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2012年10月20日 イイね!

307と付き合っていくことで…

307と付き合っていくことで…もう少し、過去の車との話題にお付き合いのほどを。

プジョー、当初いろいろな方々に言われていたのは

「壊れやすいこと」

でした。

でも、私が乗っていた307は、ある時まで、まったくと言っていいほど壊れることはありませんでした。「車を大事に扱えているんだな」と自分に自信を持ち始めていました。
4万㎞を過ぎたあたりから、自分の身体なり五感が馴染み、思うように車を動かすことができたように思えました。

一方、ディーラーの当初の担当のセールスさんが会社を辞めてしまい、若い担当さんに代わりました。当初の担当さんは、メカニック出身で車そのものに思い入れがある方で、とっても話が合いました。しかしこの代わった若い担当さんにはそういったものが求められず、すぐに付き合いが疎遠になりました。この頃家を東村山から現在の家に引っ越し、実質的に購入したディーラーとは付き合いが無くなってしまいました。近くの八王子のディーラーとも一時期付き合いましたが、ほどなく会社が解散。どうするか途方に暮れていた時に、知り合いのプジョー乗りの方から足立のショップ、そう、今でもお付き合いのある足立のショップを紹介されました。社長が非常に親身で人間味のある方でしかも知識が豊富。この機会を逃すことをしてはいけない、と思ったものでした。
2005年初めの頃の話です。

話は変わり、冒頭に述べた「ある時」が来ました。初めてモンスター社主催で富士スピードウェイで走行会に出場した日でした。期日は2005年11月下旬のことで、納車してからちょうど4年を過ぎた頃のこと。この時の走行距離は81,000kmほどでした。

走行会が始まるも、第1コーナー進入時にブレーキングをしっかりしてからシフトダウンしなくてはいけないのに、スピードが落ちないまま5速→ブリッピング→3速と落としてしまいました。そしたら回転数がタコメーターにある最高回転数をはるかに上回る回転数に達してしまいました。許容回転数が6300回転で、メモリ最大数が7000回転でしたが、8000回転ほどまでエンジン回転が達してしまったのでした。

そう。 「オーバーレブ」をしでかしてしまいました。

エンジンはほどなく数分で鼓動が止まり、サーキットの砂地で全く動かない愛車の中で、何が何だか分からないほどに気が動転したものでした。後年、別の車で(つまり今の愛車で)オーバーレブではないのにもかかわらず、同じ症例で車のエンジンが逝くとは思いもしませんでしたが。。。

エンジンを別のエンジンに載せ替え、2006年5月、半年ぶりに復活した307。またオフ会やドライブで全国行脚を始めています。

でも、10万㎞に達すると、途端にいろいろなものが壊れることに。

まず、ブレーキ。
踏みしろが妙に深くなり、アクセルより遠くなってしまいました。
実際に、地方の直線道路でブレーキとアクセルを踏み間違えてしまい、何とかサイドブレーキを踏んで停車しましたが、30秒遅れていたら正面衝突の大事故の加害者になっていただろうという経験をしたことがあります。 原因は、ブレーキペダルとブレーキ本体の線が1本切れていたとのことでした。なぜそうなってしまったのかは分かりませんが、もしかしたら、事件の1ヶ月前ほど1度縁石に乗り上げてしまったことがあったことがあってその後遺症だったのかもしれません。

次に、妙にアイドリングがやかましくなったことがあって診てもらったら、ベアリングプーリが折れて車外に放出されていたとのことでした。一部部品がどこにも落ちなかったようですが、それが落ちてたらどうやらエンジンを再交換する羽目になっていたようです。

その次、今度は、旅先で(600km以上離れていた紀伊半島南部の新宮市で)マニュアルシフトノブのリンケージが折れてしまい、2・4速とバックギアに入らなくなった、というすさまじい体験をしました。
この日に泊まる旅館には何とかたどり着きましたが、次の日には自走不能で遠く松阪市のディーラーで直してもらうことに。当然、ドライブは終了。その日は車を預けたら帰宅しました。

