22インチ。
            ルドルフ・ウーレンハウトはグランプリドライバー並のスピードでマシンを走らせる
            ことができるエンジニアで、自身の走りから技術的なフィードバックが出来る
            類まれなるエンジニアだった。

1937年 5月 9日  トリポリGP
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW125)
            カラッチオラはアウトウニオンに移籍したファジォリとの私闘に巻き込まれ
            リタイア。

1937年 5月26日  アヴス・レース
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW25K-M125)
            W25のシャーシーにW125の5.66リッターエンジンを載せ、「ストリームライン」と
            呼ばれる空力ボディをまとったマシンで、平均速度260.17km/hで優勝。
            この記録は21年間破られなかった。

1937年 6月13日  アイフェル・レース
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)

1937年 6月19日  ルドルフ・カラッチオラがベビー・ホフマンと再婚する。

1937年 7月 5日  ヴァンダー・ビルド・カップ (ニューヨーク近郊ルーズベルト・レースウェイ)
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
              4位  エルンスト・フォン・デリウス (アウトウニオンType C)
            高額の賞金目当てに、メルセデス・ベンツもアウトウニオンも船で渡り参加した。

1937年 7月25日 ドイツGP (ニュルブルクリンク)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)
              3位  ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
           エルンスト・フォン・デリウス (アウトウニオン)がレース中の事故で死亡。

1937年 9月12日  イタリアGP (レグホーン)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW125)
              2位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW125)
            アキッレ・バルツィ(33)がモルヒネを絶ち、復帰するも6位に終わる。

1937年10月 2日  ドニントンGP
              優勝 ベルント・ローゼマイヤー (アウトウニオンType C)
            ベルント・ローゼマイヤー生涯最後の優勝となる。

1937年11月12日 ベルント・ローゼマイヤーの第一子(男子)が生まれる。

1937年末      ルドルフ・カラッチオラが2度目のヨーロッパチャンピオンとなる。



1938年 1月28日  ルドルフ・カラッチオラがメルセデス・ベンツで速度記録に挑戦し、
            432km/hを記録する。
            同日、ベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオンで速度記録挑戦中に事故死。

1938年       フォーミュラーカーの規定が以下のとおり変更される。
              ・過給器付は3リッターまで、自然吸気は4.5リッターまで
            ダイムラー・ベンツ社はW154、アウトウニオンはTypeDを開発する。

1938年 5月15日  トリポリGP
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)

1938年 7月23日  ドイツGP
              優勝 ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)

1938年 8月18日  スイスGP
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
              2位  ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)
            雨天でのレース。ディック・シーマンはカラッチオラから26秒差で雨での速さを
            証明した。

1938年 9月11日  イタリアGP (モンツァ)
              優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
              3位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
            ルドルフ・カラッチオラが3度目のヨーロッパチャンピオンとなる。

1938年10月22日  ドニントンGP
              優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンTypeD)
              2位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              3位  ディック・シーマン (メルセデス・ベンツW154)
            当初9月末に行われるはずだったが、戦争の危機が迫り、一時ドイツ勢は
            撤退し、レースは延期となり、10月22日に開催された。



1939年 4月 2日  ポーGP (ポー市街地コース)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)

1939年 5月 7日  トリポリGP
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW165)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW165)
            このレースのみ車両規定が1.5リッター変更されたため、8ヶ月という短期間で
            W165(V12気筒250馬力、5速、ストリームライン、全輪独立懸架)を開発し、
            優勝した。ヘルマン・ランクはトリポリGP3連覇。

1939年 5月21日  アイフェル・レース (ニュルブルクリンク)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              2位  タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンTypeD)
              3位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)

1939年 6月?    ドイツ・スピード・ヒルクライム・チャンピオンシップ (ウィーン)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              2位  ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンTypeD)
              3位  マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW154)

1939年 6月25日  ベルギーGP (スパフランコルシャン)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              2位  ルドルフ・ハッセ (アウトウニオンTypeD)
            このレースでディック・シーマンが事故死。

1939年 7月 9日  フランスGP (ランスサーキット)
              優勝 ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンTypeD)
              2位  ゲオルグ・マイエル (アウトウニオンTypeD)
            この日メルセデス・ベンツは全滅。

1939年 7月23日  ドイツGP (ニュルブルクリンク)
              優勝 ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)     
            ヘンルマン・ランクが練習走行で9分43秒のラップレコードを記録。6年間破られ
            なかった。カラッチオラは国際レース最後の優勝となった。

1939年 8月20日  スイスGP (ベルン)
              優勝 ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              2位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツW154)
            この日1939年ヨーロッパチャンピオンがヘルマン・ランクに決まる。

