米子城(米子市)
米子城は、戦国時代には、現在の国道9号の南側にある飯山(いいのやま)に築かれ、山名氏の支城であったと考えられています。大永の五月崩れで尼子氏の伯耆に進出した時、尼子氏のものとなりました。その後毛利氏のものとなり、吉川広家が城主となりました。
近世城郭としての米子城は、戦国時代末期の天正19(1591)年頃、吉川広家が湊山を中心に築城したのが始まりといわれています。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、広家は岩国に転封となり、代わりに駿河から入った伯耆18万石の領主中村一忠によって慶長7(1602)年頃完成しました。
中海に張り出した標高約90mの湊山頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳丸、東の飯山を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手郭を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の副天守閣(四重櫓)を持ち、「山陰随一の名城」とも称される壮麗な城であったといわれています。
中村氏の後、加藤貞泰、。大坂の陣の後は因幡・伯耆は鳥取城主池田光政の所領となり米子城は家老の池田由成が城主となりました。寛永9(1632)年光政は岡山に移り、池田光仲が備前岡山から鳥取に入る、鳥取藩主席家老の荒尾成利が米子城預かりとなり、以後11代にわたって荒尾氏が管理しました。
明治維新の後に城は払い下げられ、建物は取り壊されましたが、石垣などは現在も往時の姿をよくとどめており、天守跡からは秀峰大山、日本海、市街地、中海などが一望できます。平成18(2006)年に、本丸、二の丸などが国史跡に指定されました。
この湊山の大半は、昭和8(1933)年に市内の素封家坂口平兵衛意誠氏から寄贈を受けたものです。
(現地説明板などより)
H18.11.3
Photo Canon EOS M6
H30.5.4(写真差し替え)
住所: 鳥取県米子市久米町
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