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正岡貞雄のブログ一覧

2018年01月22日 イイね!

新型クロスビーは佐倉城址を目指せるか!?

新型クロスビーは佐倉城址を目指せるか!?
 〜挑戦したくなる”愛すべき相棒“との初デート〜


 SUZUKIの東京広報から、新型スペーシア(発売:2017年12月14日)と新型クロスビー(発売:2017年12月25日)の「イッキ乗り」試乗会について、詳細な連絡が、やっとメールで届いて来た。

 試乗日は1月19日(金)の1日限定。会場は「ホテルニューオータニ幕張」、受付:シェルハウス。スケジュールは……。
「第1枠」が受付開始:7時40分、商品説明:7時50分〜、試乗:8時30分〜、昼食:12時:10分〜。
「第2枠」は——−受付開始:10時30分〜、商品説明:10時40分〜、昼食:11時20分〜、試乗:12時〜。

 もちろん、こちらが選んだのは「第2枠」だったが、希望通りで「OK」の連絡である。すぐにJR京葉線の時刻表をチェックする。東京駅を9:35に出る快速がある。海浜幕張には10:07着。これなら文句はない。逆算して、最寄りの私鉄駅を8時27分発に乗れば、地下鉄有楽町線で9時10分には有楽町に着く。

 これに決めた。そこからは、元は都庁が建っていた国際フォーラムにつながる地下道を利用すれば、東京駅からのJR京葉線にはすんなり接続できる。9時35分発の始発快速には、充分、余裕たっぷりに乗れる。

 さて当日。風もなく、陽射しも暖かい。順調に、海浜幕張駅に向かった。中国からのディズニーランド行きの乗客がごっそり舞浜で下車してからは、車内がのんびりした遠足気分に戻った。読みかけの本にも目を通せた。

 市川を過ぎると、時折、車窓から東京湾の光る海面が見える。南船橋で一旦、停車。そこからほぼ5分で海浜幕張駅に着く。

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海浜幕張駅

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マーリンズ
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 ここに降り立ったのは、四ヶ月ほど前に、ダイハツが軽乗用車『ミラ イース』に搭載した「衝突回避支援システム」が体験できる試乗会を、わざわざ用意してくれた時以来だ。駅前がどんどん明るく変身、整備されていくのがわかる。
新しい監督を迎え、マリン球場も去年からはZOZOマリンスタジアムと命名され、地元密着がさらに進化したそうだ。あれ? 駅前のこんないい場所に、前からサンマルクカフェがあったっけな!?

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試乗ミーティングの基地、ホテルニューオータニ幕張は、駅前ロータリーから海側にむかって左側の、のっぽホテル。それに隣接する広々とした駐車場スペースの奥まったあたりに試乗車基地と集合場所の「シェルハウス」があり、カラフルな小型車がズラリと整列して出迎えてくれる。
 すでに第1枠のグループの試乗はまっさかりで、新型のクロスビーとスペーシアが、活発に出入りしていた。

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Xbee&Spacia


 受付を済ませ、商品説明ミーティングまでの時間を、レストランルームでコーヒーをいただきながら、待機する。いつもなら、試乗時には決まってペアを組む飯嶋洋治さんは、青森・秋田の雪国地方取材で欠席とか。さて、60分×3回の持ち時間を今回は単独でどう使おうか。

 受付で渡された「試乗車両とスケジュール」を点検する。
・ 12:00〜13:00・・・クロスビー(黄×黒ルーフ)No.5201
・ 13:10〜14:10・・・スペーシア(ピンク×白ルーフ)No.8447
・ 14:20〜15:20・・・スペーシアカスタム(白)No.8450
 
 ちょうど一年前の「スイフトHYBRID RS」(1.2リッター直4+マイルドハイブリッドシステム)と、「バレーノ」に搭載されている1リッター直3ターボ仕様の乗り比べで「佐倉」を往復したが、あの時は70分が与えられていた。それでも往復するのがやっとのこと。60分では、せいぜい稲毛海岸あたりから、東京湾を眺めてくるのが精一杯かもしれない……。

 そうやって、コーヒーを飲みながら作戦を練っているところへ、今年の初詣で「大吉」を引き当てたのを証明するように、願ってもないパートナー候補が静かで優雅な笑みを浮かべて挨拶に見えた。元GENROQ編集長の椎橋俊之さんである。わたしより一回り以上若いモータージャーナリストだが、妙にご縁があった。今回も同じ第2枠を選んでいた。1985年4月に、徳大寺さんや三本和彦さんとご一緒した総勢14名のピレリ招待『昭和の遣欧使節団』に、椎橋さんは広報マンとして関わっていて、それ以来の御同業として、お互いを認め合っていた仲である。そして、新型スイフトの6AT、ハイブリッドRSで佐倉を往復したときも、いつの間にかランデブー走行を楽しんだ仲でもあった。

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*1985年4月催行のピレリ試乗会に招かれた日本人は錚々たる顔ぶれの14人。左端に徳さんや清水和夫、三本和彦両氏の顔も。右端が椎橋さん。

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*ご本人の了解を得てFBから転載。専門は自動車だが鉄道に関する著書『SL機関士の太平洋戦争』など、著作多数あり。


「今日はどこまで行きますか?」
「本当は、佐倉城址、いやもっと先の“運河のある房総の小京都”佐原にも行って見たい。でも1時間じゃねえ」
「それなら、お互いの持ち時間の2回分を合算して120分、目的地で試乗車を交換する、ということなら可能じゃないですか……わたしの割り当てはスペーシアカスタムですから」
「おお、妙案じゃないですか!」

