昨年、静岡は日本平にて発足した文化遺産会議。
早いもので、今回めでたく第4回目の開催となりました。
会員の他にも全国のみん友さんから選りすぐった文化水準の高い皆様にお声掛けを致しましたが、アベノミクス実現に向けて土曜日でもビジネスに励まれる方、不幸にも愛車が入院中の方、愛車は好調ながらドライバーが定期点検の方、新しい車を入手するため奥方のご機嫌取り旅行にお出かけの方、反面教師の親と言いながら誕生日を娘に祝って貰える幸せな方etc、皆様それぞれにやんかたない理由がおありで残念ながら欠席通知が相次ぎました。
で、前回の伊豆花見に引き続き「参加車」は、りとままご夫妻、事務局U~TAN夫妻の2台だけの「高齢車ツーリング」となりました。
そして今回の文化遺産視察場所は、山梨県は早川町の赤沢宿。
まだまだ知名度が低いところなので、Wikiを引用して紹介しますと、
「赤沢宿は山梨県南西部の早川町南部、南アルプスの南東端に位置し、富士川の支流である早川の更に支流、七面山に源をもつ春木川右岸の標高500~600メートルにかけての急斜面山腹に集落を形成している。
東に身延山(標高1148メートル)、春木川をはさんで西に七面山(標高1982メートル)など1000メートル級の山々に囲まれ、後述する身延山から七面山参拝へ向かう参拝ルートの中間に位置している。本来このような急斜面の地形の土地に集落が形成されることは少ないが、江戸期に参拝客の増加に伴い講中宿と呼ばれる宿泊施設や参拝に関連した生業が営まれたことによって、他に例を見ない集落形態を作った。
赤沢の草分けとされる家は2軒あり、そのうち1軒は1274年(文永11年)に来住したという伝承を持つ。
身延山・七面山参詣は、自動車交通の一般化以前は、身延山久遠寺から奥の院に登り、そこから赤沢に降りて1泊し、翌日七面山に登るというコースが一般的であった。
江戸時代、庶民の物見遊山が一般化する過程で客が増えたと考えられ、最盛期である明治期には、総戸数40戸程度の集落に9軒の旅館があった。
しかし、七面山登山口までの車道が整備されると、参詣客は身延山を往復し、その後七面山登山口にバスで来て七面山を往復して帰る、というコースを取るようになり、中継点である赤沢から客足が遠のくこととなった。」
ということで、場所はこちら
春木川が、早川に合流する橋のたもとから、狭い林道をエリの顎擦りに注意しながら進むこと約10分。現在でも唯一営業を続けている「江戸屋」さんに到着。
倉の「江戸屋旅館」のロゴも、却って斬新に感じられます。
まさに山また山の中の宿場。
集落をmapで紹介しますと、こんな感じ。
まずは、江戸屋さんのお座敷を拝見。
こんな座敷で寝てみたい・・・。
詳細は、こちらのプロカメラウーマンの報告にご期待ください。
この地の古の喧騒に思いを馳せているのでしょうか?
それとも、自らの半世紀余の人生を振り返っているのでしょうか?
声を掛けるのも憚られる りとぱぱ の渋い背中に哀愁が漂います。
江戸があるなら大阪もあるこの宿場。
お次は、「大阪屋」さんを視察。
軒下には、マネギ板と呼ばれる、各地から訪れる講中の名前を記した板が掲げられています。
浅草、下谷、神田などからの参詣客の板もありました、往時の賑わいが偲ばれます。
大阪屋さんは、現在は空き家。
こんなお二階に泊めて頂きたいものですが、惜しいです。
数年前に訪れた時には観光客も皆無、まさに江戸時代にタイムスリップしたかのような宿でしたが、
ここ1-2年、建物の保存や地域振興のために行政の補助を受けて、道路の拡幅、地元産の蕎麦店やお休み処、駐車案内の整備などが行われたそうです。
大阪屋さんの上にある「清水屋」さんも昨年建物をリフォームされたそうで、宿で唯一の「炬燵カフェ?」となっていました。
お客は、我々だけ。
特等席の2階の角部屋に陣取り、赤沢生まれのご主人からゆっくりと赤沢の歴史の講義を受けました。これで、またまた会員の文化水準は大幅に向上しましたが、明日にはしっかりと忘れてしまうお年頃なのが、玉に傷・・・・。
講義の後は、心地良い山の風を受けながらまったり。
こちらは、引き続き撮影に余念がありません。
庇の向こうには、車を止めさせて頂いた江戸屋さん。
歴史を感じさせる風景に隠居丸の鮮やかなアイトソープグリーンが、何故かマッチします。
さて、赤沢宿から10分。
本日の第二の目的地、早川町営「南アルプスプラザ」へ到着。
本日も鹿の食害防止に協力すべく、鹿カレー、鹿焼肉でランチ。
事務局は、撮影するのを忘れて食べてしまいましたので、ここも りとままレポートにご期待ください。
食事が終わったら、早川沿いにゆっくりまったりツーリング、最奥の奈良田の里へ向かいます。
伊勢湾台風で一夜にして7割がた埋まってしまったという奈良田ダムに到着。
再び、奈良田についてWiki
当地に残る孝謙天皇の伝説によるとこの地で8年間湯治を行ったと伝えられてられている。
初めは奈良田より南にある西山温泉を訪れ、その後霊泉を求めてさらに奥へ入ると奈良田の地を見つけ、「奈良の都は七条なるが、この地は七段。ここも真に奈良である」と言い、遷居したとされている。
開湯はそれ以前と言い伝えられおり、孝謙天皇の言葉によりこの地が「奈良田」と名付けられたと言われている。
1953年(昭和28年)に西山ダム(奈良田湖)ができた際に奈良田の集落はダムに沈み、奈良田温泉の歴史は一度途切れる。
しかし、1977年(昭和52年)に奈良田温泉の復活を図るため山梨県企業局が源泉調査を実施し、深度212m地点で温泉が湧出、1979年(昭和54年)に町営施設「奈良田の里温泉」として開業し、温泉地として復活を遂げた。
その後、1997年(平成9年)に元源泉近くの白根屋駐車場付近でも掘削が行なわれ、日々に7色以上の泉色が出たため「七不思議の湯」として開湯している
そんな奈良田の里をそぞろ歩き。
山岳写真家白旗史郎記念館や民俗資料館を見学、南アルプスと山村文化の研究にもぬかりはありません。
雲行きのあやしくなった空を見上げながら赤い口の狛犬に別れを告げて解散。
雨の降り出す前に、新東名目指して一目散に逃げかえりました。
Posted at 2014/05/24 18:18:24 | |
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