〜1月7日掲載の『何シテル?』欄の拡大版として〜
こんな内容でした。こちらからどうぞ!
電子書籍のパートナー、アイプレスJAPANのコンテン堂・味戸さんから届いた年頭のメール挨拶で、お尻に火がついてしまった。
『Premium版 疾れ! 逆ハンぐれん隊』はPart.7までを購読できるように仕上げたものの、Part.8以降はこれから仕上げなければならない。そこへ早くも、その催促の連絡が入ってきたのだ。
「本年もよろしくお願いします。
Part8ですが、本文の『Part8−1~4』、付録の『Part8-1~3(パリ/ナンシー/デュッセルドルフ)』は、入稿いただいております。
◆『Part8-4付録』に相当する『Part9への導き』の最終稿入稿を12日(木)までに可能でしょうか?
◆「各付録の写真位置やキャプションの指定」、「扉画像(タイトル付き)の最終稿入稿」も含めておねがいできますでしょうか?
◆配信スケジュールは入稿データなどが上記通りで進行できれば、
1月20日~31日の期間で配信開始できる見込みです。
新年早々にお願いばかりで恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます」
*Part.2の「凄春スピン・スピンターン」に付属している「五木ワールド」。その導入で「ハワイ」の特別試乗はふれられている。一連の試乗記は、今さらながら、絶品なり。
その件については、すでに肚が決まっていた。ヨーロッパから帰国して一息ついたところで、また五木さんを熱く誘惑したものだ。五木さん、ハワイでなら、ジャパニーズ・スーパースポーツとして登場したばかりのTOYOTAスープラを味見できますが、いかがですか、ハワイへいきましょうよ、と。
「いいね、ついでに北米仕様のフェアレディZXターボも用意してください」
「あ、よくご存じなンだ。それもいいですね。やってみましょう」
その時の試乗記をそっくり1回でまとめてしまおうかな。別々に、というのも悪くないし……。
もう一つ、腹案もあった。Part.8『ゴーストカーの秘密=篇』が完結すると、Part.9の『バンドー先生の逆襲=篇』は大和・奈良に舞台は移るので、ここは五木さんに「大和を語る」という仕掛けで登場いただくテもある。加えて、タンボちゃん(北畠主税氏の愛称)の「葛城古道、明日香の里を疾(はし)る」と題したくなるような『フォト・ギャラリー』も準備済みだから、その前宣伝として、一部を先行披露するのも悪くない。
正直、迷っている。ま、ここらで踏ン切りをつけて、ズバリ、クルマ物であるハワイの記憶の方をなぞってみるとしようか。
Photo by T.Kitabatake
決めた! 2002年に「排ガス規制」への対応できないため、累計28万5280台の実績を残して生産を終えた、あのスープラへの挽歌を本編に添えるとしよう。そして、その次の回でオアフ島を縦断した『ZXターボ』の試乗記も……。
仕事始めのこの日。午後から講談社BCに赴くことにしていた。
ベストカーの現役局長、宇井さんに会って、かつて連載中の『疾れ! 逆ハンぐれん隊』に夢中だった読者に、小説の展開に伴走して、元祖・局長がまとめた『五木作品に登場するクルマたちよ』も一緒に読める『Premium版』が電子書籍で読めるようになったと紹介してよ、と頼み込むつもりであった。
*よろしかったら、是非どうぞ、お立ち寄りください。
こちらからどうぞ!
プログレで30分、仕事始めで活気の戻った音羽通りに到着。幸い、宇井局長は在席、快く、こちらの希望を受け止めてくれた。準備しておいた素材注入済みのUSBメモリーを渡す。どう料理してもらえるか、できあがりが楽しみである。
次の約束は、3時半に茗荷谷で執筆進行中の『局長自伝』の打ち合わせ。取り組んでみると、手つかずのまま眠っている資料に遭遇しはじめていて、そこからムクムクと頭をもたげ始めた「新しい構成」への相談である。
そのためには事前に事実確認しておきたいことも、いくつかあった。幸い「社友」の資格で講談社の資料センターを利用できる。そこで、まず地下駐車場にプログレを駐(と)め、次に受付を済ませて入館バッジを受け取ってから、資料センターへ。
手始めに、講談社4代目社長の『野間省一伝』のあるページを確認したかった。すぐに探し求めていた「事実」を無事、確かめることができた。この『野間省一伝』の筆者は、わたしの「育ての親」のひとり、「週刊現代」創刊編集長であり、文芸誌「群像」の編集長も兼務していた大久保房男さんである。書く内容は厳しく吟味されていて、何よりも記述に品格がある。香りがある。この安心感ってなんだろう。
該当するページのコピーをとって、もう一つの捜し物の存在を確かめることに移った。
これは、一ヶ月半ほど前の11月24日、東京が初雪に見舞われたその日、それまでどこに蔵(しま)ったのか、と探していた『大事な物』がひょっこりと、まさに
「初雪の贈り物」として手元に帰ってきた出来事の続編に当たるだろう。
国際事件記者として鳴らした大森実さんや、評論家・草柳大蔵さんからの書簡の束と一緒に、講談社在籍時代のモノクロ写真が出てきた。その中に手札サイズの3葉の組み写真を、じつは「局長が局長になる前の仕事」に取り組んだときから、どこに行ったのか、と何度も探していたのである。
手にとってみて、鮮やかに甦って来る記憶がある。それは1959(S.34)年、講談社に入社して、今度の新入社員の中に忍者のような奴がいる、と全社に知れ渡った「決定的瞬間」を捉えた、曰く付きの問題写真だった。
「週刊現代」に配属されて2ヶ月が経った5月の上旬だった、と思う。その時期の編集部は本館2階の北寄りの一郭にあった。多分、4冊くらいの校了作業の洗礼も受け、いくらか仕事も覚えて、時間的にも心理的にも余裕の出てきた時分であったろう。
丁度、お昼時。ほとんどの先輩編集部員は食事に行ったか、取材かなにかで外出したかで、編集部にはグラビア担当の大先輩が一人と、いわゆるお使いさんと呼ばれた「少年社員」二人が在席しているだけだった。わたしは窓際の席で、多分、ほかの競争誌でも読んでいたのに飽きて、窓の外ではじまったバレーボール試合を、なんとなく見下ろしていたはずだ。
*もしもあの時、バレーボール競技シーンの左上の庇から真っ直ぐ、この高さでコンクリート面に落ちていたら、どうなっていたのだろう?
