タイトルは適当です(^_^;)
歴史が苦手な人でも「本能寺の変」くらいは何となく知っておられるかと思います。
実は私も子供の頃から歴史が大の苦手なひとり、というか得意な科目などひとつもありませんでしたが…
特に戦国時代の人物って似たような名前ばかりだし名前も変わったりもするので、もう誰が誰やら…と、まるでバカ丸出しですなー(汗)
そんな私も歳のせいか、それとも単に大河ドラマ『真田丸』などに影響されただけのミーハーなのか、近頃なんだか妙にこの戦国時代に興味を抱くようになりました。
私が生まれ育った魚津市という小さな街には、この戦国時代に魚津城がありました。
そして「魚津城の戦い」と呼ばれる大きな出来事が起きたのです。
余程の歴史好きでなければ知らないかもしれません。
自分が生まれ育った土地で起こった戦であり、その展開や結末に胸を打たれたことから、簡単に紹介したいと思います。
『魚津城の戦い』
魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい)は、天正10年(1582年)に行われた柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦い。上杉家(米沢藩)中条家文書・魚津在城衆12名連署書状を根拠とする 。
上杉氏と織田氏は甲斐武田氏や相模後北条氏に対して同盟関係にあったが天正4年(1576年)に織田氏の当敵である毛利氏のもとに身を寄せていた将軍足利義昭が反信長勢力を糾合すると上杉謙信は同じく織田氏の当敵である本願寺と和睦し、同盟は手切となり敵対関係に入った。天正6年に謙信が死去すると上杉家では御館の乱を経て上杉景勝が当主となり、景勝は信長の当敵である甲斐武田氏と同盟し(甲越同盟)、上杉・織田氏は引き続き敵対関係となった。
謙信死後、織田信長は北陸地方の支配を目論んだとされ、天正9年(1581年)に起こった荒川の合戦以後は、事実上、織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永、木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清され、北陸地方における織田氏方の基盤が作られていった。
天正10年(1582年)2月に織田勢は甲斐武田氏を滅ぼし、同年3月に織田軍は魚津城を囲んだが、背後で小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住の富山城を急襲し城を乗っ取ったため、天正10年(1582年)3月11日に柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政は魚津攻めを中止し富山城を攻めさせ奪還した。その後4万ともいわれる織田軍は魚津城への攻撃を再開し、上杉氏も3800ともいう兵を挙げ立てこもった。
包囲された上杉軍部将の中条景泰はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には、武田氏を滅亡させた織田軍がまだ駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとったため兵を出せなかった。その代わり能登国の諸将、および赤田城主斎藤朝信や松倉城主上条政繁を派遣した。そして景勝は天正10年(1582年)5月4日に、自ら軍勢を率い春日山城を出発、5月19日には魚津城東側の天神山城に入り後詰の陣を張った。一方織田軍は5月6日に二の丸を占拠したため、景勝は戦を仕掛けられず、信濃国・海津城の森長可や上野国・厩橋城の滝川一益が越後侵入の態勢に入ったため、5月27日に退陣を決断した。その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から3ヶ月後の6月3日に落城を悟った山本寺孝長・吉江宗信・吉江景資・吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重・安部政吉・石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将13人が自刃して果て落城、織田軍が勝利した。
景勝が撤退した後、上杉方は落城が近い事を悟った守将13人が自刃する際、自分の耳に穴を開けて、自分の名前を書いた木札を全員で結び自刃したという。 【Wikipediaより】
6月3日に落城…つまり「本能寺の変」が起きた翌日だったのです。
魚津城を攻めていた織田軍に信長の死が知らされたのは6月4日~5日ともいわれ、織田軍の将兵たちは大慌てで撤退していったらしい。
籠城する上杉軍がもう数日持ち堪えることができたならば…
この「魚津城の戦い」での上杉方についてよく述べられるのは、すべての将兵が最後まで戦い抜いたことです。
籠城戦では裏切りの発生によって内側から崩壊していくことが多いのですが、魚津城将は結束が固く、上杉の誇りをもって立派に戦いたのです。
「魚津城の戦い」における上杉方の奮戦は、織田軍内でも称えられたそうな。
魚津城は松倉城の支城。この付近には平野部が少なく、越中・越後を往来するためには必ず通らなければならない地であり、上杉氏にとって越中進出のための侵攻の拠点であり、また敵軍の越後進入を防ぐ防衛の拠点でもあったようです。

奥のほうの高台に画かれているのが上杉景勝が後詰の陣を張った天神山城なのでしょう。
ちなみに現在、魚津城や天神山城の城は残っておらず、城跡があるだけ。
これは雪が降る前に訪れたときの写真です。
魚津城があった場所は小学校の敷地となってます。
正確に調べたわけではないですが、魚津城跡から天神山城跡までは距離にして約5キロ、クルマで15分程度でしょうか。
当時、本丸からは魚津城が見えたのだと思います。
そういう時代だったとはいえ、領地支配や勢力争いによって多くの兵士たちが死んでいったことを想うと、やはり現実はドラマの世界とは違う。
いっそのこと、綱引きで決着をつけちゃえば…なんて考えたからだろうか、無性にこのアルバムが聴きたくなり、ネットでCDを購入しちゃいました。
『タッグ・オブ・ウォー』 (Tug of War)
1982年に発表されたポール・マッカートニーのアルバム。
当時は友達が持ってたLPレコードをカセットテープに録音して聴きまくってました。
この頃のアルバムはどれも46分テープに収めるため、今時のものに比べると時間がすごく短い。
私は全てのアルバムを聴いたわけではありませんが、これがポールのソロアルバムの最高傑作だという人が多いです。
アルバムのタイトル曲である『タッグ・オブ・ウォー』
イントロには実際に行われた綱引き大会での決勝音声があしらわれています。
人生を綱引きに例え「僕等はお互いを負かしてやろうと思っていたけど、手を離せば全てが滅茶苦茶になってしまう。でも、来るべき時代には、僕等はそれぞれ違ったドラムが打ち出すビートに乗って踊っているだろう」と、現状と将来への希望を歌っている。米誌『ローリング・ストーン』はこの曲を、「ポールにとっての(ジョン・レノンの)イマジン」と評している。 【Wikipediaより】
この長文を書いてるうちに(って、コピペばかりですが…)お腹が空いてきたので「どん兵衛」を食べました。
で、やってみました。少し前に話題になってた…
『10分どん兵衛』
メーカーの日清食品も公認!
どれどれ…
美味しい。これはアリだ!
オヤジにはこれくらいがちょうどイイ☆
興味ある方は是非お試しくださいませ。(ただしクレームは受け付けません)
って、いったい何のブログだったのだろうか…?
Posted at 2016/01/31 18:20:37 | |
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