 椎橋さんのアイデァに乗って、SUZUKI広報に交渉することにした。ちょうど商品説明を始めたいから、と小林係長が迎えに来た。早速、椎橋プランを説明して可能かどうか、打診する。
「わかりました。商品説明の間に調整して置きしょう」
 この調子なら、今回は佐原・佐倉への「ロングラン」ができるかもしれない。心を弾ませて、商品説明のミーティングルームへ移動した。
 そうなると当然のように、クロスビー(XBEE)やスペーシアについての「プレゼン」聴講にも、素直に気が入ってしまうのも無理なかった。

 今や、元気印の代表格のSUZUKI。のっけから「開発にあたって」と前置きして、痛快にメッセージして来た。
−—−−自分のライフタイルに合わせてクルマを選ぶのではなく、クルマに合わせて自分のライフスタイルが変わる。何か新しいコトに挑戦したくなる“愛すべき相棒”。それが新型クロスビーです。

 しばらくは彼らのプレゼンテーションに目と耳を任せてみた。

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説明はプロジェクターで


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 この項、時間を追って、調整します。

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 商品説明が終わって、まず昼食。そして小林係長が、指で丸印をつくって、こちらへやってくる。それには一つの注文がつけられていた。勿論、了解するしかない。そこからのレポートは次回更新まで。
Posted at 2018/01/22 14:50:02 | コメント(4) | トラックバック(0) | 日記
2018年01月15日 イイね!

《還暦+青春の22歳》を宣言する日

《還暦+青春の22歳》を宣言する日
〜わたしの逢った『西郷吉之助』秘話・その序章として〜

【西郷隆盛の肖像画・国立国会図書館蔵】

 陽だまりが暖かい。残念ながら西の空には薄雲が広がって、前日までクッキリと大山山系からはみ出していた富士の姿は拝めない。

 1月15日は昭和23年(1948)から52年間、平成11年(1999)までは「成人の日」として祝日の一つであって、それなりに「目立つ」存在だった。それがハッピーマンデー制度の導入された2000年からは、「ただの日」に成り下がってしまった。

 残念だ。というのも単純な私的理由に過ぎない。あれは小学校六年生になったその年だった。なぜだかその年から、わたしの誕生日が「祝日」となって、いつもお休みになり、20歳になる男女が競って晴れ着を装い、国中でそれを祝うようになった。

「ウチの誕生日ば、国じゅうが祝うてくれちょる」(北九州弁)
 つまり、それ以来、その日はいつも「休日」ということで、中学から高校にかけての時代には、仲間と近辺の山を一つ一つ、征服して行く約束を交わした。小倉の足立山、平尾台、八幡の帆柱山、皿倉山、そして門司の風師山。そのうち、筑豊につながる北九州の主峰・福智山まで足を延ばす約束だったが、それはついに果たされなかった。

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*高校一年生時代(1952年)の成人の日。向かって右から3人目のわたしだけが「八幡高」の学帽。他の5名は「小倉高」。小倉南郊の「菅生の滝」まで遠征。

 その当時の仲間の顔を思い出してみる。そうか、あいつも、こいつも、ほとんどみんながすでに、彼岸の人となっているのか。
 
 2018年1月15日。この日より当ブログの「カテゴリー」に『還暦+青春の22歳』を新しく設けることになった。多分、1月19日(金)にSUZUKIの新型スペーシアと、その後を追っかけるようにして投入された新型クロスビー(XBEE)の試乗会で、いつもの「ニューオータニ幕張」の基地まで出かけるので、そのレポートから、ということになるだろう。

 スペーシアはその「カスタム」バージョンの試乗を狙っている。1機種60分が約束されている。おそらく東関東自動車道を使って、佐倉の街の入り口くらいまでは往復できるはずだ。5速MTスイフトRSの続編がものできるかもしれない。期待してもらってもいい。

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*スペーシアカスタムと鈴木社長

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*狙いはクロスビー


 さて、昨夜はNHKの大河ドラマ『西郷どん』の第2回が放映された。第1回を見て、楽しみに待っていた。この回から、西郷隆盛は「小吉」から「吉之助」に名前が変わって、注目の主役を鈴木亮平が演じている。郷中という士族階級の子息を鍛える教育組織から「卒業」して、郡方書役助として、下っ端ながら藩務に励んでいるところからストーリーが展開していた。ま、定石通り、といえた。

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 実は、わたしが注目したのは第1回のオープニングシーンだった。西郷隆盛が鹿児島・城山で自決してから21年後、1898(明治31)年12月18日に行われた西郷隆盛像の除幕式のエピソードから始まったのである。

 場所は、あの上野公園。幕が除かれ、愛犬を連れた着流し姿の西郷隆盛が、そこにいた。除幕式に参列し、その銅像を見た黒木華の演じる糸子夫人が抗議ともつかぬ、驚きの声をあげる。
「……ちごう、ちごうッ……宿ンしはこげん人じゃなかったこてエ! (違う、違う。うちの人はこんな人ではなかったのに!)と。

 糸夫人子の驚きは、隆盛の容貌が違っている、というよりも、服装に原因があった。確かに、当時の感覚からすれば異様である。少なくとも、人前に出るような服装ではない。それを「親しみを持たせるためにあえてあの姿にした」と解釈する向きもあるが、実は、本来の軍服姿にしたかったという説もあり、いろいろと裏があって……。

