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正岡貞雄のブログ一覧

2021年02月26日 イイね!

アフロヘアの《女王ふたり》に心奪われて

アフロヘアの《女王ふたり》に心奪われて 〜あな嬉しや。八十路半ばで

「なおみ&歌姫ミーシャ」の追っかけに〜

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「カモーン」ポイントをゲットしてなおみが吼える
 中国の観客の魂を揺さぶったMISIAの絶唱


 大坂なおみが憧れのレジェンド、セリーナを一蹴して、二度目の全豪オープンシングル決勝に臨んだとき、中居正広のT V番組で元プロテニスプレーヤーの沢松奈生子さんがリモート出演し「100%の確率で勝つ」と言い切って、話題を呼んだ。それでも「負けたらどうする?」と突っ込まれると、胸を張って「冬眠します!」と。そう言ってもらえるくらい、いまのなおみのテニスは堂々と光り輝いていた。それでいて、少女のような純な心映えは喪っていない。

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軽々となおみにあしらわれて傷心のセリーナはグランドスラム27回のレジェンド

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*決勝のラウンドでブレイディのリターンがバックラインを割って女王になった瞬間

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 約2億2800万円の優勝賞金をかち取った後の優勝インタビューの最後に、日本のファンにメッセージを、と請われると、「(日本語で)はい、こんにちは。みなさん、今日は頑張りました。なんか、ね、ええと‥‥(英語で)ご免なさい、緊張しています。(日本語で)ありがとうございました。(カメラに向かって)勝ったよ!(笑い)」と語りかけ、最後にサムズアップして見せた。なんともキュートななおみ。視聴率も20%に近かったという。

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*「勝ったよ」と日本語でこたえ、サムズアップする可愛さがまた大受け

 熱闘の一夜が明けて、睡眠2時間のなおみは恒例のプレスサービスのための優勝記念撮影会に臨んだ。実はこの瞬間をわたしは待っていた。なおみの素直な、少女のままの魅力に触れることができる「特別ショー」だからだ。
 
 2年前の初優勝の時はメルボルン郊外のビーチで行われた。その時のなおみはアフロヘアを海風になびかせ、まるでデズニーの映画『モアナと伝説の海』ヒロインのようだった。その時から、わたしはすっかりなおみに魅せられてしまったのを、こう記している。

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*2019年、初めて全豪オープンを制した翌朝の撮影会

 題して《ダブルアスリート』の華・大坂なおみが悩ましい》(クリックしてどうぞこちらへ)



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*2021年、クレーコート無敗のなおみ。アフロヘアのなおみはルイヴィトンがお似合い

 今回はコロナ禍のため遠出は避けて、市内にある王立植物園の庭が、そのステージとなった。そこにはエレガントなレディに変身した「女王様」がいた。
『日刊スポーツ』によれば、「2019年は、米国のブランド〈クシュニー〉のワンピースに身を包んだ。ことしはルイ・ヴィトンのブランド・アンバサダーに就任しているため、同社のワンピースを着こなした。赤とオレンジで同社のブランドロゴをイメージし、下は白い切り返し。同社の公式サイトによると「ゲーム・オン・マクロモノグラム・フラワー・ステートメント・ショート・ジャンプスーツ」という名称で販売価格は42万6800円だという。

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 なおみ女王はこの後、アメリカに戻り、3月のマイアミオープンに出場し、5月の全仏オープン、6月のウィンブルトンとグランドスラムタイトルに挑戦したあとは、東京五輪が待っている。ああ、追っかけ爺イは忙しいぞ。

 さてお次は、アフロヘアをターバンでまとめる歌姫のミーシャである。

2年続けて「アイノカタチ 」で紅白の大トリとして圧倒的な歌唱力を見せつけたミーシャ。あれからずっと、このアフロヘアの歌姫に嵌まりっぱなしで、You Tubeをサーフィンしながら「ミーシャの世界」を渉猟しまくった。

 そのお陰でミーシャという名の歌姫の築き上げたソウルと祈りの世界と、彼女はすでに日本という枠を乗り越え、インターナショナルな評価とファンを持つ存在であることを知った。その挙げ句、何かの拍子に、ひょいと「逢いたくていま」の歌い出しを、ハミングしてしまう。



*153cmの小柄ながら、5オクターブの音声域、ホイッスルボイスは圧巻。

 ともかく一度、この歌を聴いてやって欲しい。聴くたびに家人に見られないよう、こっそり滲む涙を拭いてしまう。ともかく、ミーシャが凄い。主題曲のテーマに取り組むため、ミーシャは鹿児島・知覧という特攻機の飛び立った古い基地の町を訪れ、死と向き合った飛行士たちの遺書や手紙に逢いにいったという。ともかくもっとミーシャを深掘りしたい、と悪い癖が働き出してしまった。

