
昔、うちの父が2ドア1200SL及び、バンに乗っていたので思い出深い車。
父の運転で助手席に乗った最後の車だった。(1986年廃車)
最後の日、「フンフン」音がするので、窓から顔を出して後ろを見たら、後輪がフンフン暴れていた!!
父に話したら、翌日廃車に。今思うとハブベアリングがイッたのだと思う。
以後10年、父は事情があって車を保有しなかった。
初期型CM
ランサーは「ラリーに勝つため」に作られた車だったという。
その為、ノーマル仕様は最高グレードの1600GSRでも装備もガサく、安っぽかった。
しかし、足回りをラリー仕様にすると低グレードでも抜群の走りを披露したという。
考え方は、初代スバル・インプレッサの開発当時と同じ考え方だった。
後期型CM
1986年、小学校から帰るとランサーはいなかった。
数日後、小学校の帰り道、「ガタンガタン」と音がするので振り返ると、4トントラックに積まれた、うちのランサーがいた。
うちのとすぐ分かったのは、当時、もはやこの型のランサーはうちしか見かけなかった事、そして前オーナーが外した「1200SL」のエンブレムを外した跡、そして父が自分で塗装した白車体に、車体下にうっすら残っていた元色のオリーブ色。
「今迄ありがとう。」手を振ってあげた。
今もナンバーが外されたランサーのテールが忘れられない。
父が休みで家で寝てる日は、後部座席で遊んだ。黒いレザーシートにしみ込んだセブンスターの匂い。
CMのような過激な走りは体験する事は無かったが、いい車だった。
今も、フリーハンドでランサーの詳細な絵を描ける位覚えている。
画像は5年前に某所で撮影。今も残ってるのかな?
レストアしたいと思って近くに寄ってみたが、サビが酷く欠品もあり、再生は難しそうだった。残念。
おまけ・韓国初の自社開発国産車 ヒュンダイ・ポニー。(1975~85)
三菱自動車と提携し、ランサーのプラットホームをベースにジウジアーロ・デザインの車体を作り、
エンジン・足回りはランサーながらも国産率90%で自信満々に初輸出を行った。
スタイルがイタル・デザインのあっさりしたフォルムが好評で、ベースとなったランサーよりも安く、内装もゆったり広く、使い勝手もいいと、最初の販売は絶好調だった。
だが、工作精度・材質不良によるトラブルが多発し、即座に評判が悪化し北米では半年で販売中止。
以後1990年代まで「ヒュンダイ⇒安物」呼ばわりされ、衝突安全基準も満たせなかったで北米輸出はされなかった。
韓国では大ヒットモデルで販売当時は約50%の車がコレだったが、今は現存台数は絶滅に近く、製造国でもソウル近郊の三星交通博物館でしか見れないという。
Posted at 2011/07/28 10:49:21 | |
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