「NC」とは、ニュー・コンパクトカーの略と記憶している。(その後、NEO CATEGORYと判明)当時の技術開発の責任者・和田明広副社長がこだわりつづけた「クルマ創り」の最終版。セルシオ、マジェスタと乗り継いできて、現役引退を機に、プリウスにしようかな、と迷った末にボディサイズ(全幅)が1,700mmのFR車を選ぶ。操縦性と走行性能に配慮しているというので、iRバージョンとした。いまでも正解だったと満足している。
「クルマ選び」はその時々の「生き方」と同調しているものらしい。クルマ産業の創世記、ぼくは当時の講談社の看板雑誌「日本」に在籍中で、「才能前線基地」という企画を提案し、サントリー宣伝部、「東洋の魔女」ニチボー貝塚バレー部、日立中央研究所、長島・王のいた読売巨人軍、小沢征爾を生んだ桐朋学園音楽部など、1年間取材して回った。
そのなかの一つでトヨタクラウン技術陣を取材。その際に中村健也主査のオーラにとりつかれ、昭和41年の国民車ブーム到来のさなかに初代カローラ〈1100cc〉を初めて購入、マル専手形を大丈夫払えるのかな、と心配しながら一枚、一枚にサインし、印鑑をおしたものだ。コラムシフトの白いボディに黒のレザ―トップ。ゲップの出るセレクトでありながら、そのときは夢中なので、1200㏄のスプリンターがすぐに出て、しまった!と後悔。
で、ツインキャブのSLクーペ(サファリカラー、コカコーラの瓶のような、撓ったボディライン)にチェンジ。42年でしたね。これは前進3速のマニュアルシフトだったよね。いくつ目かの真冬の真夜中、御殿場から山中湖へ抜ける篭坂峠で左側の側溝にはまって、ラジエターから白煙が噴き出し、ジ・エンド。
そのあとは、それが癪にさわってスカG一辺倒。45年と47年のGC10から49年のGC110とそれぞれ中古車で乗り継ぐ。でも90年のセルシオ誕生を機に、再びトヨタ車へ。で、マジェスタ、プログレと続くわけであるが、実はスカGをケンメリまで3代つづけたあとでクルマ雑誌をはじめたこともあって、初めて外車のアウディ80、BMW320(そのころ貴重品の6気筒)、323i、633csiと遍歴し、やがて、できたばかりのセルシオにとりつかれる。ついでに遊び用として、ユーノスロードスター、FTO(これは娘にとりあげられました)をサブとした時代もある。