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2016年02月26日 イイね!

本の紹介・・・「横浜製フォード、大阪製アメリカ車」


「横浜製フォード、大阪製アメリカ車」  ㈱230クラブ刊 著者:サトウマコト  1,800円(税抜) 



紹介しておいてなんですが、内容は面白いのですが、文字数が多く、時代背景なども頭に入っていないとなかなか読破するのが大変な本です。結局買ってから10年近くも挫折しつづけ、最近ようやく読み終わりました。

皆さんは戦前にアメリカのフォードとGMが日本に工場を持っていたことをご存知でしたか?
ほとんど知られていませんが、クライスラーも直接進出はしていませんが、ノックダウン生産を行っていました。まだ、日産自動車がダットサンの量産を始める以前の話です。

この本には1923(大正12)年9月1日関東大震災により交通インフラが壊滅的な打撃を受けた東京・横浜で物資の輸送にクルマが必要になり、緊急輸入する話から始まります。
2000台ものビュイックを輸入して売りさばいたのは、なんとあの輸入車販売店の創業者、梁瀬長太郎氏。
東京市は800台のフォードT型シャーシを輸入し、バスやトラックに仕立てたりしました。俗に言う「円太郎バス」が生まれたのもこの時です。
当時フォードは中国に東アジアの生産拠点を作る計画でしたが、これらの受注から日本に需要があると見込み、日本進出を決めたのです。
フォードが生産の地としたのが横浜です。工場の操業は1925(大正14)年です。
そしてフォードの進出の様子をうかがっていたGMも1927(昭和2)年に大阪に工場を設け、操業を開始します。日本GMの営業にはトヨタの営業の神様と言われた神谷正太郎氏が入社します。
両社とも部品を輸入し日本で組立だけ行うノックダウン生産でしたが、各社多い時で年産1万台以上のクルマを市場に送りだしました。
今度はこの状況を見ていた日本の輸入車販売業者たちが、共同でクライスラーの生産組立工場を横浜に作り、ダッジ車のノックダウン生産をはじめました。

品質もよく、価格も安いアメリカ車が、日本での生産によってさらに価格が下がり、なんとかクルマを国産化しようと努力し「オートモ号」を製作したりしていた白揚社の豊川順彌も、あきらめざるをえない状況となってしまいました。

だんだんと戦時色が濃くなってくると、陸軍はトラックを国産にしようと、生産を始めたトヨタや日産のトラックを使い出しましたが、アメリカ車と比べると故障も多かったため、故障したために命を落としたりした者も現れたため、再度アメリカ車を発注する羽目になり、貿易収支が悪化する事態にもなったそうです。

しかし軍部の圧力はますます強くなり、1936(昭和11)年に陸軍がいわゆる国産車保護法を制定し、
日本人が経営する「許可会社」でないと生産できないようにしてしまいました。

その後部品を輸入品ではなく、国産品にして生産を行うことや、国産メーカーとの合併なども画策されましたが、どれも軍部からの横槍は入り、3社とも1939(昭和14)年12月末をもって生産中止となりました。

もし3社が残っていたら、日本のモータリゼーションはどうなっていたのだろうと想像すると、面白いですよね。個人的には残っていて欲しかったところもあるし、残っていなかったからこそ日本のメーカーがここまで成長できたと思えるところもあるし、微妙ですね。

最後に、この本は日本の横浜フォード工場、大阪GM工場について唯一書かれたの本ではないかと思うので、クルマの歴史が好きな方にはぜひおすすめします。
では、また。
Posted at 2016/02/26 23:57:21 | コメント(0) | トラックバック(0) | | クルマ
2016年02月25日 イイね!

靖国神社遊就館に行ってきました。

こんばんは。
私は飛行機にはあまり興味がないのですが、なぜか零戦だけは興味があり、じっくり見てみたいと思い、靖国神社にある事を思い出し、行ってみました。

ご存知の方も多いかもしれませんが、靖国神社には遊就館という戦争に関する常設展示場があります。

ここが遊就館です。


靖国神社は戊辰戦争以来、国の為に戦って奉職した方々を祀っているところで、有料(800円)ではありますが、戦争に関連したパネルや亡くなられた方の遺留品等が展示されています。
以前から太平洋戦争に至る経緯を勉強してみたいと思っていたので、とてもよい機会になりました。
残念ながら写真を撮ってもよいのは1Fの展示物だけです。

さっそく見たかった零戦が展示されています。三菱製五二型でした。
零式艦上戦闘機(零戦)は1940(昭和15)年に海軍に制式採用された戦闘機で、軍で制式採用される装備には皇紀の下二桁が使われるようになっていたため、1940年が皇紀2600年ということで下2桁のゼロをとって零式となったわけです。
と偉そうに説明してみましたが、「皇紀」というものを靖国神社に来るまで全く知りませんでした。
ご存知ない方のために説明しますと、皇紀は初代神武天皇が即位した日、紀元前660年が始まりで、現在の天皇は神武天皇から数えて125代目の天皇という事になります。