車が1ヶ月後に戻ってきましたが、その頃から「今度はどこが故障するんだろう」と思い始める自分がいました。しかも、床の板が少しですが剝がれてきていました。運転中はまったく問題を感じませんでしたが、いかんせん見てくれが良くありません。 307に乗るようになって6年、そろそろお別れの時が近付いているのかな、と思い始めました。

次の車を1年かけて決めていこうと、いろいろな車を試乗し始めました。

方向性は、ほぼ決まっていました。

「次の車は、フランス車であろうがなかろうが、同じ欧州車のホットハッチだ」と。

1年待たず、半年ほどで一度307の現在価値を調べてもらうことに。
そしたら、20万円前後の価値がある事実に直面。ここが潮時かと、307を売却して次の車を見つけることにしました。

※旅情編をフォトギャラに載せています

(307編はこれで終了)
Posted at 2012/10/20 22:57:10 | コメント(2) | トラックバック(0) | 過去のクルマたち | 日記
2012年10月18日 イイね!

プジョー307との出会い

プジョー307との出会いこの日記を書いている今からちょうど11年前、2001年10月のことでした。

ユーノス500が完全に動かなくなってしまい、復活させるには高額な修理代が必要になったこと、壊れる前の現在価値より、その修理代の方が高額なことで、乗り換えを決意しました。

ちょうどその頃、何回目かの免許証の更新があり、初めてゴールド免許を手にしたというのもありました。残念ながら、その時以来現在に至るまで、ゴールド免許とは無縁の生活を送っていますが(T_T)/~~~

ゴールド免許を手にした自分へのごほうびとして、新車を買うことを決意。500を買う時よりは貯金があったとはいえ限られた金額ですから、買う車は限られます。4ドアを知ってしまって実用性がある程度はあった方が良い、ということで予算上限まギリギリまでの様々な車を試乗しました。国産車・外車問わず、です。最初の頃は国産の2.5Lクラスまで考えていましたが、果たしてそんな大きい車が必要なのか?と自問自答し始め、外車に手を出すことに。2人の、旧友であり親友に相談したところ

「そう言えば、今(2001年の話)ブームのプジョーから307が出たよな」
「○○(私の本名)、オマエ車好きだったよな。車好きを気取るならAT車を買っても俺は認めないよ。MTを乗りこなしてこそ車好きっていうものだからな!?」

ということで、予算にかなう国産車・外国車、そしてMT車で選ぶことに。

VWゴルフⅣGTI、プジョー206S16、プジョー307XS、アルファロメオ147・2.0ツインスパーク、ホンダシビック・タイプR(EP3型)、アコード・ユーロRが最後まで残りました。

ここでさらに振り分け。国産車勢は試乗車が無くフィールが分からないこと、思ったほど安くならないことでさらに落ち。

残ったのが外車4台。4台とも、乗ってみました。ここで最も値段が高く予算オーバーだったゴルフが落ちました。残る3台でどうするか。迷ったのですが、唯一の5ドアMT・右ハンドル(当時)ということで307を買うことに。307は、ボディこそ大きかったのですが小回りが思ったよりも利いて都会の駐車場でも停めやすかったこともありました。1270kgで2L、自然吸気・137馬力・19.4kgmのトルクで5MTですから、初心者?には充分な動力性能でした。大柄めな私に合う大きめのシートで座り心地が良いうえにレバー式ながらシートポジションを適正な位置に合わせやすかったのもGOODポイントでした。

2001年の、11月の誕生日のちょうど1週間後にプジョー小平で納車。
納車後、初めて新青梅街道を走らせて(当時は東村山の)自宅に帰りました。足回りは固めで、昔母親が乗っていたVW-GOLFⅢに似ていました。親がGOLFに乗っていたおかげで外車にアレルギーが全く生まれること無く、スンナリと外車への道に身をおいてしまいました。さて、307でびっくりしたのがそのレーンチェンジの速さでした。まるでスポーツカーばりのクイックなハンドリングで、最初慣れるまではレーンチェンジが怖かったのですが、慣れてくるに従ってそのハンドリングの虜になりました。このハンドリングだけは、実はいまだにGTI(今の愛車)よりも上回っていると思っています。

