〜わたしの逢った『西郷吉之助』秘話・その序章として〜
【西郷隆盛の肖像画・国立国会図書館蔵】
陽だまりが暖かい。残念ながら西の空には薄雲が広がって、前日までクッキリと大山山系からはみ出していた富士の姿は拝めない。
1月15日は昭和23年(1948)から52年間、平成11年(1999)までは「成人の日」として祝日の一つであって、それなりに「目立つ」存在だった。それがハッピーマンデー制度の導入された2000年からは、「ただの日」に成り下がってしまった。
残念だ。というのも単純な私的理由に過ぎない。あれは小学校六年生になったその年だった。なぜだかその年から、わたしの誕生日が「祝日」となって、いつもお休みになり、20歳になる男女が競って晴れ着を装い、国中でそれを祝うようになった。
「ウチの誕生日ば、国じゅうが祝うてくれちょる」(北九州弁)
つまり、それ以来、その日はいつも「休日」ということで、中学から高校にかけての時代には、仲間と近辺の山を一つ一つ、征服して行く約束を交わした。小倉の足立山、平尾台、八幡の帆柱山、皿倉山、そして門司の風師山。そのうち、筑豊につながる北九州の主峰・福智山まで足を延ばす約束だったが、それはついに果たされなかった。

*高校一年生時代(1952年)の成人の日。向かって右から3人目のわたしだけが「八幡高」の学帽。他の5名は「小倉高」。小倉南郊の「菅生の滝」まで遠征。
その当時の仲間の顔を思い出してみる。そうか、あいつも、こいつも、ほとんどみんながすでに、彼岸の人となっているのか。
2018年1月15日。この日より当ブログの「カテゴリー」に『還暦+青春の22歳』を新しく設けることになった。多分、1月19日(金)にSUZUKIの新型スペーシアと、その後を追っかけるようにして投入された新型クロスビー(XBEE)の試乗会で、いつもの「ニューオータニ幕張」の基地まで出かけるので、そのレポートから、ということになるだろう。
スペーシアはその「カスタム」バージョンの試乗を狙っている。1機種60分が約束されている。おそらく東関東自動車道を使って、佐倉の街の入り口くらいまでは往復できるはずだ。5速MTスイフトRSの続編がものできるかもしれない。期待してもらってもいい。

*スペーシアカスタムと鈴木社長

*狙いはクロスビー
さて、昨夜はNHKの大河ドラマ『西郷どん』の第2回が放映された。第1回を見て、楽しみに待っていた。この回から、西郷隆盛は「小吉」から「吉之助」に名前が変わって、注目の主役を鈴木亮平が演じている。郷中という士族階級の子息を鍛える教育組織から「卒業」して、郡方書役助として、下っ端ながら藩務に励んでいるところからストーリーが展開していた。ま、定石通り、といえた。
実は、わたしが注目したのは第1回のオープニングシーンだった。西郷隆盛が鹿児島・城山で自決してから21年後、1898(明治31)年12月18日に行われた西郷隆盛像の除幕式のエピソードから始まったのである。
場所は、あの上野公園。幕が除かれ、愛犬を連れた着流し姿の西郷隆盛が、そこにいた。除幕式に参列し、その銅像を見た黒木華の演じる糸子夫人が抗議ともつかぬ、驚きの声をあげる。
「……ちごう、ちごうッ……宿ンしはこげん人じゃなかったこてエ! (違う、違う。うちの人はこんな人ではなかったのに!)と。
糸夫人子の驚きは、隆盛の容貌が違っている、というよりも、服装に原因があった。確かに、当時の感覚からすれば異様である。少なくとも、人前に出るような服装ではない。それを「親しみを持たせるためにあえてあの姿にした」と解釈する向きもあるが、実は、本来の軍服姿にしたかったという説もあり、いろいろと裏があって……。
このエピソードは西郷の孫である西郷吉之助(1906〜1997)から聞いた、と『西郷隆盛(1)』朝日新聞出版)の著者、海音寺潮五郎さんが記したものだが、今回の『西郷どん』はそこから始まっている。となると、今回の大河ドラマの原作は林真理子さんの『西郷どん』(角川書店)の書き出しはどこからだろう、と気になった。
早速、駅前の書店までぶらり歩きで。第1巻を購入。目を通す。違った。原作の書き出しは、上野公園・西郷さんの除幕式ではなく、明治37年(1904)10月12日の京都市役所、新しい市長が着任する日の出来事を捉えていた。その市長はただの官僚ではない。なんとあの西郷隆盛の息子だというのだ。西郷菊次郎。出迎えた職員の前に現れたのはフロックコートをさりげなく着こなした、ほっそりとした長身の男だった。しかし、右足を引きずっている……。
予想外な書き出しだった。どうしてTVの方は、他の作家の書いたエピソードから始めたのか。新しい興味が湧く。というのも、わたしは他の作家=海音寺潮五郎さんの「情報源」である「西郷吉之助」に何度かお目にかかっているし、ご本人から「糸夫人の抗議」についても聞いていた。それだけではない。参議院議員であった「西郷吉之助」氏を上野公園までご同行願い、隆盛像の前で写真まで撮らせていただいている……。そして、1960年(昭和35)の週刊現代(3月6日号)で『特別寄稿・明治の歴史は大ウソだ!』という手記を6ページにわたって掲載しているのである。
*「週刊現代」昭和35年3月6日号の目次
沸々と往時の記憶が蘇ってくる。折から「明治150年」に因んで、様々な出版物やTV番組が妍(けん)を競っている。こちらも、ちょっと腰をすえて、取り組んで見たくなった。
★ ★ ★ ★
その「西郷吉之助」にお目にかかったのは、1960 年(S35)の正月休み明けであったと記憶している。当時53歳。大柄で黒ぶちの眼鏡。あの「西郷さん」の面差しが目の前にあった。わたしは創刊してまだ1年にも達してない『週刊現代』の、まったくの駆け出し編集部員。参議院議員会館の一室であった。60年安保の争乱舞台となる直前の国会周辺は、すでに物々しい警備態勢に入りつつあった。デモ隊が国会に突入、東大の女子学生が圧死したあの事件の起こる5ヶ月前である。
カメラマンとテープレコーダーを携えた速記記者を同行して、あの西郷隆盛を祖父にもつ参議院議員(3期目)から、征韓論に敗れて故郷・薩摩に帰ってからの「西郷どん」の「無念の想い」についてインタビュー取材をすることになっていた。
すべてがアナログだった。いまのようにボイスレコーダーなどで簡単に録音できる時代ではなかった。テープレコーダーがやっと普及し出したところで、貴重品であった。
わたしの書き上げた原稿は、編集長が目を通し、OKを貰い、続いて西郷吉之助ご本人の了解をいただいて『週刊現代』の誌上を飾った。それをひとまず、忠実に、再現して見た。その第1章だけでも、ともかくご一読していただきたい。