この零戦の出自が掲示されていました。

前輪です。ダンパーはクルマでもおなじみのKYB製です。
別の機会にまた紹介させていただきます。

前輪の格納部分。エンジンの吸気口も見えます。

こちらは後輪。着艦時に使用するフックも見えます。

主翼には20mm機銃が装備されています。
設計者の堀越二郎は軽量化のためにもっと小型のものにしたかったようですが、
山本五十六連合艦隊司令長官が威力にこだわって装備させたようです。
これ以外に7.7mmの機銃も装備されています。

こちらが主翼に内蔵されている九九式20mm機銃。これは初期の二一型に搭載されていたもの。

エンジンはさすがに見られませんが、中島飛行機製「栄」発動機21型空冷星形14気筒を搭載しています。排気管がいくつも出ていますね。

こちらはプロペラ。定速可変ピッチプロペラで、アメリカのハミルトン社から特許を買い取り、当時の住友金属工業が製造したものです。それにしてもよくアメリカから技術導入できましたよね。

こちらが操縦席。なんとも冷たい感じがしますね。


戦争では犠牲になった方が大勢いらっしゃるので、戦争の道具を「カッコイイ」とは素直に言いたくない部分があるのですが、零戦は形が美しく、機能的にも良く考えられていると感心してしまいます。


ところで、私は遊就館の常設展示を見て、戦争に対する歴史感が変わりました。
今までは、日本が真珠湾攻撃などをして戦争を起こしたのは悪いとばかり思っていましたが、その伏線があったのだということを初めて知りました。当時のアメリカ、イギリス、フランス、オランダといった植民地支配国といのはけっこうやりかたがひどかったんですね。オランダなどは第二次大戦後もまた植民地支配をしようとしてインドネシアに攻め入ったりしているのですから。日中戦争では蒋介石にアメリカやソ連が資金援助や軍事援助をして日本を苦しめたりもしたりしていたなんて、教科書では習いませんよね。また、太平洋戦争前には米国との戦争を避けようと交渉を必死に行っていたにもかかわらず、ルーズベルト大統領が戦争を仕向けるためにわざと無理難題を押し付けてきたりと、勝ち目がなくても日本が戦争をおこなわざるをえない状況に追い込まれていったということがよくわかりました。
それから日本の一部の首相がなぜ海外から批判を浴びるのを承知で靖国神社を参拝するのかもわかりました。国際法上戦争裁判自体が無効なんです。この世で戦争はたくさん起こっていますが、東京裁判とニュルンベルク裁判以外戦争で勝った国が負けた国を裁いたことは今まで一度もなかったんです。だから戦犯という概念ではなく、国の為に戦った英霊と考えてのことなのだと。ニュースで見ていてもそういったことはわからないですよね。
私は遊就館の展示が全て正しいのかどうかわかりません。日本がいいようにしか書いてないようにとれるところもあるので、実際には日本がひどいことをした部分もあるとは思います。でもどう受け止めるかは別として、遊就館にパネル展示してることが事実としてあったということを知ることは大切なことだと思います。ぜひいろいろな方に見て欲しい、そして戦争だけは絶対にしてはならないとの思いを強くしました。
話が長くなってしまい申し訳ありません。
次回はもう少しやわらかいネタにしたいと思います。
Posted at 2016/02/25 23:28:29 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 趣味
2016年02月23日 イイね!

幕末の砲台場跡 Part2

こんばんは。
クルマのことを期待していた方、申し訳ありません。
前回に引き続き、幕末の砲台場跡を紹介させていただいきます。

今回は「神奈川台場」

幕府は品川台場だけではなく神奈川にも台場をつくりました。
といっても外国船を砲撃するための台場ではありません。
1858年5カ国と通商条約を結んだ幕府は、開港場を守るために、大砲の設置する必要がありました。
神奈川台場の設計をしたのはなんと「勝海舟」です。
勝海舟は長崎海軍伝習所で1855年から伝習所が廃止される1859年までの5年間を過ごし、オランダ式の軍事を学んでいました。
完成は万延元年(1860年)6月でした。
大砲は14門設置されましたが、現在は石垣が残っているのみです。

場所はJRの東神奈川駅から歩いて15~20分程度のところで、現在のJR貨物の東高島駅の真下に埋もれています。
条約では、神奈川宿(現在の東神奈川駅のあたり)とされていましたが、神奈川宿は東海道の宿場町であったため、外国人とのトラブルを恐れた幕府が開港場所を関内に移したという経緯があります。
この地に設置されたのはそれのこととなにか関係があるのでしょうか?

