「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」
2007年08月04日
佐和山城は、鎌倉時代の建久年間に佐保時綱により築城されたと伝えられています。その後、室町時代~戦国時代には六角、京極、浅井氏の支城としての役割を果たしていたようです。元亀元(1570)年には浅井方の武将、磯野員昌が織田信長らと激戦を繰り広げました。しかし元亀2(1571)年、磯野は降伏し、代わって織田家配下の丹羽長秀が城主となりました。
本能寺の変後、佐和山城は天正11(1583)年には、明智討伐に功があった堀秀政に与えられ、その後、天正13(1585)年堀家の転封にともない堀尾吉晴が入城しました。
天正18(1590)年には豊臣五奉行の一人の石田三成が入城し、大規模な改修工事を行いました。三成は改築を進め、山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの立派な城を築き上げ、「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と言われました。
関ヶ原の戦いで石田三成が敗れると、父石田正継と兄石田正澄らが守る佐和山城は、小早川秀秋を先鋒とする東軍に攻撃され落城しました。
その後井伊直政が入城しましたが、彦根城を築城し、嫡子直継の代に完成したため、佐和山城は破壊され廃城となりました。
城跡は、龍潭寺や大洞弁財天方面から登ります。その他、佐和山トンネル西側からも登城口があります。本来の大手口(鳥居本側)からのルートは整備されていないようです。石田三成時代の痕跡を消すためか、徹底的に破脚されあまり遺構などは残っていないようです。本丸からは彦根城がよく見えました。
Photo Canon EOS 30D
H19.7.27