
先日嫁の足車、W211の車検を済ませました。
お願いしたのは古い付き合いで、私が免許を取って最初に乗った車からお世話になっている民間の整備工場。
今は代替わりして元社長の娘婿が社長となり、その社長が私と同い年と言うこともあって引き続き良くして頂いています。
その時、最近よく聞く話をここでも聞きました。
「最近の車は触れない部分が増えちゃって、いじれてもAssy交換が多くてつまんないよね」
ここで言う「つまらない」は、車としてつまらないのではなく仕事として、の意味だと受け取りました。
クルマの仕事をしているからには、2代目社長も車は好きのようです。
自分の車は当然自分でいじりますし、整備も楽しみの一部と思うのは多くの車好きと同じだと思います。
もちろん程度の差とか、車の魅力は「気持ち良く走らせる」ところが一番大きいですから、整備はプロの手に一切を任せている方もいると思います。
そう言う方でも、整備されてシャキッとした愛車に乗った時の感動とか、高性能なパーツを組んだりチューニングやカスタムした時のワクワクは大いに感じていらっしゃるでしょう。
私も自分で出来る範囲(ハンドツールとジャッキと場所があれば出来る程度)で、DIY作業をやります。
作業自体も好きですし、やり遂げた時の達成感も爽快です。そして調子良く走ることが体感できた時の嬉しさも倍増です。
・・・まあ、DIYをする一番の理由は、自分の場合は「経費節減」なのですが・・・
私の車は23年落ちです。幸いパーツの供給も価格も概ね問題無く構造も比較的単純で(現代車に比べれば)、そして単純なだけに頑丈。
その気になれば、ずっと乗っていられると思わせてくれますし、実際乗り換える気もおこさせません。
クルマを乗り替えるタイミングは色々だと思います。
・飽きてしまった。
・家族構成が変わった。
・趣味が変わった。
・他に欲しい車、あるいは欲しい物ができた。
・事故その他で修理不能な位壊れてしまった。
・修理したいがパーツがない。
・直す気になれば直せるが、コストに見合わない。
その他もろもろ・・・理由は色々です。
しかし、乗り換えたくないけれどやむを得ず乗り換えを検討する理由のうち、「コストに見合わない」と言う理由は、お金に糸目をつけず頑張れば何とかなります。
でも、いやらしい話ですが資本主義経済・自由主義経済の中にあって、物事全てを金銭価値に置き換えて損得勘定する世相では、「費用対効果」を考えてしまうのは致し方ないところでもあります。
古くても人気があって、お金をかけてもそれ以上の価値がある車の存命率が高いのは自然なことで、世間一般ではさして価値があると思われていない車を奇麗に維持している方の車への愛情こそ、本物なのかも知れません。
クルマを買う時、一念発起して買う趣味車でも、足に使うKカーでも、やっぱり嬉しくてドキドキします。
若い頃は予算や使い方にマッチしたパッケージングなのかとか、色々な制約の中で本当に思い悩んで買う車を決めて、「一生乗るぞ」って意気込んでクルマを買いました。
でも、毎日使ってればヤレも出て、ボディにはいつ付けたのか分からない傷が増え、代わりに艶は無くなり色あせ、エンジンや足から何やら聞きなれない音が出てきたり・・・
直したくてディーラーに持って行けば厄介もの扱いで疎ましがられて、やれ部品が無いだとかお金がかかるだとか、挙句頼んでもいない新車の見積もりを出されたりして(笑)
そして気持ちが離れて次のクルマを探す。
もちろんクルマとの接し方、車の楽しみ方は人それぞれです。
車雑誌なんかでは良く言われることですが、
「人気の新車に人気のオプションを付けてローンで買い、3年で乗り換えを繰り返す」
のが、最も賢くリーズナブルに新しい車を乗り続ける方法だなんて言う意見もあります。
経済的余裕があって、次々に新しい車に乗る・乗れるのも良い事だと思います。
社会的にはその方が経済的貢献度も高くて、その時代の最新の技術で作られ高性能で安全で、環境にも配慮した新型車に乗る事は社会システム上、歓迎されることだとも理解しています。
それでもやっぱり・・・
「気に入った車をずっと乗り続けられる」
事は、車好きのひとつの大きな幸せの様な気がします。