 ミーシャの本名は公表されていないが、「伊藤美咲」で1978年7月7日、長崎県大村市で生まれている。なるほど、九州地方では「美咲」なら幼い頃は「ミーシャン」と呼ばれていたに違いない。だから、歌手になってから、ミーシャか。可愛いよ。

 身長、153cm。そんな小柄でありながら、5オクターブの音声域をもち、ホイッスルボイスで歌いあげる圧倒的な声量の持ち主。未婚の42歳。父親が外科医、母親は小児科医。その両親が「地域医療」を志したこともあって、韓国に最も近い島、対馬の公立病院に赴任。ミーシャは小学校と中学校を、その対馬で過ごし、その頃から教会に通うかたわら、風の強いに海に向かって声を鍛える音楽志向の少女だったという。「あたしは歌手になってみせま〜す」長い髪を海風になぶらせながら、目を輝かせて海に誓う姿が目に浮かぶ。

 厳原(いずはら)中学の途中から福岡市博多区の吉塚中学校に転校、香住丘高校に進み、黒人教師のヴォイストレーニングをうける。地元の西南学院大学に入学。19歳。プロシンガーの道に。ここからはミーシャの活動をサポートするSony Musicの公式ブログからプロフィールを引用すると‥‥‥。

●M I S I A グローバルな知性を持つ、アジアを代表する歌手。1998年、デビュー曲「つつみ込むように‥‥‥」が大ヒット。グルーヴ感抜群の歌唱で、音楽シーンに衝撃を与える。
2000年にはバラード「Everything」がヒットして国民的歌手となり、2004年には女性アーチストとして初めて5大ドームツアーを敢行。アジアにも進出して大成功を収めた。以降、J-POPの枠にとらわれることなくチャレンジを続け、日本にクラブカルチャーを根付かせた。同時に、世界基準のサウンド・クオリティの両立を果たしている。(中略)
20周年を迎えた2018年は新曲「アイノカタチ feat.HIDE(GReeeeN)が大ヒット記録、その実力が改めて評価され話題を呼んだ。
また社会貢献活動にも積極的で、特に子供の教育支援に尽力。音楽にこめるメッセージと、貢献活動が一致していることも特筆される。そのアーティスティックなライフスタイルは、あらゆる世代の男女に強い共感を呼んでいる。

 なるほど、である。やっぱりミーシャとなおみは相似点が多いな。ま、講釈はいいだろう。今回はここまでにして、ともかくここで、ミーシャの素晴らしいドキュメント映像が1時間20分の長尺でYouTubeに収められているので、この後の展開のためにも、ぜひご覧いただきたい。

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*中国湖南省長沙にあるバトルの舞台。

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*何もわざわざ中国の歌手バトルに出場しなくても、という声に対してミーシャがこたえる。
 2019年12月31日のN H K紅白歌合戦の大トリを務めたミーシャは、そのまま成田へ向かった。元旦の朝、中国の長沙へ旅立つためだった。『歌手SINGER当打年』という番組に、日本人としてはじめて出演することになったからである。この番組は、いわゆるプロの人気シンガー同士の勝ち抜き音楽バトルで、中国ではスーパー人気番組であるという。そんなところへなぜミーシャが? 


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*通訳同行で初めての「歌手バトル」の舞台へ

 それに応えてミーシャの参加する真意を語るシーンが「5分41秒」のポイントから始まる。

「(わたしは)あまり日本でもT Vに出ることはないです。でも(中国のみなさんと)親睦を深めるためにも、やはり歌ってみなさんに聴いてもらって、仲良く、日本と中国と、人と人、みんなが音楽を通して‥‥」
 そして45 分10秒から8分間のミーシャの絶唱が。そして登場する中国、台湾、シンガポールから選ばれた若々しいミュージック・アーチストたちの驚くほどレベルの高いステージ。魅力満載、ぜひ鑑賞してやってほしい。                              (以下、次回更新へ)

*1時間20分に仕上がっているバトルドキュメント。ミーシャの歌い上げる日本語の「逢いたくていま」に共演者も観衆もまず、唖然。そして涙を隠さない‥‥‥

Posted at 2021/02/26 01:55:47 | コメント(1) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の25歳 | 日記
2021年01月18日 イイね!

