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正岡貞雄のブログ一覧

2022年06月04日 イイね!

R O S S O(赤)の奇跡

R O S S O(赤)の奇跡アルファ•ロメオ•ジュリエッタ•スパイダーの
味見試乗も夢じゃない!

《「雨の日には車をみがいて」の車たち》も6月3日に公開した今回が4台目である。当欄では「第3球」目となった。早速、その「第3球目」をじっくりご賞味いただきたい。イタリア車の魔力、登場するマドンナの熱狂と官能に囚われながら、物語は熱く沸騰する。まずは『幻冬舎PLUS』の連載第4回からどうぞ。


アルファ・ロメオ、月と熱狂と官能と ◉タイトルをどうぞクリック



 主役の初代アルファ・ロメオ・ジュリエッタ ・スパイダーは、スポーツメーカー一辺倒だったアルファ・ロメオが第2次世界大戦の終熄後は、世界の潮流に先んじてそのスタンスを180度転換し、開発した小型モデルで、いわばお宝クルマ。
ベルトーネの当時のチーフスタイリスト、フランコ・スカリオーネがデザインした2ドアクーペをベースに、ピニンファリーナがオープンボディのスパイダーをデザインしたもの。排気量は1.3 ℓと小型車ながらも160km/hの最高時速をマーク、当時としては異例ともいえる性能の高さを見せつけた。その上、コンパクトで使い勝手のよさから、ファミリーカーとしても評価され、ジュリエッタの名前は瞬く間に広がった。ある時期のH O N D A車を連想してしまう。

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*「はじめて見るジュリエッタ ・スパイダーは。信じられないほど優雅で、軽快で、そしてしなやかだった。アルファ・ロメオ独特の盾(たて)のグリルを、やや傾斜してとりつけたジュリエッタ は、二人の乗り手だけのための本物のスポーツカーだった」
(「雨の日には車をみがいて」幻冬舎刊より)

 さて、その初代ジュリエッタ・スパイダーが誕生してから70年が近い。この幻の名車のお仲間入りをしてしまったジュリエッタ ・スパイダーの生(なま)で走る姿に逢えないものか、いろいろと手を尽くしてみた。

かつては目黒通りが環八にぶつかる手前で、イタリアンファッションとイタリア車の専門店で鳴らした『伊太利屋』は有明に本拠を移しており、残念ながらクラシック・ジュリエッタ は在庫していない。
東京タワーの真下で、ポルシェを中心に欧州メーカーのビンテージものを熱心に扱っている「オートダイレクト」もジュリエッタ は時々お客さんが持ち込んでくれる程度なので、と積極的な対応は頂けなかった。


やむをえない。網を投げる範囲を広げる。広島でジュリエッタのスパイダーはもとより、そのワンランク上のスプリントも扱っているカーショップがある、という情報を得た。そのワールドモータース・グループに、すぐに電話を入れる。担当者の声が頼もしかった。彼が直接ローマ市内の現地に赴いて直接に貴族の流れを汲むオーナーから入手したものだという。
「そのジュリエッタ スパイダーは、1961年製で、3オーナー車です。1971年に2代目オーナーがこの車を所有した際にフルレストアを施して以降、屋内ガレージ(納屋)に毛布に包んで保管し、晴天の週末のみ使用していたとのこと。今のオーナーは2代目オーナーのお嬢さんで、父娘2代で長年大切にされてきたこの個体は、非常にオリジナル性の高い1台と言えます。いやあ、くるまれた毛布の中からあの鮮やかな赤のボディが出てきた時には感激しました。人と車に歴史の詰まった貴重な1台でしたね」
もちろん、すぐに東京在住の買い手がついて、撮影と試乗ができるかどうか、連絡が取れるだろうとのこと。
翌日、連絡を入れると、ご本人がナロー・ポルシェ(第1世代の911)に乗り替えることになって、ジュリエッタは残念ながら手放していたとのこと。

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*ローマから届けられたジュリエッタ 。あなたに逢える日があるのか。