 このエピソードは西郷の孫である西郷吉之助(1906〜1997)から聞いた、と『西郷隆盛(1)』朝日新聞出版)の著者、海音寺潮五郎さんが記したものだが、今回の『西郷どん』はそこから始まっている。となると、今回の大河ドラマの原作は林真理子さんの『西郷どん』(角川書店)の書き出しはどこからだろう、と気になった。

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 早速、駅前の書店までぶらり歩きで。第1巻を購入。目を通す。違った。原作の書き出しは、上野公園・西郷さんの除幕式ではなく、明治37年(1904)10月12日の京都市役所、新しい市長が着任する日の出来事を捉えていた。その市長はただの官僚ではない。なんとあの西郷隆盛の息子だというのだ。西郷菊次郎。出迎えた職員の前に現れたのはフロックコートをさりげなく着こなした、ほっそりとした長身の男だった。しかし、右足を引きずっている……。

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 予想外な書き出しだった。どうしてTVの方は、他の作家の書いたエピソードから始めたのか。新しい興味が湧く。というのも、わたしは他の作家=海音寺潮五郎さんの「情報源」である「西郷吉之助」に何度かお目にかかっているし、ご本人から「糸夫人の抗議」についても聞いていた。それだけではない。参議院議員であった「西郷吉之助」氏を上野公園までご同行願い、隆盛像の前で写真まで撮らせていただいている……。そして、1960年(昭和35)の週刊現代(3月6日号)で『特別寄稿・明治の歴史は大ウソだ!』という手記を6ページにわたって掲載しているのである。

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*「週刊現代」昭和35年3月6日号の目次

 沸々と往時の記憶が蘇ってくる。折から「明治150年」に因んで、様々な出版物やTV番組が妍(けん)を競っている。こちらも、ちょっと腰をすえて、取り組んで見たくなった。

       ★ ★ ★ ★

 その「西郷吉之助」にお目にかかったのは、1960 年(S35)の正月休み明けであったと記憶している。当時53歳。大柄で黒ぶちの眼鏡。あの「西郷さん」の面差しが目の前にあった。わたしは創刊してまだ1年にも達してない『週刊現代』の、まったくの駆け出し編集部員。参議院議員会館の一室であった。60年安保の争乱舞台となる直前の国会周辺は、すでに物々しい警備態勢に入りつつあった。デモ隊が国会に突入、東大の女子学生が圧死したあの事件の起こる5ヶ月前である。

 カメラマンとテープレコーダーを携えた速記記者を同行して、あの西郷隆盛を祖父にもつ参議院議員(3期目)から、征韓論に敗れて故郷・薩摩に帰ってからの「西郷どん」の「無念の想い」についてインタビュー取材をすることになっていた。

 すべてがアナログだった。いまのようにボイスレコーダーなどで簡単に録音できる時代ではなかった。テープレコーダーがやっと普及し出したところで、貴重品であった。

 わたしの書き上げた原稿は、編集長が目を通し、OKを貰い、続いて西郷吉之助ご本人の了解をいただいて『週刊現代』の誌上を飾った。それをひとまず、忠実に、再現して見た。その第1章だけでも、ともかくご一読していただきたい。

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*上野公園・南洲銅像の前で。吉之助参議院議員

[特別寄稿]
明治の歴史は大ウソだ!  
「勝てば官軍」の 歴史に物申す      西郷吉之助

「勝てば官軍」。歴史も勝者によって書き上げられるのか。西郷隆盛は、明治の歴史の中に不利な立場に塗り固められてしまった。その孫が、初めてあかす明治史の真相。

【筆者略歴】 明治三十九年(1906)七月、東京に生まれる。五三歳。学習院から東北大法文学部卒。日本興業銀行、南方開発銀行、貴族院議員を経て、現在参議院議員。画号、南山。元侯爵。

祖父の死を彩る悲劇性

 西郷吉之助−—−−祖父隆盛の幼名だが、今では私の名でもある。父寅太郎は兄の隆輝、隆幸、弟の隆永、弟の隆永、隆国、隆正とみな「隆」のつく名をつけているが、三男の私には祖父の幼名吉之助をつけてくれたものだ。けっして代々襲名するものではないことを断っておきたい。

 私に祖父の名をくれたその父は、私が小学校を卒業する年の元旦に亡くなったが、いつもお前がもう少し大きくなったら祖父のことで伝えて置かなければならないことがあるといっていたがそれをいわないままに亡くなった。

 当時の私には何のことかわからなかったが、いつまでも耳に残っている。長ずるにしたがって何とかそのことをつきとめたい念願した。そして、二〇余年の政治生活を送り、いくたの政変、政治工作を見るにつけ、父のいっていたものの本体が、何であるかがやっとわかるようになってきた。

 祖父南洲は、明治十年西南戦争で国賊の汚名を浴びたまま、城山の洞窟でその生涯を終えた。その祖父が、かの中世フランスの騎士ベイヤールさながらに武士の鑑と仰がれ、現在でも日本国民に親しまれている。しかしこれは、祖父の死を彩る悲劇性が、国民感情に受けているのであって、政治指導者として歴史に残る西郷隆盛は、膨張政策強攻論者であり、不平士族の首領であり、内乱の誘発者であり、旧式な封建謀略者であると後世の歴史家に決めつけられている。
 先年カイロで自殺した駐日カナダ大使で、日本近代史の研究者として有名なE・ハーバート・ノーマンも「西郷の膨脹論と私学校はある意味で、現代日本の膨脹論者および右翼指導者の原型をなすもの」だといっている。したがって、祖父の人気が欧米人にとって不思議な現象としか受け取れないのだ。

 なるほど、そう思うのも無理ないし、当然なことかも知れない。それは欧米人が、明治歴史の定説に登場する祖父しか知ることができないからだ、と私は思う。では、明治の歴史とは何か?