この車で、ブリッピングだとかダブルクラッチだとかを覚えました。1速と2速が離れていたものの、2~5速がクロスレシオで、ギアを変えている行為そのものがとっても楽しいものでした。

そして、307というフランス車を買ったということで、情報をどう仕入れるか考えて、初めてインターネットに手を出したのも、この車がきっかけとなりました。ネットでプジョーの話題に首を突っ込むようになり、いつしかオフ会なりツーリングに出てみたいと思うようになりましたネ。
最初は、横浜で開かれたPOC(プジョーオーナーズクラブ)に参加してみました。307は当時私1台で、ほとんどのユーザーさんが206と306のユーザーさんでした。106・406の方も参加されていて、プジョーとは、プジョー乗りとは何なのかを体で知る体験でした。

そして、プジョーどころかフランス車とは何なのか?ラテン車とは何なのか?ドイツ系の車とはどう違うのか?そんなことをオフ会で多くの方々とお話しをすることで自然に学習していき、また愛車との付き合い方を考えるようにもなりました。

翌年の初夏以降、徐々に関東から飛び出して中部地方・東北へ車で出かけるようになりましたね。
そして、500の時なら新幹線で行っていたあの土地にも、いつしか車でしか行かなくなってしまいました(例:名古屋市・仙台市)。

最初の1年は、年間1万5千㎞ほどでしたが、2年目以降は年間2万㎞を超えるようになり、過走行街道をまっしぐらにたどるようになったのもこの車でした。

とまぁこんなわけで、2台目にして人生の1ページを変えるような車に出会ったわけです。

(続くかも~)
Posted at 2012/10/18 23:00:42 | コメント(1) | トラックバック(0) | 過去のクルマたち | 日記
2012年10月16日 イイね!

初めての愛車について、振り返ってみる

初めての愛車について、振り返ってみる愛車紹介にも書いているとおり、私の初めての愛車は「ユーノス500(マツダ)」でした。
購入したのは1998年8月下旬。5年落ちで25,000㎞の車でした。当時住んでいたのが千葉の船橋だったにもかかわらず、買ったお店は川崎市・新百合ヶ丘にあるディーラーの中古車販売店でした。当時はもう、ユーノス専売店がなく、買ったディーラーも「マツダアンフィニポート新百合ヶ丘店」だったと記憶しています。それを、電車を乗り継いで2時間近くもかけて引き取りに行きました。

年式は1993年式、グレードは「20F」というグレードでしたが、実際には標準車ではなくフルオプション仕様で、1993年当時では当時はまだ普及率が低かったエアバッグとABSが付いていた車でした。
購入価格は、税金・保険料込みでジャスト100万円でした。

発売中止になって15年は経った今でも、年に数回見かけますが、今見ても格好いい車です。
当時のV6エンジンといい、10年塗装と言われた高品位塗装といい、バブルの頃のマツダの車作りを表していた典型的な車の1台だったと言われています。

(前置きはこのくらいにして)

この初代愛車、私の少ない車歴の中で唯一の項目が結構あります。

①国産車
②オートマ車
③4ドアセダン
④年間走行距離が1万㎞ほど
⑤ボディ-カラーが濃い色(濃紺)
⑥6気筒エンジン搭載車
⑦最初の登録ナンバー上部の桁数が「2ケタ」だったこと

そう、私の車にも、年間走行距離が1万㎞の時代があったのです!(笑)

