
「頼む、ちょっとつきあってくれ…」
― 腐れ縁。
コイツと初めて会ったのは高校に入学したその日だ。
出席番号順に座った席で、振り返るとコイツがいた。ひょろりとした185cmの長身の三白眼がにらみつけていた。
コイツは異常に頭がキレていた。成績は常にトップクラスで、何事もスマートにこなすような男だった。しかし、あまりにキレすぎるためか、小学校の時にはクラスメイトを扇動して学級崩壊を引き起こし、担当を休職に追いやるような問題児でもあったそうだ。
単なるキレものの策士だとしたら、私はこの男と友人関係を結べなかったと思う。
20年近くつきあっているのは、この男が愛すべき「バカ」でもあるからだ。潜在的なソレを引き出し、自らを戒める道具として「オートバイ」は格好の存在だったと思う。彼の愛車達は自らを傷つけ、時には朽ちてしまっても、彼の命までは奪わず、擦過傷や打撲という苦痛を与えながら、ヒトとして身も心も生き残る道を教えた、そういう存在なのだと本人も言う。
その20年来の友人から電話がかかってきたのだ。
毎日12時間以上の仕事、誰もがやりたくない仕事をこなし、休日は家庭のイベントをこなす。心身共にタフでなければならない生活が始まった12年前、あれほど熱中したオートバイは出産費用として手放されていた。
何の話かと思ったら、どうしてもオートバイが欲しくなったので相談に乗れという。
具体的に何か欲しい車種はあるのか?と聞いたら、「予算40万円」だという。
ダメだと思った。
ビッグ・ネイキッドや型遅れのスポーツも買える額だが、コイツは性格上、中途半端なモノでは買ってしばらくもすれば乱暴な扱いになる。逆輸入リッターバイクの速度計をリミットまで回して興奮していたような男。最悪の場合、命を落としかねない。
「ブランクもあるから、あまり速いと危ない。せいぜい最高速250km位のが…」
この言葉がそれを確信させた。
救いはあった。
オートバイは「スリルを楽しむ乗り物」ではない。
「頭を使って身体を動かし、その結果を楽しむ乗り物」なのだ。
それは、どれだけラップタイムが縮められたか、という速さを求める類のものだけではなく、一般的な走行でもスムーズにギアをチェンジできたとか、描いたラインをトレースできたとか、渋滞路で周囲を見て危険回避できたとか、そういった試みができるもので、それらのチャレンジは確実にライダーとしての力量を上げると共に、人間性をも拡げる結果につながる可能性がある。
このスピード狂のバカも、重たい自家用サルーンに乗っている時は、ソフトなブレーキ、ハンドルを切る量、パトカーに追尾されないような注意力すらも楽しめる一面がある。純粋に走る機械としてのパフォーマンスが最優先ではなく、つまりは頭脳を使ったスキルを磨く事が好きなのだ。
ずいぶん前からハーレー・ダビッドソンが欲しいと言っていた。
「妥協せずにハーレー買え」
私の答えがソレである。しかし、ハーレーは人気が高く中古で150万円、新車では200万を超える。
もちろん、友人は「高すぎる」と一蹴した。
昔はハーレーと言ったらそれなりにメカニズムに詳しく、度胸も座っていないと乗れないシロモノであった。なぜなら国産では考えられないようなトラブルが起きるし、周囲からはハーレー乗りとして、その資質も問われるからだ。些細なトラブルでバイク屋を呼んでいるようではバカにされる、そんな雰囲気があった。しかし、それも今や過去の話である。
大型免許取得の緩和規制を追い風にしたハーレー社のマーケティング戦略は素晴らしいものだった。手厚い保護下にある『壊れにくい新車』を短スパンで回転させ、ハードではなくソフトの部分、つまりクラブやミーティングイベントなどでユーザーを満足させる。唯一無二の洒落たブランドの持つ力を最大限に利用して、それは大成功を収めた。その結果、大型免許を取ってすぐでもハーレーに乗るライダーは急増し、輸入車の中で一人勝ちし続けている。
