砥石城〔戸石城〕(上田市)
砥石崩れで有名な砥石城(戸石城)
2006年09月25日

砥石城(戸石城)は東太郎山の一支脈が、神川に沿って南方に突き出している高い尾根に構築され、本城を中心に北に桝形城、南に砥石城、南西に米山城を配した堅固な山城で、総称して砥石城と呼んでいます。
天文17(1548)年の上田原合戦において村上義清に敗れた武田信玄は、その後、態勢を立て直し再び村上氏に矛先を向けました。天文19(1550)年9月、村上方の重要拠点であるここ砥石城を攻めました。ここを破れば地蔵峠(上田市と長野市の境)を越えて村上氏の本拠地(坂城町)の背後へ迫ることができるため、信玄は激しく攻め立てました。しかし村上方の抵抗は激しく、城攻めをあきらめた信玄が軍を退却させたところを、村上方は見逃さず追撃し武田軍を破りました。横田備中守高松などを失った武田の敗戦は「砥石くずれ」として現在まで語り継がれています。
翌天文20(1551)年、真田幸隆が計略を使いあっさりと落城させてしまいました。その後、幸隆は信玄の家臣として、信濃攻略を進める際に重要な役割を果たしました。
真田昌幸が上田城を築城するまでは真田氏の本拠地としての役割を果たしたと考えられ、上田城を築城後も第1次・第2次上田合戦では徳川軍との戦いでも役割を果たしました。
本城は、砥石城全域で最も広大で、砥石・本城・桝形と連なる三要害の中心です。最上部の本郭から南へ二の郭、三の郭と続き、その東下または東南方に四の郭、三日月形郭、帯部等郭群の遺構をよくとどめています。本城の東南は小さな谷間で、これを登る両側には小段郭が麓まで幾重にも続いており、登城口(大手)と見られています。一般に本城とは、江戸時代の本丸にあたります。
桝形城は、北方最高所標高800mにあって、自然の山頂を利用しています。郭の西方入口に四平方メートルの桝形があるのでこの名がつきました。郭は長方形で、手前に半月形の段郭が2つあります。
最高所にあることからここが「本城」とされていた時期もありました。
砥石城は、本城の南に連絡しており、北下りの鞍部に幅9mの深い堀切があります。本郭は方20mの削平方形郭で、周囲の展望が良い場所にあります。
砥石城は村上・真田氏が戦略上重要視し、また重要な役割を果たした城です。規模が大きく、四要害を一体として構築し、しかも居館としても用いられた極めて特色ある貴重な史跡です。
(現地説明板などより)
平成28(2016)年の大河ドラマ「真田丸」の「真田丸紀行」第36回「勝負」の「真田丸紀行」で紹介されました。
H18.9.15
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H27.4.11(写真差し替え)
住所: 長野県上田市上野
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