それぞれの『1月15日の迎え方』考

それぞれの『1月15日の迎え方』考〜その時々の《空気の入れ方》に乾杯!!〜



 いくつになっても、おのれの誕生日には、不思議と背筋がピンと立ってくるものらしい。この《みんカラ》にメモワールを積み重ねてゆく絶好の指定席を得てから、ちょうど10度目を迎えるが、「1月15日」の当日かその前後になると、それぞれの年で律儀にそのことに触れている。ちなみに、どんな迎え方をしたものか、浚(さら)ってみた。

◎2012年01月20日 「局長、なにをするんですか!」という見出しをつけて、語り草となった『逆噴射事件』の真相を嬉しそうに告白している。こんな書き出しで。そう、先ごろ秘蔵の「サーキットライフ動画公開・西仙台ドリームC U P編」で東国原さんにしっかりイビられた、あの事件だ。

――1982年7月のできごとだから、30年も昔の噴飯ものの記憶なのに、つい昨日のことのように目を輝かせながら夢中になって語り合おうとは! かつてはいつでも、どこでも、若者たちは夢中になってNEWカーや、レースのことを話題にして時間の経つのを忘れたものだった。

 自動車ジャーナリストの両角岳彦さんと、代官山にある小ぢんまりしたバルで開かれた、身内だけのパーティで一緒になった。話題は、男はどうやってドライビング・スキルを磨いてきたか、となったとき、いきなりモロちゃん(以下、両角氏の愛称で)が、バラしてしまう。



「局長の《逆噴射事件》、ぼく、目撃していたんですよ」
「え!? パルサー・フレッシュマンレースのあの事件を」
「そ。あのとき、グランドスタンドに仮設された放送ブースにいましたから、目の前ですよ。全車がスタートした瞬間、局長のパルサーだけがいきなりバックする……」
「そ、そ。予選はどん尻近くでうしろに誰もいないからよかったものの、前代未聞のチョンボだよね。で、左となりが、当時オートテクニック編集部員だった山口正巳君(いまや、F1専門レポーターとして世界をかけめぐっている)で、スタートした途端、いきなりぼくがバックしたもんだから、急に自分が速くなったと思ったそうだ」
「(爆笑しながら)でしょうね」

このあとは「こちらをクリックして」どうぞ。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/25206660/

 もっぱら、N Pパルサーでのドン亀時代の回想を楽しんでいた。

◎2013年01月15日  TOYOTA《主査の親分》和田明広の『オーラル(口述)・ヒストリー』

 この項も特段に誕生日である1月15日を意識したものではなく、その頃、やつれの著しくなったTOYOTAプログレNC300 IRバージョンとの別れ話を機に、その生みの親にまつわるエピソードを4回にわたって紹介している。

◎2014年01月18日  カリスマ教官のお惚気インプレに乾杯!
 ここでやっと姿勢を正していた。

――「77歳の挑戦」という通しのカテゴリータイトルを、1月15日をもって「78歳の……」と書き換えなくてはならなくなった。お蔭さまで、この1年の「現役復帰」活動もあって、なんだか1歳若返っていく気分である。

 そしてその年「日本カーオブザイヤー」のグランプリカーに選ばれたGOLF Ⅶ(1.4ℓのハイライン)の試乗レポートに、徳大寺有恒さん、山口・萩の波田カリスマ教官とのエピソードを交えて、現役気分でレポートしていた。

  

◎2015年01月15日   『還暦プラス19歳』の青春をめざして!
「ナンバーワンよりオンリーワンを、と自らを励ましながら」
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/34897373/

 東京の冬空が珍しく暗く、淀んでいる。いまにも白いものが舞い落ちてくる気配が満ちて来た。

 こんな薄暗い、鉛色の空が、遠い、古い記憶を刺激する。生まれ故郷、北九州・八幡の空である。
 79年前の1936年1月15日、その頃は「八幡市」とよばれ、官営日本製鉄所の本拠地として繁栄の頂点にあったその街で、わたしは生を享(う)けた。溶鉱炉が四六時中燃え盛り、七色の煙がいつも街を覆っていた。



 時代は『満州事変』から『日支事変』へと右傾化し、その年の2月26日には陸軍若手将校ら粛清テロが勃発するなど、どんどん悪くなっていく……そして『太平洋戦争』へと。そんな時代に産まれたわたしには、当時の国民的スターに祭り上げられた「陸軍」のリーダーにあやかって「サダオ」の名前がつけられた。ま、「貞夫」ではなく「貞雄」でよかったが……。それとなく聞かされていたのは、その陸軍のリーダーが八幡にやって来て、歓迎のドン(午砲)がなった瞬間に生まれたので、その将軍の下の名をいただいた、と。
 八幡の冬空は、背後に600メートル級の皿倉山塊が控えているため、北の方角だけに広がっていた。洞海湾越しに玄界灘の一部となる響灘が鈍く光る。それでも、星の光る夜は、北斗七星が浮かび、北極星の位置を教えてくれた。