ハーレーがこのような新興ユーザーに受け入れられた理由は、ライディングスキルを問わないという点もある。BMWやDUCATIなどであれば、ワインディングでそれなりの腕を持っていなければ持て余すだけでなく、屈辱も味わうハメになるが、ハーレーには無縁である。もちろん、昔ながらのハーレー乗りの中には新参者を疎んじる者もいるが、その多くは「彼らは彼ら、俺らは俺ら。まぁ、ハーレーはいいバイクだって思うのは共通だけどネ」と自分自身の価値観を確立しているのもハーレー乗りの心豊かな部分である。つまり、他人を気にする必要がないのだ。
ちなみに私もハーレーには何台も試乗し、買おうと思った時期もあった。最新のダイナ、ソフテイル、スプリンガー、スポーツスター、4速モデルの旧いショベルヘッド。どれもこれも全く違う印象だった。
「ガッ…シュアッ! ズドドン!…ドッ、ドト…ドッ、ドド…」
突入式のピニオンギアによるスターターでけたたましく目覚め、低めのアイドリングでブルブルとフォークを震わせるその様は、まさに鉄の馬。走り出せば、ビッグツインのシリンダーが大きなストライドでアスファルトを蹴ってゆく。
周囲のクルマや横に並ぶオートバイ、そういうものに気をかけることはない。今の一瞬、この鉄馬に跨って疾走している自分を幸せに感じる。私が感じたのは、ハーレーはオートバイではなく、ハーレーという乗り物、ということだった。
(国産でも「アメリカン」と名の付くモデルはあるが、あれはオートバイ。それは乗ってみれば誰にでもわかることだ)
このバイクに乗ってしまうと、アクセルを思い切りねじってやろうという気にはならない。スポーツスターや最新のダイナなら下りのワインディングをチャレンジする気にもなるが、基本的にOHVビッグツインはトップギアで80~100km/hで流しているのが気分がいい。これ以上の回転数に上げられるものの、それは必要以上にオーディオのボリュームを上げるようなものだとわかる。
ビッグ・ツインと言われるOHVエンジンや、数種類あるフレームは50年近く基本構造を買えない「鉄の骨董品」である。車体や補器類の設計も同様で、根本的な解決がされることはない。正直に言えば、技術的にも材質的にもその金額的な価値はないのだ。国産で同じモノを作ったとしたら、その半額以下で売ることができる、ハーレーとは機械的にはそういうシロモノだ。しかし、それを他のメーカーが作ることも許されず、また意味のないことでもある。
また、ハーレーは本国では「ならず者」の乗り物で、若者や富裕層はそれより高い日本製のスーパースポーツを好むという。他にもアイドリングを止まりそうなほど下げて「3拍子」を出すというのも日本だけの文化だそうで、あちらではそんな事をすると油圧もあがらないので、普通に1,000rpm位にするのだそうだ。(これは重たいクランクを持っていたショベル時代のイメージが発端だという)
私はそういった理由でハーレーを買うには至らなかった。買い足しであれば望むところだが、台数も経済的にも、そして時間にも制約がある以上、まだハーレーにはトップ・プライオリティを感じることはできなかったからだ。
しかし、実に楽しく、心を豊かにさせてくれる乗り物という事は確かだ。
「速さとか、効率とか、そんな事ばかりにこだわるが、ところでお前さん、ホントにソレで幸せなのかい?」
そんなOHVビッグツインの語りかけに、ついハッとする。
空冷DUCATIは「難しいことを考えずに飛ばそうぜ」とそそのかし、BMWは従順な執事のように主人に従いつつも、やさしい言葉で宥めてもくれる。伝統を守り続けるというか、その選択をせざるをえなかった外国製オートバイには、このような強いメッセージ性を持つものが多く、それは類似したパッケージの国産車には絶対に付加することのできない価値でもある。それが高いプライスの理由と捕らえてもいいかもしれない。
結局、この男は憧れていたハーレーの新車を買った。コミコミで240万円。頭金50万、ボーナス付5万、毎月はわずか1万ちょっとの120回ローン(そんなものまで用意されている)である。
高いし長いと思うなかれ。多分、この男はこの先、ずっとハーレーに乗り続け、休日の一時に最高の時間を手にすることができると私は予想する。頭の切れすぎるヤツだからこそ、ハーレーという豪放磊落な相棒の言葉に何かを得て、自分の姿に腹を抱えて笑う時が来るかも知れない。10年、さらにその先にある幸せをこの価格で手にできるのならば、それは安すぎるものだ。