*上野公園・南洲銅像の前で。吉之助参議院議員
[特別寄稿]
明治の歴史は大ウソだ!
「勝てば官軍」の 歴史に物申す
西郷吉之助
「勝てば官軍」。歴史も勝者によって書き上げられるのか。西郷隆盛は、明治の歴史の中に不利な立場に塗り固められてしまった。その孫が、初めてあかす明治史の真相。
【筆者略歴】 明治三十九年(1906)七月、東京に生まれる。五三歳。学習院から東北大法文学部卒。日本興業銀行、南方開発銀行、貴族院議員を経て、現在参議院議員。画号、南山。元侯爵。
祖父の死を彩る悲劇性
西郷吉之助−—−−祖父隆盛の幼名だが、今では私の名でもある。父寅太郎は兄の隆輝、隆幸、弟の隆永、弟の隆永、隆国、隆正とみな「隆」のつく名をつけているが、三男の私には祖父の幼名吉之助をつけてくれたものだ。けっして代々襲名するものではないことを断っておきたい。
私に祖父の名をくれたその父は、私が小学校を卒業する年の元旦に亡くなったが、いつもお前がもう少し大きくなったら祖父のことで伝えて置かなければならないことがあるといっていたがそれをいわないままに亡くなった。
当時の私には何のことかわからなかったが、いつまでも耳に残っている。長ずるにしたがって何とかそのことをつきとめたい念願した。そして、二〇余年の政治生活を送り、いくたの政変、政治工作を見るにつけ、父のいっていたものの本体が、何であるかがやっとわかるようになってきた。
祖父南洲は、明治十年西南戦争で国賊の汚名を浴びたまま、城山の洞窟でその生涯を終えた。その祖父が、かの中世フランスの騎士ベイヤールさながらに武士の鑑と仰がれ、現在でも日本国民に親しまれている。しかしこれは、祖父の死を彩る悲劇性が、国民感情に受けているのであって、政治指導者として歴史に残る西郷隆盛は、膨張政策強攻論者であり、不平士族の首領であり、内乱の誘発者であり、旧式な封建謀略者であると後世の歴史家に決めつけられている。
先年カイロで自殺した駐日カナダ大使で、日本近代史の研究者として有名なE・ハーバート・ノーマンも「西郷の膨脹論と私学校はある意味で、現代日本の膨脹論者および右翼指導者の原型をなすもの」だといっている。したがって、祖父の人気が欧米人にとって不思議な現象としか受け取れないのだ。
なるほど、そう思うのも無理ないし、当然なことかも知れない。それは欧米人が、明治歴史の定説に登場する祖父しか知ることができないからだ、と私は思う。では、明治の歴史とは何か?
明治に歴史を論ずるに当たって、征韓論と西南戦争を無視しての明治史はあり得ない。それほど重要な山なのである。ところが、この征韓論の中心人物は祖父のようにいわれている。どの歴史の書を繙いても、征韓論の首謀者は西郷隆盛であり、岩倉具視、大久保利通らはこれに反対したことになっている。
*明治10年の西南戦争を描いた錦絵(国立国会図書館蔵)
しかも、征韓論のあと、祖父が辞職し鹿児島に帰って十年戦争−−−−つまり、西南の役が勃発した。その内乱の導火線が、私学校生徒の政府弾薬掠奪ということになっている。しかし、我々はその通説を真正直に信じていいものかどうか。
故徳富蘇峰も「征韓論と西南戦争の真相の秘鍵は、西郷南洲が何者であるかを知ることだ。しかも南洲ほど多く世に知られ、かつ知られざる者はない」と、その著にしるしている。
そこで、いろいろ問題はあるが、この二点を中心にして明治維新史を再検討してみよう。
例の手ば喰らい申したわい
征韓論の議論は、明治六年を中心にして起こったものだが、これは結局西郷派と大久保派の争いに他ならなかった。
西郷派には板垣退助、副島種臣、江藤新平、後藤象二郎があり、大久保派には木戸孝允、岩倉具視があった。
征韓論議で両派が激突したのはなぜか。慶応三年(1867)十二月九日、王政復古の大詔が渙発された当時に遡る。
西郷は王政復古派、大久保は公武合体派。この公武合体論は一種の妥協案で、天皇を中心とする同盟列藩(徳川家を含む)の合議体論。で、鹿児島藩で藩政改革でも王政復古派が勝って、参政の重職は西郷派が占め、大久保、西郷間の感情が刺激され、両派の争いが顕在化した。
次のステージは王政復古の論功行賞。大久保、木戸は総花的に、特に上層部に厚く、例えば三条太政大臣、岩倉右大臣が五千石、木戸、大久保は千八百石従三位、祖父は正三位二千石、西園寺公望などは三百石に。