 明治に歴史を論ずるに当たって、征韓論と西南戦争を無視しての明治史はあり得ない。それほど重要な山なのである。ところが、この征韓論の中心人物は祖父のようにいわれている。どの歴史の書を繙いても、征韓論の首謀者は西郷隆盛であり、岩倉具視、大久保利通らはこれに反対したことになっている。

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*明治10年の西南戦争を描いた錦絵(国立国会図書館蔵)

 しかも、征韓論のあと、祖父が辞職し鹿児島に帰って十年戦争−−−−つまり、西南の役が勃発した。その内乱の導火線が、私学校生徒の政府弾薬掠奪ということになっている。しかし、我々はその通説を真正直に信じていいものかどうか。
 故徳富蘇峰も「征韓論と西南戦争の真相の秘鍵は、西郷南洲が何者であるかを知ることだ。しかも南洲ほど多く世に知られ、かつ知られざる者はない」と、その著にしるしている。
 そこで、いろいろ問題はあるが、この二点を中心にして明治維新史を再検討してみよう。

例の手ば喰らい申したわい

 征韓論の議論は、明治六年を中心にして起こったものだが、これは結局西郷派と大久保派の争いに他ならなかった。

 西郷派には板垣退助、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎があり、大久保派には木戸孝允、岩倉具視があった。
 征韓論議で両派が激突したのはなぜか。慶応三年(1867)十二月九日、王政復古の大詔が渙発された当時に遡る。

 西郷は王政復古派、大久保は公武合体派。この公武合体論は一種の妥協案で、天皇を中心とする同盟列藩(徳川家を含む)の合議体論。で、鹿児島藩で藩政改革でも王政復古派が勝って、参政の重職は西郷派が占め、大久保、西郷間の感情が刺激され、両派の争いが顕在化した。

 次のステージは王政復古の論功行賞。大久保、木戸は総花的に、特に上層部に厚く、例えば三条太政大臣、岩倉右大臣が五千石、木戸、大久保は千八百石従三位、祖父は正三位二千石、西園寺公望などは三百石に。

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*大久保利通(国立国会図書館蔵)

 ところが祖父はこれを辞退した。王政復古は、戊辰の戦争をはじめ幾多の人命をかけて初めてできたもので、いま生きているものだけがこうして論功行賞に浴するのはよくない。自分の如きは、藩主が従三位なのに、殿様よりも高位につくことはできない、と断った。
 こういうところが、後世、祖父が封建思想を脱し得なかった旧式な人間として指摘されたのだろうが、後輩に対しては人情の篤い、いわば親分肌であったことは事実だ。これでまた西郷、大久保の間に溝ができた。

 明治四年、岩倉右大臣を大使とし、木戸、大久保を副使とする、いわゆる欧米視察があった。ところが、祖父は自分の目で欧米を見ておきたいと希望したが、そうなると大久保が裏で工作して行けないようにした。

 こんな話がある。天皇から呼び出しを受けた祖父がちょうど昼ごろ引き下がって御所の玄関を出るとき、時の外務卿の副島種臣に出くわした。
「先生、なんでしたか?」と訊かれたが、祖父は「副島どんか、例の手ば喰らい申したわい」とわらいで紛らしたそうだ。副島はどうも意味が取れないので、用を済ますと後を追ったという。
「さっきのことはどういうことですか?」
「いや、お呼び出しば受けて、参内してみると、岩倉などが欧米に行くが、お前は留守を頼むと口説かれ申した」
 
 大久保、岩倉が祖父を説得する常套手段がこれだったのだ。
 そこで、三条が祖父をはじめとする留守内閣を作るわけだが、岩倉、大久保の智謀は、こんな時に遺憾無く発揮されて、視察団と留守内閣の間に重要な取り決めをした。
 一つは「大使の留守中は、内外の政治は細大となく改革を加えざること」
 その二は「文武の官吏は勅任はもちろん、奏任、一般に列するものに至るまで、みだりに人事異動をせざること」つまり転勤、転職を勝手にやってはいけないということだった。

 ところが、必要に迫られたこともあって、留守内閣が大いに改革をやった。
 その頃から当時の日本に押し寄せた時代の波が一つになり、大うねりとなったのが、実に世にいわゆる征韓論であった。
   ★ ★ ★ ★
 本日は、ここまでとしよう。ここからが「明治の歴史は大ウソだ!」の肝の部分となっていくのだが、ひょっとしたら、今ではそれが定説となっていたりして……。

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*卒論の表紙。全てが手書きで、大隈書店で造本した。提出から30年が経って、早稲田大学は本人に返還してくれたので、今は手元に。ありがたいシステムである。

 時を経て、今になってやっと読み取れたことが、一つある。なぜ、新入社員のわたしが担当に指名されたのか、ということだった。それに聞き書きもわたしに任されていた。わたしにしては願ってもない企画だった。なぜならわたしの大学卒業論文が『明治維新指導者とマキャヴェリズム』で、卒論担当の服部辨之助教授から、狙いが新鮮だ、世の中に出たらぜひ掘り下げたらいい、とそれなりの評価をいただいていた。
 
 こんなドンピシャリな機会を、なぜ編集長が指名してきたのか、実はずっと分からないでいた。そうか、と膝を叩いた。キーワードは「海音寺潮五郎」だったのか。この辺は、長くなったので、次回へ。


Posted at 2018/01/15 23:28:58 | コメント(5) | トラックバック(0) | 還暦+青春の22歳 | 日記
2018年01月06日 イイね!