それでも「ジュリエッタ ・スパイダー」を記録した画像の提供を受け、その魅惑の姿態をなんとか紹介するところまでは漕ぎつけた。

 ま、今回は此処までで、「よし」としよう。そう得心して、6月3日の朝、午前8時の公開タイムに備えて、当みんカラページの「マイページ」を開いて目を疑った。前夜からこの朝にかけて投稿されたブログの告知記事一覧。そのど真ん中に、真紅のボディカラーのオープンカーの姿が収まっている!
「まさか、ジュリエッタ ・スパイダー?」
 やや前傾してフロントノーズに取り付けられた盾のグリルは、間違いなくアルファロメオ・ジュリエッタのものだ。

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*スタートするロッソF氏夫妻の「ジュリア・スパイダー・ベローチェ」

 心を押し鎮め、その告知記事をクリックし、改めて投稿ブログを開いて、検証作業をしはじめた。投稿者は‥‥‥ん??。まさか、「ベストモータリング同窓会」メンバーでフェラーリ・オーナーの「ロッソF」氏かい? それならビックな発見になる。その彼だとしたら、ありがたい。彼とは6年前の「第5回ベストモータリング同窓会」の代官山TSUTAYA講演会と、河口湖・富士カームミーティングで二日続けてご一緒している。

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*クラシックカー・ラリーの観客に手を振ってこたえる「ロッソF」夫妻

 ブログページの上段を飾るフェラーリ355G T Sのパレード、間違いなく「ロッソF」氏のものだ。中身は5月28日に軽井沢で3年ぶりに開催されたクラシックカーラリーの参加レポートで、なんと世界でたった1台のビッザリーニディーノ、注目度NO.1のミウラまで参加したことを伝えている。そしているわ、いるわ。ジュリエッタ ・スパイダーの仲間もお互いの交歓を楽しむ様子が・・・。これは大変な宝の山だ。「ロッソF」氏に早速「メッセージ」を送った。こちらの今の状況を説明し、携帯スマフォに連絡が欲しい、と。

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*6年前の「ベスモ同窓会」の全員集合。おお「ロッソF」さんも笑顔で。

 すぐに返信のメッセージが届いた。こちらからのコメントを読んで「驚きました。すごいタイミングですね」と。そして、近く時間を作って、彼の「ジュリア・スパイダー・ベローチェ」に試乗して欲しい、と。

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*おお!なんと向かって左のジュリエッタ ・スパイダーこそ、あのローマからの?
いや、これは夢だろう。でもボンネットのラインは間違いなく!右がロッソF氏の愛車。

 ロッソF氏愛車の正式名は「アルファロメオ ジュリア スパイダー ベローチェ。1965年式ジュリエッタ系(101)の最終バージョン」で、生産台数1061台のスペシャルモデルだという。

 これぞROSSO(赤)の奇跡か。イタリアの車は赤がよく似合う。それもそのはず、かつて国際自動車連盟によって1900年頃、国別に車両の塗装色が指定されたのが始まりで、イタリアが割り当てられたのが「赤」で、アルファロメオやマセラティが赤色のマシンを製造して参戦し、それが「ナショナルカラー」とされるようになった。フランスは「ブルー」、イギリスは「グリーン」。

 できるだけ早い機会にこの小柄な「ROSSO」スパイダーの味見試乗記をお届けしたい。実は他にも仕上げたいテーマもあって、結構、時間に追われる毎日である。 題して『それからの義経』。義経は生きていた。頼朝から逃れて、弁慶とともに北へ・・・。彼の北行伝説を偲んで、そのルートに残されている言い伝えが道案内風に点々と青森・竜飛岬まで繋がっていたのを、20年前にルポしているが、今はどうなのか。9,11の東北大震災によって、一部が壊滅したと聴くが・・・。


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(NHK連続ドラマ=「鎌倉殿の13人」から)

 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は三谷幸喜のシナリオが新鮮で、気に入っている。中でも「菅田義経」がいい。その彼はもう「回想」の肩書きでしか登場しない。でもその「菅田義経」が実は北へ・・・。6月の暑い盛りに、たとえ酒で腐敗を防いで、と届けられた義経の首は身代わりのものだった、なんて声も聞こえてくる。大泉洋の頼朝が首桶を抱いて号泣するシーン、あれも印象的だだった。





Posted at 2022/06/04 03:12:58 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+玄冬期の26歳 | 日記
2022年05月14日 イイね!

