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正岡貞雄のブログ一覧

2016年09月27日 イイね!

2017年次「イヤーカー」の季節、大接近!

2017年次「イヤーカー」の季節、大接近!〜国産車に比べて輸入車部門の充実に脱帽〜

 9月8日に試乗したNISSAN「プロパイロット」セレナ首都高速湾岸線「味見ドライブ」のレポートで、

「……と、ここまで書き進めてきたところでタイムアップ。9日、午後4時から”2017年次RJCカーオブザイヤー選考に関する説明会”が、いつもの青山・アイビーホールで開かれるとあって、そろそろ出かけなくてはならなくなった。こちらも大事なテーマを抱えている。ことしこそ、いよいよポルシェのノミネートが実現する気配だ。カーオブザイヤーの季節、到来である」

と、一旦中断の言い訳に使った「くだり」から、今回は始めたい。

 青山の会場に着いてみると、すでに顔見知りの自動車メーカーの広報部のリーダーや責任者の何人かが、前列の席について、それを迎えたRJCメンバーと歓談していた。

 そのなかに、思いもかけず、前年の12月からポルシェ・ジャパンの「広報室長」に就任した塚原久さんの顔が見える。元CGの編集長で、丁度、わたしがレースから身を引くころから活発にレース活動を展開していて、注目していた編集者であった。菅生のN1 500キロ耐久レースや筑波のメディア対抗ユーノスレースで、一緒に競い合った旧知の仲。それに『PORSCHE 偏愛グラフィティ』の出版やら、『ベストモータリング同窓会』代官山トークショーでのポルシェ車展示の件などで、コンタクトする機会もふえていた。



 そうか、と膝をうった。それまでのポルシェはまるで「カーオブザイヤー」という催しとは無縁のスポーツカーメーカーという位置付けだったのが、マカンとかパナメーラとか、新しい時代に対応したクルマ創りをしているのだ。ポルシェが「イヤーカー」レースに興味を持つとは……。流石、編集者出身だ。

「よろしくお願いします。ちょっと様子見のつもりで出席させていただきました」
 塚原広報室長が殊勝に頭をさげる。これは面白くなったぞ。多分、そんな顔で塚原さんの挨拶を受けていたに違いない。

「ビューローが虎ノ門ヒルズの森ビルに移ったんですよね。近くお邪魔します」
「お待ちしています。お見えになるときは、連絡をください。あのビジネスタワーは事前に予約ナンバーが必要なので」




 
 午後4時。メーカー/インポーターへの選考に関する説明会が始まった。
 手元に『2017年次RJCカーオブザイヤー選考対象車』のリストが、「2016年9月9日現在・暫定」と断った上で、「国産乗用車」と「輸入乗用車」の2部門に分けて届けられた。
 
 一読。わかっていたことだが、やっぱり力が抜けていく。予想される国産車部門の中身が、薄っぺらで、しかも数が少ないことだ。その上、2015年次、2016/09/26年次と2年連続で「イヤーカー」を獲得した元気印のSUZUKIが、先ごろの「燃費・排出ガス試験にかかわる不正行為」の指摘を受けたことから、「諸般の事情により、今回はノミネートを辞退したい」と申し出があったという。ということは、「イグニス」と「バレーノ」がすでに消えてしまったわけだ。



 それとHONDAの「クラリティ・フューエル・セル」(リース販売専用)と「NSX」は試乗機会がえられないことから、選考の対象外だという。さて、さて……。

 その反面、輸入乗用車部門の充実ぶりはそうだ? RJCの選考委員会担当理事作成のリストには、14社、26車の名前が挙げられていた。今回は、すぐに新顔のPORSCHEに目がいく。
* ポ718ルシェ 718ボクスター/ケイマン(2016.1.27発表、FMC)
* ポルシェ パナメーラ(2016.6.29発表、FMC)
* ポルシェ 911(2016.2.23発表、3.0ℓ新エンジン)







 この3台のうち、どれかが第1次選考会でベスト6にノミネートされれば、いよいよ最終選考会となる「ツインリンクもてぎ」でのテストデイに登場するという新しいドラマが用意されるわけか。参考までに、2016年2月25日と3月5日の2回に分けてアップした『ドキュメントNew 911 Press Conferenceの現実』を併せてご一読いただければ幸いである。

ドキュメント New 911 Press Conference

ゲップの出た34年昔の『ポルシェ漬け』が懐かしいよ

 選考委員たちが「クルマで走る」という原点に立ち返る、いい機会が得られるのだろうか。

 自動運転とか、クルマとAI技術の融合とか、確かに未来を見据えた課題は、これからのクルマつくりに必要不可欠であることは、誰もがわかっている。しかし……というところでRJC選考委員たちの見識が、これから問われるのだろう。

 近づいてきた「イヤーカー選び」の季節。あまり晴れ間のないような予感がしてならない。それをちょっぴり払拭してくれそうな「ポルシェ」の動き。ま、輸入車部門は話題豊富だ。心配なのは国産車部門。「該当車なし」もありか?


