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正岡貞雄のブログ一覧

2018年09月14日 イイね!

EXA⑩の『祝婚歌』は信州葡萄の味

EXA⑩の『祝婚歌』は信州葡萄の味あれから30 年。「フレッシュマン時代」に乾杯しようぜ!





 季節が秋に移ってくれるのを待っていたかのように、信州・塩尻から葡萄の詰め合わせが1箱、いつものように届けられてきた。

シャインマスカット。
 サニールージュ。
種なし巨峰。
 それにもう1種類は、無銘の逸品である。

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 それぞれが2袋、計8袋もある。家人などは、さっそく10kmほど離れた近郊に住む孫娘に届けに行くんだといって各1袋、つまりそっくり2分の1を別の箱に移し、さあ、出かけましょうとこちらを促す気の早さ。浮き浮きしたハッピーな時間の始まりである。

 こうやって「信濃の味覚」が毎年、わが家に長野の年下の友人から届けられるようになって、もう何年になるのだろう。その源泉が、実は「富士フレッシュマンレース」だとしたら、話は出来過ぎかな。

 ま、31年前に『ベストカー』の’87年8月26日号に掲載された記事『結婚祝いのEXAレース』にその辺のいきさつを触れているので、紹介させていただく。『富士フレッシュマン戦・純情歌』の一篇としてとても気に入っているレースレポートでもあり、それは先に動画付きで紹介した『EXA⑩のラストラン』の続編でもあった。

 サブタイトルは《’87富士フレッシュマンレース第4戦(6月14日)ベストカーEXA奮戦記》。クレジットなしで第三者が書いているスタイルをとっているのを見ると、筆者はわたしではなかったらしい。あのころはすでに「ベストモータリング創刊」にすべてをシフトしていたはずだから、恐らくベストカーの山本亨クンに任せっきりであったろう。

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 PHOTO by  安川 肇(特にお願いして、当日の⑩平林クンの走りっぷりを探し出していただいた)

——昨年のフレッシュマン戦のEXAで、局長のよきライバル(?)だった(長野・塩尻の)百瀬孝仁クンのメインテナンスを担当している平林稔クンから局長に一通の手紙が届いた。

 レースが好きで⑳百瀬のほかに④花村、塩原正幸EXAのメンテを引き受け自分でも何度かレースに参戦しているが、結婚するために、レース資金も貯金しなければならず、さりとてレースにも出てみたい。そこで’87富士フレッシュマンレースの第1、2戦は加藤隆弘クンが乗ったが、第3戦からはドライバーがいないというベストカーEXAになんとか乗せてもらえないだろうか。

 そんな内容のベストカーEXAに対する熱いラブコールの手紙だった。彼がこれまでにどんなレースをやっているかなど、便箋12枚にビッシリと書かれている。

 平林クンのラブコールに応えて。かれの結婚祝いとしてベストカーEXAを貸してあげることにしたのだった。

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 そして、5月24日に長野県の塩尻市からFISCOまで練習かたがたクルマの様子を見に来た。この際、エンジンをOHし、タコメーターを見やすくするなどの手を入れ、6月13日(土)朝7時に塩尻を出発、その日は充分ではない練習走行を行い、本番に向けてのマシン調整をやる。

 いよいよ決勝当日、プラクティスはなんと5番手に、そして決勝は8位という結果に。なかなかやるもんですな。局長だったら・・・・・・。

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 レースが終わってから、また平林クンから手紙が。今度は便箋17枚の熱走報告が届いたのであった。彼の昂奮した様子が手に取るように感じられた。新婚間もない彼は、「なんとも言えない満足感を得ることができた」という。これからも頑張ってもらいたい。

☆        ☆       ☆       ☆
 わずか3段しかスペースは与えられていなかったが、しっかりベストカーEXA⑩を挟んで、平林クンと婚約者・弘美さんの2ショット写真に、レースシーン、リザルトがそえられていて、情報量に不足はない。ふと、レース結果の末尾に目がとまった。平林の僚友、百瀬クンも出走していて、9周でリタイアしていた。

