淀古城〔妙教寺〕(京都市伏見区)
淀古城の本丸跡・鳥羽伏見の戦いの弾痕も残る
2006年09月09日
淀城(淀古城)の築城年次は定かではありません。
畠山政長が西軍の畠山義就に備え、勝竜寺城から本拠を移したことや、摂津の守護代薬師寺元一が管領・細川政元に反抗して「淀之城」に籠城し攻め落とされた記録があるそうです。元亀3(1572)年三好三人衆の一人である岩成友通が淀城にあって、足利義昭と呼応して織田信長に対抗したが信長の武将・細川幽斎に攻略されました。淀城は一時小野木重次があずかりましたが、天正17(1589)年、秀吉は側室・茶々(淀殿)の出産の為、弟の秀長に修築させました。ただし、この淀城は伏見城建設とともに文禄3(1594)年に破却されました。
妙教寺のあたりが本丸だったようです。近くには堀のような水路?もありました。
妙教寺は山号は大圓山、寛永3(1626)年、大坂の富豪商人、法華又左衛門尉貞清の発願により、豊臣秀吉の側室淀殿が住んでいたと伝わる、淀古城下の一角に建立された、法華宗・真門流の寺です。
宝泉院日孝を開山上人に仰ぎ、寺地は新しい淀の初代城主・松平定綱公から寄進を受けました。
18世紀初頭、付近の大火で山門、鐘楼を除き、伽藍を焼失しました。現在の本堂は天保11(1840)年に再建されたものです。
慶応4(1868)年、戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いでは周辺が戦場となり、1月4日、本堂の壁、柱を砲弾が貫通し、その跡と砲弾を保存しています。平成25(2013)年、京都市により「京都市民が残したいと思う建物」に選定されています。
境内には淀古城跡の碑や榎本武揚揮毫の戊辰之役東軍戦死者招魂碑、戦没学徒木村久夫の碑、当山鎮守きつね「小満・小女郎」の塚があります。
(現地説明板などより)
H18.9.9
Photo Canon EOS M6
H30.12.15(写真差し替え)
住所: 京都府京都市伏見区納所北城堀49
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