*前年、2016年次イヤーカー最終選考会で「もてぎ」の外周路を慣熟走行するノミネート車

 付記すれば、PORSCHEジャパンは、シックスBESTに選ばれたなら、喜んで「テストデイ」に参加させていただく準備だけはしておく、と意思統一が成立している、とわたしは「独断と偏見」で読み取っているが、どうだろう? 

 指名されるのは、3ℓライトサイジングターボエンジン搭載の911なのか、718ボクスター/ケイマンなのか。ま、パナメーラはないだろうな。
Posted at 2016/09/27 02:15:46 | コメント(3) | トラックバック(1) | 還暦+20歳の青春 | 日記
2016年09月24日 イイね!

人生の分岐点『プロ野球担当志願』の「光と影」

人生の分岐点『プロ野球担当志願』の「光と影」〜「戦争もの」から脱出する秘策は実を結んだものの〜


 小学校高学年のとき「アカちゃん」の仇名をつけられた。だれがいいだしたかはっきりしないが、おそらく5〜6年生の2年間を担任いただいた、山本半七先生だったろう。
 中学校に上がってからも、世の中に出てからも「まっサン」とか「マサやん」と呼ばれたのに、あの時代だけ、意味のわからない、変な仇名だった。

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*小学校6年のクラス。真ん中が山本先生。焦土期から立ち上がったばかり。向かって前列、左から2人目が筆者。下駄履きですね。

 どうやら発言がいつも過激で、みんなが右を向いている時に、ひとり左を向きたがるところから、山本先生が「あいつはアカ(赤)だ」と、軽く色分けしたところから「アカちゃん」と仲間内で、愛称となっていたらしい。

 折から、太平洋戦争の終結により、軍国主義は「悪」であり、「民主主義」こそが正義である、と俄かにに軌道修正を断行した時代であった。

 子供たちの世界も、先輩優先のルールが壊されて、みんなが平等で、何事も話し合うルールが成立した風に見えたが、それは建前だった。何かにつけ腕力のあるものが大将という、九州男児の風潮が簡単に変えられず、実態はちぐはぐで、小柄だがちょっとばかり鼻っ柱だけは強かった「アカちゃん」は、何かにつけ「不条理」に対して「それは違うとるバイ」と刃向かっていたらしい。

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*大学受験用に撮ったもの。

 後年、大学受験で早稲田大学を志望した。政治経済学部新聞学科、文学部ロシア文学科、教育学部社会学科の3学部を受験し、文学部と教育学部から合格の知らせが届いた。政経は無理だろう。本命は露文、教育学部は滑り止めだったから、当然、露文に進むつもりだった。ツルゲーネフに憧れていた。

 ところが、親父が猛烈に反対しだしたのだ。親父は息子の正体を知っていたらしい。
「文学部としか聞いていなかったぞ。露文(ロシア文学科)なんてとんでもない。それでなくても、お前の仇名は“アカちゃん”だぞ。そっちの方向に行くに決まっとる。そんな奴に学費は出せん! 教育学部に行け!」
 いまにも真剣を取り出してきそうな気迫だった。そこでかっこよく初心を通して、学費は自分で稼ぐ、露文に行く、と踏ん張れていたら、人生はもっと違っていただろう。そんな岐れ道に、それからもいくつも、いくつもぶつかるのだが……。

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*父・徳一。あの時ばかりはすごい気迫だった。ありがとう、よく止めてくれましたね。

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*無事、進学。角帽もやっと似合ってきて、日光までの短い1日旅を。

 さて、これでやっと、本題に入れた。
 創刊して第15号目に当たる7月19日号で、トップ記事に当たる『遺された戦歿学徒の妻子』という「戦争もの」特集記事を担当し、徹夜を重ね、やっと解放されて一息つけると思ったら、松井チーフに「ご苦労」と肩を叩かれ、次のテーマを告げられた。「人間魚雷・回天」などで出撃しながら、幸いにも生きて帰ってきた「海軍水中特攻隊」の人たちと連絡がとれたから、彼らが15回目の「8月15日」をどんな想いで迎えるのか、それを特集するから、と。

 いまの時代なら、遺しておきたい「時代の証言」としてぜひ関わりたいところだが、当時はまだ戦中、戦後の記憶も生々しく、実は「戦争物」というだけで抵抗アレルギーが蠢いていたのだ。

「え⁉︎ またやるんですか?」
 少年時代に「アカちゃん」と仇名されたほどの「心情左翼」の駆け出し週刊誌編集部員が悲鳴をあげながら、それでもしぶとく、プロ野球物でちょっとしたスクープ物がありますけど、やらせてください、と生意気にも申し出た。その結果は……というのが前回のエンディングだった。