経済的には中流(死語でしょうか)の平均よりも下であろう私が、可能な範囲で何度も買わないであろうクルマを購入し、自助努力で経費節減しながら維持している。
旧い輸入車ですが、創意工夫で「努力すれば」比較的楽に維持できている大きな要因こそ、車を良く理解していなくてDIY等の維持の努力も思いつかなかった、若い頃に足かせと感じていた「旧い」という事実そのものでした。
昔の車は、車としての性能はもとより整備のしやすさも考えて作られていたように思います。
エンジンルームには手を入れる隙間があり、消耗品は取り外しやすいようにレイアウトされ、機関もオーバーホール可能。純正部品以外にも社外部品も豊富で流用可能なパーツも多い。
一昔前までは、制御系も素人には無理ですが、業者ならデータにアクセスして加工することが可能でした。
今は・・・
高度にブラックボックス化されたECU、制御はエンジンの燃料と点火のみならず、ABSをはじめとしたブレーキとそれを利用した横滑り防止装置や自動ブレーキシステム、ATミッションのシフトコントロールから果てはエアコンまで統合制御。しかもそれを車内CAN通信で信号を送受信し、有線接続すら過去のものとなりつつある。
電装部品や機関部品はアッセンブリーでしかパーツが出ず、おまけに交換したらコーディングが必要だったりして、一度コーディングしたら再コーディングは出来ずメインECUが拒否するため中古部品も使えない。何とか自分で交換しても、認証作業に専用機器が必要で交換しただけでは動かない。おまけに個人じゃない業者であっても、外販不可のパーツまである始末。
自動車メーカとしては、素人に触らせてもロクな事がないと言うことでしょう。新型で出てくる車はボンネットを開けてもフルカバーでエンジンすら見えない。化粧カバーで見栄えはするし、見えないと言うよりは見せないと言うべきか・・・。
まさに見識でしょうか、昔なら「エンジンの見えない車なんて」と言うユーザーも少なからずいたと思いますが、今はもうそういう人種は希少種なのかも知れません。
はたして、これは安全や環境配慮、ひいてはユーザーのニーズや時代の要請だけに基づいたものなのでしょうか。
おそらくは、そう言う建前に基づいた囲い込み戦略で、新車の販売だけでは苦しくなることを考えた完成車メーカーが、アフターのメンテナンスも自社ディーラー以外では出来ない様に仕向けているように思います。
今の経済システム・社会システムでは、色々な意見があるでしょうが「消費」することが善です。
消費がなければシステム(お金)が回りません。しかし、矛盾が多いのも現在の社会システムです。大量消費は資源を枯渇させ、環境の悪化を招く側面もあります。
そのシステムの中で、クルマにおいても定期的に乗り換えてもらうことが自動車メーカーにとっても理想だと思いますが、エコのアプローチにも「高効率な車に乗り換える」のと「長く愛用して廃棄物を出さない」の両方の視点があります。
色々な制約の中、どちらがより良い事なのかは意見の分かれるところだと思いますが、せめてユーザーがどちらでも選べる様であってほしいと願わずにはいられません。古い車は環境負荷が高いから自動車税増税とか、あまりに一方的な偏見で苦笑してしまいます。今売られているハイブリッドカーだって、新しいうちは燃費が良くても何年かすると劣化したバッテリーを大量に廃棄物として出すのでしょう?(もちろんリサイクルのシステムもしっかりしているでしょうが、燃費はともかくそれは旧い車の廃棄についても同じことです)
今、新車を買っていつまで乗れるのでしょう。努力すれば、ずっと乗れるのでしょうか。民間レベル・アフターパーツメーカーでは手に負えない構造と、入手や修理の困難な部品。必要以上に長く乗って欲しくないメーカーが「部品生産中止」と言いだした瞬間から、次の故障で否応なしに乗り換え確定なんて、クルマ好きとしては寂しい限りです。
40~50年前の車が元気で走っているのを見ると、オーナーさんの笑顔が見えるようでこっちまで元気になります。
今から数十年後、今ディーラーで売られている新車のほんの一部でも、同じように元気で走っていればいいなと思います。
そして日本にもその頃には、欧米並みの車文化とそれを後押しするような法制や社会的環境が醸成されていたらいいなと願っています。