「新人ライター」渾身の第2球!!

「新人ライター」渾身の第2球!!〜サーブのあとはVOLVO122S、シムカ1000が登場〜

2月半ばの1本の電話から、眠ったような毎日に「喝」が入った。幻冬舎専務の石原正康さんからの「しばらくでした」という挨拶から始まった執筆依頼である。

われらの「風の仲間」の盟主・五木寛之さんのベストセラー作品『雨の日には車をみがいて』(角川書店刊)が33年ぶりに、往時、月刊カドカワの担当編集者だった見城誠、石原正康さんらが興した幻冬舎から改装復刊され、それの「後援活動」として、その作品に登場する9台の車たちの「素性」を紹介してくれ、というのである。

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*創業当時の幻冬舎、見城誠社長、石原専務と。多分、五木さんを迎えての同社主催の忘年会だったろうか。向かって左端に小生も。


「平成」が「令和」と移っていく時期に、頸椎の切開手術を受け、ひたすら近くの区営スポーツジムで30分間のランニングマシンで足腰を鍛え、30分間のストレッチ体操で股関節の衰えを復活させることに専念していた「1936年生まれ」に、果たして対応出来る注文だったろうか。
みんカラ《手術に踏み切った理由》(クリック)を参照あれ。


3月3日にその第1回=『ドライブ・マイ・カー』とサーブ』が公開され、つづけて3月24日に『ボルボ122S・アマゾンとの幻の再会』、5月10 日に第3回の『人生の苦さと喜び、たそがれ色のシムカ』がウェブマガジン『幻冬舎plus』(こちらをクリック)。から公開されたばかりだ。



 第1回の「サーブ」については、車雑誌関係の僚友・飯嶋洋治さんから感想をいただいた。

☆     ☆     ☆     ☆

今朝、白樺のエンブレムを読み直し、改めてあなたの記事を拝読いたしました。
白樺のエンブレム執筆のバックグラウンドが良くわかり興味深いものがありました。
五木さんから徳大寺さんへのメッセージや報告会のやりとりなど、雨の日には…をこれから読む人や、すでに読んでいる人にも奥行きを加える記事なのかなと思いました。
個人的には正あなたのサーブ900ターボのロングランのくだりを詳しく読んでみたいように思いました。

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*試乗会で飯嶋氏と。

考えてみれば、あの小説が書かれた時代はバブルの初期で北欧のサーブやボルボは、BMWやアウディなどに比べると大分地味な感じがあったのを思い出しました。
五木さんは、そんな時代背景を敏感に察知して、あの小説を書いたのだということを再確認させられました。まさか当時はサーブが無くなるとかボルボが中国メーカー傘下になるとは想像できませんでした。

蛇足的な感じですが、五木さんはスポーツカー好きだけでなく、サーブ96やボルボアマゾン、シムカ1000など、けっこう大衆的というかカッコ良くない車への愛着も大きいようですね。私もあまりスマート過ぎるより、ちょっと不格好でもどこか惹かれることがあるクルマを好きになることが多いので、どこか共感できます。

さらに蛇足ですが、シムカ1000は、雨の日…のたそがれ色のシムカと、ユニコーンの旅に納められた、夜の世界と私の知る限りでは2度異なった設定で出てくるので、かなり思い入れがあったのでしょうか?
ユニコーン…ではプラハの春遠くなどを読むとウクライナ情勢なども重ね合わせてしまいます。

この辺も含めて、連載を興味深く拝読させていただきます。
ドライブ・マイ・カーはまだ未読、未視聴なのでこれを機に見てみたいと思います。                        飯嶋洋治


