8月15、16日と帝都に遊びに行ってきましたが、帝都で艦船といえばやはりお台場にある船の科学館ですね。
残念ながら建物の老朽化がひどく、リニューアルをめざして本館は閉館、mini展示と宗谷のみの展示となっています。

砕氷船”宗谷”(総トン数4100トン)です。
船の科学館のちょうど裏側に係留されています。
艦首の「PL107」のが表すとおり海上保安庁の巡視船としても使用されていました。
現在は海上自衛隊が支援している南極観測隊の輸送支援を行っていました。
昭和32年から昭和37年まで6回の観測隊輸送支援の大役を果たしました。

では船内にはいってみましょう。
印象としては小さな船だなということでしょうか。
もちろん総トン数4100トンといえば大型船ではありますが、ヘリコプターを搭載して日本から遠く離れた南極までの過酷な航海をするにはちょっと小いのではないかなと感じました。

船首です。
係留用ロープを引き上げるプーリなどがありますが、元々戦前に作られた船ということもあって老朽化がすすんでいるためか状態は良くなさそうです。

船橋です。
サビが浮き出ていますが、状態は必ずしもよろしくはないように感じます。
維持管理には多額のお金がかかるのが頭痛の種でしょうか。

船橋の中です。
ジャイロコンパスや気象レーダなどがあります。
灼熱の赤道周辺から極寒の南極周辺と激変する環境で乗員はさぞ大変だったんでしょうね。

”宗谷”の搭載作業艇です。
護衛艦などにも搭載されてる搭載艇と同じようにちょっとした輸送や救難活動、交通などに用いられます。
南極では使えたのでしょうか?

士官食堂です。
サロンとしても使われ、ここで乗員と観測隊員の会議も行われていたようです。

忠臣蔵(笑)
じゃなくてここは航空長室。
宗谷にはヘリコプタが2機搭載されていました。
ヘリコプタは天候観察や氷上の状況確認など重要な役割を負ってました。

船橋後部近くにある4番ハッチです。
冷凍食品などの搬入用に使われていたようです。

こちらは宗谷の機関部です。
ディーズルエンジンが搭載されています。
新造時にはボイラと蒸気エンジンが搭載されていましたが南極観測支援用とされてからエンジンはより高出力のディーズルに換装されています。

タロー、ジロー!

通信室です。
今ほど通信が発達していませんでしたから日本からの無線通信は唯一の交信手段でした。
無線通信もさまざまな制限があったんでしょうね。

ファンネル(エントツ)です。
このマークが海上保安庁船籍の印です。

ヘリコプタ甲板から船上構造物を見たところ。
ヘリコプタを搭載していましたが格納庫が見当たりません。
実は砕氷船として就役した当時には元々格納庫があったのですが、大型のS58ヘリコプタを運用するようになってからは格納庫の容量が足りなくなったため格納庫を廃止、露天係留としたためです。

ヘリコプタ甲板です。
ベル47やS58ヘリコプタといった比較的小型のヘリコプタを運用していたとはいえ、決して広くはないですね。
揺れる甲板に離着船するのは大変な技量が必要だったんでしょうね。

宗谷のスクリュです。
二軸でしたから2つのスクリュが宗谷には搭載されていました。
氷にとじこめられて身動きが取れなくなったり、スクリュのプロペラを折った事もあったようです。
どれだけ南極での航行が過酷だったかということでしょう。

宗谷の後部。
砕氷船のためなのか補強のパッチがあてられています。
宗谷ですが、この船ほど激動の運命をたどった船もないかもしれません。
元々戦前にソ連から発注を受けて貨物船”ボロチャエベツ”として作られましたが、大東亜戦争のためソ連には引き渡されず商船”地領丸”として竣工されています。
その後海軍が”宗谷”の名前で特務艦として運用し、南方から北方に輸送や測量などで活躍していました。
途中米海軍の雷撃を受けて魚雷を被雷するものの不発だったり、空襲の回避行動中に座礁するものの何とか離礁したりとまさに激動の軍歴でした。
終戦後は復員船として北方から引き揚げをおこなっています。
その後海上保安庁に編入され、巡視船として運用された後昭和31年に南極観測隊支援のための砕氷船として運用されていますが6回の観測隊輸送後は後任を海上自衛隊の”ふじ”に譲り、巡視船として再び北海道周辺海域で活躍しています。
昭和53年に解役して昭和54年から船の科学館にて展示がされています。
Posted at 2012/08/19 11:52:33 | |
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