〜「戦争もの」から脱出する秘策は実を結んだものの〜
小学校高学年のとき「アカちゃん」の仇名をつけられた。だれがいいだしたかはっきりしないが、おそらく5〜6年生の2年間を担任いただいた、山本半七先生だったろう。
中学校に上がってからも、世の中に出てからも「まっサン」とか「マサやん」と呼ばれたのに、あの時代だけ、意味のわからない、変な仇名だった。

*小学校6年のクラス。真ん中が山本先生。焦土期から立ち上がったばかり。向かって前列、左から2人目が筆者。下駄履きですね。
どうやら発言がいつも過激で、みんなが右を向いている時に、ひとり左を向きたがるところから、山本先生が「あいつはアカ(赤)だ」と、軽く色分けしたところから「アカちゃん」と仲間内で、愛称となっていたらしい。
折から、太平洋戦争の終結により、軍国主義は「悪」であり、「民主主義」こそが正義である、と俄かにに軌道修正を断行した時代であった。
子供たちの世界も、先輩優先のルールが壊されて、みんなが平等で、何事も話し合うルールが成立した風に見えたが、それは建前だった。何かにつけ腕力のあるものが大将という、九州男児の風潮が簡単に変えられず、実態はちぐはぐで、小柄だがちょっとばかり鼻っ柱だけは強かった「アカちゃん」は、何かにつけ「不条理」に対して「それは違うとるバイ」と刃向かっていたらしい。

*大学受験用に撮ったもの。
後年、大学受験で早稲田大学を志望した。政治経済学部新聞学科、文学部ロシア文学科、教育学部社会学科の3学部を受験し、文学部と教育学部から合格の知らせが届いた。政経は無理だろう。本命は露文、教育学部は滑り止めだったから、当然、露文に進むつもりだった。ツルゲーネフに憧れていた。
ところが、親父が猛烈に反対しだしたのだ。親父は息子の正体を知っていたらしい。
「文学部としか聞いていなかったぞ。露文(ロシア文学科)なんてとんでもない。それでなくても、お前の仇名は“アカちゃん”だぞ。そっちの方向に行くに決まっとる。そんな奴に学費は出せん! 教育学部に行け!」
いまにも真剣を取り出してきそうな気迫だった。そこでかっこよく初心を通して、学費は自分で稼ぐ、露文に行く、と踏ん張れていたら、人生はもっと違っていただろう。そんな岐れ道に、それからもいくつも、いくつもぶつかるのだが……。

*父・徳一。あの時ばかりはすごい気迫だった。ありがとう、よく止めてくれましたね。

*無事、進学。角帽もやっと似合ってきて、日光までの短い1日旅を。
さて、これでやっと、本題に入れた。
創刊して第15号目に当たる7月19日号で、トップ記事に当たる『遺された戦歿学徒の妻子』という「戦争もの」特集記事を担当し、徹夜を重ね、やっと解放されて一息つけると思ったら、松井チーフに「ご苦労」と肩を叩かれ、次のテーマを告げられた。「人間魚雷・回天」などで出撃しながら、幸いにも生きて帰ってきた「海軍水中特攻隊」の人たちと連絡がとれたから、彼らが15回目の「8月15日」をどんな想いで迎えるのか、それを特集するから、と。
いまの時代なら、遺しておきたい「時代の証言」としてぜひ関わりたいところだが、当時はまだ戦中、戦後の記憶も生々しく、実は「戦争物」というだけで抵抗アレルギーが蠢いていたのだ。
「え⁉︎ またやるんですか?」
少年時代に「アカちゃん」と仇名されたほどの「心情左翼」の駆け出し週刊誌編集部員が悲鳴をあげながら、それでもしぶとく、プロ野球物でちょっとしたスクープ物がありますけど、やらせてください、と生意気にも申し出た。その結果は……というのが前回のエンディングだった。
57年前の「週刊現代」 昭和34年(1959)8月2日号の目次を見てみる。
「特集」は3本である。
予定通り「学徒・海軍水中特攻隊−—−彼らはいかに志願し、いかに死んだか」が8ページを割いてトップに。
あとは柔らか物で「女はますます強くなる−−−多くなった男の性生活苦」と、ちょっと硬派物で「生きている中野スパイ学校−−−その実態と出身者の活躍」が並び、続いて『特別読物』として「オリオンズ極秘の大バクチ−−−パ・リーグ制覇と読売打倒を図る秘策に実態」を用意しているが、これがわたしの提案した「スクープ物」である。ご存知だろうが、「オリオンズ」とはいまの「千葉ロッテマリーンズ」の前身球団だった。
−−−−(昭和)25年、タイガースの主力を強引に引き抜き、パ・リーグを分立して、東京に旗挙げしたオリオンズだが、読売巨人軍の隆盛にひきかえ、来る年も、来る年も、人気があがらない。そこで打った強行手段! プロ野球の主導権を奪わんとする大毎の野望を公開すれば……。
そんな前書きではじまる5ページものの「特別読物」を、少しトレースしてみようか。
まず、不人気からの脱出を目指してその春、球団代表を更迭し、親会社の毎日新聞経済畑出身を営業部長に据え、他球団のやらないサービスから、人気拡張を図った様子から始めている。
(昭和34年のシーズンがスタートすると)大毎オリオンズがその主催ゲームに限って、こんな場内アナウンスが流れ始めた。
“映画に伴奏が入るように、もし野球に伴奏が入ったとしたらどんなものでしょうか。そうした考えから生まれたのが、プレーの合間に演奏される電子オルガンです……”
“ファウルボールを取った方には選手のサイン入りボールと飾りバットを差しあげますが、この試合の第1ファウルボールをお捕りになった方には、そのほかにオリオンズ浴衣をお贈りいたします”

*現代はグランドもスタンドも一つになってプロ野球を楽しんでいる。ファウルボールだってキャッチしたもの勝ち。応援歌はもちろんのこと、選手個々のテーマソングまで用意されている。その先駆けを果たしたのが、大毎オリオンズだった、
いまの時代なら、当たり前のサービスだが、当時としては観客側目線の斬新なアイディアであった。とくにファウルボールをサインボールと取り替える大毎オリオンズのシステムはヒットした。ある都内の高校野球部員がボールを豊富に購入する費用がないので、後楽園球場に出かけてグラブ片手に、ファウルボールを追った、というエピソードまで生まれた。ほかの球場では余計なことすると渋い顔で、未だにスタンドに入ったファウルボールは取り返すところもある……。
ファウルボールと交換するサインボールは、大毎のものが一番いい。他球団のサインボールは、見かけは硬球だが、触ってみると皮がブカブカ。お値段も200円程度の純粋なサインボール。大毎のものは実際の試合球の古ボールとか不良品に、新しく皮を張り替えたもの。だから手に持った感じは本物の試合球に変わらない。それらのフロントのサービス活動が実を結び始めていた。
そうなると、本当にチームを強くするための秘策はあるのか、というのがこの記事の本当の狙いだった。
ともかく当時の大毎の打線は「大リーグ級」と称され、ミサイル打線の異名を取ったほど猛威をふるっていだが、何分にも投手陣が貧弱だった。
*弱体が懸念されていたオリオンズ投手陣。後ろ左から、中西、三浦、前左から小野、植村の各投手。
そこで浮上したのが大型トレード案。後年「世紀の大トレード」と謳われたものの予兆がそれだった。それも二つ、あった。
それをスタートしたばかりの一週刊誌がすっぱ抜こうというのだ。加えて担当は一年目の新人編集部員に過ぎない……ということで今回も、ここで一休み。とんでもない黒幕でもいたのだろうか。