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 それからの「平林夫妻」の船出に贈った祝砲。これに過ぎる物はなかっただろう。それからは毎年、欠かさず平林夫妻から、西瓜だったり、林檎だったり、今年のように葡萄だったり、選りすぐりの「信州の味覚」が届くようになった。
地元のJAに勤務する平林クンが、今年は何にしようか、と気を配ってくれる姿が、いつも目に浮かんでいた。

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 そんな彼もそろそろ定年退職を迎える計算だ。自慢の愛息ふたりも、揃って地元の高校で野球部に籍を置き、特に次男坊はエースとして春の甲子園のマウンドに立ったほどの「お宝」に育ってくれたのだから、2重丸、いや3重丸の日々を送ってきた、というべきだろう。

 葡萄の箱が届いたその夜、種なし、皮なしの「シャインマスカット」を堪能したところで、平林クンにお礼の電話を入れた。ことしの葡萄はとくに甘みに磨きがかかったので、それを届けたくて発送が遅くなった、と平林クン。その分、極上の葡萄を賞味できたから、と、改めて礼を言ったところで、「あの予選落ちの常連だった百瀬クンはどうしてる?」と問うてみた。即座に返ってきた内容が気に入った。地元の市役所で今も「建設部長」をやってます、というのだ。

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 つい先日のFBで、百瀬クンが最後のヴィッツレースに出場し、それが通算100戦目であったと教えたくれたフレンドがいたが、この二つの情報をつなぎ合わせてみると、また新しい「富士フレッシュマンレース」STORYを紬ぎだせるのではなかろうか。ゼッケン⑳EXAの百瀬孝仁クンはあれからずっと、サーキットで走り続けていてくれたとしたら、これは驚きだ。                                       (以下、次の更新へ)


2018年08月29日 イイね!

美女軍団とミラージュ勇士に囲まれた日々

美女軍団とミラージュ勇士に囲まれた日々〜1988年ミラージュCUP名人の部・第1戦FISCO〜






最初に硬い話をちょっぴりさせていただこう。

 

 1987年のミラージュCUP最終戦、富士のヘアピンで土手っ腹に激突され、哀れや「転倒虫」と化した⑫ベストカーミラージュはそのまま廃車に。まあ、普通にいけばミラージュ CUP参戦は、このアクシデントによって、2年目にしてジ・エンドである。


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 さて、今だから書けるが、その年(30年も遡る)の1月15日に、馬齢52を重ねて、身辺は変革の渦のなかにあった。4月末に、新会社を設立、その代表取締役社長であり、VIDEOマガジン『Best MOTORing』の編集長も兼ねた。何分にも、新事業に失敗は許されない。講談社の厚い庇護はあるといっても、映像事業はまったくの未知の領域。ましてやクルマを主題として、ビデオによる月刊定期刊行するには、生半可のエネルギーでは、軌道に乗せるのも難しかろう、と周囲は見ていた。

 

音羽通りの光文社、キングレコードのビルと隣り合わせたマンションに、20坪あまりの小さな事務所を設けた。『ベストカー』のあるビルとは700mばかり離れてしまった。


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 『ベストカー』の方の専務兼編集局長の役割は継続しているものの、新事業の目途がつけば、いずれ籍を抜くつもりだった。6月、講談社・野間惟道社長の急死。続いて足沢禎吉専務までが急逝。この新メディアの必要性を理解し、わたしのポテンシャルに期待を寄せられたお二人を失って、正念場に立たされていた。そんなさなかに、はたして、レース活動に今までのように精力を傾け続けていいものだろうか。

 

 創刊号は6万8000部を発行して、80%の実売。物珍しさも手伝って、ひとまず滑りだしは成功した。が、2号以降、ズルズルと低落。6号目には発行、3万をやっと保っているに過ぎなかった。『ベストカー』を単純に映像版にしただけでは、通用しない。独自の路線を創り出す必要があった。ますます新会社に籠る日々が続く。

 

1988  Best-Motoringミラージュと改名して熱狂参戦3年目


ミラージュ参戦は続けることにした。映像にレース活動は不可欠だ。企画のひとつの柱であるドライビング・テクニックはレース活動で磨かれるし、人脈もそこに集約されていた。が、もう『ベストカーミラージュ』というわけにはいかぬ。加えてエキスパートの部はニューモデルが採用され、結局、新車が用意された。そこで、新しくカラーリングも替え、『ベストモータリングミラージュ』とした。パステルカラーのブルーとイエローがボディで波打ち、いかにも映像向きだった。