「あの星だけは動かんとよ。そやけん、海や陸で方向がわからんようになったら、北極星を探すといい」
 はじめに教えてくれたのが、9歳年上の兄だった。だから、上京してからも、心が迷って夜空を仰ぐと、いつも北極星、つまりポラリスを探した。

 東京に上ってちょうど60年が過ぎた。出版社に入り、いろんなメディアの編集に携わることができた。そんなある時期、多分、「ヤングレディ」という女性週刊誌に籍を置いていたときだったろう、新宿のマスコミ人の溜まり場スナックに出入りする「星占いの女王」に誕生日を告げたところ、こういわれたことがあった。「あなたはナンバーワンにはなれないがオンリーワンにはなれる」と。

 その予言とも言える指摘が、今でもこころの奥深くに刺さっている。ナンバーワンにも、オンリーワンにもなれなかった。が、これからでも、オンリーワンにはなれるかもしれない。そうか、還暦を超えてから、本日より「プラス19歳」の日々がはじまる。そう考えれば、またオンリーワンに挑戦しようという気力も湧いてくるではいか。

◎2016年01月15日  『As Time Goes By』をリクエストした夜

「時が経つにつれて…」もう一度確かめたいものがある

 70歳台があと数日しかない、という事実にたじろいでいる。「還暦プラス青春の19歳」と自らを励ましてきたが、いろいろとやり残していることが多すぎて、それも気になってならない。



 そして3連休の最終日は、家人に誘われて隣町の光ヶ丘にあるレストランへ。テーブルに案内されると、なんとわたしの「Happy Birthday」をふたりだけど祝おうよ、という仕掛け。赤いキャンドルに灯がともされ、ピアノが奏でるお決まりのメロディに合わせて、お店の人たちが総出でお祝いの歌をプレゼントしてくれる……でも、こうやって祝ってもらえる日があと何回残っているのかな。ちょいと焦る気分もなくはなかった。

◎2018年01月15日   《還暦+青春の22歳》を宣言する日
わたしの逢った『西郷吉之助』秘話・その序章として

 陽だまりが暖かい。残念ながら西の空には薄雲が広がって、前日までクッキリと大山山系からはみ出していた富士の姿は拝めない。

 1月15日は昭和23年(1948)から52年間、平成11年(1999)までは「成人の日」として祝日の一つであって、それなりに「目立つ」存在だった。それがハッピーマンデー制度の導入された2000年からは、「ただの日」に成り下がってしまった。

 残念だ。というのも単純な私的理由に過ぎない。あれは小学校六年生になったその年だった。なぜだかその年から、わたしの誕生日が「祝日」となって、いつもお休みになり、20歳になる男女が競って晴れ着を装い、国中でそれを祝うようになった。
 2018年1月15日。この日より当ブログの「カテゴリー」に『還暦+青春の22歳』を新しく設けることになった。多分、1月19日(金)にSUZUKIの新型スペーシアと、その後を追っかけるようにして投入された新型クロスビー(XBEE)の試乗会で、いつもの「ニューオータニ幕張」の基地まで出かけるので、そのレポートから、ということになるだろう。



 スペーシアはその「カスタム」バージョンの試乗を狙っている。1機種60分が約束されている。おそらく東関東自動車道を使って、上総の城下町・佐倉の街の入り口くらいまでは往復できるはずだ。5速MTスイフトRSの続編がものできるかもしれない。期待してもらってもいい。

2019、2020の両年、なし。

 そして2021年を迎えたが、コロナ禍による戒厳令下、家人と一緒に好きなイタリアンレストランに足を向けるのも憚られる。ランチがわりに握り寿司を取り寄せ、越後阿賀野の大吟醸酒、『深山淡雪』をワイングラスにあけ、ひそやかにお互いの平安に乾杯しただけだった。

 そんな無聊なバースデイを慰めるように、洋酒業界の名門で、健康食品でもヒットを連発して、ただいま絶好調な会社からメールが1通、届いていた。

 ユーザーであるわたしの名宛に、「お誕生日おめでとうございます! 今日は特別な日。素敵な1年の始まりを、社員みんなで祝いさせてください!と呼びかけ、次に動画を特設して「社員みんなからの特別なメッセージを詰め込みました! こちらをクリック!」と吹き出しで誘導する。