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 57年前の「週刊現代」 昭和34年(1959)8月2日号の目次を見てみる。

「特集」は3本である。
 予定通り「学徒・海軍水中特攻隊−—−彼らはいかに志願し、いかに死んだか」が8ページを割いてトップに。
 あとは柔らか物で「女はますます強くなる−−−多くなった男の性生活苦」と、ちょっと硬派物で「生きている中野スパイ学校−−−その実態と出身者の活躍」が並び、続いて『特別読物』として「オリオンズ極秘の大バクチ−−−パ・リーグ制覇と読売打倒を図る秘策に実態」を用意しているが、これがわたしの提案した「スクープ物」である。ご存知だろうが、「オリオンズ」とはいまの「千葉ロッテマリーンズ」の前身球団だった。

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−−−−(昭和)25年、タイガースの主力を強引に引き抜き、パ・リーグを分立して、東京に旗挙げしたオリオンズだが、読売巨人軍の隆盛にひきかえ、来る年も、来る年も、人気があがらない。そこで打った強行手段! プロ野球の主導権を奪わんとする大毎の野望を公開すれば……。

 そんな前書きではじまる5ページものの「特別読物」を、少しトレースしてみようか。
 まず、不人気からの脱出を目指してその春、球団代表を更迭し、親会社の毎日新聞経済畑出身を営業部長に据え、他球団のやらないサービスから、人気拡張を図った様子から始めている。

 (昭和34年のシーズンがスタートすると)大毎オリオンズがその主催ゲームに限って、こんな場内アナウンスが流れ始めた。
“映画に伴奏が入るように、もし野球に伴奏が入ったとしたらどんなものでしょうか。そうした考えから生まれたのが、プレーの合間に演奏される電子オルガンです……”
“ファウルボールを取った方には選手のサイン入りボールと飾りバットを差しあげますが、この試合の第1ファウルボールをお捕りになった方には、そのほかにオリオンズ浴衣をお贈りいたします”

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*現代はグランドもスタンドも一つになってプロ野球を楽しんでいる。ファウルボールだってキャッチしたもの勝ち。応援歌はもちろんのこと、選手個々のテーマソングまで用意されている。その先駆けを果たしたのが、大毎オリオンズだった、

 いまの時代なら、当たり前のサービスだが、当時としては観客側目線の斬新なアイディアであった。とくにファウルボールをサインボールと取り替える大毎オリオンズのシステムはヒットした。ある都内の高校野球部員がボールを豊富に購入する費用がないので、後楽園球場に出かけてグラブ片手に、ファウルボールを追った、というエピソードまで生まれた。ほかの球場では余計なことすると渋い顔で、未だにスタンドに入ったファウルボールは取り返すところもある……。
 ファウルボールと交換するサインボールは、大毎のものが一番いい。他球団のサインボールは、見かけは硬球だが、触ってみると皮がブカブカ。お値段も200円程度の純粋なサインボール。大毎のものは実際の試合球の古ボールとか不良品に、新しく皮を張り替えたもの。だから手に持った感じは本物の試合球に変わらない。それらのフロントのサービス活動が実を結び始めていた。
 そうなると、本当にチームを強くするための秘策はあるのか、というのがこの記事の本当の狙いだった。
 ともかく当時の大毎の打線は「大リーグ級」と称され、ミサイル打線の異名を取ったほど猛威をふるっていだが、何分にも投手陣が貧弱だった。



*弱体が懸念されていたオリオンズ投手陣。後ろ左から、中西、三浦、前左から小野、植村の各投手。


 そこで浮上したのが大型トレード案。後年「世紀の大トレード」と謳われたものの予兆がそれだった。それも二つ、あった。
 それをスタートしたばかりの一週刊誌がすっぱ抜こうというのだ。加えて担当は一年目の新人編集部員に過ぎない……ということで今回も、ここで一休み。とんでもない黒幕でもいたのだろうか。
Posted at 2016/09/24 16:09:44 | コメント(3) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2016年09月19日 イイね!

57年前の記憶は何色だろう?

57年前の記憶は何色だろう?『赤いハイヤー』に揺られながら『新入り時代』を卒業す!


