ここは元々は上野寛永寺の地所及びその子院の持ち物であったという。
所が明治の時代に政府によって大部分が取り上げられ霊園として整備されたという。
寛永寺は寛永二年に天海大僧正により開基され徳川家の菩提寺になったとの事。
正式には東叡山寛永寺といい西の比叡山に対して東の比叡山という事で東叡山と言う。
でも・・ここでオヤッと思う方もいるかもしれません。
徳川家の菩提寺は元々は芝の増上寺なんです。
菩提寺が二つになった経緯は初代家康から家光までに深い帰依を受けていた天海が江戸にも寺を作らせて欲しいといったのがきっかけになり、寛永寺が開基されたのが始まりですね。
埋葬されているのは、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、十三代家定が埋葬されています。
一方の増上寺は浄土宗で宗派が違いますが、
増上寺には2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂の6人の将軍の他、女性では将軍正室として2代秀忠夫人崇源院、6代家宣夫人天英院、11代家斉夫人広大院、13代家定夫人天親院、14代家茂夫人静寛院の5人、
将軍の側室としては3代家光の桂昌院、6代家宣の月光院など5人、その他、将軍の子女を含む計38人が埋葬されています。
初代家康は有名な日光東照宮に神として祭られています。
家康を尊敬していた家光は家康の傍に埋葬されたいと望み日光山輪王寺に埋葬されています。
さて・・・ここのどこにも埋葬されていないのは。15代慶喜ですね。
最後の将軍慶喜はどこに埋葬されたのでしょうか?
実は慶喜というのは水戸徳川に生まれ2代光圀(あの水戸黄門です)の辺りから
尊王思想が強い家柄でその思想を受け継いだのでしょうね。
神式で天皇と同じように埋葬して欲しいと生前、寛永寺に相談したそうですが、宗門の違うのは受け入れられないっていう事で元々寛永寺の地所である谷中霊園に埋葬されその後の子孫も埋葬されています。
谷中墓地に入れたのは元15代将軍であり、明治35年に公爵になった事で実現したそうですが、その為に一橋家の家臣でこの頃に実業家になっていた渋沢栄一の働きもあったそう。
経済的には渋沢が株式購入、国債の購入に尽力して慶喜家を維持していたようです。
その為か?
渋沢栄一と妻、息子の墓も谷中霊園にあります。

青天を突けの影響か?
以前よりもかなり綺麗になっていました。
こちらも谷中霊園にある

徳川慶喜が養子に入った 一橋徳川家の墓所です。
ここもとても大きい墓所です。
仏式で埋葬されています。
続いて

勝精(かつ くわし)と読みます。
徳川慶喜の10男であり、勝海舟の孫娘と婚姻し勝家を継いだ訳ですが、
勝家の墓所に入るのを拒み谷中霊園に神式で埋葬されています。
ちなみに屋敷内に村田鉄工所というのを作りこの時のメンバーが、目黒製作所になりその後川崎重工に吸収合併されますが、この人なしには今のKawasakiというメーカーはないのだとか。
この辺り、父の慶喜に似ているのかもしれませんね。
慶喜もカメラや自動車など新しい物を色々と取り入れていたようですからね。

谷中 天王寺にある大仏。
このお寺には植物学者の牧野富太郎も眠っています。
この地域を散歩すると色々な発見があります。
そしてもう一か所気になっていた場所があったので少し距離がありましたが歩いてみました。

吉原で遊女が亡くなるとこのお寺に投げ込まれていた事からこの別名が付いたのだとか・・・
しかも何かの本で読んだ記憶に間違いがなければ裸にして藁で包んで投げ込んだとか書いてあったので、死して尚人としての扱いがなされなかったという事なのでしょう。
なんだかねぇ・・・
ここに着いた時には時間的に門が閉まっていたのでここまで今回のぶらり旅を終わりです。
ホント久しぶりに歩きました^^;
Posted at 2024/03/31 10:53:03 | |
トラックバック(0) | 日記