 楽しくなって、ついクリックしてしまう。秘境での山登り、カヌーでの川下り、そして待っている絶景。ついついニッコリしてしまう出来。そのあとの仕上げも、スマートで、押し付けがましくなく、こちらの心も温まる仕掛けだった。
お祝いのドミノつくり。それが終わると、バースデイ・ケーキのローソクに火が灯され、それを吹き消すように促される。つい、フッと息を吹きかけてしまう‥‥‥。Happy Birthday。スタッフからの拍手。こりゃ、一人暮らしの高齢者でなくてもジーンと来てしまう。












 うまいなあ。見事な演出だなあ。
力強く、歩く喜びと自信を。そう念じながら、毎朝6粒を補給する時、「ありがとう」をいいながら、口中へ投じるようになったのも、その日から始まったようだ。

 かくして、新しいカテゴリー【還暦+白秋期の25歳】がはじまる‥‥‥。                        (この項、終わる)
Posted at 2021/01/18 12:42:57 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の25歳 | 日記
2021年01月12日 イイね!

あの「ミーシャ」をカラオケで歌える日を夢見て

あの「ミーシャ」をカラオケで歌える日を夢見て〜「アイノカタチ」か「逢いたくていま」か〜






大晦日に『N H K紅白歌合戦』を観る習慣が、随分前から消えていた。
それが2020年末の当日は、ボクシングの『世界王者同士の対決』井岡一翔vs.田中恒成戦の8ラウンド TKO決着を見届けたところで、躊躇なくch1に切り替えた。

 理由は二つあった。一つは白組の氷川きよしが前日に生放送されたT B S の《レコード大賞》に出演し、23日に彼岸の人となったばかりのなかにし礼さんへの想いを、素顔に近い純な表情と声で語っているのを、偶然に観てしまった。

「母」   歌手:氷川きよし 作詞:なかにし礼  作曲:杉本眞人

♬離れていても そばにいてくれる  淋しくなると つい呼んでしまう
その人の名は・・・母 ぼくの母さん
・・・・・・・
希望の星を 追いかけろ あきらめなければ 負けないと
励ましつづけてくれた人ああ 母ありてこそ 母ありてこそ
だから母さん 生きていてください 永遠(とこしえ)に–−–。



 デビューして20年、ここまで育ててくれた母への想いと、それが最後の作詞となったなかにし礼さんへの感謝。それだけの想いが重なった歌を、ひょっとしたら紅白の舞台でも彼は謳い上げてくれるのだろうか。失礼ながら、礼さんの作詞にしては心に刺さるものに欠ける。それをいまの氷川きよしがどこまで自分の歌にできるのだろうか、興味があった。

 二つ目の理由は、紅組のオオトリを務めるミーシャである。2019年、年末恒例のガンさん邸忘年餅つき会からの帰り道、ベスモ同窓会の下邑真樹君のテスラモデル3に同乗し、最先端を走るE V車を味見した時に聴いてから、すっかり馴染みを重ねたミーシャの「アイノカタチ 」を、改めて紅白の晴れ舞台で、ぜひ聴いてみたかったのだ。



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 そういえば、その時のことをFace Bookのわたしのページに『手放しの歌』と題して、記憶を残しておくための小文を載せていた。

手放しの歌

東名高速・御殿場ICから東上。いよいよ鮎沢SAでテスラモデル3のステアリングを預かる。真っ先に試したのがこれ。オートパイロットと先ほどRJCカーオブザイヤーのテクノロジー賞を獲得したスカイライン「プロパイロット2.0」との比較。目の前にあるでっかいモニターとのコラボでテスラの方が思い切って「自動運転」に踏み切ることができた。



 そのまま東名・都夫良野トンネルに突入。と、助手席の下邑君が何やら大ぶりなモニターをいじっていた。と、いきなりミュージック!

♬あのね いつの間にか 気づいたんだ  愛に もし カタチがあって それがすでに わたしの胸に はまったなら

これがいい!男心をグイと手掴みする歌声。ポルトガルのファドに近い情感。
「これ、誰?」「ミーシャ」「これいい! タイトルは?」「アイノカタチ」
ありがとう。老年の心に染み込む素敵な時間、もう一度、ありがとう。
  それ以来、テスラ=MISIAの図式がわたしの中で出来上がったのだ。

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 そして最近、このミーシャの「アイノカタチ 」を聴くことが増えた。綾瀬はるかが主演したTBS火曜ドラマ「義母と娘のブルース」の総集編が放映され、その主題歌として流れていたし、2020〜2021日本カーオブザイヤーのグランプリカーに選ばれたSUBARUの新型レヴォーグが「アイノカタチ 」をCMの主題歌に採用して、ふんだんに放映しているじゃないか。