*1958年式 プリムス ベルヴェドーレ まさしく「赤いハイヤー」はこれであったか。

「新入社員のくせに、社内一、ハイヤーを使っている」
 そんなレッテルを貼られているとも露知らず、その日も東京駅での「張本勲選手」の撮影を終え、意気揚々と社旗を翻しながら、まだその頃は都電の走っていた音羽通りの講談社に帰ったところまでが、この6月から「新連載」と称して手をつけ始めた“局長が局長になるまでの仕事”の前回分のエンディングだった。

 もちろん、その後、「関取」の風格で鳴る萱原先輩がハイヤーでどこへ向かったのか、と詮索する「余裕」と「洞察力」などはまだ持ち合わせていない、未熟で、世間知らずの、新入り編集者であった。

 なにしろ、57年前の記憶は遠すぎる。遥かすぎる。セピア色どころか、ボケボケの「老眼色」と呼ぶべきか。それでも都合良く、そのころの写真や、自分の関わった記事のコピーなどに出逢うと、だんだんと記憶のピントが定まってくるから、不思議だな。

 そうはいっても、まずその時、音羽と東京駅の往復でチャーターしたハイヤーの車種が思い出せない。まだ国産車をハイヤーに採用できる時代ではなかったから、多分、黒塗りのフォード、ダッジ、ビュイックといった黄金時代のアメリカ車だったろうが、全く記憶の網にひっかかってくれない。

 その代わりに、ハイヤーといえば真っ赤なボディにテールフィンを施したV10エンジンのあのクルマだけが、鮮やかに想い出されてくる……。



 つい先だって、アメリカと国交を回復したキューバの首都ハバナで、いまもハイヤーの現役として活躍していると紹介された「アメリカン・ドリーム」の生き残りが紹介されていたなかで、1958年式のプリムス(クライスラー系)が、まさに記憶のなかで生き続けてきた「赤いハイヤー」そのものだった。なぜ、そんなハイヤーと縁があったのか。

 今の時代、「出張校正」という言葉は死語になっているが、週刊現代が創刊した当時は、編集作業の仕上げは印刷所に出張して行われた。週に1回の校了日(はい、これでどうぞ輪転機にかけてください、と最終校了紙を印刷所へ渡す日のこと)は、書き上がらない原稿とか、ギリギリの取材物は、専用の出張校正室で生まれた。

 連載小説「すれすれ」がなかなか書き上がらない吉行淳之介さんなどは、その出張校正室の常連だった。買ったばかりのヒルマン・ミンクスを嬉しそうに操りながら、せっせと通って来た姿を知る人は、もう少ない。
「すれすれ」の書き出し部分で、白タクを始めた主人公が、そのヒルマン・ミンクスで登場するのも微笑ましい。




*純文学界の「第3の新人」として注目を浴びた吉行淳之介さん。初めて「週刊誌小説」にチャレンジ。

 それが創刊号の時だったかどうかは定かではないが、間違いなく、創刊直後のことだった。夜明けに全てのページが校了となってやっと解放されたが、帰りの足はない。それを「創刊時のご祝儀」という意味合いもあって、凸版印刷がハイヤーを用意してくれていた。板橋区小豆沢という都心から西北にはずれたところに凸版印刷は所在していた。

 編集部チーフの松井勲さん(のちの2代目編集長)は、和泉多摩川の先にある向ヶ丘遊園のそばに住んでいる。大雑把に言えば同じ城南方向ということで、当時、目蒲線の矢口渡に仮寓していたわたしに「おい、一緒に帰ろうか」と指名してもらえたことで同乗できた。それが「赤いハイヤー」との出会いだった。  


*向ケ丘遊園あたりの多摩川の風景

 凸版印刷がVIPのためにチャーターした山手交通(いまでも健在らしい)のハイヤー運転手のドライビングは、それまで体験したこともない異次元のゆったり走行で、すぐに眠りの世界へ。

 志村坂上から滑り出て行った赤いハイヤーが、夜明け前の東京の街をどう走ったのか。まだその頃は環状8号線なんてできていない。目が覚めた時、世田谷通りで砧、喜多見を抜けて多摩川を渡り、その西岸を南下しながら、二子多摩川方向を目指していた。しらしら明けの川畔の眺めを受け止めるのに、ひどく時間がかかったのを懐かしく思い出す。

「あ、そこでいいよ」
 松井先輩が軽く手を振って、赤いハイヤーから降りていく後ろ姿を見送る。そして後部座席で、突然訪れた一人だけの世界を享受する。そんな贅沢な時間の向こうにある意味合いに、気づくことのなかった迂闊な新人編集員がそこにいた……。因みに、その赤いハイヤーには、その後2度ほど、同じ組み合わせとルートで同乗している。
 
 企業戦争の真っただ中にいた。出版社系の週刊誌戦争。新潮社を先頭に、講談社、文藝春秋社、中央公論社がしのぎを削る。週刊朝日を筆頭にサンデー毎日、週刊読売の新聞社系が主流だった時代である。出版流通、広告・宣伝部門も、この生まれたてのメディとどう対処すればいいのか。

 競争がだんだんとヒートしていく。そして印刷業界。大手の大日本印刷と凸版印刷が、メンツをかけて競合していた。だからこそ、創刊直後のある期間、徹夜で出張校正にやってきた「顧客」にハイヤーまで準備する……当然、原価に組み入れられるわけだろうが、かなりのチャーター代だったに違いない。一面、そんなのんびりした時代でもあったわけだ。