 この応援エールはジーンと心と体に、熱く滲みた。そのせいもあってか、各回の執筆に当たって、足取りも軽く、あちこち、取材に足を運んでいる。限られたスペースなので大胆にカットした話も多い。例えばアマゾン122Sのモデルとなった女優Kの話とか、シムカ1000の舞台となった「日本のカルチェラタン」駿河台界隈を、いま歩いてみてのレポートとか。

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*ニコライ堂
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*アテネフランセ

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*シムカ1000

 さらに付け加えれば、」第3回「たそがれ色のシムカ」の書き出しは、こんな話から始めてみたが、読み手にもっと軽い気持ちで入ってもらいたい、という想いから、あえてカットしたが、もったいないので、当欄で収録しておきたい。
☆     ☆     ☆     ☆
 世界の名車シリーズの手はじめとして『メルセデスの伝説』を1985年に刊行し、一息ついた五木寛之は、次にとりくむ幻の超高級乗用車イスパノスイザ(スイス人技師を招いてスペイン・バルセロナで創業)のエンジン音を、二玄社から出ている名車シリーズのLPで聴きながら、その華麗なサウンドに浸っていた。登場人物も、フランコ将軍、ムッソリーニ、ヒトラー、スターリン、久生十蘭、横光利一、ピカソ、その他もろもろの実在の人物が頭の中に渦巻いて、そのからまりあった糸をときほぐすことに熱中していた。

 当時、ベストーカーに5年間にわたって連載した『疾れ!逆ハンぐれん隊』を舞台に、折にふれ《I T S U K I’S V O I C E》というパーソナル・コラムを特設し、作者としての動静とか、その折々の車への想いを漏らしていた。
「その上に、《月刊カドカワ》という小説誌で、連作小説『雨の日には車をみがいて』というシリーズの連載がスタートした。第一話は〈たそがれ色のシムカ〉。
一九六〇年代のなかばに舞台を設定して主人公の車遍歴と恋の思い出を回想する物語である。ちょうどビートルズが武道館にやってきて、スパイダーズの《夕日が泣いている》が流行したエレキ・ブームの時代だ。
すでに二十年も昔のことだが、当時はまだいすゞの117クーペさえ市場には出ていなかったことをなつかしく思い出す」(1986年7月10日号所載)

残念ながら、いまだに《イスパノ・スイザの伝説》が書き上がった気配はない。しかし『雨の日……』の方は1988年夏に角川書店刊で単行本化され、さらに32年近くが経って、今度は幻冬舎からの改訂新装版が手元に届けられたわけだ。
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 それらを紹介していくつもりで「新人ライター 渾身の第2球」と大袈裟なタイトルを用意した。次回からはその辺を、じっくり掘ってみたいという「予告」と受けとっていただければ、ありがたいのだが・・・。
Posted at 2022/05/14 08:19:47 | コメント(1) | トラックバック(0) | 還暦+玄冬期の26歳 | 日記
2022年03月04日 イイね!

新人ライターに回帰した日

新人ライターに回帰した日〜《『雨の日には車をみがいて』と車たち》をよろしく〜

  2022年3月3日の午後4時ジャスト。恐る恐る、わが愛しきPCに予め設定しておいた《自分サイズが見つかる進化系マガジン 幻冬舎PLUS》をマウスの矢印でポンとプッシュした。と、紛れもなく新人ライターが担当編集者と10日間にわたってやりとりして仕上げた「ページ」が、晴れ晴れしく、画面一杯に拡がっているではないか。
前置きはここまで。ともかくこのページを開いて欲しい。題して『雨の日には車をみがいて』と車たち》。連載のトップバッターは「サーブ」。ご贔屓の虎軍団でいえば「近本光司」かな。ご一読の上、「みんカラ仲間」のよしみで、忌憚のない感想、ご意見をお寄せいただければ幸い。

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https://www.gentosha.jp/article/20501/ ⇐《『ドライブ・マイ・カー』とサーブ》はここをクリック