上の図で緑の先で囲まれたところに神奈川台場公園があります。
といってもいたって普通な公園として整備されておりました。



公園内には下のような掲示板がありました。


今度は石垣のほうです。一番最初の絵図の台場の右下の部分、公園からすぐ近くのところです。ちょっとさびれた状態になっています。石垣の上はJR職員用の駐車場と化していました。
この石碑は昭和29年(1954年)の開港100周年記念として設置されたものです。

掲示板は下の写真のとおり。


さらに絵図の上側の露出部分、星野町公園側にも行ってみました。

公園の奥地に何の掲示もなくひっそりと入口があります。

ここが中央卸売市場側で、絵図の露出部分にあたります。

こちらの公園にも掲示板がありました。

公園の外側にも部分部分で露出しているところがありました。向こうに見えるのがJR貨物の東高島駅。

公園の隣にはマンションがあり、建設時に石垣が発見されたとのことで、この貴重な遺産を残そうと、1階には資料室が設けられています。残念ながら私が行ったときには閉まっていました。

この資料室の横には石垣が当時の高さで残してあります。



近隣の開発の影響で埋め立てられてしまったのが残念です。
日本はもっとこういう遺産を大事にしたほうがいいんじゃないかと私は思います。


せっかく来たついで、近所をぷらぷらしてみました。
JR貨物の東高島駅入口。

この入口の向かい側には使われなくなった鉄橋がありました。
橋脚が時代を感じさせますね。


東高島駅のすぐ脇にある龍宮橋は何気ない橋に見えましたが、なんと大正12年7月竣工とありました。関東大震災を乗り越えた橋なんですね。

こちらはちょっと離れたところにある瑞穂橋。奥に使われなくなった貨物線の鉄橋がありました。



自分はこういうその当時の時代を感じさせる遺構を見るのが好きなんですよね。
では、また。
Posted at 2016/02/23 22:24:39 | コメント(3) | トラックバック(0) | 歴史 | 趣味
2016年02月21日 イイね!

幕末の砲台場跡

ご無沙汰しております。
最近はホンダのアコード・グレイスのハイブリッド、トヨタのプリウス・シエンタなど乗っておりますが、あまりブログアップする気にもならず、ちょっとクルマへの興味が薄れ気味です。

突然ですが、クルマには鉄がたくさん使われてますよね?
もともと工学出身であるので鉄についても習いましたが、学生時代はあまり勉強もせず後悔していました。
今回現在の製鉄がどのようにして始められたのか知りたくなって、調べたり、ゆかりの場所に行ってみたりしてみました。
そうしたら...
幕末の砲台にまで行きついてしまいました。

1853年、浦賀にペリーが来航し条約締結をせまりますが、幕府が締結に難色を示したため、ペリーは来年再度来航すると言って去っていきました。
なにせペリーの載ってきた軍艦には大砲が備えられていたので、対抗する武器もなかった幕府は対応に困り、ペリーの再来航に備えて急遽大砲の製造にのりだしました。
といっても技術もないのでそんなにすぐに作れるわけではありません。
日本にはそれまで鉄を鋳造する技術がありませんでした。
ペリーが来る前にも外国船の来航が増える中で国防の必要性を感じていた佐賀藩の鍋島直正が長崎のオランダ商館から製鉄の技術書を手に入れ、独学で反射炉を作り、幕府に先駆けて大砲の製造に乗り出していました。
幕府は佐賀藩に大砲の製造を依頼し、品川沖に砲台を設置するための「品川台場」を建設しました。

実はその遺構が品川沖のお台場に残っています。(だからお台場と言うんですかね)
お台場にはお台場海浜公園がありますね。砂浜があるところです。

「品川台場」のところを拡大してみると

ちょっと小さいですが、第三台場と第六台場というのが見えますね。ここが幕末に設置した砲台の場所なんです。
実は11箇所の台場をつくる計画がありましたが、実際には5箇所のみ造られ、現存しているのがこの第三台場と第六台場だけとなっています。
この案内図で見てのとおり、第三台場はお台場と繋がっており、歩いていく事ができます。
下の写真で正面に見えるのが第三台場で、左側に見えるのが第六台場です。

台場にはこんな案内板があります。
台場自体を築造したのは、伊豆韮山の代官であった江川太郎左衛門英龍と書かれています。韮山の反射炉をつくった人です。この台場築造時には大砲の鋳造は間に合っていないと思います。

台場の案内図を拡大してみると、

下の写真が陣屋跡

これが砲台跡です。

こちらは弾薬庫跡

第三台場からお台場を眺めるとこんな感じです。


なかなか気持ちいい場所でした。
こうして幕末とはいえ江戸時代のものに触れられるというのは感慨深いものがありますね。
みなさんも機会があったらぜひ行ってみてください。

実は日本全国に1000もの砲台が海岸沿いに設置されたそうです。
あなたの街の近くにもあるかもしれませんよ。
Posted at 2016/02/21 20:28:30 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 趣味
2016年01月10日 イイね!

