
〜2022年もよろしくおつき合いを〜
元旦恒例の近くの鎮守の森・若宮八幡社への初詣。「家内安全 家運隆昌」の神札をいただいたあとにひいたお神籤は、5年連続の《大吉》であった。家人もやっと《大吉》を引き当てて、嬉しそうにお神籤棚に結びつけていた。
オミクロン株の跳梁には要注意だが、まずもって平穏な年明けであった。
その昔、下練馬村の鎮守様で、わたしのマンションからは2km足らずの道のりに過ぎないが、途中に古墳址公園があったり、関越自動車道の都心への流入ルートである目白通りや石神井川までが横切っていたり、アップダウンが3つほどある結構タフなコースである。だから今では脚の強い家人の方が先行してしまう。
「紅白、どうだった?」
参拝を終えた帰り道。社殿から往還に続く長い石段を下りながら、振り向きざまに家人が問う。そういえば、年越し蕎麦をいただいたあと、11時前にはさっさと寝てしまったのだから、もう最近の賑やかショーばかりが幅をきかす紅白歌合戦に興味を喪ったのは明らかだ。もっぱらテレサ・テン、山口百恵、島倉千代子ものをカラオケでやるタイプ。
それでもわたしの「MISIA追っかけ」は知っていて、YouTubeのカラオケを使って《逢いたくて今》に挑戦していると、きまって「また、お経をあげているのね」と揶揄(からかい)に顔を覗かせてくれる。
「司会の大泉洋が一生懸命に盛り上げていたけどね。また視聴率低下で、《紅白》のあり方を問われるだろうね。3年連続でトリに選ばれたミーシャだけは流石だったけど」
「ふ〜ん」
家人の気のない返事に、改めて72と回を重ねてきた「紅白歌合戦」について考えてみた。
大晦日だけは、家族揃ってTVの前の食卓を囲み、年越し蕎麦をいただきながら「紅白」をみんなで見たあの平和な風習は、どこへ行ったのだろう。まあ、出場歌手やグループの名前も片仮名や横文字が多すぎて、昭和世代に育ったシニアにとっては「ヘタな学芸会」もどきのものに付き合うのも骨が折れる。
残念ながら、家人もその仲間に加わったらしい。
帰宅して、改めて《NHK紅白歌合戦》について『ウィキペディア』を参考に深掘りしてみることにした。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1945年。この国がやっと平和を取り戻したその年の大晦日に『紅白音楽試合』というラジオ番組が非公開で放送された。
当初は『紅白音楽合戦』の番組名で放送する予定だったが、GHQ(太平洋戦争終結後の日本を占領管理するための連合国最高司令部)から「敗戦国がバトルとは何事だ」とクレームがつき、バトルから試合という意味のマッチに替え、勝敗の判定や審査員もなく、応援団も存在しなかった。加えて当時は、大晦日に終電車はなく、終電に間に合わない歌手はNHK東京会舘の音楽部の部屋の椅子で雑魚寝をしてもらったという。
この事実上の第1回の放送は大晦日の22時20分〜24時00分(元日0時)での放送で「年越し番組」となり、午前0時からは『除夜の鐘』を放送し、これが『ゆく年くる年』の原型となった。
しかしこの後、この「冒険」は継承されることはなく、放送の約5年後の1951年、「大晦日の番組でなければいいだろう」ということで、正月番組として『第1回NHK紅白歌合戦』を放送した。今度は対抗戦形式を意識して、出場歌手名は公表されていたが、紅組キャプテンの渡辺はま子(歌唱:桑港のチャイナタウン)、白組キャプテンの藤山一郎(歌唱:長崎の鐘)がそれぞれ相手の出方を見ながら、誰に何を歌わせるかを決めるというものだった。
黎明期の「生みの苦しみ」がだんだん判ってきた。第7回ごろまでは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、回を重ねる毎にその名は消えていき、入れ替わるように第10回(1959年)では新世代デュオ歌手のザ・ピーナツ姉妹(歌唱:情熱の花)が、翌11回では橋幸夫(歌唱:潮来笠)、ロカビリーブームの第一人者であった平尾昌章(歌唱:ミヨちゃん)が、第12回では『上を向いて歩こう』のヒットにより坂本九がそれぞれ初出場、「世代交代」の色が年を追って強く反映されるようになる。
ちなみに後に歌謡界の女王として君臨する美空ひばりの初出場は第5回(1954年/昭和29年)で『ひばりのマドロスさん』を歌唱、これで江利チエミ、雪村いづみの3人娘が顔を揃えた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
かつての仕事の上で『紅白』にまつわるいくつかのエピソードも思い出してきた。あれは『紅白』に対抗してスポーツ紙を含めた各新聞社が中心となって決定する『日本レコード大賞』(後援:TBSテレビ系列=第1回は1959年で大賞には「黒い花びら」の水原弘)が1969年から、それまでは12月30日の前日開催を、同日の19時から21時に開催・TV生中継されるようになり、歌手の『レコード大賞』(帝国劇場)から『紅白』(渋谷・NHKホール)へのクルマによる大移動が始まった。この模様がやがて大晦日を賑わすトピックニュースとして話題を呼んだものだ。それを、そのころ創刊して間もない『ベストカーガイド』(今のベストカー)が狙い撃ち取材をやってしまったはずだが、担当したのが、いまや自動車評論でしっかりおのれのテリトリーを築き上げた國沢光宏君だったはず。
早速、國沢君に連絡を取ってみた。留守電となっていた。連絡が欲しい、とメッセージすると、間を置かずわたしのiPhoneが着信を告げる……。早速、確認作業に入る。
「ベストカーで大晦日の紅白で、レコード大賞に出たトップ歌手達が、自分のクルマだったか、専用のハイヤーだったかで、帝国劇場からNHKの紅白会場までどんなタイムでぶっ飛ばして移動するのを取材したのは、君だったっけ? それとも大井貴之君だったっけ?」
「あ、は、は。それはぼくしかできません。詳しいことは『ベストカークロニクル』に載っていますよ。タイムを計るんじゃなくて《スピードガン隠れ測定》でやったはずです」
「そうだよね、パトカーのネズミ取りをやったくらいだもんね」
さっそく「クロニクル」で確かめるから、と電話をきったものの、さて800ページのあの分厚い『想い出玉手箱』はどこにあったけ?
その作業は、難航した。ということで、探索の時間を、少しばかり、頂戴させていただこうか。
タイトルで謳った《ラブストーリー》も次回までお預けとしたい。悪しからず。
お決まりの(以下、次回更新まで)
Posted at 2022/01/14 01:38:44 | |
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還暦+白秋期の25歳 | 日記