   お読み戴いたあと、じつはこの第1回の原稿を仕上げていく日々のことなど、エッセイ風に、お届けするつもり。なにしろ2022年は頑張るぞ、といいながら、2月はすっぽり、ご無沙汰してしまったお詫びとして。なお、第2回はVOLVO122Sのつもり。この項に登場するマドンナもひどく魅力的だから、期待して欲しい。



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何だかこうやって新しく始まった日々・・・ベストカーで連載してもらった五木寛之さんの「疾れ! 逆ハンぐれん隊」の作品で合間に挿入した《ITSUKI’S VOICE》は絶妙だったな。題して「新人ライターに回帰した日」。悪くないな。
Posted at 2022/03/04 01:26:06 | コメント(4) | トラックバック(0) | 還暦+玄冬期の26歳 | 日記
2022年01月19日 イイね!

『想い出玉手箱』から飛び出した「音羽の梁山泊」始末

『想い出玉手箱』から飛び出した「音羽の梁山泊」始末梁山泊——中国の伝奇小説《水滸伝》の舞台となった山東省の大沼沢を指すが、わが国では転じて「有志の巣窟を意味する代名詞のように使われる。

 ぴったり800ページ。B5判(182mm×257mm)だから、いわゆる週刊誌サイズで、厚さが350mmのボリューム。つまりベストカーを5冊も積み重ねて、上からグイと押しつけた高さと厚みを思い浮かべていただきたい。

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 1978年に生まれたベストカーが創刊30 年を記念して《クロニクル》を2008年7月に『別冊』として発刊した。定価、1200円。売り切れ御免!!と称して10万部を刷った(これは、確認済み)。なにしろ売れ行き業界1位を誇る「クルマ雑誌」。親会社の講談社販売部も鼻息が荒かった。ともかく表紙の売り文句通り「BCの歴史がぎっしりつまった保存版」として、いまや貴重な遺産となっている。

 わたしにも、【『ベストカーガイド』はこうして誕生した……創刊前夜】と題して4ページの内幕を書け、という注文があり、浮き浮きと仕上げた原稿と一緒に往時の貴重な写真も添えて、この企画の責任者であった宇井弘明君にお届けするべく、江戸川橋まで足を運んだ記憶がある。今回の稿を書くに当たってクロニクルの刷り部数を確認したお相手も、当然、編集責任者であった宇井ちゃんということになる。

 そんなボリュームの怪物保存版が本棚に収まるはずはなかった。どこに蔵(しま)ったのかな? 1Fにある専用のトランクルーム(ここ3年間のベストカーを保存)もチェックしてみたが、無駄だった。
「さて?」と仕事場にあてがわれている小部屋の、デスクトップ型PCモニターも置ける、硝子戸つきの書棚に気がついた。パソコンを動かし、引き戸を開けてみた。
「おお、あった!」右端の然るべき場所にちゃんと納めてあるではないか。近年、探し物に振り回される日々の、なんと多いことか。

 早速、國沢光宏君とやりとりした『レコード大賞』の会場からスター歌手たちを『紅白』の舞台・NHKホールまでの移動をバッチリ、スピードガンで『隠れ測定』したはずのページ探しにとりかかった。しかし、なんといっても「懐かし過ぎる名物企画満載の想い出玉手箱」である。ページをめくる手が、すぐに止まってしまう。が、ここはその誘惑には目を瞑(つむ)って、前進するしかない。

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*おお懐かしや、梁山泊の面々。徳さんやガンさんの声が聴えてきそう

 ☆    ☆    ☆    ☆

 《編集部総出で、いつも一生懸命作りました》
 これが巻頭特集のタイトルで、MID4/Ⅰと2年後に発表されたMID4/Ⅱを前にして、それぞれ日産技術陣と編集部員一同がズラリ記念撮影。

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 つづけてページをめくると今度は《ベストカーを支えてくれた協力者たち》が……そして、徳大寺有恒九変化。梁山泊の面々だ。そこから《今、明かされるスクープ秘話》が用意されていて、やっと到着したのが『人気企画 30年前からいろんなものを測っていた!! スピードガン測定ことはじめ』が待っていてくれたじゃないか。ところが紅白歌合戦のもう一つのステージ「東京サーキット」については、何も触れられていない。喜ぶのが速すぎた。