多摩川スピードウェイ・回顧展

こんにちは。

昨年行った多摩川スピードウェイ・回顧展。
写真の写りが悪かったので、UPするか迷っていましたが、なかなかオオタは見られないと思いますので、UPすることにしました。

場所は東急東横線・多摩川園駅を出てすぐの田園調布せせらぎ公園


まずは入口に置いてあったクルマの紹介です。
日が差し込んでこんな画像になってしまいました。
正直私はオオタのことは詳しくないです。
このクルマは1936年式オオタOC型。
エンジンは水冷直列4気筒736cc。
ダットサンに似ていますが、こちらはサイドにステップがなくすっきりしています。


当日、復元車の維持の為に1口500円で寄付を募っておりました。
かわりにもらったのが、この復元記録の冊子です。


昔のクルマはマークが凝っていますね。


当日はエンジンもかけていました。なかなか快調に回っていましたよ。


オオタ自動車の会社名、高速機関工業の銘板がありました。


写真に指が入ってしまいました。
ホイールは非常にシンプル。センターにオオタのマークが入っています。


後ろ姿もスッキリしています。


内装もきれいに直してありました。


当日は小林彰太郎さんの息子さん、小林大樹さんがいらっしゃっていました。


小林大樹さんが、OD型のカタログをお持ちになっていました。


残念ながら会場内の写真は撮影禁止だったので、お見せする事ができません。


私が驚いたのは、多摩川スピードウェイが出来る10年以上も前から仮設のレーシング場でレースをしていたことです。

1922(大正11)年 下関~東京間を40時間で走破
            車両はハドソン、ドライバー:藤本軍次、助手席:菅原俊雄

1922(大正11)年 日本自動車競走倶楽部設立

1922(大正11)年11月12日 「自動車大競争」 場所:洲崎埋立地

1923(大正12)年4月22~23日 「自動車大競走会」 場所:洲崎埋立地
                    警察の通達でレースはできず、1台ごとのタイムアタック

1923(大正12)年7月1~2日  「関東関西連合自動車競走大会」 場所:大阪城東練兵場

1924(大正13)年4月20日 「自動車大競争」 場所:立川飛行場

1924(大正13)年11月22~23日 「自動車競走大会」 場所:鶴見埋立地飛行場

1925(大正14)年 「自動車大競争」 場所:不明

これらのレースには日本初の自動車「国産式吉田号」通称タクリー号を製作した内山駒之助が参加していました。これにも驚きました。

このころは今はなき白揚社も参加していました。
1925(大正14)年にフォードが横浜に、1927(昭和2)年GMが大阪に工場を建設し生産を始めると、品質・価格で勝負にならず、白揚社は解散に追い込まれてしまいます。

一方レースのほうは仮設サーキットを巡る旅とレース場の環境の悪さに、倶楽部の会員が退会してしまい、しばらくレースが行われなかった。

1934年(昭和9)年10月13~14日 「全日本自動車競走選手権大会」 場所:月島四号埋立地
                     ラジオでの中継により活況を呈し、常設サーキットへの機運が
                     高まった。
                     このときアート商会の榊原郁三がカーチス号で出場。助手席は
                     あの本田宗一郎 

1936(昭和11)年に多摩川スピードウェイが完成。
実際に多摩川スピードウェイでカーレースが行われたのは3回のみ。
1936年の「第1回全日本自動車競走大会」ではオオタが優勝
1937年の「第2回全日本自動車競走大会」ではオオタが不参加、日産がダットサンレーサーで優勝
1938年の「第3回全日本自動車競走大会」は日産が不参加でオオタが優勝
戦後まで残っていて1度オートバイのレースが行われたようですが、近隣から騒音の苦情があり、また戦後の食糧難により、その後は畑にされてしまいました。

帰りに多摩川スピードウェイがあった多摩川河川敷に行ってみました。
今は川崎市の野球場になっています。


ここがスタンドがあったところです。土手にいまでも残っています。
ここに3万人の観衆が詰めかけたなんて信じられないです。


対岸には遊園地もあったそうです。
いまではその面影はまったくありません。



わたしもまだまだ知らないことがたくさんあるなぁと実感した次第です。
またクルマだけでなく、その土地の歴史を知るのもまたおもしろいですよね。
Posted at 2016/01/10 20:05:46 | コメント(1) | トラックバック(0) | イベント | クルマ

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「motoGPホルヘ・ロレンソ選手の引退はショック!」
何シテル?   11/16 08:45
VWのダウンサイジング直噴過給エンジンTSIとツインクラッチミッションDSGの技術に興味を持ち、2008年2月にVWゴルフトゥーランに試乗してその走り...
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