1939年 9月 3日  ユーゴスラビアGP (ベオグラード市街地コース)
              優勝 タツィオ・ヌボラーリ (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
              2位  マンフレート・フォン・ブラウヒッチュ (メルセデス・ベンツW154)
              3位  ヘルマン・ミュラー (アウトウニオンPワーゲンTypeD)
            この日に第二次世界大戦が勃発した。戦争の混乱で決勝出場はわずか5台。
            ヘルマン・ランクはブラウヒッチュの飛び石がゴーグルに当たり負傷リタイア。


1946年 5月     ルドルフ・カラッチオラがインディのレースに招待される。
            しかし、練習走行中にクラッシュ、頭蓋骨底部骨折をする。

1947年       アキッレ・バルツィ(43)がアルファロメオで国際レースに復帰する。

1950年       ジュゼッペ・ファリーナ(アルファロメオ)が世界選手権初代チャンピオンとなる。
            ファン・マヌエル・ファンジオ(アルファロメオ)が2位。

1950年末      メルセデス・ベンツレーシングチーム再始動。

1950年末      ジュゼッペ・ファリーナがアルファロメオ アルフェッタ159で
            初代F1チャンピオンとなる。



1951年       ファン・マヌエル・ファンジオがメルセデス・ベンツに移籍。

1951年 2月18日  ブエノスアイレスGP
              優勝 ホセ・フロイラン・ゴンザレス (フェラーリ166FL)
              2位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
              3位  ファン・マヌエル・ファンジオ (メルセデス・ベンツW154)

1951年 2月25日  エヴァ・ペロン杯
              優勝 ホセ・フロイラン・ゴンザレス (フェラーリ166FL)
              2位  カール・クリンク (メルセデス・ベンツW154)
              3位  ヘルマン・ランク (メルセデス・ベンツW154)
            ファンジオはリタイア。

戦前からのW154を使いまわしていたメルセデス・ベンツは新型車の開発を断念。
F1レースから一時撤退する。ファン・マヌエル・ファンジオはアルファロメオに戻る。

1951年末      ファン・マヌエル・ファンジオがアルファロメオ アルフェッタ159で
            F1ワールドチャンピオンとなる。
            1951年をもってアルファロメオはF1から撤退する。



1952年       F1の車両規則が変更になり、自然吸気2リッターで行う事になる。

1952年末      アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500でF1ワールドチャンピオンとなる。



1953年末      アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500で2年連続F1ワールドチャンピオン
            となる。



1952年 5月 3・4日 ミッレ・ミリア
              優勝 ジョヴァンニ・ブラッコ (フェラーリ250S)
              2位  カール・クリンク (メルセデス・ベンツ300SL)
              3位  ルイジ・ファジォリ (ランチア・アウレリアB20)
              4位  ルドルフ・カラッチオラ (メルセデス・ベンツ300SL)
            メルセデス・ベンツは市販車「300」のエンジンを使い、スポーツカー「300SL」を
            開発。カラッチオラは51歳、クリンクは40歳。
            ルイジ・ファジォリ(54)がスポーツカーレースに復帰。

1952年 5月18日  ベルンGP
              優勝 カール・クリンク(メルセデス・ベンツ300SL)
              2位  ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
              3位  フリッツ・リース(メルセデス・ベンツ300SL)
             このレースでカラッチオラが立ち木に衝突して大怪我をし、引退を余儀なく
             される。
                  
1952年 5月31日  ルイジ・ファジォリがモナコGPで練習走行中に事故。意識不明になるも
            一旦は回復したが、容体が急変し6月20日死去。享年54歳。

1952年 6月     ル・マン24時間
              優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
              2位  フリッツ・リース(メルセデス・ベンツ300SL)

1952年        ドイツGP
              優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)

1952年        カレラ・パナメリカーナレース
              優勝 ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツ300SL)
              2位  カール・クリンク(メルセデス・ベンツ300SL)

1952年末      アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500でF1ワールドチャンピオンとなる。



1953年末      アルベルト・アスカリがフェラーリ ティーポ500で2年連続F1ワールド
            チャンピオンとなる。



1954年        新フォーミュラーの車両規則が自然吸気2.5リッターもしくは750ccの
            スーパーチャージャー付に変更となる。
            メルセデス・ベンツはこの新規定に合わせた新型マシン「W196R」を開発。
            2496cc直噴直列8気筒2バルブDOHCでバルブスプリングがない
            「デスモトロミック」機構を採用。エンジンは53度右に傾けて搭載され、
            ドライブシャフトはドライバーの左側に通してあった。
            パワーは268馬力/8700rpm。
            トランスミッションはトランスアクスルでZF製の5速。
            シャーシーは鋼管スペースフレーム。足回りはフロントがダブルウィッシュボーン、
            リアはトーションバースプリングのスイングアクスル。
            ホイールベースは3種(2350、2210、2150mm)用意し、コースにより
            使い分けた。ブレーキは4輪ドラム。車重はストリームラインで700kg。