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 この新事業への胎動は、わたしのサーキット挑戦にあった。サポート役の松田昭広青年が回してくれた8ミリビデオを黒澤元治さん宅に持ち込み、レーシング・ドライブの指南を乞ううち、映像のもつ訴求力の虜になった。これからの自動車メディアは映像だ! これが率直な原点だった。

 

 スタートすれば、すべてを巻き込むしかない。ガンさんは『ベストモータリング』の看板キャスターのひとり。中谷明彦、土屋圭市の両君もメインキャスターとして深く巨きな存在である。大井貴之がベストカーから転籍してきて、水を得た魚のように編集部を牽引してくれた。注目の新人だった#55の田部靖彦も重要な編集部幹部。サーキットの女豹、小林里江もわが社の経理部担当。松田昭広青年は制作部チーフに、といった具合に。


 講釈はここまで。ここからは1988年4月17日の富士スピードウェイを舞台に繰り広げられた「ミラージュCUPエキスパートパートの部・第1戦の模様をご覧いただく。ベストモータリング1988年7月号のレース収録企画として、カメラ部隊が投入されていた。


 予選が始まる前の陽気なパドックの様子から、である。美女たちに囲まれて、こんな風なサーキット・ライフを楽しむ束の間の至福。何しろ、あの高名な女優が見事に孵化する前の、ピカピカした時代も紹介できるとは、ああ!  ともかくご覧あれ。


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*この美女軍団のなかに、あの高名女優の孵化寸前の姿が・・・。

 ●映像




 ミラージュCUPはこの日のレースカレンダーでは主役ではなかった。この日の様子を、わたしは、「ベストカー」のモータースポーツ・ページにこう記していた。  

  

        ☆         ☆          ☆


 417の富士スピードウェイに新しい衝撃が走った。F3000F3の2つのレースでどちらも20歳台のチャンプが誕生したことだ。

 鈴木亜久里と黒澤琢弥。亜久里はポールポジションからのスタートだった。ぽんと飛び出してから、あとは独走、独走のひとり旅。ジェフ・リースが2周目の第1コーナーで黄旗なのに強引に突っ込んでアウト側にはらむ大チョンボ。星野一義は関谷正徳をパスするのに精力を使いはたした感じで、亜久里にとってこんな楽な展開は予想外だったに違いない。ぼくら中年の目には、亜久里のマシンに星野がご丁寧に亜久里のヘルメットをかぶってドライブしているとしか映らなかったのである。

  いつの時代にも、新しいヒーロー誕生の向こう側には、ギリギリまで王座を死守してきた男の滅びの美学があるのだが、その節目に直面したらしい。

 

 F3を3戦目で制覇した黒澤琢弥にしてからが、ご存じガンさんのジュニアである。

 

 なにかがすっきり新しくなる予感がする。各チームを華やかに盛り上げているレーシングギャルも大増員だ。随分といろんな企業が力を入れはじめたから、彼女たちには、一つのやってみたいカッコいい、実入りのいい職種になってきている。観客席も当然、若い世代に移りつつある。主催者発表、5万2000人、信じていい数字だ。


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 そんな舞台のサポートイベントであるミラージュ・インターナショナル・ラリーアートカップに、ことしも第1戦からエントリーしてしまった。モデルチェンジした今年のマシンは、ニュープロプロダクションのリプレのカテゴリーにあるとはいえ、ほとんどがTSに近い。ストレートエンドでは時速230キロに達してしまう。そこからのブレーキングはハンパじゃない。リアをふられることもたびたびだった。予選17位、決勝17位は、スタート直後のシフトミスで27位までドロップしたことを考えれば、まだ成長過程にあることを立証できた上出来のレースだった。52歳の特別プレス席もあと何戦かは、すわらせもらえるみたいだ。今シーズンもよろしく。


 わたしのこの「熱走報告」を最後に『ベストカー』誌上から、ミラージュCUPは消えたのである。  


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 この項、このあと、適宜、手を加えて、完成させます。
 感想のメッセージ、コメントをお寄せ下さい。お待ちしています。





2018年08月14日 イイね!