三本和彦さんとの対談『ヘソの部分』

三本和彦さんとの対談『ヘソの部分』〜『次回、更新へ』の約束の行方②〜

 よっしゃ、今回も「次回、更新へ」で一区切りして、次回でそこのところを詳しく・・・・・・などと見得を切った手前、早速に「更新」に取りかかった。

 時は、9月。この季節は筑波での『メディア対抗ユーノス4時間耐久』観戦レポが定番であった。それをこんな風に書き出している。
————暦(こよみ)が9月になった途端に、それまでミンミン蝉に替わって健闘していたツクツク法師の歌声もピタっと聴かれなくなった。その代わりに濃蜜な金木犀の香りが漂ってきて、秋の訪れを宣言した。テンポが早すぎる。そして台風18号が日本列島を蹂躙した。ブログ更新を半月以上も怠けてしまった。少しは、9月になってからの日々を遅れ馳せながら、おさらいしておこう……。

 題して⑤《遅れ馳せながらの『筑波メディア対抗』観戦レポ》(2017年9月19日)。詳しくは「こちら」から。要約すると以下のように。

 午前9時に東京・練馬を出発、東京外環の川口JCTから東北道の乗り、新しく出来た白岡JTCで圏央道へ。そのあと、この2月末に延長された新しい「板東IC」で下道に降り、筑波サーキットをめざす。
 午前10時45分、メディア専門の受付ゲートに到着。サポーターパスを首から提げて、パドック・ウォーク。タイミングを計ったように、このごろ、アゴ髭に白いものの多くなった大井貴之クンが顔を見せる。第28回目を数えるこのイベントに、第1回から欠かさず出場しているのだから、選手紹介で「レジェンド大井」とアナウンスされたのも納得できた。

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 そんな風に、逢いたい人と触れ合える。それが楽しみで、この夏の終わりのイベントに足を運んだわけだが、片山右京、松田秀士、津々見友彦、中谷明彦、清水和夫といったレジェンド達と旧交を温めることができた。そうした様子は一休みしてから、お伝えしたい。

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 ほら、来た。「一休みしてから」と。そして9日後、律儀に「Part2」を書き継いでいた。

2017年09月28日 同時代の仲間たちとの『筑波讃歌』。詳しくは「こちら」へ

 この日は予選の様子を、いつもの第1ヘアピンの観客スタンドからではなく、その先の芝生広場からカメラにおさめたあと、パドックへ戻った。これから、ドライバーズサロンに隣接する特設イベントステージで、出場26チームの紹介が予定されていて、三々五々、会場に集合し始めたところだった。
 いつも人の心を一発で明るくしてくれる笑顔で談笑中の片山右京、松田秀士の両レジェント。
「ベストカーの三本和彦さんとの対談、読みました。ああいう秘話ものを、もっとやってくださいよ」
 わたしの顔を見るなり、松田のヒデさんが「お上手」をいってくれる。たとえお世辞でも、やっぱり嬉しくなる。右京さんと顔を合わせるのも久しぶり。今、彼の主宰する自転車競技集団『チーム右京』がワールドレベルに勝ち上がったため、これからが大変なことになりそう、などと彼の夢を聴かされるのも、快い。彼の目、志は、いつも新しい世界に注がれている。

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 結局、この「観戦レポ」はなかなかゴールにたどり着かない。それどころか、レースそのものも、まだスタートしていない。でも、今回はこの辺で一休みさせていただく。できるだけ早く、次回に取りかかれるといいのだが……。
   ★        ★        ★
 そうだった。ここで大事な忘れ物を「松田のヒデさん」が示唆してくれているのに気づいた。ベストカーでの『三本対談』がそのままになっていることを。それは10月10日号で『正岡貞雄の自動車業界回想録・瑠璃色の時代』とタイトルされた2ページ物の対談だった。タイトルの下に小さく「註」が付けられていた。「青く澄みきったクルマ業界の意」と。

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 改めて読み返してみて、そっくり『クルマ一代』に採録しておきたくなった。三本さんと逢ってお話をしようと願った『ヘソの部分』がそこにあるからだ。

《承前》
 三十二年前に三本和彦さんから頂戴した一通のペン書きの葉書。そこから蘇った《天正遣欧少年使節団》の記憶をやりとりしただけで、前号の「金口木舌」は、その容量が一杯いっぱいになってしまった。実はここからが「本題」部分。徳大寺さんの薦めで三本さんが「カーグラフィック」で長年連載中のコラム『フロム・アウトサイド』をまとめて、単行本にしませんか、と申し入れるために初めて伺った先が、葉書の表面に記されていた「六本木・麻布メゾン五〇二」。その日のことを、今でも鮮やかに思い出すことができるのはなぜだろう? あれは一九八三(昭和五八)年の夏の終わりだった。    (正岡貞雄)