1954年 7月 4日  第4戦フランスGP(ランス)
            メルセデス・ベンツの新型GPマシンがデビュー
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
              2位  カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)

1954年 7月17日  第5戦イギリスGP(シルバーストーン)
              優勝 ホセ・フロイライン・ゴンザレス(フェラーリ625)
              4位  ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
              7位  カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
             ストリームラインでは小回りが利かず、順位を落としてしまう。

1954年 8月 1日  第6戦 ドイtツGP(ニュルブルクリンク)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
              4位  カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196R)
              前戦の教訓から、オープンホイールタイプのマシンを投入。
             このレースでマセラッティに乗るファンジオの友人マリモンがコースアウトし、
             死亡。

1954年 8月23日  第7戦スイスGP(ベルン)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)    

1954年 9月 5日  第8戦イタリアGP(モンツァ)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)

1954年 9月19日  ベルリンGP(アフス) ・・・チャンピオンシップ外
              優勝 カール・クリンク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
              2位  ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
              3位  ヘルマン・ランク(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)
             ファンジオにチャンピオンシップを獲らせるために我慢していたクリンクが優勝。

1954年10月24日  第9戦スペインGP(バルセロナ)
              3位  ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R) 

1954年末      ファン・マヌエル・ファンジオが2度目のF1ワールドチャンピオンとなる。




1955年       メルセデス・ベンツはW196Rを290馬力にパワーアップさせる。
            この年スポーツカー選手権のメイクスタイトルが創設され、スポーツカーレースに
            合わせて、「300SLR(W196S)」を開発する。
            エンジンは直列8気筒2バルブDOHC(デスモトロミック)2982cc。
            パワーは310馬力/7400rpm。ミッションはZF製5速で最高速は290km/h。
            ボディはマグネシウムで、車重は899kg。
            シャーシーは二人乗りのためにW196Rの鋼管スペースフレームの幅を広げた
            ものにした。ブレーキは4輪インボードドラム。ル・マン出場時にはエアブレーキが
            採用された。
           

1955年 1月16日  F1第1戦アルゼンチンGP(ブエノスアイレス)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)
            ファンジオはただ一人、96周、3時間あまりを一人で走りきった。

1955年 5月 1日  ミッレ・ミリア
              優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツ300SLR)
            1931年のカラッチオラ以来、メルセデス・ベンツに2度目の優勝をもたらす。

1955年 5月29日  アイフェル・レース ・・・ タイトル外
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツ300SLR)

1955年 6月 5日  F1第4戦ベルギーGP (スパフランコルシャン)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)

1955年 6月19日  F1第5戦オランダGP (ザントフールト)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196R)

1955年 6月11日  ル・マン24時間レース
              メルセデス・ベンツ300SLRに乗ったピエール・ルヴェーが宙を舞ってコース
              アウトし、観衆に突っ込んだ。死者72名負傷者150名という自動車レース
              史上最悪の事故となった。レースは続行されたが、メルセデス・ベンツは
              走行中のクルマを引き上げ、途中棄権した。

1955年 7月16日  F1第6戦イギリスGP (エイントリー)
              優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツW196R)
             スターリング・モス、F1で初優勝。

1955年 8月 7日  スウェーデンGP
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツ300SLR)

1955年 9月11日  F1第7戦イタリアGP(モンツァ)
              優勝 ファン・マヌエル・ファンジオ(メルセデス・ベンツW196Rストリームライン)

1955年 9月18日  ツーリスト・トロフィー(アイルランド)
              優勝 スターリング・モス(メルセデス・ベンツ300SLR)

1955年10月16日 タルガ・フローリオ
              優勝 スターリング・モス、ピーター・コリンズ組
                   (メルセデス・ベンツ300SLR)
              2位  ファン・マヌエル・ファンジオ、カール・クリンク組
                   (メルセデス・ベンツ300SLR)
             この1、2フィニッシュにより、スポーツカー選手権のメイクスタイトルを獲得する。
          
1995年末      ファン・マヌエル・ファンジオが2年連続3度目のF1ワールドチャンピオンになる。
            メルセデス・ベンツがレース活動の休止を発表。


1959年 9月28日  ルドルフ・カラッチオラが亡くなる。享年58歳。
Posted at 2013/03/09 19:27:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | | クルマ

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「motoGPホルヘ・ロレンソ選手の引退はショック!」
何シテル?   11/16 08:45
VWのダウンサイジング直噴過給エンジンTSIとツインクラッチミッションDSGの技術に興味を持ち、2008年2月にVWゴルフトゥーランに試乗してその走り...
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