富士フレッシュマン・EXA⑩のラストラン

富士フレッシュマン・EXA⑩のラストラン
〜動画の後でレースレポートと併せてどうぞ〜

 こんどの夏こそ、広島の原爆の日が来ても、8月8日の北九州・八幡の大空襲、そして8月9日の「長崎の日」を迎えようとも、そして8月15日の「終戦の日」が来ても、こびりついて離れない『鎮魂の夏』の記憶に落ち込まないように、と心を決めていた。歯を食いしばって、1945年の出来事をもう思い出さないでいよう、とした。が、やっぱり駄目で、気張った分だけ心が落ち込んでいった。

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 そのブルーに落ち込んでいく正体は「こちら」にあって、その72年前の「記憶」については、すでに以下のように紹介済み。よろしかったら、是非ご一読いただきたい。語り残しておきたい昭和11(1936)年生まれの「昭和史」の一部でもあるので。いずれもクリックで、お読みいただけます。

●鎮魂の夏① 『長崎の鐘』と『終戦の日』の狭間で

●鎮魂の夏② 8月9日、もしもあの時… 

●8月、ああ「鬱の色」に染まってしまう


 この後ろ向きの気分を払拭する特効薬が一つある。新しい車に乗ってみることだ。お誂え向きに、SUZUKI新型ジムニー&ジムニー・シエラのRJC向けの試乗会が、日頃は立ち入れないスズキの聖域、横浜研究所を基地にして、用意されていると連絡が入っていた。

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 ジムニーか。3代目を送り出してから20年目のモデルチェンジ。世界での販売台数は285万を超えるという。特に地方の田園地帯、山間の村に行くと、一家に1台、ジムニーが用意されている。

 新しくなった「小さな巨人」。無性に逢いたくなったところで、新しい別の朗報がもたらされたのである。したがってジムニー試乗記はお預けとなった。

45歳から挑戦した富士フレッシュマンレースも、B110サニー、N10パルサーと乗り継ぎ、1984年のシーズンから挑戦したEXAのラストランの模様が、動画にアップできたと、いつものMD i遠藤さんからLINEメッセージが入ったのである。

 これはわたしのフレッシュマン時代の一つの区切りで、すでにわたしの心は、この前年からステップアップしていたミラージュCUPに吸い取られていて、EXAをどう生かすか、頭を悩ましていたところだった。ま、わたしの事情は別にして、あの当時のフレッシュマンレースを、まずは観戦されたし。このレース、予選は行われず、スターティンググリッドは申し込み順。ベストカーEXAは17番目からのスタート。

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◎富士フレッシュマン耐久レース春季大会 EXA1時間耐久の部 ’87年3月22日 



 さて、ここで新しい試み。あの頃のわたしは、自分の参戦したレースを、律儀にレポートしていたこともあって、動画と同時に、そのレースレポートも用意してみた。
 
 忠実に、活字と写真の記録を同時にそっくり「ベストカー」1987 年4月26日号から転載しておこう。動画の内容と重ね合わせると、結構、あの時代を、懐かしく、あるいは新しく読み取っていただけることを願って・・・。

●富士フレッシュマン耐久レース春季大会(1987年3月22日)

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6位入賞!  なぜ突然に戦闘力が高まったかを教えよう

 モータースポーツは間違いなく、底辺からも、大変な勢いで盛り上がりつつある。その証拠に各地のサーキットのレーススケジュールは、毎週びっしり埋まっているし、平日にスポーツ走行しようとしても、自動車メーカーや、タイヤメーカーの専有使用が優先されていて、それもままならないことが多い。

 だから、週末くらいにしか練習時間のとれないフレッシュマンクラスのドライバーや、フレッシュマン志望の若者にとっては、レース開催のない週のサーキットが頼みの綱。ところがどっこい、そんな訳でみんなが殺到するから、大混雑でまともに走れやしないし、腕も違えばマシンもさまざまの混走。となれば危険なこと、この上なし。