 そして60年近くが経ったいま、週刊現代も週刊新潮、週刊新潮もすこぶる健在で、それぞれが、それぞれの役割で貢献し続けている。関連企業にとっても十分、恩返しどころか、収益の柱となったに違いない。

 創刊1年目の週刊現代は苦闘の連続で、実売部数が30万部をやっと超える程度だった。特集のテーマも右往左往し、それでもある方向に向かって育ちつつあるのは確かであった。6月になると、新しく募集した人材から、3人の「新入社員」も補強された。つまり、早くも3人の後輩ができたのである。

 もうハイヤーに頼ることもなくなった。新しくターゲットのできた萱原指導社員からも解放され、編集者生活も3ヶ月近くをこなすと、東京の地理も覚えたし、深夜の移動にはもっぱらルノーのタクシーを利用する要領も覚えたし、昼間なら都バスや山手線などの電車の使い方も覚えたし……。



 担当ページにも変化があった。「赤いハイヤー」のご利益だろうか、松井チーフをサポートすることが増え、例えば創刊して第15号目に当たる7月19日号では、トップ記事に当たる『遺された戦歿学徒の妻子』という特集記事を担当した。
 といっても、取材も執筆も「三田コンサルティング」(小野田寛郎少尉『ルバング島の秘密』で紹介したトップ屋集団)に委嘱し、当時、日比谷公園に隣接した市政会館にあった共同通信の写真資料室に通って、該当する写真を探し当て、購入してくるのがわたしの役どころに過ぎなかったが……。

 リードの文章は、まずわたしが書き上げ、松井チーフがリライトし、さらに「鬼の編集長」が添削したものだった。

 終戦記念日も間近かである。今を去る16年前、戦況が日に不利に傾いて行った頃、東條英機が日本民族の血の純潔を守れと叫び、優秀な学徒兵の結婚を奨励した。戦争にかり出され明日をも知れぬ学徒兵たちは、日本人の優秀な血を守るために結婚して出陣して行った。彼らの多くは再び帰って来なかった。しかし彼らの子供が生まれ、育ち、もう高校生に成長しているのだ。

  さて−~~~
「東條結婚? なんだ、それは?」
 ほとんどの方が初耳のはずだから、少しばかりの解説と「実例」の一端を、往時の記事を参考にして、紹介しておこう。

 1937年(79年前)の7月7日。北支盧溝橋に一発の銃声が鳴り響いて支那事変が勃発、そしてそれは、そのまま遮二無二、太平洋戦争へ突入していった。これから日本転落の歴史がはじまった。
 1943年(昭和18)11月14日。神宮外苑では、学徒兵の初の出陣式があり、東條英機首相の前で分列行進が行われた。
「恵まれた学生生活を、今こそ返上せよ! アメリカの学生はすでに諸子の挑戦を待っている!」
 首相の訓示に、学業半ばにして出陣を命ぜられた学徒兵たちは、唇を噛んで“栄光への道”を考えていた。
 そして数ヶ月。特別操縦見習士官、海軍予備学生、特別甲種幹部候補生などと、陸海軍の特別攻撃隊要員として、将校の階級を与えられて飛行学校などに学んでいた学徒兵たちに、東條首相はみずから巡視に出かけては訓示した。
「諸子の尽忠の血は、民族の血として伝えられなくてはならない!」
 ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーはその著書『我が闘争』(マイン・カンプフ)の中で、“血の純潔”を力説していたが、日本の独裁者もまた、それを早くから叫んでいた。
 こうして“東條結婚”が下命された。優秀な学生たちの子種を、やがて再び国家のために……というわけだった。ムザムザ死地に赴く学徒兵の結婚は、国家的要請として神聖視され、軍当局もまた特別休暇を与えて、これを奨励した。

 わずか数日、もしくは数ヶ月の、はかない“子種を残す”ためのみの結婚式が日本各地で行われ、生娘も同然の新妻たちは“軍国の妻”として賞揚された。
 だが、この学徒兵たちの死が栄光を失う日は、すぐにやってきた。遺された妻と“東條結婚”の遺児たち。

 1944年(昭和19)10月26日の未明、学徒兵の特攻第1号として南海に散った植村真久・元海軍大尉のケースから、何が伝えられるのだろうか。
 その朝、神風特攻隊大和隊員として、フィリッピン・スリガオ海峡沖に出現した空母4隻を捕捉、日の丸の鉢巻姿も凛々しく、群がる米軍戦闘機をかきわけ、爆弾を抱いて空母めがけて体当たりした。その植村機の最後の操縦は、同行した味方戦闘機によって確認されていた。

