
武相卯年観音霊場 第三十番 白瀧山
高厳寺 です。
相模原市中央区にある云われのよく解らないお寺です。
南部山南覚院縁起によると、
創建不祥、上溝堂ケ谷戸に南蔵院南部山高厳寺有り。
正応二年(1288年)に南部山高厳寺に南覚院遷化とあり。
村社八幡宮は、康永二年(1343年)に社建と地元の家の古文書「高橋道覚覚書」に書かれている。
この村社は上溝八幡宮で、この別当になる。とある。
※別当寺=神仏習合説に基づいた神社の管理に当たる寺のこと。
この後、室町時代の関東は応仁の乱よりも早く戦国時代に突入したので、
大永五年(1525年)権僧都円重の代にお社出来と有り、
文禄四年(1596年)康永二年より二百五十三年後の時に宮再興、願主南蔵坊慶高
などとあるのみです。
延宝八年(1680年)八幡宮拝殿建造願主南蔵坊玄山、
元禄五年(1692年)南覚院玄山導師神道を修める
宝暦三年(1753年)社殿・拝殿・末社などの修繕、別当寛祐の尽力によるとあり、
以前より村社八幡宮は、別当寺南覚院の所有となっている。
はたまた、南部山高厳寺は、宝暦九年(1759年)の武相観音霊場巡りの創建に参画して、山号を「観音様縁起」のいわれの白瀧山に改名したと言う。
そして結局廃仏毀釈令により、南部山南覚院が廃寺となってしまったので、この記録を残すために文久三年(1865年)に南部山南覚院の石柱が建てられたとあり、なにがどうなったかは煩雑です。
明治二年、村社上溝八幡宮は、亀ケ池八幡宮と改名され(これが北相模総鎮守)、明治の末期には南部山高厳寺観音堂は、現地に移され、
で、結局今は、上溝元町自治会館の改築に併せて観音堂が現在の形になったという。
観音様はというと、奈良・平安時代のものだといわれており、なるほどそんな気もしますが、観音様の世話人がご開扉をやっているので、お寺自体は名前だけ残っている感じです。
Posted at 2023/05/26 21:43:57 | |
トラックバック(0) |
観世音菩薩霊場巡礼 | 日記