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 どうやら国沢メの勘違いだったらしい。う〜ん、抗議の電話でもしてやるか。腕組みしたところで、ふと目についたのが左ページの外側に【詳しくは238ページ】と但し書きがされている気配り編集。おお、そうであったのか。お陰で、一気に200ページほどをパスすることができた。

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 むむ! そこには【桜田門も協力! 紅白歌合戦への大移動!!】とあって、東京サーキット族は、この日、12月31日、このコース帝劇⇔NHKだけは解禁!!

 このタイトルの踊ったモノクロ4ページグラビアページにたどり着いた。ただし、レポーターは、かつて富士フレッシュマンを舞台にしたレース仲間だった、今は亡き秋山武史君だ。う〜ん、こいつはどこかで話が捩(よじ)れていないか!ま、それはそれとして、掲載フォトと【桜田門公認 帝国劇場➡NHKコースMAP】案内だけは紹介させていただくか。掲載した月号も明記されている。

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  ‘83年3月号。ということは’82年大晦日の取材だから、紅白の第33回にあたる。トリは都はるみ《歌唱:涙の連絡船》と森進一(蔭を慕いて》が務めた。
 ともかく、このままでは、いかにも消化不良だぞ。スピードガンによる《隠れ測定》を敢行したはずの、そのページはいったい、どこへいったのか。
 こんな時には、不思議と助けの矢が翔んで来てくれるはず。ことしの初詣も「大吉」のお神籤をいただいたばかりじゃないか。ここは一息、入れるとするか。

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*秋山ザウルス(武史)君を交えて筑波のメディア対抗(パルサーレースだったかな)に出場したこともあったっけ

 まるまる10ヶ月の空白からやっと復帰した《みんカラブログ》のお陰で、このところご無沙汰続きだった仲間からの「メッセージ」や「コメント」が次々と届きはじめた。やっぱり、ほっこり、嬉しいものです。
 最新の《紅白歌合戦とわがラブストーリー》をアップしたのは1月14日の午前1時38分だったが、その内容に寄せて「あっくんりょうパパ」さんから、午前7時56分に有り難いコメントが届いたのである。ご本人の了解はいただいていないが、頼みにした「神の矢」が早速に届いた状況説明上、引用させていただくのをお許しいただきたい。ちなみに「あっくんりょうパパ」さんと交信しだしたきっかけは、現在ではもう廃コースとなってしまった北海道倶知安のスピードパークについて、ベスモでガンさんのドラテクロケがあった、と懐かしんでくれたのが、始まりだったように記憶している。

——おはようございます。
北海道出身の大泉洋さんが司会を務めているので、北海道民としては「紅白」は外せませんでした。そしてその流れで見る「ゆく年くる年」は、もう、我が家の恒例になっています。
さて、国沢さんがスピードガンで紅白に出られる方々の車を測定した話、ベストカーYouTubeチャンネルで、大井さんと話している回があります。
検索バーで「昭和のベストカー編集部 事件簿」で検索してみてください。前編です。笑えました(笑)


 そうだ! おっしゃる通りだ。國沢vs.大井の「昭和のベストカー編集部 事件簿」は前後編とも、わたしは視聴済みだが、そのやりとりが面白すぎてどんな内容だったか、記憶が定かで亡くなっている。
 
 早速、Googleで検索してみたところ、間違いなく、紅白歌合戦を ターゲットにして、YouTubeで仕上げていた。もう講釈は要らない。なにはさておいで、《あっくんりょうパパ》のお奨め通りに、検索バーで、【昭和のベストカー編集部 事件簿 前編】を呼び出していただきたい。17分55秒物だが、12分あたりで、司会役の本郷編集局長に「これは素晴らしい企画ですね」とうまく乗せられた、國沢&大井のハチャメチャコンビのおしゃべりは、たしかに絶品。

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 さて、今回はここで小休止させていただく。その幕間のうちにぜひご視聴あれ。次回はいよいよ、わがラブストーリーに踏み込んでみたいのだが・・・。

 おっといけない。忘れ物が二つあった。迫力の800ページの最終ページもご覧いただこう。《音羽の不夜城》とも呼び慣わされていた梁山泊の様子が2シーン、収められていた。
 そしてわたしの寄稿した《創刊前夜》のページ。ああ遙かなり、1978年。

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Posted at 2022/01/19 01:33:39 | コメント(4) | トラックバック(0) | 還暦+玄冬期の26歳 | 日記
2022年01月14日 イイね!