明るい陽ざしが降り注いでいた。窓の下は書籍や雑誌の搬入口で、向かい側は倉庫類が肩を並べていて、その通路に当たるということで、ちょっとしたコンクリートの広場となっている。折から「社内各局対抗」の競技大会が始まって、バレーボールコートとして利用されていたのである。
ネットを挟んでポーン、ポーンと音を立てて賑やかにコートを往復するボールが、何かに拍子に大きく跳ね上がって、1階と2階の間に突き出した庇(ひさし)の上の乗ってしまったようだ。試合が中断された。
「お〜い。週刊現代さ〜ん。ボールをとってくださ〜い」
それを応えて、窓際から眼下をみると、灰色の庇の上にバレーボールがチョコンとのっている。
「はぁ〜い」
気軽に応えて、ヒョイと庇の上に飛び降りた。と、ズボッと足元が抜けていく。いけない! 咄嗟に左手が枠の一端を掴んでいた。てっきりコンクリートかスレート張りと信じこんで飛び降りたところが、ガラス張りにすぎなかったと、やっと理解したのである。
その時に味わった失墜してゆく感覚が、いまでもスローモーションでよみがえってくる。
ともかく頼りの左手一本で、どれくらいぶらさがっていたのだろう。下を見てぞっとした。地面まで5メートルはあるのではなかろうか。そしてこちらを見上げる驚きの顔、顔、顔。
やっと自分の置かれている非常事態を理解できた。「頑張れよ」と励ましの声が届いた。そこで、右手を添えて、ゆっくり左へ移動し、壁側に足を伸ばし、バランスを保っていると、上からわたしを引き上げてくれる救いの手が伸びてきた。
「ありがとう」
支えがあれば、自分の両腕で起き上がるのは、その頃のわたしなら簡単であった。無事、庇から脱出して、枠の上に立った。下から、拍手が沸き起こってきた。窓から部屋の中へ。帰還してみて、この時やっと、血の気が退いていくのを感じた。よくあの状態で、窓の枠を掴めたものだ、と。
バレーボールの対抗試合が無事再開したのを見届けたところで、しばらく休息するようにと、と社内大会を運営する厚生委員会の先輩社員に当時6階にあった医務室に連れて行かれた。と、そこには落下したガラスの破片で傷ついた手の甲を治療して貰っている「被害者」がひとり、こちらへ笑いかけてきた。
「よく、あの状態で、下まで落ちなかったものだ。パッと片手で枠を掴んだんだってね」
そのあと、一休みしたところで、今度は庶務課に出頭させられ、ガラス破損の始末書を書かされる。運動神経が抜群なのは認めるが、庇がガラス張りなのを確かめもせずに飛び降りた軽率さを、庶務課長から叱責される。
この椿事をきっかけにして、「ことしの新入社員で忍者顔負けの運動神経の持ち主がいる」という評判が社内中に流れたらしい。そのせいだろうか、社屋の背後にある、通称「山の上」と呼ばれる高台の講談社剣道場で開かれた「社内対抗・剣道篇」では、普段では考えられない見物者が押しかけた。早稲田大学剣道部副将、4段がどんな技をみせるのか、一つ見てやろうじゃないか、というのだろう。変なデビューをしたばっかりに、それ以降、何かにつけ、スポーツに関わる催し物に、いつもかり出されるようになってしまう。
*
いまはもう解体された「講談社剣道場」にて。左が正岡四段
そうした「社内大会」の存在を確認しようと、資料センターでチェックしたのが、その頃、定期的に社員に配布されていた『社内ニュース』であるが、流石(さすが)というべきだろう、きっちりと保管してあった。
昭和34年5月31日発行の「社内ニュース」には、5 月8日、本社北側広場で行われた開会式の模様が写真で伝えられている。それもバレーボールのコートを上から捉えたアングルだから、まさにわたしの演じた軽率なデビュー劇の舞台そのものであった。
プログレを地下駐車場に預けたまま、資料センターを辞した。
約束の時間には少しばかり、余裕がある。茗荷谷までは、長い坂道を1本、上りつめればよい距離である。
ぶらりと音羽通りを渡り、かつては学園付属通りと呼ばれ、いまでは「コクリコ(ひなげし)坂通り」と呼ばれている坂道に足を踏み入れた。と、やっぱり生き残っているではないか。一見、喫茶店風のレストランが、この時間は営業してないものの『西洋小料理・Coquelicot』の看板が風に揺られて手招きをしている。
そうだ、茗荷谷での用件が終われば、今度はこの坂を下ってかなければならない。懐かしい「焼きカレー」を注文できるはずだ。そう、心に弾みをつけて、コクリコ坂を、改めて踏み出した。
2017年の初仕事は、こうしてアクセルON。(この項、つづく)