徳さんのあなたを語る時の熱く嬉しそうな声が聴こえる

正岡(葉書をお見せしながら)実はね三本さん、この「麻布メゾン」という洒落た名前のマンションに伺ったのは『昭和の遣欧使節』としてスペインでご一緒する2年前のことでしてね。麻布十番一ノ橋の交差点にある更科蕎麦屋で腹拵えをしてから、飯倉片町へ向かう上りの坂道を息と心を弾ませながら……。  
三本 編集局長にわざわざ事務所まで来ていただいたのを覚えています。事前の電話のやりとりから、掲載誌側の小林彰太郎さんから許可が取れたので、ということでしたね。
正岡 そうです。結局、単行本にまとめる分をそっくり選んだのも、言い出しっぺの徳大寺さんでした。
三本 それを聞いて内心「しまった」と思った。だってね、記事の中には、徳大寺さんを批判がましく書いた覚えがあって、あるいは改めて不快な想いをさせたのではないか、と。八方破れの喧嘩腰人生を送っている自分自身がちょっぴり恥ずかしかったな。
正岡 それは杞憂というもの。だってね。徳大寺さんがあなたについて語る時の熱く、嬉しそうな声が、今でも耳元に残っています。
三本 それは光栄。どんなお話でしたか?
正岡 徳大寺さんが『もう黙っちゃいられねえ』(ベストカーブックス)の前書きでも触れていましたが、仕事の関係上、三本さんと話をする機会があって、二度ほど海外旅行にもご一緒したが、そんな時の三本さんはとても愉しく、かつその博識なことで尊敬できる先輩である、と。  
三本 それは徳さんの持ちあげ過ぎですよ。
正岡 いやいや。当時はまだ西ドイツと呼ばれていましたが、あそこのアウトバーンは走りやすい、といったら、「当たりメエよ。あそこの1レーンの幅が日本の高速道路より、15センチ広いんだよ。それを知らないで、いいも悪いもないだろう、と三本さんに叱られたって。徳さんはアウトバーンでは時速200キロを楽々キープできるのも、おそらく1メートルは広いのではと思っていたので、それがショックだったらしい。
三本 あ、は、は。そうなんだな。直線部が多いのはわかっているけども、どうしてだろうと思ってね、日本から高速道路の研究に来ている人がいたので訊いてみた。答えにこちらはびっくりしましたねえ。
正岡 それが、たかだか15センチだけ広いということ?
三本 そう。ご本人も不思議がってたった15センチで、こんなに違うなら、日本の道路もそうすべきだ、と言い出してね、日本に帰ってから開設予定地の数字を全部弾き出して、それを金額にして上層部に報告してみたんだって。
正岡 それは凄い。で?
三本 三ヶ月もかけて調査したけど、たった15センチでも、ものすごい金額に膨らんで、結局、諦めたって。
正岡 そうだ。今度、新東名ができたじゃないですか。あのレーン幅はどうなんだろ?
旧東名に比べて。ちょっと調べたくなったな。

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*ドイツのアウトバーン

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*こちらは「新東名高速道路」。設計速度が120km/h。やっと試験的に時速110キロに。

【正岡追記】東名高速道が出来た当時は高速道路の明確な基準がなく、幅員はアメリカの道路幅12フィートを参考に3・5メートルで造られたと言われている。今度の新東名は設計速度140キロを担保とした構造になっており、車線幅員は上限の3・75メートルで造られました。それで路面も新しいし、幅員もところによっては25センチも広い。新東名が走りやすいわけです。

三本 ベストカーをここまで推しあげた原動力のひとり、徳大寺さんが亡くなってから、もう3年近く経ちますか。
正岡 2014年11月7日でした。
三本 こうやって、徳大寺さんと深く関わったことを知り、心に沁みるものがあります。実は、ずっと現役を続けながら、いつかはこの「ベストカー」に書かせてもらいたい、どんな形でもいいから関われないものか、という想いがあって、ずっと辛抱だったですね。
正岡 ありがたいことをおっしゃる。
三本 徳大寺さんの『俺と疾れ!』のようにはまいらぬが、彼への感謝をこめて、ボクなりにこれからも志だけは燃やし続けていたい。
正岡 もうちょっと単行本のモトとなった『フロム・アウトサイド』のことを続けさせてください。
三本 どうぞ、どうぞ。
正岡 徳さんと一緒に、どのページを生かすかをチェックし合っていた時、目に飛び込んで来たのは、黒沢元治さんが関わった富士スピードウェイでのGC炎上死亡事故です。三本さんが、鈴鹿のプレスルームで事故発生から5分後に知った、という話からはじまる短文。しかし、恐ろしく内容たっぷりで、この事故への、当時のマスコミ情勢の一端を知ることができました。さすが、と唸らされました。

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*1974年6月2日、富士グラン300キロレース第2ヒートで多重クラッシュ事故が発生し、風戸裕、鈴木誠一の両選手が死亡したこのレース。事故調査に警察も介入。事故の直接的な原因を引き起こしたとして黒澤元治選手が業務上過失致死傷害の容疑で、書類送検されてしまう。翌年2月、不起訴が決定したが・・・。

三本 はい。とても嫌な事故でしたね。
正岡 あれはGC第2戦で1974年6月2日のことなんですが、三本さんはその第1戦を観戦して、なんとなく心にひっかかるレース運営があった。それでGC第2戦は助手だけを取材に出し、ご自身は鈴鹿でモーターサイクル・レースを取材することにした、と書いています。
三本 そうでした。「何かありそうですから……」と富士スピードウェイへ行った助手のカンは正しくて、鈴木、風戸の両選手が死亡するような大事故が発生してしまい……。
正岡 黒澤さんはその後、この事故の責任を取る形で、一度はレース界から引退する。しかし不死鳥のようによみがえる。そんなことも含めて、磨かれた辛口の卓見がうかがえる貴重な資料の一つでした。
三本 あの事件は、なんだか胸に大きな空洞ができたように感じました。
正岡 さてこの頃、新車の発表会には?
三本 できるだけ行くようにしていますが、昔の新車発表のように向こうも魂を入れた感じがないじゃないですか!