*大久保利通(国立国会図書館蔵)
ところが祖父はこれを辞退した。王政復古は、戊辰の戦争をはじめ幾多の人命をかけて初めてできたもので、いま生きているものだけがこうして論功行賞に浴するのはよくない。自分の如きは、藩主が従三位なのに、殿様よりも高位につくことはできない、と断った。
こういうところが、後世、祖父が封建思想を脱し得なかった旧式な人間として指摘されたのだろうが、後輩に対しては人情の篤い、いわば親分肌であったことは事実だ。これでまた西郷、大久保の間に溝ができた。
明治四年、岩倉右大臣を大使とし、木戸、大久保を副使とする、いわゆる欧米視察があった。ところが、祖父は自分の目で欧米を見ておきたいと希望したが、そうなると大久保が裏で工作して行けないようにした。
こんな話がある。天皇から呼び出しを受けた祖父がちょうど昼ごろ引き下がって御所の玄関を出るとき、時の外務卿の副島種臣に出くわした。
「先生、なんでしたか?」と訊かれたが、祖父は「副島どんか、例の手ば喰らい申したわい」とわらいで紛らしたそうだ。副島はどうも意味が取れないので、用を済ますと後を追ったという。
「さっきのことはどういうことですか?」
「いや、お呼び出しば受けて、参内してみると、岩倉などが欧米に行くが、お前は留守を頼むと口説かれ申した」
大久保、岩倉が祖父を説得する常套手段がこれだったのだ。
そこで、三条が祖父をはじめとする留守内閣を作るわけだが、岩倉、大久保の智謀は、こんな時に遺憾無く発揮されて、視察団と留守内閣の間に重要な取り決めをした。
一つは「大使の留守中は、内外の政治は細大となく改革を加えざること」
その二は「文武の官吏は勅任はもちろん、奏任、一般に列するものに至るまで、みだりに人事異動をせざること」つまり転勤、転職を勝手にやってはいけないということだった。
ところが、必要に迫られたこともあって、留守内閣が大いに改革をやった。
その頃から当時の日本に押し寄せた時代の波が一つになり、大うねりとなったのが、実に世にいわゆる征韓論であった。
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本日は、ここまでとしよう。ここからが「明治の歴史は大ウソだ!」の肝の部分となっていくのだが、ひょっとしたら、今ではそれが定説となっていたりして……。

*卒論の表紙。全てが手書きで、大隈書店で造本した。提出から30年が経って、早稲田大学は本人に返還してくれたので、今は手元に。ありがたいシステムである。
時を経て、今になってやっと読み取れたことが、一つある。なぜ、新入社員のわたしが担当に指名されたのか、ということだった。それに聞き書きもわたしに任されていた。わたしにしては願ってもない企画だった。なぜならわたしの大学卒業論文が『明治維新指導者とマキャヴェリズム』で、卒論担当の服部辨之助教授から、狙いが新鮮だ、世の中に出たらぜひ掘り下げたらいい、とそれなりの評価をいただいていた。
こんなドンピシャリな機会を、なぜ編集長が指名してきたのか、実はずっと分からないでいた。そうか、と膝を叩いた。キーワードは「海音寺潮五郎」だったのか。この辺は、長くなったので、次回へ。
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2018/01/15 23:28:58