ひとえには、この車の華奢さがありました。愛車紹介にも書きましたが、120㎞/h以上スピードを出すと、床下がブルブル震えてきたり、またタイヤの接地感が乏しくなって高速運転が怖かったことがあげられています。当時は、クルマそのものが好きだったとはいえ車がどういうものかが分かっていなさ過ぎました。タイヤが減るとどうなるか、ブレーキが減るとどうなるか、オートマフルードを定期的に替えないとどうなるか。そういう根本的なことが全く分かっていないまま車に乗っていました。車検も、安く上げられればいいやとばかり考えてスタンド格安車検で収めたのも良くなかったんでしょう。

この車を買った当初は長期研修中で、月に1回乗れれば良い方だという生活が半年ほど続きました。
研修から復活して仕事場に戻っても、どうも疲れてしまっていて車に乗ろうという元気がさほどなかったと思います。本格的にというかそこそこ乗り始めるようになったのは、99年末に船橋市の寮から東村山市(今の自宅ともさほど遠くは無い場所です)の寮に移ってからです。と言っても年間12000㎞位だったでしょうか。ドライブコースは、ほとんど伊豆半島でした。多い時には月に2回は行っていたと思います。よくも飽きずにまぁ伊豆にばっかり行っていたなぁ、と思うくらいでした。
年3回ほどは東北にも行きましたが、ほとんどはラーメンを食べに喜多方市や白河市に行っていたのかな。当時はETCも無く高速の割引制度も無かったので必然的に一般道でどこまで走れるか、でしたのでそれもあって走行距離が伸びなかったのかな、と思います。
たまの?ドライブ以外はほとんど足グルマ的な使い方をしていたかと思いました。

この車でだけ経験したこと。
①人身事故。買って数週間、バックするタイミングを間違えて交差点にいた車の運転席ドアにリアをぶつけたこと。幸い相手に怪我はなかったので物損事故として処理ができたものの100:ゼロでこちらが悪かったので全部修理代を支払いました。保険対象の事故でしたが、総修理経費が安く、保険を使うと損をすることが分かったので実費精算しました。今でもぶつけた時のあの「クシャッ」という音が耳の奥に残っています。
②現存する写真を1枚も残していないこと。まだ当時はデジカメを買うことをしてませんでしたからね。。。

その一方で、これは車を買う前からでしたが、池袋のアムラックストヨタで30分タイムレンタルを何回したことか。。。500に乗っていた頃までは、これでもか、というほどトヨタ車をタイムレンタルして都心をレンタカーで闊歩(疾走、ではない)していました。500では、運転する喜びを感じ取れなかったんだと思います。毎週のように「違う」車を運転することに妙な高揚感を覚えていました。

最後の2年は、富士スピードウェイで開催される「トヨタドライビングコミュニケーションズ(トヨタのドライビングスクール)」にも年1で参加しました。そこで高価な車のABS体験とかジムカーナ体験とかプロドライバー同乗体験とか、そんなことをしましたかね。純粋に、面白かったですよ!

さて、ユーノス500に乗るようになってから3年3ヶ月、32000㎞走った57000㎞でオートマ本体が壊れてミッション総交換を告げられたこととオルタネータの寿命も到来していたことで車を手放すこととなりました。
オートマのフィールが元々低次元でフルード交換して蘇った感覚を得られなかったのも、車を早く壊すことの一因となったんでしょう。でも、やはり車に乗って車から何かを感じるクセをつけない鈍感なことをしていたのが招いた結果です。

その後、私のユーノス500はどうなったかは知る由もありませんが、多分部品取り用の車になったか、廃車になったと思います。

もったいないことをしたよなぁ。。。と、何年か経って後悔しましたネ。

次の車でも、せいぜい年間1万㎞位しか乗らないだろうな、と思っていましたが、、、

次の車の話は、また気が向いたら書きます(爆)
Posted at 2012/10/16 23:30:04 | コメント(3) | トラックバック(0) | 過去のクルマたち | 日記

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何シテル?   06/11 23:58
2015年11月に購入した愛車、プジョー208GTiに乗って、拠点を東京多摩地域に置きながらも、休日は主に日帰りで長距離ドライブ旅行を楽しんでいます。 車...

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