想い出ボロボロ・紅白歌合戦とわがラブストーリー

想い出ボロボロ・紅白歌合戦とわがラブストーリー

〜2022年もよろしくおつき合いを〜



 元旦恒例の近くの鎮守の森・若宮八幡社への初詣。「家内安全 家運隆昌」の神札をいただいたあとにひいたお神籤は、5年連続の《大吉》であった。家人もやっと《大吉》を引き当てて、嬉しそうにお神籤棚に結びつけていた。
 
 オミクロン株の跳梁には要注意だが、まずもって平穏な年明けであった。


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その昔、下練馬村の鎮守様で、わたしのマンションからは2km足らずの道のりに過ぎないが、途中に古墳址公園があったり、関越自動車道の都心への流入ルートである目白通りや石神井川までが横切っていたり、アップダウンが3つほどある結構タフなコースである。だから今では脚の強い家人の方が先行してしまう。

「紅白、どうだった?」
参拝を終えた帰り道。社殿から往還に続く長い石段を下りながら、振り向きざまに家人が問う。そういえば、年越し蕎麦をいただいたあと、11時前にはさっさと寝てしまったのだから、もう最近の賑やかショーばかりが幅をきかす紅白歌合戦に興味を喪ったのは明らかだ。もっぱらテレサ・テン、山口百恵、島倉千代子ものをカラオケでやるタイプ。
 それでもわたしの「MISIA追っかけ」は知っていて、YouTubeのカラオケを使って《逢いたくて今》に挑戦していると、きまって「また、お経をあげているのね」と揶揄(からかい)に顔を覗かせてくれる。

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「司会の大泉洋が一生懸命に盛り上げていたけどね。また視聴率低下で、《紅白》のあり方を問われるだろうね。3年連続でトリに選ばれたミーシャだけは流石だったけど」
「ふ〜ん」
家人の気のない返事に、改めて72と回を重ねてきた「紅白歌合戦」について考えてみた。
 大晦日だけは、家族揃ってTVの前の食卓を囲み、年越し蕎麦をいただきながら「紅白」をみんなで見たあの平和な風習は、どこへ行ったのだろう。まあ、出場歌手やグループの名前も片仮名や横文字が多すぎて、昭和世代に育ったシニアにとっては「ヘタな学芸会」もどきのものに付き合うのも骨が折れる。
残念ながら、家人もその仲間に加わったらしい。

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 帰宅して、改めて《NHK紅白歌合戦》について『ウィキペディア』を参考に深掘りしてみることにした。

☆     ☆    ☆    ☆    ☆

 1945年。この国がやっと平和を取り戻したその年の大晦日に『紅白音楽試合』というラジオ番組が非公開で放送された。
 当初は『紅白音楽合戦』の番組名で放送する予定だったが、GHQ(太平洋戦争終結後の日本を占領管理するための連合国最高司令部)から「敗戦国がバトルとは何事だ」とクレームがつき、バトルから試合という意味のマッチに替え、勝敗の判定や審査員もなく、応援団も存在しなかった。加えて当時は、大晦日に終電車はなく、終電に間に合わない歌手はNHK東京会舘の音楽部の部屋の椅子で雑魚寝をしてもらったという。

 この事実上の第1回の放送は大晦日の22時20分〜24時00分(元日0時)での放送で「年越し番組」となり、午前0時からは『除夜の鐘』を放送し、これが『ゆく年くる年』の原型となった。