 やっと吼える三本さんが登場したところで、ベストカーでの対談は終わった。
また次号でページをとっていただければその中身を紹介したい、と編集部に届けた「まとめ原稿」には、そう添え書きしておいたが、残念ながら『以下、次回更新まで』のまま、実現していない。実は、プログレがデビューした当時、三本さんはその四輪駆動バージョンを、わたしはiRバージョンを購入した内幕などもあって、このまま眠らせておくのは勿体ない。

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 そうだ。この《『三本×正岡』密談(対談ではない)》を、当欄で「つれづれなるままに」書き綴っていくのはどうだろう・・・・・・というところで、以下、次回更新まで。
Posted at 2018/01/06 15:11:29 | コメント(4) | トラックバック(0) | 還暦+青春の21歳 | 日記
2018年01月04日 イイね!

『次回更新まで』で食い逃げは駄目よ!

『次回更新まで』で食い逃げは駄目よ!〜その「言い訳」&「伝えたかったこと」〜

 この正月三ガ日をできるだけ、「みんカラ」は『何シテル?』、Face Bookは『今なにしてる?』のコーナーを使って、近況の交信にあててみた。初詣のお神籤「大吉」、箱根駅伝を観戦しながらの「こころの呟き」を披露してきたが、いかがだったのだろう。ま、年賀状代わりに、日頃の交遊を感謝することぐらいは、出来たかも知れない。

 さて、この新しい年をむかえたところで、積み残し・・・つまり『身辺雑記』の域をでないエッセイでありながら、すぐに息切れをしてしまい「以下次号」あるいは「次回更新まで」と逃げを打って、結局、それが喰い逃げのままになっていはしないか。それが気になってしまう。この際、そうしたおのれの不始末を追跡、その理由と、実は何が書き続けたかったのか、お詫びかたがた、その「言い訳」をまとめてみよう、と思い立った。
 ただ、その範囲は広げるとキリがないから、この半年分だけに絞って、ボチボチと遡るとしよう。

①2017年06月15日
代打の切り札『ノートNISMO S(5MT)』登場!
〜パルサーEXA・フレッシュマン時代への回帰・序章〜

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 このあたりから、はじめよう。
《PVランキング第2位》の大異変騒動の発火点となった『5速MT新型スイフトRSを味見しに行かないか?』の続きを書きたくて、SUZUKI広報のミスター神原に連絡を入れたところ、「神原は4月から、本社の宣伝部の方へ異動しまして……」
 2日経って、東京広報から連絡が入った。2時間くらいの試乗なら世田谷のディーラーで調達できますが、とのこと。話にならない。で、方針変更。かねてから約束していた日産ノート NISMO Sに空きが出る頃だが、と日産広報に連絡を入れると、OKの返事。すぐに横浜に赴いている。

 2WD 1.6ℓ DOHC水冷直列4気筒140ps/6400rpm。専用チューンを施された心臓部。5速マニュアルミッション。スピードメーターは260まで刻んである。お値段も、このバージョンは約300万円だと聞く。いやぁ、早く外へ飛び出したくなる。RJCの同僚、飯嶋洋治さんが同行していた。
 日頃はBMWのM3、MT車オーナーの飯嶋さんが、ゆったりと1速→2速→3速とギアをアップさせながら、上り勾配のアプローチから、光の溢れる「みなとみらい横浜」の街へと繰り出した。
 今回はここまで。試乗記はわたしがステアリングを握ってからにしたい。それに、あえてサブタイトルとして《パルサーEXA・フレッシュマン時代への回帰》と謳っていながら、まだそのことに触れないままでいる。

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 それもやがて謎解きをするつもりだが、これまで35GTRやフェアレディZのNISMOバージョンと、それぞれ1週間を一緒に暮らしてきたときには全く繋がらなかった《プロダクションレース》時代の記憶の数々……。「序章」という2文字を付け加えている所以(ゆえん)である。  (以下、次回へ)

 その「次回」はルマンでのTOYOTAの敗戦、豊田社長のコメントに焦点を合わせてしまったため、一回延期のスパンをとって、ちゃんとつなげているじゃないか。

①2017年06月15日
ホットハッチ5MTに乗ると人が変わるのか!?
〜続・代打の切り札『ノートNISMO S』登場!〜

 大きく右へターンする感じで一旦、首都高速6号向島線に流入。やがて、NSXは深川・辰巳方向への湾岸線方向へ向かってダッシュ、その後ろ姿はあっという間に小さくなった。こちらは丁寧に最初のIC、箱崎で下道に降り立つ。そこは、東京シティエアターミナルの脇。すぐ先に水天宮。ならば直進すれば人形町から岩本町、神田神保町へと行けるはず……。

「じゃあ、ここからは……」
 素早く助手席のドアを開き、ドライバーズ側へわたしの方から移動した。エンジンはかかったままだ。ちらりとアスリート系の、したたかに引き締まったノートNISMO Sの足元を盗み見してから運転席に収まった。シートベルトが気持ちよく体に吸い付いて来る。期待感がにわかに昂まってきた。