 富士、筑波、鈴鹿、どこも同じ不満が渦巻いて、いまや爆発寸前なのである。

 それでは——―春と秋の2回、フレッシュマンだけの1時間耐久レースをやってあげましょうと新しく設けられたのが、この「富士フレッシュマン1時間耐久」である。発表と同時に大反響で、EXAの第1戦をぼくの代理で走ったチョビ髭の22歳、加藤隆弘クンなんぞは、「ね、ね、一緒に出ませんか。優勝賞金は20万円、6位でも3万円貰えるんですよ。もちろん、ファーストドライバーは局長に譲ります。ベテランの巧みなテク。そ、そうです。若いぼくらにお手本を見せて下さい。お願いします!」

 と、もう大騒ぎ。参加料8万円はチト高いが、企画そのものには、大賛成。早速、準備にとりかかった。

*傷つき疲れたマシンにまず愛の手を!

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 耐久レースとなると、たとえ1時間といえども、マシンをしっかり点検しておかねばならない。ちょうどいい機会だ。わがEXA、この1年間、ドックに入れた記憶かせない。それどころか、昨年の終盤2戦でうけたボディのダメージは、叩きだしとガムテープでなんとか応急手当をしているにすぎない。

 コ・ドライバー任命と引き替えに、加藤クンは傷つき疲れたEXAを、スリーテックのガレージから引き取り、武蔵境にあるRS中春の工場まで運ばされたのである。いくら走りたい一心からとはいえ、それからの加藤クンの献身的な働きは、特筆ものだ。

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*加藤隆弘君のお陰で、青春後期も賑やかにサーキット暮らしを楽しめましたぞ!

「局長、うちのEXAのひどさったら、なかったスヨ。開けてびっくり。まず足回りから始めたンすヨ。そしたらフロントのベアリングがダメで、交換。ドライブシャフトのブーツは破れて、グリスもないから焼きつく寸前でして。
 次にリアのブレーキドラムを開けてみたら、もう最悪! ライニクングはないし、がたついてるンスヨ。よくあんな状態で走っていたなって、みんなで感心しちゃった」

 エンジン調整、エアクリーナーの掃除、スロットルバルブ等の点検、タベット調整。目にみえない、こうした基礎的な作業に力を入れる——これを毎レース終了のたびに欠かさない。RS中春の強さの秘密はそこにあった。もちろん、それだけではない。仲間同士の奥深いコミュニケーション。豊富な練習量。レースへのシビアな姿勢……。ぜひ、手本にしてほしい。

 さて、3月22日。富士山麓は薄曇り。ワンデイレースで予選なし。スタートのポジションはエントリーの受付順だという。出走17台で15番目。たっぷり抜き甲斐があるじゃん!

 この日はパルサーとEXAが混走だったほか、サバンナRX-7とファミリア、スカイラインとレビン・トレノ、スターレットの各1時間耐久が3レースとVWゴルフポカールレースが用意されていた。

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*Aコーナーから100Rへ。「珍しいアングルでしょ?」と安川肇さんに渡された。ありがとうございます。

  3カ月以上もEXAに乗っていないぼくにとって、たった20分でも練習走行できたのは有難かった。ヘアピンを立ち上がったところでにわかにエンジンがバラつき始めた。慌ててピットイン。ボンネットを開けてみると、プラグコードが1本抜けていた。本番でなくてよかった。再びコースイン。2分7秒台が出たのを確認してから、加藤クンとのドライバー交代の練習にピットへ戻った。足回りは別のマシンみたいにコーナーで踏ん張ってくれるが、直線での伸びは今イチだった。

*7位で加藤クンにバトンタッチ、いざ!

 午前11時45分、ローリングスタート開始。ゆっくりと1周して、シグナルが青に変わったところでアクセル全開でメインスタート前を駆け抜けた。耐久とはいっても、ぼくの持ち時間は長くて40分まで。スプリントのつもりで攻める。1周目だけは丁寧に第1コーナーへ。①浅井建次が○19田部靖彦に押し出され、トップから5位あたりにドロップしたのをしっかり確認しているのだから、かなりの余裕。

 コンスタントに6秒台前半で周回、どうやらEXAグループの7位まで浮上できたらしいので、早めにバトンを渡すことにした。

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*バトンを渡された加藤隆弘君の熱走!