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 しかしこの後、この「冒険」は継承されることはなく、放送の約5年後の1951年、「大晦日の番組でなければいいだろう」ということで、正月番組として『第1回NHK紅白歌合戦』を放送した。今度は対抗戦形式を意識して、出場歌手名は公表されていたが、紅組キャプテンの渡辺はま子(歌唱:桑港のチャイナタウン)、白組キャプテンの藤山一郎(歌唱:長崎の鐘)がそれぞれ相手の出方を見ながら、誰に何を歌わせるかを決めるというものだった。

 黎明期の「生みの苦しみ」がだんだん判ってきた。第7回ごろまでは戦前・戦中派の歌手も常連として名を連ねていたが、回を重ねる毎にその名は消えていき、入れ替わるように第10回(1959年)では新世代デュオ歌手のザ・ピーナツ姉妹(歌唱:情熱の花)が、翌11回では橋幸夫(歌唱:潮来笠)、ロカビリーブームの第一人者であった平尾昌章(歌唱:ミヨちゃん)が、第12回では『上を向いて歩こう』のヒットにより坂本九がそれぞれ初出場、「世代交代」の色が年を追って強く反映されるようになる。

 ちなみに後に歌謡界の女王として君臨する美空ひばりの初出場は第5回(1954年/昭和29年)で『ひばりのマドロスさん』を歌唱、これで江利チエミ、雪村いづみの3人娘が顔を揃えた。

☆     ☆     ☆     ☆     ☆
 
かつての仕事の上で『紅白』にまつわるいくつかのエピソードも思い出してきた。あれは『紅白』に対抗してスポーツ紙を含めた各新聞社が中心となって決定する『日本レコード大賞』(後援:TBSテレビ系列=第1回は1959年で大賞には「黒い花びら」の水原弘)が1969年から、それまでは12月30日の前日開催を、同日の19時から21時に開催・TV生中継されるようになり、歌手の『レコード大賞』(帝国劇場)から『紅白』(渋谷・NHKホール)へのクルマによる大移動が始まった。この模様がやがて大晦日を賑わすトピックニュースとして話題を呼んだものだ。それを、そのころ創刊して間もない『ベストカーガイド』(今のベストカー)が狙い撃ち取材をやってしまったはずだが、担当したのが、いまや自動車評論でしっかりおのれのテリトリーを築き上げた國沢光宏君だったはず。

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 早速、國沢君に連絡を取ってみた。留守電となっていた。連絡が欲しい、とメッセージすると、間を置かずわたしのiPhoneが着信を告げる……。早速、確認作業に入る。

「ベストカーで大晦日の紅白で、レコード大賞に出たトップ歌手達が、自分のクルマだったか、専用のハイヤーだったかで、帝国劇場からNHKの紅白会場までどんなタイムでぶっ飛ばして移動するのを取材したのは、君だったっけ? それとも大井貴之君だったっけ?」
「あ、は、は。それはぼくしかできません。詳しいことは『ベストカークロニクル』に載っていますよ。タイムを計るんじゃなくて《スピードガン隠れ測定》でやったはずです」
「そうだよね、パトカーのネズミ取りをやったくらいだもんね」

 さっそく「クロニクル」で確かめるから、と電話をきったものの、さて800ページのあの分厚い『想い出玉手箱』はどこにあったけ?
 
 その作業は、難航した。ということで、探索の時間を、少しばかり、頂戴させていただこうか。 
 タイトルで謳った《ラブストーリー》も次回までお預けとしたい。悪しからず。 


    お決まりの(以下、次回更新まで)
Posted at 2022/01/14 01:38:44 | コメント(3) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の25歳 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「デーリーの紙面が久しぶりに躍動している。TOP面と裏TOP面、第2面と第3面がそれぞれ見開きで連動し、それぞれ虎戦士が龍との激闘を11回サヨナラ勝ち劇を演じる様子を伝える。それもテル、大山、近本といった常連ではなく、痛快プロ初の大仕事をやってのけた走り専門の熊谷敬宥を主役にして!」
何シテル?   06/27 12:26
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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