1986年に初めてル・マン24時間レースに出場し、ル・マン制覇に向けて数多くのマシンを出走させてきた日産、95年、96年のル・マンにエントリーしたのが、日産R33スカイラインGTRをベースにしたマシン、ニスモGTR-LM。
NISMO GT-R LM /23号車
■ドライバー:星野一義・鈴木利男・影山正彦 ■全長×全幅×全高:4675mm ×1880mm ×1300mm ■ホイールベース:2720mm ■トレッド 前/後:1560mm/1535mm ■車両重量:1150kg以上 ■エンジン型式:RB26DETT ■総排気量:2568cc ■ボア×ストローク86.0mm×73.7mm ■最高出力:600ps以上/7000rpm ■最大トルク:67.0kg-m/5500rpm ■燃料系・点火系:ECCS・NDIS ■ターボチャージャー:ツインターボ ■クラッチ:AP製メタル ■トランスミッション型式:X-TRAC製シーケンシャル6速 ■ブレーキ 前/後:ベンチレーテッドディスク ■サスペンション 前/後:ダブルウィッシュボーン ■駆動方式:2WD(FR)■ホイール 前/後:12.0J×18 12.75J×18 ■タイヤ 前/後:315/40R18 335/40R18
1994年に現在のスーパーGTの前身である、全日本GT選手権「JGTC」が
始まり、トヨタはいち早くGT仕様のスープラをデビューさせましたが、
日産陣営はGr.A仕様を改良したR32スカイラインGTRをGT仕様に仕立てたマシンでニスモ、ハセミモータースポーツ、インパルなどからエントリーしていましたよね。
駆動方式もチームで変更して、ニスモ、ハセミ・チームは後輪駆動のFR、
インパルは4WDを採用でしたっけ。
R33スカイラインGTRがデビューし、同時にJGTCにも参戦を決定、JGTC仕様のGTRでル・マン24時間レースに復帰するという事で話題になって期待しまたまた期待してました当時。
GT仕様のR33GTRはFR方式の駆動システムをとった、ル・マンには2台のR33GTRが主役になる、GT1クラスにエントリーしていましたとね。
但し、ル・マンの規定で最低1台は、ヨーロッパ規格で保安基準を満たした公認を
取得している事が条件だったので、ニスモはこのGT仕様のGTRを乗用車仕様に
仕立てた「ニスモGTR-LM」を製作した事も話題になりましたよね。
その為、ル・マンの出場時には登録名がスカイラインではなく、ニスモGTRだったらしです。
95年のル・マンでは、1台がエンジンがGr.A仕様、シーケンシャルミッションのGTーR、もう1台がN1耐久ベースのエンジン、Hパターンミッションを持つR33GTーRという、スペックの違うGTーRでの出場で、Gr.A仕様の方は一時、5位を走行していたものの、ミッショントラブルでリタイア・・・・
Hパターンの変速機を持つN1ベースのGTーRは総合10位で初完走でしたよね。
翌96年もGTRでル・マンに出場しました。
ベースは96年・JGTC仕様で、95年型に比べるとボディはスリムになり。
大きな変更点は、ミッションで、2台とも95年のXトラック製から、日産内製の
シーケンシャルミッションを採用したらしいですね。
しかし、ル・マンでは95年から既に、マクラーレンF1-GTR、更に96年からはポルシェAGの911GT1も加わって最速スポーツカーがル・マンの主導権を・・・・・・
GTーRは2台が出走しましたが、ナンバー・22をつけたGTーRがブレーキトラブルでリタイア・・・・・・
ナンバー・23をつけたGTRが総合15位で完走したにとどまり、GTーRでの参戦は2年で終了してしまいましたよね、後にR390GT1へ引き継がれていきますが、ル・マンのコースをGTーRが走った事は、GT-Rの念願が叶った事に違いありません。
そして
R390は、日産自動車が1990年代後半にル・マン24時間レース制覇のために、トム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)の協力のもと開発されたレーシングカーである。 マシン名称はかつて1960年代の日本グランプリで活躍した日産・R380~382の系譜を継ぐものということで付けられた。

建前上はグランドツーリングカーということになっているが、単にナンバーを取って公道を走ることができるというだけで、実質的な中身はプロトタイプレーシングカーである。(ちなみにこの手法が取り入れられたのは、1994年のル・マンに参戦したダウアーポルシェ(ポルシェ962Cをロードゴーイングカーとして改造したもの)が先駆けである)
当初はTWRがポルシェと組み、1996年にルマンを制したLMP1クラスのオープンプロトタイプであるポルシェWSC95をベースに開発する計画であったが、日産車内より「自動車メーカーとして出る以上は、オープンではなく市販車のイメージを持つクローズドで出るべき」という意見が出された。 そのため、WSC95ではなくTWRに保管されていたジャガーXJR-15がベースカーとなり、出走するクラスはLMP1からGT1へと変更されることとなった。
エンジンは、90年代グループCで活躍した名機3.5リッター・V8ツインターボのVRH35Zをベースに開発されたVRH35Lが搭載された。VRH35Lと型式こそ違ってはいるが、実際には開発は行われずにVRH35Zにリストリクターを装着し、ブースト圧を下げただけでエンジンそのものはVRH35Zそのままである。そのためグループC最強とまで言われたエンジンではあったが、下げられたブーストなどに最適化されておらず戦闘力はかなり低くなってしまった。 RB26DETTも搭載が検討されたと言われたいるが、ニスモの柿元総監督が「現場では全くそういった話は出ていない」と述べていることからただの噂にしか過ぎない。
ロードカー

当初はLMP1クラスでの参戦が計画されていたため、レース車両の作成しか考えられていなかった。しかしGT1規定へと変更がなされたため、当時の規定により、レースカーの原型とされるロードカー(市販車)も開発された。1997年に1台のみが製作・発表され、翌年には1997年に製作された1台を改装して1998年仕様車として発表したが、R390のロードカーが実際に販売されることはなかった。このロードカーは、現在は日産座間記念車庫にレースカーと共に保管されている。
レースでの成績
ル・マン24時間には1997年に初参戦する。予備予選ではポールポジションを獲得するという順調なスタートだった。しかしレギュレーション解釈の違いによって、ギアボックストラブルが発生し思うような結果が残せなかった。97年型R390はリヤトランクをメッシュとし、ギアボックスの冷却ダクトの内部に収容していたが、現地でこれがレギュレーション違反と指摘されてしまったのである。そこで、急遽トランクを密閉構造の箱形に変更したため、ギアボックスへの冷却風の流れが阻害されてしまったことが原因であった。
翌1998年には97年のマシンの弱点であったギアボックスの改善、ロングテール化などの空力改善、ウィリアムズF1チームからTCSやABSなどを導入し戦闘力を向上して参戦。ポルシェやトヨタに比べると一発の速さは無かったものの、堅実なマシン作りで抜群の安定性をみせ、星野一義・鈴木亜久里・影山正彦の乗るマシンで総合3位を獲得し、出走した4台全車がノートラブルで完走して10位以内に入る健闘をみせた。
翌2000年もNISMOの手によるル・マン参戦が計画されていたが、日産本社の経営不振を理由に参戦は取りやめとなり、以後レースへの参戦は行われていない。
1997年のル・マン24時間でのポールポジションを取った時には、本当に期待して見ていたんですが、残念な結果でした、この先日産は、またル・マンに挑戦して欲しいですね、クラス優勝でも良いですから、是非ル・マンでの日産車の優勝見てみたいものです。