 植村大尉は1943年秋に立教大学から海軍に入隊した予備学生13期生。一緒に入隊した“同期のサクラ”総員4726名のうち、3分の1にあたる1535名が戦死している。

 戦局の不利を一挙に挽回するためには、生身の人間を爆弾とともに敵艦にぶつけるよりほかはないと、一機一艦撃沈の指名を受けた特別攻撃隊の8割以上が、この学徒兵だったのだ。その先陣をきった植村真久大尉の名は、当時の新聞にも、
  学徒、今ぞ答えたり 大和隊 敵艦命中の勇士
 と大きく報道されたし、少尉から二階級特進して大尉になり、連合艦隊司令長官からも、その殊勲を全軍に布告されたものだった。
 だが、この戦死のとき、すでに植村さんには、生まれて半年目の一粒種、素子ちゃんがあったのだ。

 それから16年(この記事掲載は1959年)。遺児素子さんも立教女学院中等部の三年生。母の芳枝さんと一緒に率直な亡き父への死について、率直な想いを吐露していた……



 
 松井チーフがさらに注文を出す。
「世田谷の奥で東條英機夫人の勝子さんが健在だ。東條結婚という言葉をご存知かどうか、訊いてきなさい」
 古いお屋敷の門を叩いた。が、娘さんらしい女性が応対に顔を出して名刺を受け取っただけで、勝子夫人にお会いすることはなかった。
 
 編集部に戻ってから、そのことをありのまま報告すると、「ご苦労」と肩をポンと叩いてくれた松井チーフ。そのあと、立て続けに次のテーマを告げられるのだが、それは「学徒 海軍水中特攻隊」という同じ路線を踏襲するものだった。ちょっと待ってください。悲鳴をあげながら、たとえばこんなテーマがありますけど、やらせてください、と生意気にも申し出た結果……。
                       (この項、続けます)
Posted at 2016/09/19 21:58:38 | コメント(4) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2016年09月16日 イイね!

首都高湾岸線で『プロパイロット』味見ドライブ

首都高湾岸線で『プロパイロット』味見ドライブ〜なんだ、この絶妙すぎるステアリングの動きは!〜

 ドライバーズ・シートに腰をセットしてから、事務局の若手車両担当から「プロパイロット」の扱い方の説明を受ける。なんだか、PCやスマホを使い始めた時の、初々しい気分になった。



① まず、ステアリングの右側に配置されているスイッチ群からはじまった。右端がブルーで描かれた「PILOT」の文字。これでプロパイロットの電源オン・オフができる。
② 次にセンターの下側、「SET −−(マイナス)」スイッチONで、プロパイロットの開始「OK」。また、プロパイロット制御中は、設定車速を下げる時にも使用。
③ スイッチ群上端の「RES(レジューム) +(プラス)」で前回設定した車速で再開できるし、プロパイロット制御中は、設定車速をあげることができる。
④ 中央にある「CANCEL」。このスイッチで「プロパイロット」の制御を解除する。
⑤ 左側の「前方に車あり」をデザイン化したマークつきの縦長スペースは、車間設定を「長」「中」「短」の3段階に切り替えるスイッチ。





 さて、このスイッチ操作を表示されるセンターディスプレイで確認しながら「プロパイロット」のサポートに身を委ねてみるか……。おっといけない、大事な質問を一つ、忘れていないかい? 

「そうだ、プロパイロットで走行中、濡れた路面にさしかかるとか、突然、雨が降り出した場合に、どうなるのだろう。制御がキャンセルされるとか、その辺が気になっている……例えば、わたしのプログレに装着されているレーダークルーズコントロールは、ウェット路面ではセットできないし、走行中でも雨に見舞われたら、警告マークが表示され、つづいてキャンセルされるようになっていますが……」

★参考資料 プログレの「レーダークルーズコントロール」の詳細




 待っていました、とばかりに若手車両担当の声に熱が入った。
「ワイパーを作動していない状態なら、支援操作は継続されます。動作に一定の間を置く間歇(かんけつ)の設定ですと、システムはそのまま続行され、1段階目のLOWでステアリングの操作が停止し、速度設定や車間距離の調整はそのままです。HIGHにすると、システムはスタンバイの状態になって、ワーパー動作がなくなると復帰します」

「了解! では行ってきます」
 多分、それは浮き浮きした気分のハイな声だったろう。

 陽の当たらない地下1Fの暗がり基地から、華やかな「みなとみらい」の表通りへ。一旦、左折して次の交差点を右折する。あとはNAVIの指示通りに進めば、首都高速湾岸線の「みなとみらいIC」が口を開けて待っているという。

 試乗コースは2種類。撮影ポイントとして「横浜港シンボルタワー」はいかがですか、往路は高速道路を10km/25分ほど走ってから、新山下ICで一般路に降りて、本牧埠頭方面を目指していかがですか、とお誘いの言葉。
 が、この日のテーマは「プロパイロット」セリナの味見ドライブである。当然、ひたすら走る試乗ルートを選ぶ。往復、約43km/40分、八景島シーサイドパラダイスの手前の幸浦でUターンしてくるコースである。