 午後9時半。紅白歌合戦は後半の部に入っていた。前もって出場歌手の順番も曲名を確認したわけではないが、例の下村くんからはミーシャがトリで選ばれたことを知らされていた。氷川きよしも白組の終わりから3人目だという。間に合った。しかし残念ながら彼が披露してくれたのは『限界突破×サバイバー』。
 
 結局、紅白という舞台はド派手なエンターテインメントを彼に選ばせたのだろうか。





 ミーシャの自分の全てを叩きつけるような熱唱が祈りとなって光り輝き、紅白のフィナーレは観るもの、聴くものを陶然とさせた。
「大晦日の紅白はミーシャのためにあった。圧倒的な歌唱力。ターバン。歌ってこんなに凄いパワーで人の心を鷲掴みするものなのか。アッと思った。この無国籍であることの魅力。テニスの大坂なおみがそこにいる、と!」



 これもわたしがFace bookに記しておいた一文である。そして正月休みの間中、You Tubeをサーフィンしながら「ミーシャ」の世界を渉猟しまくった。
そのお陰でミーシャという名の歌姫の築き上げたソウルと祈りの世界と、彼女はすでに日本という枠を乗り越え、インターナショナルな評価とファンを持つ存在であることを知った。わたしが大坂なおみを連想したのも当然だった。それに、プロアマを問わず、ミーシャの歌に挑戦する歌い手の、なんと多いことか。そして「ミーシャの世界」を、それなりに手を入れて、例えば結婚式のお祝いで熱唱し、花嫁が感激のあまり泣き出すシーンも。

いまわたしは「アイノカタチ 」より「逢いたくていま」にとり憑かれてしまった。そう、かつて大ヒットしたT B S系日曜劇場『仁-JIN-』の主題歌だが、その当時のわたしはドラマの方に気を取られていてミーシャは素通りしてしまっていた。それが今になってなぜ? 何かの拍子に、ひょいと「逢いたくていま」の歌い出しを、ハミングしてしまう。そのうちぜひ、恥ずかしながら、カラオケに挑戦したい、と夢見ているようだ。

  ともかく一度、この歌を聴いてやって欲しい。聴くたびに家人に見られないよう、こっそり滲む涙を拭いてしまう。ともかく、ミーシャが凄い。主題曲のテーマに取り組むため、ミーシャは鹿児島・知覧という特攻機の飛び立った古い基地の町を訪れ、死と向き合った飛行士たちの遺書や手紙に逢いにいったという。
その辺からのことは次回更新に譲るが、ともかく‥‥‥この機会に、下段にYouTubを用意してあるので、ぜひ聴いていただきたい。

「逢いたくていま」
 こちらはT B S系日曜劇場『JIN-仁-』の主題歌である。

♬ 初めて 出逢った日のこと 覚えていますか
過ぎ行く日の思い出を 忘れずにいて
あなたを見つめた全てを 感じていたくて
空を見上げた今はそこで わたしを見守っているの? 教えて









Posted at 2021/01/12 01:37:06 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
2021年01月04日 イイね!

あの西仙台の『Dream Cap』(動画付き)をもう一度!

あの西仙台の『Dream Cap』(動画付き)をもう一度! 〜掘り起こした32年前の”レース記憶”の苦過ぎる味〜

 頌春

 2021年の三ヶ日が明けました。遅ればせながら、新しい年のご挨拶をさせていただきます。様々な、異様な状況との遭遇にも、己れを見失うことなく、対峙してまいりましょう。心を燃やして、生き続けたいものです。

 さて、かねてから、「断捨離巣篭もり」のご褒美みたいに、ポッカリと睡っていた宝箱から出てきた1986〜90年にかけてのレース関係のVIDEOテープを、何とか「みんカラ仲間」にご覧いただきたくて、ベスモ同窓会メンバーの力を借りながら再現して来ました。

 その手始めが2020年9月2日にアップした《幻のプレス対抗ロードスター戦 in FISCO》。次が11月16日アップの《メディア対抗 、お目見え戦の真実を追う》で、その後、12月1日に《親孝行ベスモ組vs.極悪シミちゃんPB号》でした。そしてやっと西仙台ハイランド・レースウェイを舞台に華やかに、賑やかに、陽気に開催された《Dream Cup》が仕上がりましたので、お贈りします。

 このレースは当時、TV朝日で中継されたもので、そのころのワンメイクレースの花形だった三菱ミラージュとVWゴルフの2レースが登場します。この企画に賛同して車載カメラ用にベスモ技術部を提供、その関係でベスモ編集部から3名のドライバーが出場させられ、それぞれがドタバタ劇を演じています。
















