上田城(上田市)
徳川の大軍を二度退けた真田昌幸の居城
2006年09月19日

上田城は、天正11(1583)年から真田昌幸が築城した平城で「尼ヶ淵城」とも呼ばれています。
天正13(1585)年に一応の完成を見た上田城ですが、早速徳川軍が攻め寄せてきました。攻め寄せた徳川勢は七千人余、迎え撃つ真田勢は二千人弱でしたが、真田昌幸の巧妙な戦術によって、徳川軍は思わぬ大敗となり、死者を1300人余も出しこれに対し真田方の死者は40人ほどだったといわれています。
慶長5(1600)年には関ヶ原へ向かう途中、3万8千人という大軍で徳川秀忠軍が上田城へ押し寄せました。これに対し昌幸、幸村父子の率いる上田城兵はわずか2500人ほどでした。。しかし、このときも徳川勢は上田城を攻めあぐね、この地に数日間も釘付けにされただけに終わり、関ヶ原での決戦に遅れるという大失態を演じました。
このことにより、上田城は徳川の軍勢を二度撃退した歴戦の名城として知られています。
関ヶ原の戦いで西軍に付いた昌幸は九度山に蟄居し、真田信之が城主となりますが、上田城は、幕府の命により破却され、三の丸に館を築き居館としました。
しかし、まもなく信州松代に転じ、仙石忠政が信州小諸より入城しました。
現在の上田城は仙石忠政が大改修を加えたものです。仙石氏の後、松平氏が入城し、幕末まで続きました。
廃藩置県後、明治7(1874)年、上田城は民間に払い下げられ、再び廃城となりました。
この時、本丸付近を一括して購入した丸山平八郎は、明治12(1879)年、松平神社(現真田神社)創建にあたり本丸南側の土地を神社用として寄付、ついで明治26(1893)年には、残りの土地を遊園地用として寄付しこれが上田城跡の公園化への第一歩となりました。
現在三の丸地域は改変しているが、本丸・二の丸には土塁、堀跡などがあり、三基の隅櫓は昔の姿を留めています。
現存する3棟の隅櫓の内西櫓は寛永期の建造当初からのものですが、本丸東虎口の2棟(南櫓、北櫓)は、明治7(1874)年に民間へ払い下げられ、一つの建物に連結されて金秋楼と万豊楼として使用されてしまっていたものです。
昭和17(1942)年、市民の運動により買い戻され、昭和24(1949)年、市民により買い取られた櫓が現在の北櫓と南櫓の場所に移築復元されました。
昭和34(1959)年、本丸の櫓3基が長野県宝に指定され、平成6(1994)年、東虎口櫓門と袖塀が復元されました。
平成18(2006)年、日本100名城に指定されています。
入園自由
ただし、上田市立博物館・上田城櫓は以下の通り
開館時間 午前8時30分から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
休館日 毎週水曜日・祝日の翌日・年末年始
入館料 大人300円 高校生以上の学生200円 小中学生100円
※共通観覧料(市立博物館常設展及び南櫓・北櫓・櫓門の観覧)一般500円 高校生以上の学生300円 小中学生150円
Photo Canon EOS 30D
H18.9.14
住所: 長野県上田市二の丸3番3号
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