 指示通りに「みなとみらいIC」から首都高速湾岸線に乗った。
 右手にチラリと横浜スタジアムが見えた。様子見でまず左側車線を走る。センターディスプレイの「PILOT」ランプが点いている。アクセルは、当然、右足を添える程度である。

「80km/h」に設定している「プロパイロット」。同じ車線の前方に同じ程度の速度でクルージングしている先行車を捉えた途端、ごく自然に減速する。と、いきなり雨粒が襲ってきた。


*突然、雨がフロントウィンドウを叩き始めた!

 フロントグラスが一瞬にして雨滴のスクリーンに変貌した。お、これだよ。待っていたシチュエーションがこんなに早く訪れるとは! ワイパーをまず「間歇」にセット。が、何も変化なし。では「LOW」に、とセットしたところで、雨脚はあっさり途絶えてしまう。通り雨だったのか。残念。先に報告しておくが、この後、天候はあっさり回復し、2度とワイパー操作をすることはなかった。再びセレナは「PILOT」支援の走行状態に復帰してしまった。

 最初の「石川JCT」を過ぎるとすぐに「本牧JCT」。羽田空港方向からレインボーブリッジを経由する大黒線が合流し、そのせいもあって大ぶりなRが連続する。その先が三渓園、磯子と右側が丘陵、左が東京湾。なぜ、こんなに外の景色がよく見えるのかな。それもNewセレナの「売り」のひとつ、視界のよさ。ピラーが細い。ドアのフレームが細い。だから、やたらウィンドウの広さが目立つ。これば5ナンバーサイズのミニバンか、と驚かされる。





 ま、今回の単独試乗は「プロパイロット」が主題。実は、10月の後半に「九州自動車道」を舞台に二人が一組になって、じっくりといろんな角度から「セレナ」と付き合う予定ができている。そのときこそ、後部座席の2列目、3列目を体験するつもり。あれは故・徳大寺有恒さんに教わったことだが、ミニバンの「キングシート」は2列目のドラバーの真後ろの席だよ、と。その辺も確かめてこよう。 

 プロパイロットに身を委ねたセレナは、右手の三渓園を抜ける大きなコーナーを、滑らかに抜けようとしている。ステアリングが小刻みに修正を試みている。その微妙な動きが、軽く添えた両手に伝わる。
「動きすぎだよ! コーナリングのラインが違うよ」
 つい叱りつけてやったが、どうやらシステムの頭脳が、車線の中央を走るようにステアリングワークを指令しているためらしい。
 そうか、と納得。ガンさんあたりはふき出してしまうのだろうか。指定速度の80km/hだ。この程度のコーナリングでは、Gも小さいものだ。
 PROPILOTが対応するコーナリングGは上限がどのくらいなのか? 宿題を貰ってしまった。
 

*コーナリング中のショットをスマホのカメラにおさめようとして、ステアリングから両手を、一瞬、放してしまったら、即座に警告を食らった。ステアリングマークに手の形が点いてしまった。




*大黒PAでこの写真を撮りたかったので、つい道草を…… 

 そして「幸浦IC」で一旦、一般路に降りてからUターン。同じルートを横浜へ向けて、今度は車速を104km/hに設定し直して首都高速湾岸線を北上する。
 小さなコーナーでもあれば、コーナリングGの様子を探ることができたかもしれないが、残念ながら、首都高速湾岸線には、それがない。やるなら大黒PAへのループだな。

 時計を見る。
 まだ午後3時前。時間はある。ちょっと大黒パーキングエリアに寄り道し、コーヒーの一杯でも飲んで帰りたくなった。確か、本牧JCTを右手に行けばいいはずだ。道草もまた楽しからずや、である。評価はそれからだ。

 そして肝心のループでの「テスト」は、すぐにのんびりさんの前車に阻まれ、実験するまでに至らなかった。
        (この項、10月末の九州自動車道試乗レポートへつづく予定)
Posted at 2016/09/16 02:21:52 | コメント(5) | トラックバック(0) | 還暦+20歳の青春 | 日記
2016年09月09日 イイね!

『プロパイロット』セレナを味見ドライブ!