 残り時間は35分、フルフェイス型ヘルメットの中の、緊張した加藤クンの目。交代に17秒も使って、飛び出していった。あとで聞いたところによれば、同じ背格好の②清水佐織/小林里江組はわずか9秒で入れ替わったそうで、そのマージンもあってか、堂々と優勝をさらってしまうのである。

 6秒台、5秒台と周回ごとに加藤クンのタイムがよくなっていく。○12横田憲治に追いついたあたりから、さらにペースがあがって、ついに4秒台! 満タンで走ったぼくに較べると少しは有利だが、それでもイイ線いっている。10秒差近くあった先行2車を捉えるのも時間の問題。この日応援に駆けつけてくれたEXAメイトの岡部松恵クン、メカの石村クンと3人で熱くなったのは、当然のなりゆきだった。チェッカーが振られた。加藤クンが先行グループの中に突入している! さあ、どうか? 

 コンマ3秒の中に3台がひしめいた激戦だったが、結局、6位に終わった。
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 表彰式。小さいけれど、ずっしり重量感のある楯と、3万円の賞金を手にしたとき、これがベストカーEXAの、初めての晴れ姿だと気づいた。次はやっぱり表彰台だ! その役目、こんなにマシンに愛情を注いで甦らせてくれた22歳、加藤クンにあとは任せよう。          (この項、終わり)

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*このレース終了後、ベストカーEXAはこの優しい青年のもとへ引き取られて行った・・・

PHOTO BY 安川肇
2018年07月31日 イイね!

悪夢か、郷愁か。転倒虫の語り草

悪夢か、郷愁か。転倒虫の語り草〜1987年10月18日 富士GC、3万7000の大観衆の前で〜

 ふた月前の「丹沢そば本店」での『富士フレッシュマン同走会』で、久しぶりにレーシングドライバーの影山正美君に再会した。
 握手した瞬間、その分厚い、力強い巨きな掌が妙に嬉しかった。
 わたしの記憶の中の「マチャミ君」はいつも兄の正彦君の影のような存在の少年だった。

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*素敵な「若者」に挟まれて
 
 1987年10月18日は富士グラチャンとあって、快晴の秋空の下、三万七〇〇〇の大観衆が詰めかけていた。ミラージュCUPエキスパート第6戦は、その前座に組み込まれていて、注目度も一段とアップ。眞田睦明、中谷明彦、清水和夫に小畑栄、横島久といったミラージュ乗り、それに金石勝智、影山正彦といった若手のホープに、フレッシュマン組から田部靖彦も挑戦していた。当時51歳のわたしもシニア代表(?)として、悠々と予選を通過、後ろに4台ばかりを引き連れて・・・。

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 マチャミ君に会うと、決まってこの日のことが思い出されるんだよ、と伝えると、彼もよく記憶していて、今や語り草となっているその日のことで大いに盛り上がった。そこで思いついた、その日のDVDが手元で眠っているはずだ、ということで、動画化を思いついた。やっと今、それが出来上がった。

 オープニングは想像を絶する予選の模様から。まず鉄砲玉の田部靖彦が、第1コーナーに飛び込んだ!

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*ヘッドフサフサ時代の田部靖彦君

 お楽しみあれ!

 動画制作・遠藤幸和


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 すでに詳しくは「ここ」に書き残してあるので、どうぞゆっくりとお読みいただければ、幸いです。

 題して「痛恨のクラッシュ ~「あの事故」と同じ舞台で体験したあの瞬間~」

今の後、引き続き、EXAレースなど「富士フレッシュマン」の実像を、引き続き動画に変換中です。ご期待ください。
2018年07月14日 イイね!

カサブランカ・アゲイン!

カサブランカ・アゲイン!〜サライ7月号・五木寛之さんの『男が人生を降りるとき』〜




 7月4日に横浜・白楽の花屋さんから届けられたカサブランカの一鉢。固く閉じられたままの蕾らしきものが11も葉裏に隠れていて、開花の日が楽しみなこちらを、焦らせ続けていた。

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*7月4日、今年も届けられた「花の女王』

 7月13日。誰かに呼ばれた気がして、ハッと目が覚めた。時計を見ると午前5時。カーテンの向こうはすっかり白んでいて、これで早起きの蝉の歌でも聴こえれば……。そうか、カサブランカが呼んでくれたのだ、と思い当たって、早速、リビングルームへ。
ちょうど1年前にも、全く同じ状況を楽しんだ記憶があった。