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 さて、5MT車をドライブするのは幕張で1月27日にスイフトRSを走らせて以来である。クラッチを踏み、ギアを1速にシフトし、軽くアクセルを入れてから、ミートする。その瞬間、なんとも言えない快感がわたしの右足に伝わってきた。すかさず2速にシフトアップ。とても1.6ℓ、140psという地味なスペックとは思えない、たくましいエネルギーが、さらに次のシフトアップを促して来る。スイフトRSより男っぽいぞ。それが第1印象であった。
「どうやら3速ホールドのままが、この街中走行にぴったりのようですね」
 そんな感想を飯嶋さんに伝えたところで、今回は一旦、休息して、次回に備えることをお許しいただきたい。この後、ベストカー編集部に立ち寄った後、「音羽ニュル」を、この5MTのホットハッチで試走したことだけは告白しておこう。

③2017年08月06日
カサブランカの花開く朝

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 朝の光を受けて、まだ一輪だけが先駆けて開花したカサブランカ。六弁の純白の花びらの中心から、紅い雌蕊(めしべ)が六つ、アクセントをつけるように舌出しをしている。なんと魅惑に満ちたオープニングシーンだろう。これがこれからは一輪、一輪、時を刻んで順番にご挨拶をしてくれるのか……。もう、こちらもベッドに戻る気になれるものではない。背筋がピンと伸びて、仕事部屋へ向かう。PCの起動スイッチを押す。「ボオオーン」と元気よくiMacが目覚めてくれた。8月がスタートして五日目。ご無沙汰したままの「ブログ更新」にやっと取り組むパワーが蘇ってくれたのが、なんとも嬉しい……。

 こんな具合に、気取った前置きして、街乗りに斬り込む。

 新型NSXの赤いオーラに惑わされ、首都高速でミスコースしてしまった飯嶋洋治さんに替わって、箱崎ICからの下道はわたしがステアリングを握っている。

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 江戸時代より安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集めている蛎殻町の水天宮を右手に見ながら、北に伸びる大通りを「三速ホールド」で馳けるノートNISMO S。甘酒横丁。人形町。東京下町の名残をとどめる町並みが続く……。

 さてここから、どう書き続けようか。日本橋三越本店の脇を抜け、日銀本店を右手に確認したら常盤橋の交差点だ。それを右折すると外堀通りと呼び慣わされている405号線。さあ、そこから一方通行、5車線の絶妙の疾走区間が待っている。そこで、この気分をこう書き留めておきたいな。

「鎖を解かれたプロメテウス」さながらに、NISMOによって丹念に調整された心臓(エンジン)と、強靭な腱を植え込まれた脚元のもたらす新しい境地を、舌なめずりしながら疾駆している至福の時間が訪れた。左回りの大きなコーナーが竜閑橋を過ぎれば待っている。こんな時、MT車は好みのシフトワークを駆使できるぞ……」

 ここまで書き上げたところで、気分転換をしたくなって外へ出る。(この項、ここで一服)と逃げを打って、実はこの先は、まだ手つかず、である。というのも、こうした日々のなかで《ベスモ復活の狼煙》が持ち上がり、そのままになっているが、気の抜けたサイダーみたいで、こちらのモチベーションが下がってしまった。

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*そして7月21日から25日までE-Powerを試乗。近くの石神井公園傍の道場寺へ。

 そして「ベストカー」での三本さんとの対談。④2017年08月27日 《天正と昭和・二つの「遣欧少年使節団」》が持ち上がり、第2回からは『瑠璃色の時代=青く澄み切った昔のクルマ業界』という素敵なタイトルを、編集部では用意してくれているという。心は弾ませて、歩調を合わせて、取り組めることを感謝したい。(以下、次回更新を待たれよ)と予告しながら、結局はそれには触れずじまいである。

 よっしゃ、次回でそこのところを詳しく、というところで今回も「次回、更新へ」で一区切りとしようか。
Posted at 2018/01/04 01:28:19 | コメント(3) | トラックバック(0) | 還暦+青春の21歳 | 日記
2018年01月01日 イイね!

2018年 年頭に当たって

2018年 年頭に当たって恭賀新禧

【左のシーンは、秩父困民党が信州側へ敗走中に宿営地とした白井宿の取材で、十石街道からの坂道を登るときのもの】


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なんと晴れ晴れしい元旦の朝。

みなさま、佳いお年をお迎えのことと存じます。

2018年。本年も、どうぞよろしくおつき合いのほど、お願いいたします。

1月15日から『還暦+青春の22歳』の日々が始まります。

『クルマ一代』は、命ある限り、綴り続けていければ、と願っています。

まだまだ、取り組みたいこと、こころを注ぎたいこと、山ほどあります。

まだまだ欲張りな爺イです。

一つ一つ、磨き上げていければ、と願っています。

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*十石街道の起点から冬場は閉鎖される県道124号線でぶどう峠をめざすわがプログレ

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*白井宿と「秩父困民党」とのかかわりが、この白井宿の案内板からうかがえる

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いくつもの『いのちの坂』を超えてきた気がします。

そのたびに『生きることの歓び』を知りました。

一人は美味からず。

ベストモータリング、復活の狼煙も上がりました。

風立ちぬ。いざ生きめやも。

   2018年元旦           正岡貞雄
Posted at 2018/01/01 10:16:16 | コメント(5) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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何シテル?   07/03 11:41
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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