『プロパイロット』セレナを味見ドライブ!その序章として〜

 選(よ)りによって、やっと訪れた試乗指定デイは台風13号に邪魔されそうな気配。横浜みなとみらい地区の日産グローバル本社に、遅くとも14時には着いておきたい。

 9月8日朝の東京。雲行きが怪しい。午前10時になるのを待って、新型セレナイベント事務局に問い合わせた。すぐに応答があって、今のところ、横浜地方は問題ない、とのこと。ともかく、運否天賦、12時前に西武池袋線富士見台駅から池袋へ出て、JR山手線経由の湘南方面直行電車に乗り換えた。



 1991年にデビューしたセレナは今度で5代目とか。正直言って、その頃のミニバンなはほとんど興味が持てなかった。それが今回のセレナには、やたら好奇心を刺激されている。「同一車線 自動運転技術」と断り書き付きの「プロパイロット」とやらを、ともかく実際に体験したかったのである。


 


 取り寄せた広報資料によれば、
「プロパイロットは高速道路などの自動車専用道路において、ドライバーが設定した車速(約30〜100km/h)を上限に、先行車両との車間距離を一定に保つよう抑制することに加え、車線中央を走行するようにステアリング操作を支援し、ドライバーの運転をサポートします。また、先行車両が完全停止した場合、システムが自動的にブレーキをかけて停車するとともに、ドライバーがブレーキを踏むことなく停止状態を保持します。さらに、先行車両が発進した際は、ドライバーが簡単な操作をするだけで、追従走行を再開します。これにより、高速道路の渋滞走行や長時間の巡行走行時に感じていたストレスを大幅に低減し、今まで以上に家族全員でロングドライブを楽しめるミニバンを実現しました」
 と、まことにわかりやすく、要点を抑えた説明である。ポイントがはっきりしている。

 この14年間を、ともに暮らしてきたわがプログレNC300 iRバージョンはデビュー当時、次世代のカーライフを見据えた先端装置として「レーダークルーズコントロール」を装着して注目を集めていた。車速設定は40〜108km/hまでで、先行する車をレーダーがキャッチすると減速し、車間距離を保つと適宜、加速する装置であった。

 これが自慢のお気に入りだったが、難点は天候の変化に対応できないこと。ウェット路面になるとキャンセルされてしまうだらしなさには、目をつぶらざるを得なかった。

 その点、今度の「プロパイロット」がどうなのか。この不安定な天候は絶好のテストステージだと、浮き浮き気分で横浜へ向かっていたのだ。

 横浜駅着。午後1時30分。中央改札口から地下道、そして日産グローバル本社ビルへ通じるプロムナード橋を急ぎ足で渡る。横殴りとまではいかないが、結構な雨足で、透明な屋根を濡らし始めた。やっぱり絶妙の舞台装置到来である。

 2階で受付を済ませ、5階のミーティング・ルームに案内される。先着のモータージャーナリストの何人かがすでに試乗を済ませたらしく、セレナの開発チームの担当者たちと、コーヒーを飲みながら歓談していた。

「今なら、直ぐに1台、用意できていますが……」
 事務局の青年が声をかけてくれる。
「そうだね。雲行きも怪しいし、お願いします」





 地下1Fの、いつもの広報車基地に案内された。キーを受け取って、スライドドアの下に足を入れる。一瞬の間をおいて、静かにドアが後方へ滑る。ちょっとした「おもてなし」だが、これって便利なのでやってみたかった。カメラバッグ類を2列目席に置いて、いよいよセレナに乗り込んだ。ハイウェイスターG プロパイロットエディションというトップモデルで、セレナをオーダーしたお客様の70% がこの仕様です、と嬉しそうに若い担当者が説明してくれる。ちなみに車両本体価格は消費税込みで3,011,040円。これにオプションが約40万円強とか。



 持ち時間は1時間。予め、金沢八景手前の幸浦でUターンするコースをNAVIに設定してあります、とのこと。みなとみらいの入り口から高速に入って、本牧ジャンクションから、首都高速湾岸線を南下するコースだな。往復、約43kmだという。ま、近年、何度も走っているルートだから問題ない。それよりも、「プロパイロット」の設定・操作法の説明をよく聞いておかなくっちゃ。

 ……と、ここまで書き進めてきたところでタイムアップ。9日、午後4時から「2017年次RJCカーオブザイヤー選考に関する説明会」が、いつもの青山・アイビーホールで開かれるとあって、そろそろ出かけなくてはならなくなった。こちらも大事なテーマを抱えている。ことしこそ、いよいよポルシェのノミネートが実現する気配だ。カーオブザイヤーの季節、到来である。

 この続きは、どちらも、また後ほど。
Posted at 2016/09/10 00:02:24 | コメント(1) | トラックバック(0) | 還暦+20歳の青春 | 日記
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「ウルトラの夏が燃え出した。左腕の伊藤将司が7回まで無得点で丸め込む。サト輝が6回。お約束の1発。8回の男・石井から9回は定石どうり岩崎へ。ところが最近のこのストッパー、ちと威力を失くしつつある。で1点を奪われ、なおも1死2,3塁で打球は右翼へ。森下が捕った!そして本塁へ投げた‼」
何シテル?   07/14 20:54
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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