 まあ、講釈はそこまでにして、まずまず、ご覧あれ。

 前編はYoutubeのベストモータリング公式チャンネルから「1989年8月号」の【渡辺典子のBMステーション】から《特別公開!! 伝統の芸能人レース》として紹介されたもの。後編がTV朝日の《激突! 日本vs.香港 オールスター」 夢のサーキットカーレース》からミラージュレースの部分です。

●第一幕《特別公開!! 伝統の芸能人レース》

 


●第2幕《激突!日本vs.香港 オールスター」夢のサーキットカーレース》



                  (この項、終わり)




Posted at 2021/01/05 00:02:58 | コメント(2) | トラックバック(0) | サーッキトに生きる | 日記
2020年12月31日 イイね!

『昭和を共に生き抜いた仲間』への弔鐘、鳴り止まず

『昭和を共に生き抜いた仲間』への弔鐘、鳴り止まず〜雑誌編集者なればこその
  『想い出ボロボロ記』〜


⬅️ (講談社文庫サイトより)なかにし礼の人生と音楽が、小説の形で融合‥‥

 矢口高雄さんとの別れのご挨拶に、自由ヶ丘まで足を伸ばした日のことを「みんカラ」にアップし終えたその日の朝日夕刊を開いて、息を呑んだ。矢口夫人に『元気の出る対談』で残念ながら、どうしても都合がつかず諦めた人の名前をあげた一人、なかにし礼さんの訃報が乗っていたからだ。

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「なかにし礼さん死去」‥‥‥82歳「北酒場」「長崎ぶらぶら節」12月23日午前4時24分、心筋梗塞のため都内の病院で死去した。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻中西由利子さん。

 あの礼さんもとうとう、力が尽きたのか。スッと訃報の意味を受け止めた。10年ほど前に食道癌に罹ったことをすすんで公表、それを陽子線治療で克服し作家活動に復帰したものの、5年前に再発、それでも執筆を絶やさなかった。ひときわ、逆境に強い人だった。

iMacに礼さんと肩を組んだツーショットが保存してあるはずだ。SPOTLIGHT検索に彼の名を打ち込んでみた。しばらくして、モニターに浮かび上がったスーツ姿のなかにし礼さん。「講談社」のネームカードを首から垂らしたわたしの肩に左腕をのせている。何のパーティだったろうか? 恐らくその頃、全盛だったワタナベプロの新年パーティでなかっただろうか。そういえばカードのデザインに「W P」のロゴデザインが施してある。

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  *わたしの胸のネームカードにご注目を。「講談社」と記してある。

 まだ作家としてではなく、売れっ子のナベプロ専属作詞家。となるとわたしは女性週刊誌『ヤングレディ』の副編集長だった時代か。芸能界との交遊も大事な仕事で昵懇の音楽評論家、安倍寧氏を交えて、ひとしきり「石坂浩二と北大路欣也」の比較論で盛り上がったところで、礼さんが話題を報知新聞主催の演劇人野球大会に切り替えた。

「あなたは《劇団四季》から出ているんだって?」「どうして知っているの?」
「だって、こないだの《劇団青俳》戦でホームランを打ったでしょ?《報知》にイニングスコアと本塁打だけは選手名が載るんですよ。おや?と思って四季の野球部の人に訊いてみたら、あなただって‥‥‥」

 そこまでご存知なら、と率直に『四季』の助ッ人として参加した経緯を説明したのを、今でもはっきり記憶している。
『劇団四季』の主宰者・浅利慶太さんと昵懇だった関係で、何かの折にお互いが野球チームに関係していて、じゃあ練習試合を、と話がまとまった。四季vs.講談社戦の舞台は昔懐かしい上井草球場。スコアは覚えていないが、大差で我が軍が勝利して、その時、一塁を守る5番打者の浅利さんが、初めて左利きと知った。率直に言って、大味なアッパースイングで変化球には、からきしダメだった。
 四季のエースのカーブを、右中間にライナーで持って行ったわたしに、浅利さんが不思議がった。「どうやって持っていったのかな? うまくヘッドを残して振り切っていたけど‥‥‥」

「ボールを点で捕まえるんじゃなくて、線で追うんです。バットのヘッドを縦に残してぶつけるんです」
「なるほど。今度、うちの若いのに教えて。ユニホームを送るから、演劇人の対抗戦に来て貰えるかな」