 間違いなかった。昨夜まで、きっちり、頑なに閉じていながら、真っ先にほころびはじめていたリーダー格の蕾の先ッポが、すでにポッコリと開いていて、濃い紫色の雌蕊まで覗かせている。特に香りが強いわけでもないのに、近寄ると、ちょっと悩ましくなるのはなぜだろう。

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*7月13日の朝、お目覚めの時が来た・・・
 このカサブランカの花が開いたら、すぐにやってみたいことを、前から心に決めていた。『カサブランカ・アゲイン!』とタイトルして……。

 5月の連休明けから、かねてから予定していた『改造計画』を実行するために1週間ほどの予定で、都内の大学病院で拘束状態に入っていた。

 持ち込んだノートPCは全く使い物にならなかった。やむなく、iPhoneのテザリング機能に頼って、iPadから辛うじて「みんカラ」などの様子をチェック出来る程度だったが、退院を一日延ばしにされて、
苛々が始まっていた5月16日のメッセージ欄に、見慣れぬ「みんカラネーム」が届いていた。

「モカ・シャミー」???

 はじめて見る「差出人名」。が「件名」に小学館から発行している「サライ編集部」の編集者名が記されているのだから、心配ないが。どんな要件だろう? すぐに開封する。

      ☆      ☆            ☆          

突然の連絡、失礼いたします。
現在、サライ誌にて五木寛之先生の連載「奇想転画異」を担当しています。

6月10日売り7月号の原稿で車の話題に触れられ、かつてマカオGPなどに参加されたことが記述されています。
記事中に入れる写真を探していたところ、正岡さんのブログ(2015年4月20日)に徳大寺さん、黒沢さん、五木さんが写られている写真が掲示されておりました。

その旨、記載したうえで五木先生に候補案の一つとして提案したところ、上記2015年4月20日付けのブログに掲示されている写真を使ってほしいと連絡を受けました。

上記の写真についての掲載のご許可をいただきたく連絡をさせていただきました。
「みんから」には未登録だったため、急ぎ登録する過程でニックネームを求められ、我が家で暮らす猫の名前にしてあります。失礼の段、お許しください。

お忙しいところ恐れ入りますが、ご検討いただきたくお願い申し上げます。

―――簡にして要を得たメッセージに、iPadからすぐに返信させていただく。

 わざわざありがとうございます。
BLOGに掲載されているファイルの大きさでいいのでしょうか。
もし、J-PEGでもっと大きいサイズをご希望なら、お申し付けください。

もちろん、返信する前に、該当する写真の掲載されたページは確認した。あ、こんな経過で話が「マカオGP」にまで発展していたのか。流れゆく日々を、こうやって記録していくことの有り難さを、改めて受け止めた瞬間でもあった。

 参考までに、「こちら」に「ご一読あれ」のお誘いを用意しておこう。

●『風の仲間』の盟主・五木寛之さんが週刊誌の表紙に!

https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/35496791/


 6月の中旬になって、ルマン24時間レースのTV―CS中継に惹きこまれていると、郵便受けBOXに『サライ7月号』が投函されていた。昭和

 早速、開封。ビジュアル重視のA4判マガジンらしく、ページ数は142とそんなに多くはないが、手にすると、ズッシリと重みが伝わって来る。

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 特集は『建築家の宿』。サブタイトルに「細部まで透徹した匠の創意に膝を打つ」と補足してあって、「おっ、これは必読!」と、こちらも膝を打ってしまったが、ターゲットの読者はアッパーミドル、あるいは人生の仕上げに取りかかっているシニア層。なるほど、ピントはピッタリ定まっている。

 さて、お目当ての五木さんは? 目次の2ページ目の2段目、『奇想転画異』92ページ、第三十二回、男が人生を降りるとき、とあった。

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 見開き2ページ。車好きが高じて「五木レーシング」としてレースにも参戦。中央左から徳大寺有恒さん、黒澤元治さん、筆者(昭和61年撮影、正岡貞雄さん提供)。写真の説明ネームがそのまま、リードの役割を担っていた。