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*とっておきの「バッティングフォーム」を初めて公開

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*一振! 打球は左翼の頭を越えて・・・(本当の話)。

「うちも《なかにし商会》というチームを持っているんだけど、一度やらない? 準硬式のボール使用だけど」
「え!? トップボールで? そりゃ本格的じゃないですか。軟式ボールでしかやったことのない講談社チームじゃ無理です。礼さんは昔、硬式チームでやっていたの?」
「いやいや、高校生の時、アルバイトで地方の県営球場のバットボーイをやった程度。でもうちのメンバーのほとんどは硬式出身だから」

 立ち話はなんだから、ともかく青山の事務所へ近くお伺いします、と約束したのだが、結局そのままになったのを今でも悔いるつもりで、矢口さんとの対談相手に礼さんが浮上した時、即座にあの時のお詫びを兼ねて「恋文」を書くことに決めた。六本木にある事務所に連絡をとり、対談のお願いを兼ねて、久しぶりにお目にかかりたい旨を伝えた。

 すぐに了解のレスポンスがあった。ところが、である。礼さんから指定のあったその日時を矢口さんに伝えたところ、なんとその日時に、矢口さんの方で約束をとった劇画家の小池一夫さんの都合とバッティングしてしまった、という返事。当然、なかにし事務所に連絡を入れて変更をお願いする。が、指定した日以外はとても無理ということで、再会の機会はあっさり消えてしまったのである。

 なかにし礼さんはその後、2000年には『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞、作家としてさらに巨きく翼を広げていった。仮に、わたしが車メディに舵を切らないで雑誌編集者として本来の道を行っていたなら、きっと同じ舞台で、クリエイティブな出会いがあったかもしれない魅力あふれる存在だった。

     ☆      ☆      ☆

 2020年、旅立っていった人への鎮魂の弔鐘をもうひとつ、搏(う)たねばならなかった。同じ「朝日新聞」の12月25日朝刊「惜別2020」欄に前日本写真家協会長・熊切圭介さん(86歳)への惜別の辞が掲載されていた。

 ひと月前の11月27日に誤嚥性肺炎のため、鬼界の人となっていた。わたしが週刊現代の創刊に合わせて配属され、西も東もわからない「新入り編集者」になったとき、熊切さんもほとんど同じ時期に「活版ページ」専用のカメラマンとして編集部に出入りするようになった。

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 どんな小さなテーマのページであろうとも、誠実にシャターを切り、現像室にこもって注文されたカットをプリントアウトして、「これでいいでしょうか?」と含羞の笑みと一緒に、届けてくれるカメラマンだった。

 3年半後、わたしは当時の講談社の看板月刊誌『日本』に転籍し、早速、巻頭のグラビアページで、石油コンビナートに侵蝕されつつあった瀬戸内海を撮ってこい、という指令を受けた。その時、わたしが指名したカメラマンが熊切さんだった。

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 まず東海道本線と山陽本線で岩国(山口)へ。その頃は余程のことがない限り、空路を利用するなんて許されなかった。岩国からは広島に戻って、フェリーで松山へ。」音戸の瀬戸を抜けるとき。熊さんが記念だから、と言って海峡に見入るわたしにカメラを向けてくれた。その後、松山城の天守閣でも居合わせた女性群と一緒に瀬戸内海を背景に‥‥‥。その時の写真を後生大事に保存しておいてよかった。ひときわ完成度の高いショット。熊さんの味が素直に伝わってくる。

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 実は松山こそ、わたしの父祖の地でありながら、この時初めて足を踏み込んだ。この時のグラビア『変わりゆく瀬戸内海』の旅が、後年、わたしの現役引退後の「ライフワーク」とも大きく関わるのだが、それは別の機会に。

 同じ時代に、同じ修羅場で闘ってきた仲間たちが「惜別」とか「墓碑銘」といった欄に登場することが多くなった。想い出ボロボロ。せめてもの追悼の想い。  

  もうすぐ、2020年の幕を閉じる除夜の鐘が鳴る。

 数えてみると、『みんカラ』ブログのアップ数は12に過ぎなかった。月1は何とも情けない。それでも、心を通わせる仲間との交流は諦めていない。

 新しい2021年もどうぞよろしく。
関連情報URL : http://矢口高雄 
Posted at 2020/12/31 21:01:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「ほらほら、翔平が22号ホームランを左翼スタンドにぶち込んだたと喜んでいたら、甲子園の怪物テルも、6回裏、大学の先輩、畠の初球を同じようにレフトポール際に運んで18号。なんというシンドロームだろう。恐らくこのふたり、一度も顔を合わせたこともないだろうに。残念ながら虎は1:2で連敗。」
何シテル?   06/20 18:54
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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