 若い頃は、車の運転が趣味だった。
趣味というと品よくきこえるが、いわゆるカーキチの類(たぐい)だったと言うべきだろう。
自分の車を持てなかった時期は、写真を集めたり車のカタログを壁に張ったりしていた。

 そんな書き出しで始まるエッセイで、この人の車に溺れた(?)エピソードが次から次へと、万華鏡のように披露されている。

 最初に手に入れたのは、シムカ1000という中古のフランス車だった。月島の中古車ショウでひと目惚れして買い込んだ、というのは嘘で、要するに最も安い外国車だったのである。当時の値段で二十五万円だったと思う。
シートは布張りだし、エンジンは非力だし、シフトは中々入らないし、スピードも出ない。第三京浜を夜中に走っていると、全てのトラックに追いこされる始末だった。
しかし、私はその小型車を今でも懐かしく思い出すことがしばしばある。なんといっても外車なのだ。

(中略)
 それからはいろんな車に乗った。一時期、サーブ社と契約して、「CG」誌だけの広告に出たことがある。毎年、春になるとその年のサーブの新車が提供されるのが嬉しくて何年かつとめた。

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 レーシング・チームを作って、マカオ・グランプリに参加したこともあった。ホンダのシビックを改造してのワンメイク・レースだったが、名前だけのオーナーが私、総監督が徳大寺有恒さん、ドライバーが黒澤元治さんというチームだった。車体に『青春の門』とか、いろんなステッカーをべたべたはった奇妙な車だった。
(中略)
 やがて六〇歳を過ぎ、私のカー・ライフにも幕をおろすときがきた。車の運転を止めることは、男を止めることと同じ、いや、それ以上の淋しさだった。

 しかし、私には自分の限界がわかっていた。新幹線の「ひかり」に乗っていて、通過駅の駅名の標識が、流れて確認できないことに気づいたのがきっかけだった。それまでピタリと止まったように見えていたのが、一瞬、流れて注視できなくなったのである。動体視力の衰えは、運転には致命的だ。最後にはスティアリングをにぎったのは、六十五歳のときである。自分の人生が終わったように感じたことを覚えている。

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*五木さんはその頃の愛車BMW633CSiで、徳大寺さんは911Sで鈴鹿サーキットに乗り付け・・・。

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*その後、五木さんはメルセデスの450SELに乗り換えることになり、633CSiはわたしが譲り受けた。

 紹介が長くなった。五木さんの「その時」の心境を正確に見つめて欲しいので、こうなった。わたしの編集者生活の後半で、車に深く関わってしまったきっかけをつくったのは、紛れもなく五木寛之という四歳半年上の作家である。その人の言葉は、いつも的確に、生き方に関わってきた。
 かつて、「八十歳になったらポルシェを着たいですね」と唆したのは、五木さん、あなたではなかったでしょうか。わたしも心のどこかで、運転免許を返還する日を、迎えつつあるのを、もやもやと自覚し始めていただけに、ズシンとこたえる「五木さんの覚悟」であった。

 五木さんから届けられた「カサブランカ」の花が、大胆に開き始めたその朝、わたしは近くのBOOKストアに足を伸ばして、発売されたばかりの『サライ』の8月号を購った。

 特集は「高校野球」。表紙はあの太田幸司投手がピンと左足を跳ね上げたお決まりのポーズ。これはじっくり読めるぞ、と一安心したところで、五木さんの連載ページ「奇想天外」いや「奇想転画異」をチェックした。第三十三話は「邪道としての本の読み方」。

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 情報過多の闇夜の中で、一筋の光を与えてくれるのは、四半世紀前に発行された1冊の書だった、というテーマ。8年ほどに前に他界された免疫学者、多田富雄さんの『免疫の意味論』(1993年・青土社刊)がそれである。わたしには全く予備知識すらない領域の著書である。それを五木さんは「一冊の持つ異様な興奮は、時間の経過などとは関係なく読む人間を魅了し続けるだろう」と言い切っている。

 この夏、必読の書がまた1冊加わってきた。
ことしも五木さんから届けられたカサブランカが咲いている限り、この約束をわたしが忘れることはないはずだ。
                                                   (この項、終わる)
Posted at 2018/07/14 21:40:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | 還暦+22歳の青春 | 日記
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